攫われたのは、その眩しさ。瞬間の引力。線でも点でも結べないその場所は、重くて遠い。それが答えだと思っていた。

 

 

 


「絶対、行く」
 言い張って、だけどその膝にはあまり感覚がない。頭の中はまるで工事現場。ぼやけてる視界が追い打ちをかける。
「叶、それじゃ無理だよ」
 引き止められて、なお逆らい身体を捩る。立ちくらみ。小さな子供の頃のように抱き寄せられて、情けなさに映ったシャツが歪む。
「高校は一つじゃないんだから、な?」
 違う。零れそうになる想いを噛み殺し、逃れられない胸の奥が、疼く。ただ違うと。

 

 

 


 伸ばした右手で、突然の騒音を手探りのまま塞ぐ。ベッドから這い出そうとして、胸元にある左手に気付いた。夢の内容は、つい一ヵ月程前の現実で。まだ覚えている胸の痛みを、押さえ込もうとするようなそれが酷く苦くて、跳ね退けるように布団を剥いだ。
「げっ!」
 目に飛び込んだ部屋の入り口の壁時計に、まさかと覗き込んだ目覚まし時計。どちらもピタリ八時五分。慌てて飛び起きてハンガーにあった制服をひったくる。
「なんで起こしてくれなかったんだよっ」
 目覚ましの針は昨日までと同じ時刻。直すのを忘れたのは俺だけど、起こしてくれたっていいはずで。真新しい学ランのボタンを留めながら、まだ軽い机上の鞄を掴み乱暴に階段を降りた。
「父さん、今日が一体何の日か知って」
 足音だけが響く、何の反応もない階下。追い立てられるように踏み込んだリビング。壁に貼られたコルクボードに留められた紙。
『叶へ。急に出張になりました。予定では週末まで。土産を楽しみに。春休みの最終日、ゆっくり楽しんでおいで』
 久々の伝言板メモに気力を奪い取られる。話を全然聞いてない。これで一流広告代理店勤務とは。呆れること半分、感心すること半分。だけど今はそんな全部後回し。駆け抜けるダイニング。時計は、八時十分。
「全力疾走だ」

 

 

 


 飛び乗った電車。まだ上がってる息に、腑甲斐なさを痛感させられる。特別どこが悪いわけじゃない。雨に濡れて高熱を出す、風邪をひいて肺炎をおこしかける、そんな具合。甘えてるつもりはなかったと思いたいけど、結果体力も人並み以下。駄目だ、やめよう。こんな日に暗すぎる。自分に向いたベクトルを目の前に向けて、大きく深呼吸。背広姿やスーツ姿の多い車内に同年代の奴らは意外に多い。ただ学生服でいるのは数えるほどで、それも襟元の校章は同じに違いない。春休みを意識させる私服の中に混ざる制服。ただそれだけのことが、違いを位置付ける根拠に思えて、たまらず唇を噛んだ。笑う彼らの中に彼を重ねて。
『仁科俊嗣』
 声にしないで唇だけで形づくる。大勢の仲間と、羨望の眼差しの中にいる人。ルックスはシャープ。だけど屈託ない笑顔は自然に微笑みを誘う。自分とは正反対のポジション。羨ましいと思うより先に憧れた理想の存在。もちろんその中に俺の立ち位置はなかったけれど、気付けばいつも彼を追いかけていた。そしてそれは長い間のうちに習慣づき、いつのまにか日常になった。
 見ているだけで、なんとなく優しい気持ちになれる。声を聞くだけで元気になれる。実際に投げかけられているわけでも、手にしているものもない。だけどそれでよかった。だから日常を重ね、受験生という言葉に飲み込まれたときも、そもそも期間限定だったと終わりを意識しただけだった。それなのに、偶然知ったその人の受験先は続きを予感させ、埋まらない距離が近づくような気さえしたから。ほんの少しだけ多くを望んでしまった。そう。同じ高校に行けたのだ。本当なら、この電車にも乗らなかった。だけど。窓ごしに感じる暖かい日差しは、たった三週間程前のことを遠いものに感じさせる。
「港南は残念だったな、本山」
 卒業式の始まる直前、担任はひどく残念そうに唇を歪めてそう言った。
「仕方、ないです。あのまま行ってても、合格できたとは思えないですから」
「あぁ、うん。そうかもしれないが、十分合格圏内だったのになぁ。なにより本山、あんなに勉強頑張ってたじゃないか」
 言われるまでもない。必死だった。港南しかない。そう思ってた。
「それでも暁星の高等部だ。さすが本山。編入試験は難しいって有名なんだぞ」
 それが? 胸を叩く言葉。浮かぶのはだから曖昧な笑顔。
「大丈夫です。どこでも同じですから」
 港南じゃないなら、どこでも同じ。諦めの中で、手放した気持ち。
「うわっ」
 不意に訪れたカーブに、大きく一度電車が揺れた。考え事に気を取られていたせいで、突然やってきた現実にあっさりと流される。体勢を整えるより、吊り革から離れていく手を茫然と見送るのが先。
「すみません」
 踏みしめた足も役にたたず、誰かの背中にぶつかる。その背中がわずかに動いて、もう一度謝ろうと上げた時、窓越し次々に電車を降りていく制服が目に入った。
「まずい」
 乗り過ごしたら遅刻は確実。胸の中で謝って、俺は背中を忘れることにした。閉まりかけのドアをかわすと、巻き上がる風に出口へと一層押し出された。勢いのまま足早に改札口を通り抜ける。新しい定期の入ったパスケースは、何だか少しよそよそしくて、すぐに鞄へ押し込んだ。

 

 

 


「暁星学院、か」
 港南受験を「病欠」という何とも情けない理由で逃し、父さんの知人が理事をしているというここの編入試験を受験した。わずかな選択肢から選んだ暁星は、中学・高校と六年間続く男子校。にもかかわらず、どうしてだか人気があることでも有名だ。
「暁星学院高等部入学式」
 正門に立て掛けられた看板。他の高校よりも入学式が一日早いのは、中等部の入学式が明日だから、という単純明快な理由がある。立ち止まって、追い抜いていく背中を何人か見送った。
「ここが俺のこれからの居場所」
 中途半端なままここまできた。だけど全ては終わってしまったから。せめて今日から三年間は、後悔ばかりの毎日にはしたくない。目の前に広がる目新しい景色にそう思った。

 

 

 


 右を見ても左を見ても見知らぬ人、という立場に立たされるのは、入学式なら当然のことだと思っていた。だけど今この場所で、そんな気持ちでいる奴は、きっと俺を含めても一クラスにも満たない。暁星は基本的にエスカレーター式。定員数に変化はなく、中等部から外部進学を果たした数イコール編入生の数、というのが成り立つ図式。外部進学組が極めて少ない暁星は、毎年こういう状況になっているらしい。それもかなり有名な話で、分かってたつもりだったけれど。
「聞くと見るとじゃやっぱり違うよ」
 同じ新入生という立場にあって、彼らには顔なじみの連中に囲まれたその場所に何の戸惑いもないらしい。せいぜい校舎の敷地と、入れ替わる教師陣という変化というには彩りのないそれに特に感動はないようで、あちこちで背中を突き合い院長だの理事長だのの言葉を見事に聞き流している様子に一抹の不安を感じずにはいられない。
「これじゃ気分は転校生だ」
 他にも編入生はいるはずなのに、単純に比率の問題なのか、受付でも式が始まった今でも、ひっきりなしに感じる視線は一向に絶える気配はない。自分一人だけが緊張している気のする入学式なんて、二度とお目にかかれないだろう。いや、こんなの一度で充分だ。
「まいったな」
 知らずもれた愚痴めいた言葉は酷く重くてさっきまでの決心を霞ませた。『例えば』なんて言葉が追い打ちをかける。例えば他の高校なら。例えば港南だったなら。塞いだはずの想いに、潰されそうになる。
「やっぱ、はやまったかな」
 深い、深いため息。入学式が始まって、もう数えることすら諦めてしまった、そんなため息に埋もれながら。

 

 

 


「一同、着席」
 厳粛とは言い難い在り来りのセレモニー。終了の合図で、講堂を出ていくのは生徒ではなかった。教師も父兄も全員撤退。
「それでは高等部の説明を生徒会から」
 生徒だけに開け渡された講堂は、心地よい声に歓声で応える。訳の分からない熱気に促されて見上げた壇上に現われたのは、入学式で在校生代表挨拶をした、すらりとした長身の遠めにしてなお二枚目。
「数少ない編入生のみなさん、入学おめでとう。中等部からの持ち上がり組、無事高等部進学おめでとう。俺のことは充分認識して頂いているとは思うんだが、知らない編入生のために自己紹介を一つ」
「東倉先輩、相変わらず女の子泣かせてるんですかぁ」
 言い掛けた台詞を奪ったステージ下。続くのはどれも似たり寄ったりで。式典で生徒会長だと聞いたのは気のせいかとも思ってしまったのだけど。言われた人は、しっかり笑顔で余裕綽々。
「そういう質問がある奴は、後で個人的に生徒会室まで来るように。労働奉仕付きで、懇切丁寧にお答えします。とりあえず現在高等部生徒会会長の東倉です。言いたいことがあれば何でも受け付けます。あぁ、でも金のかかることはほとんど聞けない状態なんで、念のため」
 沸く講堂。全員が、彼の一挙手一投足を追っているのが分かる。人気があるのは一目瞭然。だけどこの異様なまでの盛り上がりを、男子校のノリというそれで一括りにしてもいいんだろうか。
「高等部の説明をする前に、一つ」
 ゴホン、ともっともらしい咳が一つ落ちると騒々しかった場所に、言葉の先を待って僅かな静けさが訪れた。そこに見える期待。
「この生涯に一度しかない輝かしくも高等部の入学式に、遅刻してきた大物がいる。しかもだ。その理由がふるってる。本日の遅刻者三村紀一。起立」

 その表情に、悪戯を仕掛けて満足気な笑顔が浮かぶ。
「ひっでぇ。俺なんて先輩だから正直にわけ話したのに」
「いやいや。さすがの俺でも式典時の遅刻は経験がないからな。みんなの前でぜひ披露してもらおう」
 公共物のマイクごし。遊んでいるのが見え見えの声。そしてその相手も結構このシチュエーションを楽しんでる。
「東倉先輩、俺、暴れちゃいますよ」
 まるで子供だ。思わず吹き出す。どんなヤツがそんなこと言うんだろう。興味が、ごく自然に振り返らせる。たった一人で立ち上がっているはずの彼を視線で追うことは容易いことだった。大勢に混じり覗き見て、一緒に笑って。そう、それだけのことになるはずだった。それなのに俺が彼を捕らえた時、楽しそうに笑っていただろうはずの表情は一転した。視線があった、と感じて直後のそれに頬は強ばる。睨まれてる気もする。けど、心当たりはない。
「あーっ! てめぇ海至」
 叫ぶなり彼は一目散にこちらへと向かって来た。その勢いに首を竦めながらも『海至』と確かに誰かの名前に聞こえたそれに、安心して緊張を解く。何かしたのかな。真っすぐこちらに近付いてくる彼に、辺りをこっそりうかがう。だけど見渡す連中も同様に視線を泳がせているだけ。俺は探すことを止め、大人しく彼の行く先を追うことにした。いや、追っていたのだけど。
「よくもさっきの電車で無視しやがったな。お前のせいで降りそこねたんだぞ。俺の遅刻はお前の責任だ」
 足が止められた目的地。早口な台詞。
「何の連絡もよこさないで。捜したんだぞ、俺は。おい、海至。聞いてんのか?」
 どうやら成り行きを見守ってばかりもいられないらしいと、目の前に立っている彼にぼんやりと思う。答えない俺を、違う名前で呼ぶ人。困ったような表情で見る人。
「あの、ね」
「何。言い訳でもする気」
「そうじゃなくてね。あの、多分」
「多分、何」
「その、人違いだと思うんだけど」
「人違い?」
 目の前、実に胡散臭そうに見下ろされる。納得してなんかいない。簡単に見て取れる気持ち。だけど本当に俺には覚えがないのだ。まして海至だなんて。
「本当に、違うんだけど」
 ますます厳しい視線に、語尾は小さくなってしまうけど。諦めずに、もう一度同じ言葉を口にしようと深呼吸。
「分かった」
 そっか。分かってくれたか、なんてホッと息を吐き出したのも束の間。
「じゃあ今ここで確認することにする」
 確認って。彼は目を細めて俺を見た。何だか意味深な……目!
 何も聞こえなくなった。その代わりに、身体中の神経がそれに集中する。他人の体温、自分の心音。すくい取られたままの背中が熱い。その熱にぼんやりしかけ、俺は慌てた。なに冷静になってんだよっ、俺は。
『ちょっと待て! 放せよっ』
 叫びたいのに喉が塞がれたみたいに声が出ない。指先ひとつ動かせない硬直状態。自分の身体なのに奪回できないなんて。混乱する頭のまま、俺は待った。誰かの声を。止めてくれる誰かを。
「あのー、もしもし?」
 とぼけた調子で声がかけられたのは、どのくらいたってからなのか。その声にようやく周囲の騒ぎが耳に入ってくる。どうやってこの騒ぎが遮断されていたのか不思議なくらい講堂の中は音の洪水。
「こらこら、三村。俺は遅刻理由を述べよとは言ったが、けしてそこの少年をナンパしろとは言ってないんだな。ついでに言うなら、その台詞はちょっといただけないと思うぞ。だんぜん俺の方がうまく誘える」
「先輩っ」
「お前とナンパの実力比べも悪くないんだが生憎今はそのための時間じゃないんだ。悪いが後でゆっくり、気の済むまでやってくれ。あぁ、言わなくても分かってると思うけど、相手の迷惑も考慮するように。いいな」
「分かってます」
 生徒会長の声にようやく離れた彼は、でも俺の目の前から離れるつもりはないらしい。俺の隣に座っていた奴を、まるで押し退けるようにして、でもそれが当然みたいにそこに腰掛ける。
「じゃ、本題に入ろう。まず高等部のイベントから説明する」
 痛いくらいの視線に狼狽えながら、取りあえず前を向く。もちろん何の声も耳には入らない。わずかにまだ彼の体温が残っているような気のする背中に、感覚全てが集中することを止めることさえ出来なかった。

 

 

 


「だから、本当に違うんだ」
 もう何度目かの台詞。でも、もう一度。じっと瞳を見上げて口を開いた。
「あの、ね」
「ホントに、違うの?」
 人もまばらになった講堂で、隣に座ったまま彼はそう聞いた。多分もう分かっているのだと思う。真剣さの中に諦めがその瞳に見えて、どんなに自分がその人だったら良かったかと思うけど。
「これ、証拠になる? 生徒手帳」
 貰ったばかりの生徒手帳を差し出す。彼は視線を僅かにそれに落とし、手を伸ばした。
「違う、でしょ?」
「……だね」
 唸りながら、だけどそう納得してくれる。手帳を斜めに見ながら、そっか、人違いか、なんて証拠物件に諦めはいい。切り替えの速いタイプかな。ホッとしたのが伝わったのか彼もまた笑う。
「ま、確かに本物ならあそこで俺をぶん殴ってるだろうしな」
 何のことかと視線を向けると、彼は片目を閉じて口元を緩ませた。
「さっき抱き締めたときにさ」
 急上する体温。耳まで赤くなるのが分かった。思い出してしまう。暖かい腕。暖かい手のひら。駄目だ。こういう話は苦手だから、何を話していいのか分からなくなる。どうしよう。そう思ったとき、彼が手帳の一番最初を開けて指差した。
「もとやま、なんて読むの?」
「え?」
「まさか別人の名前で呼べないでしょ」
 名字が分かればそれでいいんじゃないだろうか、なんて思いもしたけれど、まぁ新参者に自己紹介はつきもの。
「かなえ。願い事が叶いますようにって。なんか女の子みたいな名前だよね」
 言われるより先にとばかり早口で、あまり好きじゃないんだとニュアンスで伝える。いつだってこの名前は悪目立ちして、落ち込ませるから。だけど。
「何? どこが気に入らないの? 良い名前じゃんか」
 いかにも解せないとばかりの声音で、彼はそう言った。屈託なく笑われると、返答に困ってしまう。こんなふうに言って、こんなふうに目の前で優しく笑われたのは初めてで。
「叶ちゃんか。うん、よろしく。叶ちゃん」
 そればかりか、いきなり『叶ちゃん』だ。何年も前からの友達みたいに呼ばれて、心が跳ねる。
「叶ちゃんって……。高校生だよ、俺」
 勢いに飲み込まれそうで、抵抗するように笑ったけど。
「でも叶ちゃんは叶ちゃんだろ? 幼稚園児でもじーちゃんでもさ」
 だろ? とでも続きそうにあっさりと、それが当然みたいな表情をした彼が、もう二度と呼び名を変えるつもりが無いことを知る。
「あぁそうだ、俺は三村紀一。中等部からの持ち上がり組だから何でも聞いて。すっかり暁星に染まってるクチだから。今後ともよろしくね、叶ちゃん」
 なにせ抱き締め合った仲だし、と付け加えられた言葉にまたまた真っ赤になる俺って、実に純情。これ、三村の言葉である。

 

 

 


 のんびり陽気に包まれて、昼食後の俺はいい気持ちで窓の外を眺めていた。ようやくここから見える風景も見慣れて、最初に感じていた違和感も、もうない。ただ、いつもの午後と少しばかり違うのは、この広い教室に俺一人しかいないことくらい。
「あれれ、叶ちゃん一人?」
「昨日、数学の小テストがあってね」
 開け放された教室の入り口。ひょいと顔を覗かせたのは、三村と中等部からの親友だという井関だった。
「何、佐竹参りなんだ?」
 返事を確かめるようにぐるりと教室を一回り見渡した井関は、何の遠慮も無く俺の陣取る窓際の席までやってきた。
「今回は難問だったってことか。そりゃ災難だ。それを逃れたってことは、叶ちゃんって実は数学得意な人?」
「たまたまだよ」
 窓を背にする井関に、眩しさに目を少し細める。佐竹参り。それは数学担当の佐竹先生に特別課題を提出しにいくこと。もちろん特別課題だけに、全員というわけではない。数学のテストと名のつくもの、それが定期テストだろうが授業中の小テストだろうが、関係なく合格ラインが課せられる。そのラインをめでたくも下回った場合のみ与えられるというそれは、佐竹先生によると『少しでも成績を上げてやろうという、実に深い愛情の現われ』ということらしい。昼休みのみ受付けの課題添削は、だからこうやって、静かすぎる教室をつくったりもする。早くも三回目の佐竹参り、俺はまだ参加したことはない。
「あれ、三村も?」
 意外そうに語尾が上がる。そう。三村は、はっきりいって理数系に強い。いやいかにもと言ったほうがいいのかな。
「三村は多田先生に呼ばれて、職員室にプリント取りにいってる」
「そっか」
 三村の叶ちゃん連呼のせいで、編入してから『本山君』と呼ばれたことがない。先生でさえそれは同じだ。好きじゃない名前で呼ばれることが、でも嫌じゃない。三村が隣にいるだけで変わっていく周囲に驚きながら、受け入れられることが嬉しくて。そのたび三村との少しばかり衝撃的な出会いにも感謝するべきなのかな、なんて思い出すたび赤くなる頬を押さえているのだけれど。
「でも悪くないな。ラッキーだ。叶ちゃんを少しばかりは独占できる」
 ピクリと眉が動くのが自分でも分かる。ただ一つ、コレさえなければもっと素直になれるに違いない。
「井関」
 咎めるような視線にも、井関は悪びれもせずにポンポンと俺の頭を軽く叩く。
「そんな顔しちゃ、せっかくの可愛い顔が台無しだぞ。いい加減、慣れれば?」
「慣れてどうするんだよ、全く。俺はみんなのオモチャじゃないんだからね」
「だって可愛いんだもん、叶ちゃん」
 何とか応戦しようと身構えた俺に決まったストレート。井関は一人で納得している。
「三村のガードが堅くて、俺のクラスの奴らも地団駄踏んでんの。あぁ楽しい」
「井関」
 やっぱり最後はこれだ。いい加減に言い飽きた言葉だけど、一言ぐらい言っておかなければ。俺は拳を握り締めた。
「三村と俺はね」
「こらこら、井関。俺のいない間に叶ちゃんと楽しそうに。許可した憶えはないぞ」
 割って入った甘い低音。背中の体温と巻き付く腕が、噂の人の御登場を知らせた。
「何が許可だよ、もう。三村、こら、重いってば。三村」
「叶ちゃんってば冷たい。一秒でも早く戻ってきたげようと走ってきたのに、こんなとこで井関なんかと浮気してんだもん」
「浮……なんてこと言ってんだよ。ほら、ちょっと本当に重いんだってば」
 全く色気のない、なんて三村はわざとらしいため息をつく。もちろん腕も背中も離れないまま。背中にいる奴をどけるべく、自分の目の前にある両手を引き剥がすことに全力を注いだんだけど。
「簡単になんか離してやんない」
 三村の腕は俺の努力をあっさり無にした。それでも抵抗だけは忘れない俺の耳に、これまたわざとらしいため息が一つ。
「あー、暑い、暑い。見てらんないね。もしかしなくても俺ってお邪魔?」
 井関の揶揄するような、呆れたようなそれに、本気で困ってる俺は睨み付けてやったのだけれど。楽しそうに笑うばかりの井関の前では何の効力もないまま、ため息とともに消えてしまった。
「そうそ。お帰りはあちらだ、井関」
「三村!」
「了解。これ以上あてられないうちに、退散するよ。じゃ叶ちゃん、またね」
 井関の瞳は本気で俺と三村の噂を肯定していた。三村の言葉と態度で判断するなら、冗談と本気の区別はちょっとつかないと思う。それはそう思う。それでも俺達に背中を向けて歩いていく井関に
『どうしてそんなにあっさり信じるんだよ』
 ぐらいは言っておきたい。だって噂は所詮噂なんだよ。
「あれ、叶ちゃん。どうかした?」
 目の前で交差していた腕が離れ、代わりに目の前、三村の瞳が落ちてくる。そうだよ。脱力感にひたるより、今は三村のこの態度を問題にしなきゃ。井関への抗議はまた今度。押し止めて見上げる三村の瞳。意志の強さがよく現われてると何度も思ったそれが、ほんの少しからかうように揺れた。そのとたん、冷静に落ち着いてと決めていた口先が、気持ちを裏切るようにわめいていた。
「三村がそうだから、見も知らない三年の先輩に『今度三村の目盗んでデートしような』なんて言われるんじゃないかっ!」
 後悔先にたたず。三村は、ほほぉ、なんて笑っている。からかわれるたび耳まで真っ赤になる回数は、増加傾向気味。原因は一つの噂。
『三村と叶ちゃんは特別だから』
 入学式のハプニングがそもそもの発端らしいそれは同じクラスだったことと、三村の結構面倒見の良い性格も手伝って一緒にいることが多かったことで余計に煽られたらしい。噂の法則とでも言うのか、俺にその噂が届いたのは、全校中を掛け巡った後。ハプニングの原因はただの人違いで、加えるなら三村は友達だと弁明しても、それはもう言い訳としか受け取られない。もちろんそれでも俺はひたすらにそのたび否定し続けているけど。
「なんでそういうこと言うのかな。叶ちゃんが俺以外のヤツとデートなんてするわけないじゃんか。な?」
 いかんせん肝心のもう一人が、この通りこの状況を非常に楽しんでいるらしいのだ。
「三村」
「何? 浮気しないよね」
「三村がそういうこと平気で言うから、みんなに誤解されるんだろ」
 噂を否定するどころか、三村はそれに応えるように笑う。投げ掛けられる言葉にも、視線にも。相手が誰でも変わらず、肯定するような台詞で煽ったりする。だけど俺はそんなふうに遊べない。慣れるとか、そういう問題でもないと思う。
「叶ちゃん、俺のこと嫌い?」
 それでも強く出られないのは、三村が時折こんなふうに少しだけ弱気になるからだ。いつも強引なくらいに俺を引っ張るくせに、思い出したように突然こういう台詞で。
「嫌いなわけないだろ? そんな恨めしそうな表情するのやめろってば」
 こういうのって異様に照れ臭い。視線は完璧窓の外。
「それじゃ俺のこと好き?」
「え……」
 いつもならここで満足とばかりに笑う三村が、めずらしく引きずる。嫌いかと聞かれるのはいい。だって嫌いじゃない。でもその逆は、なんだかちょっと意味深で。
「ね。俺のこと好き?」
「三村」
 俺の声を遮り、三村は続ける。
「誤解されて困るようなそんな人、叶ちゃんいるの?」
「えっ?」
 突然、真面目な顔をして三村が覗き込むから、反射的に上体を仰け反らせる。ついさっきまでやわらかだったその瞳は今、深い闇を思わせた。まるで飲み込まれてしまいそうだなんてどうして思ったのか。ただどうしても見ていられなくて目の前から逃げ出しそうとした俺は、見事にバランスを失った。当然身体は、椅子もろとも冷たい床へと一直線。
「わっ!」
 大きく椅子の倒れる音。でも。
「おっと。危ないなぁ、叶ちゃんは」
「……ごめん。サンキュ」
 床になつく寸前、結局三村に抱き寄せられるなんて、自分でも間抜けだと思う。それでも何だかこの腕の中は暖かいだなんて、瞬間思った自分も怖い。
「ほら、そろそろ行こう。次の時間は科学室だぞ」
「……うん」
 何だか本当にどこか微妙な雰囲気に気付いたのか、抱き締めていた腕はすぐに離れて、三村は自分の机に準備してあった教科書の類を一冊ずつ確認して。ペンケースの蓋が、勢いよく閉まる音がした。
「ほら。置いてくぞ、叶ちゃん」
 そう振り返った三村の瞳は、もういつものイタズラ好きな子供みたいなそれで、ホッとして三村の後姿を追いながら机の中の教科書に手を伸ばした。何の返答もないまま宙に浮いた質問は、それでも胸の内に残っている。
 たくさんの友達、楽しい時間。自分にとって縁のなかったそれが手の中にある。それは全てが収まりきらないほど大きなものに違いないと思っていた。ひとりでいた過去は、簡単に現在に塗り替えられてしまうと思っていた。それなのに。三村の質問にまだ狼狽えている自分がいる。あの瞬間、胸の奥底が確かに痛んだ。忘れてなんていない。薄れるどころかより鮮やかな記憶となって存在している人がいるのだと。何の繋がりも持たない、遠い人だというのに。

 

 

 


 ボールの音が、騒々しいぐらいの掛け声に混じってよく響く体育館。放課後をここで、こんなふうに過ごすことになったのも、すぐ目の前のコートで汗だくになっている三村が原因である。
「これに名前書いて。ここ、本山叶って」
 切り取られた跡の見える紙切れ一枚。せかされるまま、書き込んだ名前。
「叶ちゃん、バスケ部だって? 意外だけど、まぁ三村がいるもんな」
 入部申込書だったことを知ったのは、またもや先行した噂から。到底無理だと言ったけど。
「叶ちゃんのことは何でもお見通し。心配ご無用、マネージャーだよ。安心した?」
 バスケ部の部室前、三村は笑って背中を押したのだ。
「なぁにが安心した? なんだか。俺は高校も帰宅部の予定で、だなぁ」
 パイプ椅子に座ったままの体勢で、一つため息。練習日誌を抱え込む。
「よりによってバスケだなんてさ」
「何がバスケなんて、なの?」
 ん? なんて続きそうな甘い低音は、滅多に御出勤されない人。
「東倉先輩!」
「久しぶり。で、うちの自慢の可愛いマネージャーが、何一人でこぼしてたのかな」
「え、いえ、そんな何も言ってませんよ」
 グイと快心の笑みで近寄る東倉先輩を、日誌を盾にして阻む。
「そっかな」
「そうですよ」
「ならいいんだけどね」
 俺の手元の日誌を覗き込む、笑顔が消える僅かな時間。生徒会とバスケ部、それに陸上部にも籍のある東倉先輩は、暁星高等部一多忙な人じゃないかと俺は常々思っている。
「真面目にやってるようじゃないの。これも叶ちゃん効果かな」
 笑いながら羽織っていたブルゾンを、俺の背中に着せかける。
「まだ寒いだろ。叶ちゃんは肉体労働じゃないんだから、それ着てな」
「えっ、とんでもない」
「遠慮すんなよ。俺が後で他の奴等に自慢するんだから。叶ちゃんが着たブルゾンなんだぞってな」
「そんなの何の自慢になるんですか? 俺、先輩じゃないんですよ」
「俺じゃ意味ねーじゃん」
 笑うばかりの先輩にぼやいてみても、つられて笑ってしまう。
「さてと、叶ちゃんに久しぶりに俺の見事なプレイを見せてあげよう」
 軽口一つでコートへ。慌てて俺はその背中を引き止める。ウォーミングアップもしないまま、コートへ出てはいけません。怪我の元です。これ、常識。
「マネージャー業もいたについてきたかな。うん、叶ちゃんに心配してもらうのも悪くない」
 これだ。
「俺、真面目に言ってるんですよ」
「悪い、悪い。心配無いって。アップ代わりに陸上部にもさっき顔出してきたから」
 言うが早いか練習は先輩のホイッスルで中断される。
「あ、叶ちゃん、ほんとブルゾン着てろよ」
 そんな台詞を置き去りに、コートへ入るとすぐに練習再開。ゲーム形式のそれは、東倉先輩の最も好きな練習。
「単調な練習は性に合わないなんて、理由にならないんだけどな」
 楽しそうに練習に加わった先輩と、そのせいでどうやらさらに真剣になった三村達の姿を交互に追いながら、空欄がまだ目立つ日誌に向かってシヤーペンを握り直した。

 

 

 


 立ち並んでいる人に少々気後れしながらもその、いかにもサラリーマン然とした背広や学生服の間を掻き分ける、電車の中ではない駅前の本屋。部活帰りのこの時間、駅の構内はさほど混雑していないので、この状況にしばらく呆然としてしまう。
「詐欺だよな、この時間で混んでるなんて」
 いつも通り過ぎるか、外に並ぶ雑誌の類を立ち読みするかぐらいの俺が口にしていい台詞とは思わない。だけど混雑は朝のラッシュの電車で勘弁してほしい。
「ええっと」
 あちこちにあるプレートを頼りに、見慣れない雑誌や書籍を人ごしに眺めて歩く。
「バスケットボールマガジン、だったよな」
 スポーツ関連の雑誌は思ったよりはるかに数も多く、確認するようにタイトルを呟く。六月号、それから。東倉先輩は何て言ったっけ? 予定より三十分もオーバーした練習後、先輩は体育館を出て行ったかと思うと、もう一度戻ってきた。乾ききらない髪で、着替えられていたシャツのボタンは上二つが開いたまま。
「叶ちゃん」
 珍しいな、と後片付けの手を止めると呼びよせられた。
「叶ちゃん、確か電車通学だったよな」
「え、はい」
「後片付けはいいから、悪いんだけど帰りに本屋に寄ってくれないかな」
「いいですよ。それで何を買うんですか?」
「バスケの雑誌。忘れてたんだよ、買うの。部内資料だから買い逃すとまずいんだ。俺が行くつもりだったんだけど、ちょっとこれからヤボ用でさ」
 先輩はどこか落ち着かなくて、視線は何度も腕時計に落ちる。初めて見るどこか余裕のない先輩の姿に、ヤボ用というそれがちょっと気になる。もしかしてデートかな? その言葉も、どんな人かなと覚えた興味も胸にしまうけど。
「渋矢悠貴の特集なんだよ。持ち出し禁止だけど、叶ちゃんには貸してやるな」
 なるほど、それで。俺は素直に頷いた。渋矢悠貴と言えば、バスケに詳しくなくても名前は知っているという程の有名人。日本人でありながら現在アメリカプロバスケチームの第一線で活躍しているその人は、実力もさることながら、上品で近寄りがたい容姿も相まって国内外問わずに人気がある。つまりバスケットファンだけではなく、バスケに全く興味が無い女の子達にも彼のファンは大勢いるわけで。売切れを心配する東倉先輩の気持ちは何となく分かる。
「バスケットボールマガジン六月号、渋矢さんの特集っと」
 立ち読み客のせいなのか、乱雑に点在する雑誌を跳ね返されそうな人垣の後ろから盗み見る様にしているだけに、どうにも探しにくい。本気でどうしたものかと悩み始めた頃、斜め前で棚へ戻しかけられたままの雑誌が、中途半端な差し入れ方が不満とばかりに床へと落ちた。立ち読み陣は一向に気にしないらしく、目もくれない。仕方なく拾い上げた、その表紙に見つけたのは渋矢悠貴その人だった。東倉先輩御所望のバスケットボールマガジン。タイトルをもう一度確認すると、俺は嬉々として出入口に近いレジへと急いだ。

 

 

 


「それじゃ七百八十円だから、お釣りが二百二十円ね」
 気の良さそうなおじさんが硬貨を手に落とし、紙袋を取り出した時だった。
「あれ、本山じゃん」
 かけられてすぐに、それが暁星の生徒でないことが分かる。だけどそれ以外で親しげに声をかけてくれるヤツなんて誰かいただろうか。ぼんやり思い巡らせながら、声の主を振り返った。
「元気だった?」
「……河合、君?」
 一瞬、身体を駆けた戸惑いに似た緊張が緩む。中学の頃、唯一気軽に声をかけてくれていた彼に自然に笑顔が出た。
「久しぶり。こんな時間にどうかした?」
「河合君こそこんな所で。エリア外だよね、港南は」
 それでも気持ちだけ声が上擦る気がする。河合もまた、港南合格組。ブルゾンから覗く濃紺のブレザーは、着たくてたまらなかったもの。
「付き添い、みたいなもんかな。あ、来た来た。遅いぜ」
 誰かを呼ぶ河合から視線を外して、渡されるはずの紙袋を待った。早く帰りたい、そう思う。そうでなければ、どうしようもないことでまたいつまでも思い悩んでしまいそうだった。今更、河合が羨ましいだなんて。
「はい、どうもね」
 差し出された紙袋を握り締める。声をかけられた以上黙って帰るわけにもいかず、俺は
『それじゃ』
 と声をかけるつもりで河合を振り仰いだ。それなのに、唇はそれきり動かなくなってしまう。唇だけじゃない。手も足も、ぶつかってしまった瞳までそれに倣った。河合の隣。ついさっきまであった空白に、現われたのは仁科。仁科俊嗣その人。
「あぁ、知ってるかな? こっち仁科」
 その違和感。仁科を知らないヤツなんているわけがない。聞くなら本当は逆だ。ただ仁科が俺を知っているわけがないからそうは言えなかったのだろう河合は、隣を指差して会話を持続させようとする。だけど一体何と言えばいいのか分からない。中学の頃、気軽に声をかけてくれた河合でさえ顔見知り程度。仁科からすれば、そんな俺は間違いなく見知らぬ他人だろう。
「俺なんか、厳しい練習で疲れてんのにさ、こいつのおかげでここまで付き合わされてんだよ。気の毒だと思わん?」
「誰が思うかって。練習は楽しい楽しいバスケット。その後、俺と一緒の本屋巡り。充実の一言に尽きるだろ」
「これだよ。本山、何とか言ってやって」
 そう言われても、俺は突然の未知との遭遇にそれどころではない。
「だいたい仁科は」
「河合、お前ちょっと黙ってろ」
 何か言い掛けた河合の台詞を仁科は一言で遮り、河合はそんな仁科に不満を口にすることもなく、ただ俺を見て一度笑った。そのまま河合に沈黙されて必然的に出来てしまう俺と仁科の間を、店内の騒めきとBGMがもたせる。何とかっていうアイドルのダンスビートが、俺の鼓動と一致していく。
「こんな時間にいるってことは、帰宅部ってわけじゃなさそうだ」
 ブレザーの上に羽織っている薄手の白いコートがよく似合ってる。もう会えないだろうと思っていた仁科は、前より一層俺の目を眩ませてしまう。
「部活、入った?」
 ぼんやりしていても、それが問い掛けの言葉であることは理解できた。仁科の質問が俺の中で回る。初めての会話らしき言葉が、一方通行のそれではないことが、ひどく不思議な気がして。
「本山?」
 まるで自分だけが別の空間にいるような錯覚に捉われていた。優しい声が自分の上から降って解ける。仁科の唇が俺の名前をのせている不思議。それでも声はでない。代わりに何度か頷いた。せっかく偶然のチャンスが飛び込んできたのに、会話にすらならないなんて。どうしようもない。
「そう」
 結局それ以上の返答のない俺に、仁科もそれ以上の声はなかった。いくら人当たりのいい仁科でも会話にならない相手じゃ諦めようってもんだ。それでも仁科は、続かない会話のフォローみたいに一度笑ってくれたけど。
「仁科」
「分かってるって。あるといいんだけど」
 そんな笑顔が合図だったかのように、河合が仁科をせっついた。そういえば本屋巡りとか言ってたっけ。何を探してるのか、ちょっと興味がわいて、そのまま仁科の声を追う。
「すみません。あの月刊バスケットボールマガジンの六月号なんですけど、まだありますか?」
 バスケットボールマガジンっていうと、今さっき買った……これ? 握り締める紙袋。
「あぁ、あれね。残念だけどついさっき最後の一冊が売れたんだよ。どういうわけだか、今月号だけえらく出ちゃってね」
「そうですか。どうも」
 すまなそうな声に、ため息混じりの声。即刻回答に、仁科はダメ押しみたいに大きく両手でバツをつくって見せた。
「参ったな。これで四軒目だぜ」
「仕方ないか。発売日をすっかり忘れてる仁科が悪い」
「渋矢さんの特集ってだけで買ったヤツがいるんだよ、くそっ」
 仁科も渋矢さんのファンなんだ。まぁバスケやってるなら憧れて当然の人だもんな。二人の会話を聞きながら、腕の中の紙袋に気を取られる。これが自分のものだったなら、何の迷いもなくすぐに仁科に差し出してあげられるのだが。
「部内の、だもんな」
 そっと小さな声で呟く。そう。これはあくまでも東倉先輩のおつかいもの。部内資料なのだ。
「諦めて誰かに借りれば? 貸してくれるヤツならいるんだし」
「そりゃそうなんだけどなぁ」
 諦めきれないとばかり語尾が濁る仁科にふと思い出す。確か三村もこれを買っていたはずだ。しかも安全確実な年間講読で。バスケ部員として資料収集に協力するのも後輩の努めに違いない。うん、そうしよう。俺は息を整える。
「あ、あのっ」
「叶ちゃん! いた、いた」
 ない勇気をかき集め、必死で振り絞った声は見事に消された。誰がそうしたかってこの人込みの中で、俺の名前を大声上げて呼べるヤツなんてそうそういない。
「叶ちゃん見っけ。俺のこと置き去りにしてとっとと帰ったかと思ったら、ちゃんとここで待っててくれたんだ」
 背中に感じた重みと同時、底抜けに明るい声が一瞬にして俺を包む。同時にあちこち刺さる痛いくらいの視線。つい謝ってしまいそうになるけれど、これって俺のせいじゃないよね?
「三村、頼むからこういう場所で、名前大声で呼ぶの止めてくんない?」
 恥ずかしいから。言外に匂わせたそれを、三村はあっさり「何を今さら」と一言で片付けてしまった。
「そんなことより用事すんだ? 東倉先輩の用事だったんだろ」
「うん。それがさ……」
 頼みがあるんだけど。そう言うつもりだった俺は、三村のポジションにようやく気付いた。背後から抱き締められるような形になっていたのは分かってた。だけどその三村の唇が、俺の耳に触れてしまいそうに近かったことには気付かなかった。三村を見上げようと振り返るまで。
「み、み、み」
「ん?」
 ここは暁星ではない。あのちょっとノリの違う空間ではない。世間様の視線が痛い。
「三村、ちょっと」
「あれ、いまさら何うろたえてんの、叶ちゃん」
 至近距離には慣れてたつもりだった。それでもここまでのは初めてだった。だって下手をすると、不可抗力とはいえいわゆるその、何だ。キ、キスするところだったんだ。動揺の大きさ、推して知るべし。
「三村さぁ、少しは気をつけようよ」
「何にさ」
 平然と三村は、おたおたする俺の頭を抱き込む。ここは暁星じゃない。視界を遮られながら、抵抗しようと手を伸ばした時。
「何?」
 それは、ひどく神経質そうな声だった。三村の声だと気付くまでに少しばかりかかって伸ばした手が止まる。
「別に」
 ひどく短く低音が答えて、ようやくそれが仁科へと向けられたものらしいと知る。けれどそれきり空気が音を紡がない。初対面の二人のはずだけど、三村も、仁科だって人当たりはかなり良いのだ。それなのにこの沈黙。気まずい雰囲気だけが肌を刺す。理由も分からず、だけど居たたまれない。そんな中、仁科が動いた。
「河合、行くぞ」
「あ、おい、仁科待てよ」
 自動ドアの開く機械音と同時、肌寒い空気が触れた。遠くなっていく真っ黒のハイカットシューズ、コートの裾。行ってしまう。二度とこんな偶然ないかもしれないのに。まともに言葉も交わせずに。そう思ったら、動かなかった腕が外れる。力ずくで跳ね退けていた。一歩、踏み出していた。
「叶ちゃん!」
 三村の声を振り切るように、白いコートの背中を追う。
「仁科君!」
 どうしてこれだけで、こんなにドキドキしてしまうんだろう。振り返ってくれた仁科の瞳は、いつもそれだけで大きく動揺させてしまう。
「あの」
 真っすぐ見ていられなくて、やっぱりすぐに俯いてしまうけれど。でもどうしても、これだけは。
「これ」
 抱えていた紙袋を、まるで押しつける様に差し出す。
「本山?」
 声音だけで、困惑する仁科の顔が見えるような気がした。だけどもう、本当に限界だ。多分もう耳まで真っ赤だ。だけどそれを、これ以上披露する気はない。そんな勇気は、ない。
「それじゃ」
「あ、おいっ」
 つまらない台詞一つ。結局もう二度と仁科の瞳を見ることもないまま、本屋へと逃げ込んでしまった。ドキドキしっぱなしの心と、一度のため息を引き連れて。

 


中編