俺の字ではない一週間分の日誌と、新しく加わったという練習メニュー表。手渡されたのに恐縮してしまうのは、相手が東倉先輩だということもあるけど、それ以上にこの場所のせいだとも思う。
「ゴメンな、せっかくの昼休みに。朝練の時に渡せば良かったんだけど、ここに置きっぱなしにしてて。昼メシ、終わってた?」
「あ、はい。もう」
 突然のお呼び出しは、校内放送。しかもその先は生徒会室。恐る恐る開けたドアの向こうには東倉先輩と、予想に反してもう一人。奥のソファにもたれ寛いでいたその人は、手元の雑誌に落ちていた視線を不意に俺へと寄越した。眼鏡ごし、じっと見つめられる。不思議と居心地の悪さを感じさせない穏やさでしばらく。それは不敵なそれへと擦り変わった。
「噂どおり可愛いなぁ。特に瞳が綺麗」
 赤面ものの台詞は、どこか淡々と、飄々としていて。口調のせいなのか、声のトーンのせいなのか。案外冷静に受けとめられる。
「俺はお前に見せるために、叶ちゃんを呼んだんじゃない。中島、ここはどこだ?」
「あ、先輩。俺、もう出ますから」
 生徒会とは無関係らしいその人に向けられた呆れたような物言いは、確かに東倉先輩との親しさに繋がっていた。そんな人に向けて愛想なくドアを指差した東倉先輩に、慌てて反転したけれど。
「ちょっと待った。用事はまだ終わってないんだ、叶ちゃんは」
 二歩目前で、肩を引かれて逆戻り。東倉先輩の肩越し、それに合わせるようにその人は立ち上がる。
「はい、はい。そんなに邪険にしなくても出てくよ。あぁ、だけど叶ちゃん。本当に綺麗な瞳だね。何か、誰かさんを思い出すよな、東倉」
「中島!」
 その声にドキリと思わず首をすくめる。
「それじゃ、またね。叶ちゃん」
 だけどその人はまるで悪怯れず、満面の笑顔で言葉通りに出て行ってしまった。
「全くあいつは……。あんなヤツ、気にしなくていいからな」
 ため息混じりの東倉先輩に頷きながらも、その横顔に見入ってしまう。どことなく居心地の悪そうな、だけど照れ臭そうなそんな曖昧な表情が、らしくなくて。
「それで、と。話の続きなんだけど。あぁ、そっちに掛けて」
 そんな微妙な表情はあっさり一掃された。ぼんやり立ったままの俺を促して、東倉先輩はそ知らぬ顔で引き出しからファイルを抜き取り、目の前へと腰を下ろす。
「今度の日曜日、練習試合が決まってね。取りあえず打ち合わせをかねて、今日メンバー表を持っていくことになってるんだ」
 ファイルを繰りながら、目的のページを東倉先輩は忙しそうに探してる。
「練習試合、ですか」
「そう。そろそろ大会も近いし、実践経験も大事だからね。それで、出来れば一緒に行けないかと思って、あぁ、あった」
「一緒にって……」
 その先が言えなくて、思わず口篭もる。メンバー表を持っていくだけだって、東倉先輩は言ったはずだ。それなのに、何で俺まで?
「俺が叶ちゃんと行きたいだけ」
「……またそういうことを」
 思わず表情に出た疑問に即答されて、脱力する。東倉先輩はふっと笑顔を緩めた。
「叶ちゃんは自分を知らなさすぎだよ」
「先輩が俺を過大評価しすぎなんです」
「謙虚なのは叶ちゃんの数ある美徳の一つだけどね、もっと自分に自信を持たなきゃ」
 仕方ないな、なんて表情で髪を撫でられるけど。自信なんて、俺とは全然縁のない言葉に思える。
「ほら、また」
 考えてることなんてお見通しだと言わんばかりに苦笑されても、答えられなくて。東倉先輩はまた笑った。
「で。俺に自慢させてくれるのかな?」
「それより、どこと試合するんですか?」
「結構強いよ。勝てたらご褒美くれる?」
 ファイルから抜き取って渡されたのは、ポジション別に名前が羅列しているメンバー表で。そこに返答はなく、せっつこうと顔を上げようとして、答えが届いた。
「港南、だよ」
 フラッシュバックしたのは手の届かない人の今は辛過ぎる笑顔。今はまだ、出来るなら会いたくない人の。

 

 

 


「東倉先輩、結局帰ってこなかったな」
 本日めでたくレギュラーポジションが取れた三村は、モップ当番。普段なら手早く終わらせる三村のモップは、軽やかに丁寧にコートを滑る。そんな三村を見ている事が楽しくて、付き合うようにコート脇にいたけれど。そんな何気ない言葉に情けないぐらいに動揺させられる。
『誰の頼みでもない、叶ちゃんの頼みだし、このぐらい別にたやすいことなんだけどね』
 俺と仁科を唯一結びつけていたもの。それを第三者に預けてしまうことの意味。考えると、胸が痛んだ。
『それでいいの? 本当に?』
 差し出した紙袋に、そう繰り返した東倉先輩の瞳は、まるで気持ちを見透かしたみたいに優しくて。それでも頷いたのは、どうしてだったろう。
「叶ちゃん、顔色悪いよ。大丈夫?」
 三村の手は止まっていた。モップの柄に顎をのせ、視線が俺から動かない。自分でも持て余してる気持ちを、見抜かれているのは間違いないんだろう。だけど。
「大丈夫。平気だよ」
 向けた精一杯の笑顔を一度逃げた、瞬きに見えた三村の穏やかな笑み。
「……叶ちゃん」
 だけどその声は、どこか真剣さを帯びている。
「ん?」
「今度の港南戦、応援してくれるよね」
 意味がよく掴めなくて、見つめ返す。三村はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「俺達を、応援してくれるんだよね」
 かかるイントネーションの強さに、それがそのままの意味ではないことに気付く。だけど三村、それに選択肢はないんだ。もし俺があのまま勘違いしていたら、心の中で少しは迷ったかもしれないけど。
「何当たり前なこと聞くかな。俺が暁星を応援しなくてどこを応援するのさ」
 わざとらしくため息を一つ送ると、三村は足元に残っていたボールを拾い上げ、不意に俺に投げてよこした。
「何?」
 訝しむ俺に、三村は自分の胸元を指差す。
「パス、パス」
「一本ね、三村」
 モップは三村の手からその足元へ。俺は三村の走る方向に向かって、ボールを軽く放り投げた。それを楽々手に納めて、高く高くジャンプ。三村の手から放たれたボールはバックボードにもぶつからず、弧を描いて綺麗に網をくぐった。
「ナイッシュー、三村」
「叶ちゃん」
 満足そうな表情が俺を見る。
「今度、ゴール決めさせてやるよ」
 そう三村は笑って。それきり何も言わなかった。ただ楽しそうに笑うばかりで。

 

 

 


 やっぱりあの雑誌は、せめて自分で返すべきだったんじゃないか。練習試合という純然たる名目で、会えると分かっていたのに。全て終わった後で考えても仕方のないことが、俺の中では片付いてはいなかった。東倉先輩に半ば強引に頼んだのは自分なのに、そんなふうに思うことが信じられない。けれどそれを後悔しているのかと聞かれれば、答えることもきっと出来ない。
「最低なヤツだって、思っただろうな」
 全くの第三者に借りたものを預けた。結局一度も中身を見ることもなかった。それでも御礼ぐらいは書くべきだと、真っ白なレポート用紙を引っ張り出したものの、結局『ありがとう』の短い走り書き一つ残すのが精一杯だった。
「まるで俺と仁科みたいだ」
 二人で過ごした時間のたった一つの証拠。
『仁科、友達が本山に近付くのも嫌がってたんだぜ』
 見てるだけでいいなんて嘘だ。その声で俺の名前を呼んで、本気の本気で笑ってほしかった。分不相応だと知っていてなお、そばにいたかった。自覚した時に、全てを奪われたから。半日の思い出という免罪符は、胸の中で嵐に変わる。笑顔も声も、仕草も。憶えている何もかもが、目先の幸せに見えなかった偽物。思うたび怖い、と思った。これ以上会って、話して。その態度に、言葉の端々に見えるものが怖かった。偽物の思い出までもが粉々に壊れてしまいそうで。こんな気持ちを抱えたまま、見つめることさえなくして。どうするつもりなのか、分からないから会えない。

 

 

 


 体育館を跳ねるボールの音を聞きながら、ともすれば意識が飛んでしまいそうになる。あと、二十分。体育館の壁に取り付けられた時計を、もう何度見ただろう。
「……だよな、叶ちゃん」
「え、あ、何?」
 手にしていたパイプ椅子をひょいと横取りされて、はたと立ち止まる。コートのボールの音は途切れてはいない。遅刻常習犯の東倉先輩も、今日は定時出勤で。
「井関、あれどうしたの」
「つめてぇな。もうちょっと喜んでよ」
 ニッと笑って奪い取ったパイプ椅子を井関は代わりに並べ始める。
「レギュラーだって三村が自慢するからさ。それ口実に叶ちゃんの顔を見にきたんだ」
「あ、そう。ご苦労様」
 こういう台詞に、あっさり返せるなんて進歩したよな、俺も。だけどそれに口を尖らせたのは井関だ。
「ひでぇ。叶ちゃん、俺の扱いには気をつけてくれなきゃ」
 ちょいちょいと手招かれて、半歩。
「三村の目の前でだって、平気だぞ」
 言うなり手首を掴まれ、そのまま綺麗に並べられたパイプ椅子へと引き倒された。
「ちょ、ちょっと待って!井関っ!」
 せっかく綺麗に並べたのに! 叫ぼうとした時、十五センチ強上にある井関の顔を見た。
「井関っ」
 身を引こうにもパイプ椅子の上、不自然な体勢この上ない。これってやっぱりマズイ体勢かも。思ったら、いきなりの鈍い音。
「痛っ……」
 呻き声と同時、冷たい床に頭を押さえて座り込む井関。その横にはボールが、何個だ?
「てめぇ、井関! 叶ちゃんに何ってことしやがんだ! バスケ部全員敵に回すつもりか」
 三村の怒声に見ると、練習中だったはずのコートの中にボールがない。持ってたヤツが全員投げたってことは、俺に一つも当たらなかったって、コントロールを誉めるべき?
「井関、今週は生徒会室でただ働き決定」
 東倉先輩までもがそれに乗じて、井関はわめく。
「ひっでぇ!暴力に加えて強制ボランティアですか。全く。相手が三村一人じゃないからなぁ。やっぱ全然平気じゃないかも」
 頭を押さえてぼやく井関をひとしきり笑ってやってから、パイプ椅子に押しやる。
「綺麗に直すように」
「仰せの通りに」
 はいはい、と続きそうな台詞は、さらに笑いを誘い、コートを包む。
「楽しそうだな、なんか」
 時間を忘れていられたのもそんな僅かな間だけだった。コート入り口に見えた紺と白の揃いのジャージ。目の前に立ちはだかった現実は、身体も心も震わせた。
「予定より少し早いな」
 真っ先にコートを出たのは東倉先輩。慌ててすぐ傍にあったブルゾンを渡す。
「サンキュ。叶ちゃん、ここはもういいから案内頼めるかな?」
 この震えが気付かれませんように。思いながら手渡したブルゾン。袖を通しながら東倉先輩は俺を見た。反射的に顔を背けた俺は、どう見えただろう。だけど。
「総勢四十名。任せていいよな?」
「東倉先輩……俺」
 東倉先輩は、子供をあやすように俺の髪の毛を撫でる。
「米原、マネージャーの本山叶ちゃん。もったいないけど、うちの叶ちゃんに控え室まで案内させてやろう」
「なるほどね。東倉が散々自慢しまくっただけのことはあるな。こんな可愛らしいのが入部してたとなると、今日は手強いってか?」
「それはコートでのお楽しみだな。あぁそうだ、案内したら叶ちゃんはすぐに返せよ」
 米原さんの胸元、東倉先輩は人差し指を突き付けた。
「掌中の珠、なんだ。言っただろ?」
「東倉先輩っ」
「言うこと聞いとかなきゃ、後が怖いな」
 冗談とも本気ともつかない会話に、選択権はないと諦めた。仕方なく覚悟を決めて見た先に、出会いの瞬間を繰り返す自分を知る。俺の視界全てを奪う、仁科を見付けて。

 

 

 


 体育館から少し離れた校舎内にある外来更衣室を前に立ち止まる。震えは、まるで置き忘れたかのようにどこにもない。
「ロッカーには鍵がかかりますので、貴重品がありましたら忘れずに鍵をかけて下さい。シャワールームの方は、十八時までボイラーが止まりませんのでそれまでは自由に使っていただいてかまいません」
 事務的に、冷静に、繋がる言葉。
「他に何かありましたら」
「いや、ありがとう。十分すぎる設備だよ。有り難く使わせてもらう」
 東倉先輩の台詞がきいたのか、開放のサインはすぐだった。
「それじゃ、コートでお待ちしてます」
 役目終了に安堵する、そんな胸の奥。凍えそうに冷たい風が吹き込んだ。僅かな甘えも許さないそれに打たれながら、負けないように笑顔を向けたつもりでいたけれど。それきり視線は上げられなくて、気が付く。震えが止まったわけではなく、震えごと全てが凍り付いたのだ。仁科が俺から視線を逸らせたその瞬間に。

 

 

 


 どうしようもなく瞳は追いたがる。どうしようもなく心は騒ぐ。どうにもならないまま叫びだしそうな想い。塞がれた全て。
「ドリンクにタオルと、あ」
「スコア、部室に忘れてたぞ。叶ちゃん」
 頭の上、置かれたそれに振り返る。
「どうした? 何か元気ないなぁ」
「そう? 試合にも出ないくせに緊張してるのかな?」
 準備万端のメンバーは、揃ってコート上の港南のアップを見ている。そこから背を向けているのは俺と三村だけ。
「見とかなくていいの? 三村は」
「俺? 別にいいよ。叶ちゃんが応援してくれれば、誰が相手でも問題なし」
「言う言う」
 スコアブックを開いて、それでも椅子には座らない。座るとコートが目に入る。試合になれば、もちろん見る場所だけど。
「叶ちゃん」
「ん?」
 俯いたまま続きを待つ瞬間、視界に影が横切って、同時に柔らかな何かが頬に触れた。
「……三村?」
 それは確かに一瞬の出来事で。だけど間違いなく三村の体温を乗せていた。
「おまじない、もらい」
 耳元、囁かれた言葉。なぜだかそれを問いただす気持ちになれなくて。
「叶ちゃん」
「三村、そろそろ始まるぞ」
 呼ばれた三村は手を上げてそれに応え、その手で俺の髪をくしゃくしゃと指で梳く。
「ゴール、決めさせてやるよ」
 笑って、あの時と同じ台詞を言った。

 

 

 


 第三クォーター終了。ホイッスルと同時に吐き出せた息に、苦い想いが混じる。
「点差は十点。まだ狙える。いいか、五番の米原を中に入れるな。八番の小野寺を押さえ込め。主軸を止めれば、絶対勝てる」
 組まれた円陣の中、東倉先輩は冷静に言い放つ。自信だけを与える言葉で。
「それから、三村」
 タオルとスポーツドリンクを渡し終え、椅子の上に置き去りにしていたストップウォッチを拾い上げた。そんな俺の背中に続いた言葉が、彼を意識させる。
「十四番、まかせてもいいんだな?」
「もちろん。簡単に抜かせたりしません」
 十四番。試合開始から三村がマッチアップしている、それは仁科の背番号。港南バスケ部という高レベルの中で勝ち捕ったユニフォームはひどく眩しく見えた。本当なら見ることさえ許されない人だからそう思うのかもしれない。
「お前も向うもファウル三つだ。熱くなるのも分かるけど、あと二つだぞ」
「ファウルで退場なんて、ゴメンですね」
「コントロール、ちゃんとしてろよ」
 ファウル続きの三村に、だけど誰も、何も言わない。
「叶ちゃん」
 ストップウォッチを握り締めていただけの俺に、そんな三村の声が届く。
「もうすぐだよ」
 何が、と聞く間もなく俺の目の前には投げ掛けられたタオルと、コートに走る後姿だけが残されていた。

 

 

 


 リングをくるりと回って、ボールはそれでもネットをくぐり抜けた。得点板の数字が、暁星側に加わる。その点差、僅か二ゴール。
「東倉先輩、絶好調! もしかすると、もしかするかも」
 追い上げムード一色に染められたコート。空気が熱い。あてられて体温が上がる。
「振り切れ! 三村!」
 パスカットした三村の足が止まる。ボールがそこでゆっくりと何度も跳ねる。挑むような眼差しで、目の前に立ち塞がる仁科を見据える三村と、それを阻む仁科の背中。その背中に、追えない自分を忘れて過去を重ねていた。背番号がなくてもきっとすぐに分かる。軽やかに鮮やかに、右に左に揺れる肩。鮮烈で人目を引くプレイ。
「危ない!」
 誰かの声が耳に届くと同時、グラリと仁科の膝が崩れるのが見えた。その横を擦り抜けたはずの三村が、その手を上げる。
「プッシング。赤、十五番」
 唇が、その時どう動いたのか。ただ叫びだしそうなそれを覆って、耐えるように俺は奥歯を噛み締めていた。

 

 

  


 整列の声に、コートから視線を外す。終了直前に東倉先輩のスリーポイントが決まったものの、終わってみれば八十四対八十。縮まらなかったニゴール差に、俺は目を閉じた。
「叶ちゃん?」
 スコアを抱え俯いたままで僅か。かけられた声に笑顔を向けると、東倉先輩はその表情に苦笑いを乗せた。
「正直だなぁ、やっぱり」
 ポンポンと頭を撫でるように叩かれる。だけどその言葉の意味が掴めない。
「心ここにあらず、ってカオだよ。そんなに心配? あいつの怪我」
 耳元に落とされた最後の台詞は、まるで速効性の薬のように身体を回り、息を止める。
「心配なら、あれ、追い掛けた方がいいと思うな、俺は」
 あまりの動揺に視線の定まらない俺を、東倉先輩はクルリと反転させた。
「自分の気持ちを、言い訳しちゃ駄目だよ。想いなんて、結局はエゴの塊なんだからさ」
 どこか不穏な空気を纏って、三村と、そして仁科が体育館を出ていくのが見えた。

 

 

 


 苛々と足を踏み鳴らし、仁科は何度も床を蹴る。足が痛むのか、そのたび唇を歪めながら止めようとはしない。そんな仁科の斜めに三村はいた。やけに静かな、でも確かに近寄りがたい空気に曝されたそこに、追い掛けたはずの俺はドアの手前で立ち竦む。
「権利? そんなのお前も同じだろ!」
 静けさを打ち破る仁科の声に、ドアが震えた気がした。納まらない仁科の憤りは、苛立ちを増していくばかりの足元が知らせる。
「同じじゃないか!」
「俺はちゃんと傍にいて守ってる。その場所を許されてるんだ。全然、全く違うね」
 言葉に、威圧的な何かが横たわる。ピタリと仁科の足元が止まった。
「同じクラス、同じ部活。最初から手に入れられて、傍にいられて。何が守るだ?何が許されてるだ?」
「言っとくけど。お前にだってそれは掴もうとすれば掴めた場所だったんだろ? 三年間、知らんふりして、返せ?ホント、今さらだ」
「知らんふりなんて、してねぇよ」
「あっそ。それじゃ今の自分のポジションをよぉく考えてみろよ」
 呆れたように言い放った三村の声音は、挑発するようにどこか笑いを含む。
「傍にいるのは、お前じゃない」
「分かってるよっ! だけどな、俺だって三年間見てたんだ。お前なんかよりずっと長い時間。結局どうにもできなかったけど、それでもまた三年間って猶予があると思ってた。それを奪われるまで、どうすれば俺を見てくれるのか、そればかり考えてた。あいつの隣に俺がいる。ただそれだけ」
「だから?」
 静かだった。そんな三村の冷静さに煽られるように、仁科は叫んだ。
「今のお前の場所は、だから俺の場所だ!」
「お前が、俺と同じ事するつもりだった? そんなわけないだろ?」
「したさ! 今度こそ、あいつの隣に一番初めに立つって決めてたんだからな!」
 何かを叩きつける鈍い音がした。殴りあいでも始まりそうなそれに、我にかえる。
「返せよ。本山を、俺に返せっ!」
 開けたドア。耳に届いた言葉が、叩きつけた拳をそのままに表情の消えた仁科が、俺を空白にさせた。返せ?返せって、叫んだのは誰? 言葉が声にならないまま、静寂に曝される。
「叶ちゃん」
 ピンと張り詰めた何かを、三村は誘うように揺らす。だけど背中を向けてしまった仁科が映って、その揺れに手を伸ばせない。返せと聞こえたそれがどういう意味だったのか。知りたいと思う端から、聞いてどうするのかとも思う。諦めの悪い自分を唇を噛んでやり過ごし、瞳を閉じる。
「みんな、待ってるから。そろそろ」
「後片付け要員だろ? どうせ」
「ミーティングするって、東倉先輩が」
「それを早く言ってよ、叶ちゃん」
 叶ちゃん、と呼ばれ慣れた名前に微妙なイントネートョンを感じて視線を上げた時、三村の瞳は、もう真横にあった。
「行こう」
 肩を、背中を包むように抱かれ、慌てた俺に三村は意味深に笑う。
「早く」
 唇が、耳元に囁きを落とす、直前。
「放せよ」
 風がおこる。全てを飲み干す風が。
「叶を放せ!」
 何もかも攫って。

 

 

 


 瞳を奪われる、眩しさに攫われたあの瞬間から一方通行の視線が今、俺だけを見つめてる。その瞳に俺を映してる。胸元を掴まれたような、衝撃。叶と呼んだ、その強い視線に捕らえられて身動きすら出来ない。
「随分と身勝手だとは思わないか?」
 抱かれている肩を一層引き寄せられて、三村のそれが意図的に映る。でも、どうして。
「ま、人の物になると、人間惜しくなるもんらしいけどな」
「違う! そんなんじゃない!」
「じゃあ何なんだよ」
 どこまでも冷静な三村に一瞥をくれると、仁科は手近の机を蹴り上げた。ギリギリと音がしそうなぐらい噛み締めてた唇が動く。
「好きだからだよっ! 三年も前から好きなんだ。三年も前から、だから俺のなんだ! 絶対にお前になんかやるかっ」
 何もかも跳ね除け、巻き込まれてしまう風を知る。間近で仁科を見て、瞳にグラグラして。ついに俺はどうにかなってしまったに違いない。
「言ってくれる」
 鼻をならして、俺の肩から手を離すと三村は思い切りよく仁科を張り倒した。勢い余って背中を机ごと後方に飛ばされた仁科に、慌てて三村の腕を掴む。
「三村っ!」
「叶ちゃんを略奪してくんだろ。平手の一発ぐらいお見舞いしないと俺の気が済まない」
 殴り付けた右拳を撫でて、微笑んだ三村はそのまま俺に背を向ける。
「分かってると思うけど、叶ちゃん泣かせたら、そのぐらいじゃ済まさねぇからな。もちろん、そんときには相手は俺だけじゃねぇけど」
「三村」
 ヒラヒラと片手を振って、三村は応えた。
「ミーティング、だろ? 叶ちゃん、そいつの手当てしてやれよ。先輩には言っとくから」
「三村……」
「ゴール、決めてこいな」
 そう、ドアは閉められた。

 

 

 


 立ち尽くしたまま動けない。振り返れば、仁科が消えてしまいそうで。怖くて。
「あの野郎、本気で殴りやがった」
 ガタン、とひとつ音がする。気配が、存在が、現実を帯びて届く。だけどまだ、まだ。
「なぁ……。聞こえたよな? 俺の気持ち」
 真っすぐな、迷いのない声は仁科。
「どうしてこっち向いてくれないんだ?」
 だけどそこに見えた微かな苛立ちまで、仁科のものなんだろうか。
「それともそれが返事なのかな。俺より」
 言葉が濁る、なんて仁科らしくない。
「俺より、アイツが好き?」
 衝撃だった。それは、そんな台詞は仁科に似合わない。自信なさげな、そんな。
「そんな言い方、仁科らしくないよ」
 ストンと気持ちが言葉に追い付いた。
「仁科らしく、ない」
 笑顔がいつも自信と同居している、そんな仁科の台詞じゃない。だけど。
「俺らしいって、どういうの? なぁ、答えろよ。お前の目に映る俺って、どういうの?」
 うなだれているような、どこか投げ遣りな口調に感じる違和感。実力に裏付けされた自信、周囲を巻き込むエネルギー、統率力。有り余る称賛に飾られる仁科俊嗣の形容詞に、こんな仁科はいない。
「俺にだって怖いものはある」
 仁科は俺をあっさりと揺るがせた。
「本山を誰かに奪われるのが、一番怖い。あいつにも、東倉さんにも。本山の傍に居る名前も知らない奴ら全員に、目茶苦茶妬いた」
 惹かれたのは笑顔。目を閉じても、そらで覚えてるそれ。今、その笑みはそこにない。反射的に振り返った目の前、苦い表情で仁科はただ真っすぐ俺を見ていた。
「誰かが本山に触るたび、そいつに嫉妬した」
 嫉妬? 仁科が? まさか! 今にも激情のまま叫んでしまいたい気持ちを、心に繋ぐ。握り締めた手の平に爪が食い込む。
「好きだ」
 それは中学時代、視界の隅にも入らなかった俺に言ってるのだろうか。
「ずっと、ずっと見てた」
 違う。それは俺。俺が、俺の方がずっと追い掛けていた。振り向いてもくれない人を。
「だから」
「仁科、もう、いい。もう、嘘はたくさん」
 震える唇は、涙の前兆。でも、もう。
「俺のこと、中学の頃から嫌いだったんだよね? それなのにそんな嘘ついて、なにがしたいの?」
 耐えられない。笑顔の裏にある残酷さに。
「俺をいったいどうしたいの? からかってるの? でなきゃ嫌いな相手でも友達もいない可哀相なヤツには優しくしてあげてだなんて、彼女にでも言われた? だったら、もう」
「ちょっと待って。何言ってんの」
 涙で霞んで何も見えない。しゃくり上げながら、それでも言葉を続けようと息をつぐ。
「もう、いいから」
「叶!」
 名前で怒鳴られて、包まれた暖かい腕。あまりの展開に、涙も瞬間止まる。
「泣くなよ。俺の方が今ものすっごく泣きたい気分なんだぞ。なぁ頼むからちゃんと聞いて」
 困り果てたような声で、ため息が一つ。
「彼女だとか、俺が本山を嫌ってるとか。一体どこからそんなこと聞いた?」
 仁科の手が、そっと背中を撫でた。優しく子供を泣き止まそうとするみたいに。
「な、教えて?」
 こんがらがって解けない胸の中を、穏やかな声が攫っていく。ほどいていく。
「……だって仁科、友達すら俺に近付けるの嫌だったって。そのぐらい俺が……俺が嫌いだったって、そう、聞いた」
 思い出しただけで辛い。堪えきれなくて、瞬きに頬が濡れた。胸元にあるユニフォームに顔が埋もれる。苦しいくらいの力強さで。
「ゴメン。それは、確かに俺が悪い。誤解されても仕方ないけど。だけどさ、それは嫌いって意味じゃなくて」
 あのさ、あのな。言い聞かせるように囁く声は、甘い。
「中学入学して、わりとすぐかな。バスケ部入っても基礎トレばっかでつまんなくて。その日もそんな校内ランニングの途中だった。中庭の渡り廊下で、誰かが分厚い本をぶちまけたのが見えた。慌てて拾い集めてたから、次にはもういないだろうって思ったのに、そいつは俯いたまま、まだそこにいて。何があるのか、ついそいつの先を追いかけちまったんだ。そしたら、桜の木だった」
 そのときのことを思い出したのか、仁科が笑った気配がする。
「足元の花びらで頭上のそれに気付くって、おっとりしてんなって、最初はそう思った。でも、別にそれだけのことだよな。なんでもない、なんてことないありがちな景色だろ。それなのに。その空間は、周囲から完全に切り離されてる感じがした。近づいたら消えてなくなりそうで、でも、だから気になって。自然にペースが上がってた」
 何が言いたいんだろう。分からないまま、それでも優しい手に身動きすら出来ない。
「そうやって繰り返して、何回目だったか。チャイムが鳴ったんだ。焦って目で探したら、もう残った本全部を腕に納めて歩き出しちまったところだった。大事そうに、本を一冊ずつ確認しながらね。傷んでないか見てたみたいなんだけど、そのせいで前もろくろく見てなくて危なっかしくて。またつまずくんじゃないかって、はらはらした。どうにも目が離せなかった。それが本山」
「……俺?」
 覚えてるわけないよな、と仁科は一度大きく息をついた。
「本山は、なんていうのかな。最初の印象が強くて、不用意に近づいたら消えちまいそうだった。いつもどこか一歩引いてて、俺とは全然違ってて。誰が相手でも平気で話せるはずの俺が、本山だけはどうにもならなくて。だけど、本山はそんな俺に気付かないまま他の、俺以外の誰かと親しそうに話してる。そんなの当たり前だって思うのに、その端から苛ついた。なんでそこにいるのが俺じゃないんだって。思ってるだけの俺には何の権利もないのに、それだけで邪魔しまくった。本山の隣に誰も近づけたくない。そんな身勝手な理由で、本山を独りにしたんだ。なのに、そこまでしといて分からなかった。どうしてこうもこだわるのか」
 言葉はわかっても、うまく飲み込めない。
「ただもう本山に近づくやつ全部蹴散らしてた俺に、いつだったかな。好きなんだろって河合が言ったんだ。情けないけど俺、そのとき初めて気が付いた。否定するより先にあぁなんだ、そうなんだって納得しちまった。覚悟決められないなら諦めろ、本山が可哀相だって河合には散々怒られたよ。だけど」
 抱き締められていた腕を、そっと緩められて顔を上げさせられる。仁科?
「散々人を蹴散らしたんだ、今さらだよな。理由もない、きっかけもない。近づくどころか気付けば一番遠くにいて。自業自得だけど結局どうにも出来なかった。それで本山の進学先、河合に探らせたんだ。港南だって知って馬鹿みたいに喜んで、今度こそやり直すんだって張り切ってたらまるで今までのツケを払わされるみたいに肝心の本山がいなくてさ。後の祭り」
 好きになった、真っすぐな眼差しがそこにある。
「誰のせいでもない、自分のせいだってのに勝手だろ? 本山が誰に笑いかけるのも許せないとか思ってて。だから最初、本屋で偶然会ってそれを見せられた時は、目の前のあいつも、暁星で本山のそばにいる奴らも全員殴り倒したくなった。一度も俺にはあんなふうに笑ってくれなかったからさ」
 どこか拗ねたような声で詰られる。
「だけど本山が俺を追っかけてきてくれて、すっげぇ嬉しくて。渡された本も、もうこれしかないってきっかけのアイテムみたく思った。当然、貸したのだって次の口実にするつもりだったし、少しでも長くいたいって映画の前売りまで用意してさ。ちょっとぐらいは距離が縮まったか、次はどうしようなんて考えてたのに、それがいきなり『叶ちゃんはそう簡単に渡せないから』って東倉さんからあっさり返されて混乱した。本山がバスケ部のマネージャーになってたこともそのとき初めて知って。確約だと思ってた二度目は消えて。もう頭ん中真っ白になって」
 好きになった、優しい手が頬を拭う。
「どうしたら俺を好きになってくれるだろうってことばっかり考えてたけど、何だかそれ以前の問題じゃないかなんて、さ」
 好きになった仁科は、こんな情けない声をしてたっけ?
「今日、本山が俺を見て、どんな表情するのか怖くて、どうしても目を見られなかった。でも俺がこんなにグラグラしてるのに、相変わらず本山、全然平気そうで。それどころか暁星の連中にべたべたされても、すっげぇ楽しそうで。ムカムカしてたとこに、とどめがあいつ」
 言いづらそうに仁科の唇が歪む。
「なんでキスなんかされてるかな」
 キスって、それってあのコート脇の。
「コートで冷静でいられないなんて初めてでおまけにあいつ『叶ちゃんは俺のだ』とか当たるたびに言いやがるから、俺もムキになって。結局ファウル四つ。これもそういや初めてだな」
 自信家の顔なんて、どこにもない。
「だって、だって」
「だって?」
 他に何か? そう目で聞かれる。一度にたくさんの想いを渡されて許容量オーバーで倒れそうだけど。
「カノジョ、いるってきいたよ。ミス港南だって。一緒にいるとこ、俺も見た」
 それでも聞かずにいられなかったもう一つに仁科は破顔した。
「彼女? そんな噂たってんだ? 俺、宏兄に殺されるかもな」
 触れる手のひらが、熱い。
「俺の、じゃないよ。それは従兄の彼女。暁星に弟がいるって聞いたから、本山のこと探ってた。なんかバレバレで、散々からかわれたけど、今度は諦める気なかったし」
 語尾は僅かに早口で、驚く間もなく額をコツンと合わせられる。
「後悔するのはもう嫌なんだ、俺。本山の前ではなんかもう格好悪ぃとこばっかで全然ダメになっちまうけど、だから余計に自覚してる。嘘だなんて、だからたとえ本山にだって言わせない」
 笑顔は、瞳は。声は、仕草は。せつなさばかりを運んだ。それでも追うことを止められなかった。嫌われてると言われても。だから仁科。
「もう、言わない」
 信じてしまうよ。同じだったと。
「それじゃ、ちゃんと考えて。俺のこと」
「これ以上、仁科のこと考えたら、パンクするよ、俺」
 手を伸ばして、優しい腕を引き寄せる。より多く追い掛けていたのは、きっと俺の方だけど。今は内緒。もう少しだけ、内緒。
「叶って、呼ぶからな」
 名前を呼ばれたそれだけで、泣き出しそうだなんて。きっとすぐに白旗をあげるだろう自分を予感して腕の中で笑う。今なら聞こえるよ、仁科。同じだって。
「好きだ、叶のこと」
 そうだね、一つしかない。自分の気持ちに嘘はつけないから。答えは、一つ。
「好きだよ。仁科が、大好きだよ」
 仁科の両腕に強く寄せられ、合わさった額が離れて代わりに一瞬触れた、唇。とたんに上がる体温。急に恥ずかしくなって抗うけど。
「俺のっていう印つけとかなゃ」
 子供みたいな声音で、笑う仁科の腕にあっさり封じ込められる。
「な、俺のことも俊嗣って呼んで」
 とたんに欲張りになった特別な人に急かされて。だけど照れくさくて真っ赤になるばかりの俺だから、そのお願いはまだちょっと叶えてあげられそうにない。だけどいつか、いつか呼びたいな。
 仁科が好き。それが答え。結べない距離を結ぶ、たった一つの。

 


 きみが、好きだよ。こたえは、一つ。

 

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