もしもあの日、君を見送っていれば。
 もしもあの時、この気持ちを伝えていれば。
 僕たちの間は、何か違ったものになったんだろうか。
 戻らない時間。いまさらだと知っていて、君を忘れようと思うたびに繰り返してしまうから、結局ずっと奥底に抱えたままある。
 もしも、だなんて。
 僕はもう、言い訳のできるコドモじゃなくなったのに。
 それでもまだ、君を忘れられない。
 眩しいぐらいの時間に、取り残されたまま。
 僕だけが、変わらない。
 だから。いいかな。
 このまま想い出になってしまうまで、飽きることなく繰り返しても。
 もう、君は僕と住む世界が違うから。
 きっと、会うこともない人だから。
 僕のそばで笑って、あの音をくれた君は
 僕だけのものだと、思いたいんだ。

 

 

 


 どうして僕が実家に帰省していることを知ったのか。『いま代わりますね』なんて言葉で電話を渡されて、家電なんかにかけてくるのは押し付けがましいセールスに違いないと決め付けて出たことを悔いたところでもう遅い。
「オレ、杉下」
 あまりに予想外の展開を前に、だけど電話を切るという暴挙にも出られず、送話口を押さえたまま大きく息を吐き出した。
「え、と。久しぶり」
「へぇ、やっぱいたな」
 白々しい台詞だと、自分でも思う。もうずっと、意図的に避けていた。一人だけを外して付き合い続けるなんて出来るわけもなく、全員と距離を置く

しかなくて。高校を卒業し、就職してなお彼と繋がる親しい友人たちとも一度も会わなかった。そんな僕にしびれを切らしたのが杉下だというのは、い

かにも面倒見のいい元クラス委員らしい。
「忙しい、忙しいって、お前忙しくなくなるまでに何年かかんの。そんな言い訳もそろそろ飽きたんだけど」
 随分と久しぶりに聞くそれが、本気で怒り出す一歩手前の低音だったことに、僕は罪悪感とともにほんの少しの安堵もおぼえた。会えないくせに、忘

れてしまわれるのは寂しいだなんて我侭だとは思うけれど。
「訂正しとくから」
「え、何を」
 言いかけて思い出す。つい先日投函したクラス会の返事。
「なぁにが多忙のため、だ。あぁ? 新米プログラマーだろうと容赦しねぇから」
「いや、あの、杉下。僕、ホントに」
「今回さすがに加持は来れねぇみたいだし。お前はぜってぇ連れてくからな」
 不意に耳にした名前に、思わず受話器を取り落としそうになった。
「樋口。携帯、教えろ。んで住所もな」
 わざわざハガキに実際住んでもいない実家の住所と連絡先を書いた僕をどう思っているのか。これ以上隠すと、それはそれで僕の気持ちを看破されそうな気がして、それ以上の抵抗はやめた。
「当日は、迎えにいく」
 すごむようにそう言われ、今までの不義理の代償みたいに電話は切られた。
「あーあ」
 温厚なはずの杉下であれだ。他の連中の反応も簡単に予想がついた。よってたかって怒られそうだけれど、本当は会いたかったのも事実で。強引にでもなければ、僕はずっと避け続けただろうからきっかけとしては良かったのかもしれない。そう思いながら、それでもその奥底に眠る気持ちは僅かに揺れていた。
「政恒」
 君が来ないなら、なにも問題なんてない。安心していいはずなのに、胸の中がざわめく。
 君は今、僕をどう思っているんだろう。
 薄情なヤツ?
 ただ懐かしいトモダチ?
 それとも。そんなヤツいたな、なんて笑うのかな。

 

 

 


 スポーツ万能で、勉強は上の下ぐらい。サバサバした性格で、涼しげな目元が印象的な男前。だから例え暁星が男子校でも、女の子はそんな政恒を当然チェック済みで、正門前や駅の構内で声をかけられたり、取り囲まれたりしているところに出くわしたことがある。所属していたサッカー部の試合は、公式、非公式問わずギャラリーが鈴なりで、共学だったかと錯覚させると羨むように言ったのは誰だったか。
 ただ政恒自身は、そういう女の子たちの秋波をまるで意に介していない様子で男友達の中心で笑ってることのほうが断然多く、やんちゃな子供がそのまま大きくなったような印象もあった。
 そんな政恒と同じクラスにいた僕はといえば、その輪を遠巻きに眺めることはあっても、そこに加わることもなく、だけど同じ空気の端っこでそれなりに楽しんでいた。あまりにタイプが違っていて、接点なんてあるはずのない二人。それで多分終わるはずだったのだ。
 あの日、僕が音楽室に忘れ物さえしなければ。

 

 

 


 完全に日の傾いた特別棟は、あんまり気持ちのいいものじゃない。薄暗い廊下を歩きながら、つくづく忘れた五線譜を恨めしく思う。
「作曲の宿題なんて、素人に無茶な要求だっていうの」
 音楽の授業。一年最後の学期内で与えられた、一曲必ず作曲するという課題。授業中、全員が一斉にお役御免寸前のオルガンを鳴らすもんだから、自分が出してる音すら分らなくなる。それでも適当というのは性分ではなくて、なんとか頑張って仕上げたはずのそれを、肝心な提出日を明日に忘れてきただなんて。
「見られても分かんないもんなんだろうけど、やっぱりなぁ……」
 手書きの五線譜は何度も書き直したせいで、ぐちゃぐちゃになっていた。それは僕にとってあまり許せる代物ではない。
「早く取って帰って、清書しなきゃ」
 そう、足を早めドアを開けようとしたとき。
「ピアノ?」
 職員室で鍵を確認したときには戻ってきていなかったから、ブラバンの連中でもまだいるのだろうとは思っていたのだけれど。漏れ聞こえてくるのは

単一の音。
 ひどく優しくて、柔らかな音色に、僕は思わず足を止めた。楽器なんて、誰が弾いても同じ音にしか聞こえないと思っていたそれが、簡単に覆る。薄

暗くて早く立ち去りたい場所だったそこで、僕はただその音が途切れるまでそれを追いかけた。

 

 

 


 紡がれるそれに気を取られ、ぼんやりしていた僕はまだ響きの余韻の中にいて、だから目の前のドアが開いたことにしばらく気付かなかった。
「誰かと思ったら、樋口じゃん」
 だから至近距離で聞こえたそれに飛び上がるほど驚いたし、反射的に顔を上げた瞬間、よく通るその声の持ち主を確認してさらに息をのんだ。
「こんなトコで、なにやってんの?」
「……加持、こそ」
 それはこっちの台詞だと、言いたいのに上手く喋れない。
「俺? 俺はまぁ、趣味っつーかストレス発散つーか」
 悪戯っぽく片目をつぶり、投げかけられた視線にドキリとして。反射的に押さえた胸元を隠すように俯いたものの、その言葉を聞き流してしまうこと

はできなかった。
「あ、さっきのピアノって」
 僅かに見えるドアの向こう。見えたピアノのそばには誰もいなくて。それでもあまりにかけ離れたイメージに、まさかと思う。
「ビンゴ。あんまりガッコじゃ弾かないからなぁ。俺って意外性のオトコっしょ? って……、あれ目ン玉落っこちそうになってんな」
 固まってしまった僕をそう評して、面白そうに笑った加持は、そのままピアノへと近づいた。
「な、もしかしてコレ、取りにきた?」
 グランドピアノの上にあった紙切れが、加持の手の中でひらひら揺れた。
 それは間違いなく僕の忘れ物。ピアノが弾けるということは、当然その譜面も読めるということで。
「うあっ」
 とっさに出た声に、加持は一瞬真顔になり、そして次にはもう笑い出していた。
「なーんか得したなぁ。樋口、そんなカオもするんだ」
 ピアノのふたを乱暴に何度も叩いてこらえれないと言わんばかりに笑いながらそう言われても、僕こそそんな加持を見るのは初めてで。笑われてるのは僕なのに、なんだか不思議に嫌な気分じゃない。
「あのね」
 けれど放っておくと、いつまでもそのままのような気がして。
「あぁ、悪い。はい」
 とりあえずその手の中のものを返して、と言葉にするより先に手渡された。と同時に流れ出す単調なメロディ。
「コレ、結構いいな」
 おなじフレーズが何度も繰り返される。最初はまるで分らなかった。この曲がどうしたというのか。
「あれ、マジでわかんないか。勝手にアレンジしちゃったかんな」
 両手から右手だけになり、聞こえてきた主旋律だけの単調なそれは。
「そ、それ」
「やーっと気付いた?」
 再び左手が加わり、その指先が鍵盤をすべる。柔らかな音。僕が作ったはずのそれは、全く違う曲に聞こえた。
「覚えちゃった」
「うわーっ!」
 恥ずかしくて、勢いのままその旋律を奪い取るように気付けば腕を掴んでいた。
「もーホントやめて」
 弱々しい嘆願に、加持はまたしても吹き出した。
「オレ、ホント今日ここにきてラッキーだったなぁ」
 誉められているのか、ただ面白がられているだけなのか分らないそれは、だけど僕にとっては特別な言葉になった。その笑顔とともに。
『僕こそ、人生最大のラッキーだ』
 なんて、もちろん僕は言えなかったけれど。

 

 

 


 それ以来、どういうわけだか加持は教室でも、それ以外の場所でも、僕を見つけると必ず声をかけるようになった。あまりにミスマッチな僕たちを最

初は不思議がった周囲も、まるで以前からそうだったかのように加持が隣を空けるので、いつのまにかそこにいることが当たり前に認識されるようになっていた。
 二年になって、クラスが分かれても。なぜだかその位置は変わらなくて。
『加持、どこにいるかしらねぇ?』
 探してるのに見つからない。そんなとき、そう聞かれることが素直に嬉しかった。
『今の時間なら、屋上かな』
 答えられることが、単純に誇らしかった。
親友だと、そう思ってた。
 知らなかった。気付かなかった。まだ。この気持ちに、違う名前があるだなんて。思いもしなかった。

 

 

 


「好き、なんだ」
 卒業式。写真部の先輩にカメラを譲ってもらえることになっていて、一緒に部室に入った。それは今までにも何度もあったことで、特別なことではな

かったはずなのに。
 使い込まれたカメラを手渡され、感想を聞くみたいにそう言われた。
「樋口のこと、ずっと見てた」
 たった一言で、全く違う空気になる。
「え、あ、あの」
 戸惑うより先、その意味が掴みきれなくて。それきり言葉がでなくなった僕を、先輩はただまっすぐ見ていた。笑顔でも泣き顔でもなく、なんだか僕

の胸の方が痛むようなそれは、だけどだからこそ誤魔化してはいけないんだと思わせた。
「そういうの疎いっていうか、考えたことなくて。あの、ごめんなさい」
 嫌いではない。好きだと思う。だけどそれは先輩のいう『好き』とは違うということだけは分かるから。頭を下げた僕に、沢山のことを教わった優し

い先輩は息をつくようにそっと笑った。
「うん、こっちこそゴメンな。ダメなのは承知の上だったんだけど、俺の中での区切りっていうかさ。どうしても言っておきたくて」
 首を振って、ただ手の中のカメラを握り締める。
「困らせついでに、もういっこだけ」
 どこか苦い気持ちのままでいる僕は、気付けば先輩の腕につかまれ引き寄せられていた。
「せんぱ……」
「ごめん。ちょっとだけ、こうさせて」
 肩口で、僅かに音がした。先輩の胸元を飾っていた紙の花がつぶれたのかもしれない。だけど、身動ぎすれば逃げ出せるようなそれはとても穏やかなもので、だから僕は黙ってその腕の中で、時を待った。
 静かな、時間。
 遠くで、別れを惜しむような声に混じり、聞こえた先輩のついたため息。
 抱きしめられているのに、あまり現実味がないままぼんやりするにまかせていた僕を、引き裂くような音が強引に終わらせた。
「高山センパイ、そのへんで放してやってくれます?」
 立て付けの悪いドアが開けられたのだと気付くより、僕の目の前をふさぐ広い背中に驚いた。
 なんでここにいるのか、分らない。だけど庇うように後ろに置かれ、誤解されても仕方のない状況だったんだということに、いまさらながら慌てる。
「あ、あのさ」
 学生服の背中を掴む僕よりも、先輩の方が早かった。
「加持、お前、無粋なヤツだなぁ」
 どこかのんびりとした、いつもの先輩らしいそれは、だけど逆に加持を苛付かせたことに気付いたのはその直後だった。
「こいつ、俺のなんで」
 掴んでいたはずの右手が、固まった。
 何? 今、加持、何て言った?
「そう?」
 先輩も加持も、どちらの表情も見えない。
「えぇ。だから佳久に変なちょっかいかけるの、やめてもらえます?」
 樋口、としか呼ばれたことがないのに、ごく自然に加持はそう呼んで。振り返るなり腕を掴まれた。
「それじゃ、そういうことなんで。佳久は返してもらいますから」
「え、おい、加持!」
 手の中のカメラを取り落としそうになる勢いに、反射的に身体を引く。だけど。
「政恒って呼ぶって約束だろ」
 満面の笑顔でそう言われて思考能力はゼロになった。
「え、おい、ちょっと……」
 待つ気なんてさらさらないのだろう。その背中は無反応で、僕は先輩を振り返る。
「カメラ、大事にします」
 なんとか口にしたそれに、先輩がどんな表情をしたのか、引っ張り出されるように連れ出された僕には見ることは出来なかった。

 

 

 


 背中を向けられたまま、無言で掴まれた腕も痛む。だけどいつもと違う加持にかける言葉が思いつかなくて、もちろん真意を問いただすことも出来な

くて。ただ居心地の悪さを感じながら歩いた。そして。そのまま連れてこられたのは、あの音楽室。
「あんなこと、よくあんの?」
 僕を先に引き入れると、あっけないほど簡単に腕は離された。加持はそのまま真っ直ぐピアノへ向かう。あの日に見て以来の光景。あんなに柔らかな時間だった場所が、今はどこか緊張感さえ漂う。
「ないよ、あるわけない」
 暁星ではそれほど珍しくもないことなんだろうけど、僕は違う。
「加持は誤解してる。先輩は、ただ」
「ただ、なに?」
 突き放されたような気がした。なんでそんなふうにされるのか分らなくて混乱する。
「多分、その、ヘンなつもりじゃなくて、なんていうの? 卒業記念、みたいなもんで。だいたい僕はちゃんと断ったし、先輩だって納得して」
「断って、納得して、だから記念に? なんだそれ」
「もう会わないし……、応えられないから。別にそんな、たいした事じゃないだろ」
 たいしたことじゃない。そう言えるのは逃げ場が与えられていたからだと思う。だけどそんなこと、ちゃんと説明すれば加持にだって分かるはずだと

思ったのに。
「へぇ。たいしたことじゃないんだ。応えるつもりのない相手にお優しいことで」
 まるで馬鹿にするような声音で。
「そんじゃ、させろって言われたら、なんでもすんのか。バカだろ、お前」
 不機嫌さを隠しもせず、投げつけられたそれに呆然とした。
 庇ってくれたんだろうとは思う。多分無理やりみたいに見えたんだろうとも。だけど。それでもあんまりだと思った。
「なんで加持にそこまで言われなきゃなんないんだよ」
 告白されることに慣れてる加持には分らないのかもしれない。向けられたまっすぐな瞳に、応えられないことを後ろめたく思うなんて。全てを否定的

に捉えられて焦れた僕は、やるせなくてつい口にした。
「大体、なんだよ、さっきの。先輩、きっとびっくりして」
「へぇ」
 呆れた、と言わんばかりのそれはまるで蔑まれているような気さえする。こんなこと初めてで、言いかけたはずの先を失う。
「そんなに心配なら、言い訳しにいけば?」
 投げかけられた視線は、僕ではなく僕の手の中のカメラを捉えた。
「行って、なんでもされてこいっての」
 吐き捨てられて、ここまで言われるようなことなんだろうかと思う。それなのに、乱暴な指づかいが急ぎ足な速度に見えるようなピアノが、なぜだか

どこか切なくて、理不尽だと出て行くこともできない。
 加持に背中を向けたまま動けなくなって、どのぐらい立ち尽くしていたのか。何曲目かに届いたのは、あの日のメロディだと気付く。
「謝んねぇからな」
 持ち主の手を離れアレンジをされたそれは、綺麗で、でもどこか寂しい。
「無防備すぎるっつーの」
 まぎれて聞こえる、それはいつもの加持の声。
「相手が悪けりゃ、あのままコトに及ばれてるって自覚しろよ」
「まさか」
 思わず振り返った先、あまりに真剣な眼差しとぶつかる。
「お前なんか、簡単に押さえ込まれるんだからな」
 一息で埋められた距離。取り上げられたカメラ。あまりにいきなりすぎてされるまま、次の瞬間にはもう加持の腕の中にいた。反射的に抗おうとして

、さらに抱き込まれる。
「加持、ちょっと」
「このまま証明してやってもいいけど」
 耳元に落ちた低音に背中が震えた。先輩の腕の中にいるときとは全く違う感覚に、怖気づく。
「わ、分かった。ごめん、心配させた」
 どうして謝っているのか解せないけれど。それでももう今ここにいるのはいつもの加持。それに安堵しながら、だけどこのざわめく胸のうちから逃れ

たくて、とにかく放してもらうべく縋るようにその背中を叩いた。
「政恒って呼んだら放してやる」
「加持?」
 腕の力を強め、それきり加持は返事をしようとはしない。本気らしいそれに、気恥ずかしさを押して仕方なく呼んだはずの名前は、だけど胸を騒がせ

た。それがまたひどく照れくさくて。約束どおりそこから解かれても、しばらくは加持の顔を見られなかった。

 

 

 


 いつもと違う顔を見せられたから。
 呼び慣れた、呼ばれ慣れたそれが変わったから。
 落ち着かない気分で、気付けば追いかけている自分を見過ごした。
 無意識だったのかもしれない。そう思ったのは、全てに気付いてからだった。

 

 

 


 彼女。
 その存在を目にしたとき。あっという間に二人を取り囲み質問を浴びせかける周囲の中で、ことさら平静さを装うとする自分に愕然とした。驚いて

はいた。ただ、それは単純に羨ましいとか、悔しいとかそんな周囲の感覚とは全く違っていたからだ。
「なんだよ、いつの間にだよ」
「しかも、あの宇佐美ちゃんだし」
「明日は全員に何かおごれよ」
 あの、と形容されるところは政恒と一緒だ。そうどこか冷ややかに思いながら、この辺りでは知らないオトコはいないという彼女を一歩離れたところ

から眺めた。美人というより可愛いらしい感じのする彼女をその背にかばうように立つ政恒は、いつもよりさらに二割増男前に見えた。
「うっせぇ、散れ、お前ら」
 邪険に手で払われる。照れくさいのだ、多分。あっさり読めてしまうそれがただ辛い。
「受験生、色ボケすんなよ」
 誰かの言葉に便乗して、僕はただいたたまれない気分に背を向けた。
「樋口は知ってたんだろ?」
 当然のように聞かれたそれに、僕は曖昧に笑った。
 政恒からは一度も聞いたことがなかった。彼女の存在も、まして好きな人がいたことすら知らなかった。
 一番近いところにいるんじゃないか、なんて優越感は消えてなくなり、代わりに思い出したのはあの日の背中。そして抱きしめられた腕の中。
 守るように彼女を抱きしめるんだろう。思い知らせるかのようなあの時のそれとは違う優しさで。
 友達と恋人。比較できるものではない。当たり前だ、そう思うのに。
 息苦しくて、上手く考えがまとまらない。笑おうとする端から、うまく表情がつくれない。この痛みはなんだろう。
「ヤツもとうとうオンナ優先か」
 笑う周囲にただ相槌を打ちながら、気落ちしている自分を悟られないようにその痛みをただ引き寄せた。

 

 

 


 それでもずっと、そばにいた。隣は相変わらず僕の席だった。彼女がいても、それほど変わらない時間を過ごした。だけど。だから分かった。
 好きだったのだ。もう、ずっと。
 あの日、あのピアノの前で笑ったそのとき。
 僕はもう落ちていたのだと。

 

 

 


 気付いてしまえば、ただ隣にいて普通に笑うことがきつくなった。乱暴に頭を抱き込まれたり、髪の毛を混ぜられたり。そんな些細な仕草の一つ一つ

に、振り回されそうになる感情を押さえつけることは想像以上に僕を疲弊させた。だけどそれでもそれを失くしてしまうほどにはどうしても思い切れなくて。
『好きなんだ』
 告白してくれた先輩の気持ちが、いまさらながらに分かる。どんなに勇気が必要だったのか。どんな気持ちで告げてくれたのか。
 その勇気は、僕にはなかった。

 だから。
 当たり前に与えられた椅子に、ただ平然とした顔で座り続けた。ただ卒業まで。そう期限を決めて。

 

 

 


 そして、卒業式。
 僕は、一年前のあの時と同じ部室にいた。
「あった」
 無造作に立てかけてあるいくつものパネル。過去何年となく埃をかぶったその中に、僕が紛れ込ませていたもの。そこにピアノを弾く政恒がいた。

 それを撮ったのは本当に偶然で、その時は思わずシャッターをきっただけのものでしかなかった。だから単に現像するだけではなくパネルに引き伸ばすことを思いついたのはほんのちょっとした悪戯心で、もちろん最初は政恒本人にそれを渡すつもりでいたのだ。けれど一度パネルにしたそれは、今こうしてここにある。
 一年前。クギを刺す、ただそれだけの意図で『俺の』と言った政恒の背中。
 斜め後ろから捉えた隠し撮りのようなそれに、まるで気持ちが全部写し出されているような気がした。

 焦がれるように見つめる自分を、だから一緒に隠すようにしまい込んだ。
「回収、完了」

 それももう終わり。
 全部、この日に終わらせると決めていた。
 携帯メールの着信が、胸ポケットで震えて知らせる。
『いまドコ? 杉下の家で卒業祝いするから来いよ』
 政恒が、待っている。これからもその隣に僕が座る椅子もあるんだろう。だけど。その反対側には君にとってもっと大事な椅子がある。そんな当たり

前のことに、僕はもう耐えられそうにない。
『帰宅途中。悪い。親が放してくれないよ。このまま卒業記念旅行だ』
 嘘じゃない。本当に行く。明日からだけど。一人きり、母方の実家にだけど。いくらでも変えられるはずのスケジュールだけど。
 返信するとすぐにまた手の中で携帯が小さく動いた。表示されたその名前に、泣き出しそうになる自分をなだめながら、聞こえてくる低音を待つ。
「マジかよ。佳久、そんなこと何も言ってなかっただろ? お前、今日ぐらいは」
「今日ぐらいはって、同じ言葉をハハオヤにも言われたよ」
 携帯の向こうで面白くなさそうな表情をしているのが見えるようだ。
「別に、政恒が大学行くまでにはもうちょっとあるし、いつでも会えるだろ」
 ごめんな、政恒。
「そりゃそうだけどなぁ」
 嘘ついて、ごめん。
「旅行から帰ったら、すぐ連絡しろよ」
「分かってるって」
 もう会えないんだ。だってもう僕はそのままそこに住む。大学も君が知っているところとは違う、専門学校。
「じゃ、ハハオヤ待たしてるから、もう切るな」
「おう、またな」
 明るい声。大好きだった、君の声。我慢し切れなくて、窓ごしに君の姿を追いかける。
 正門前、大勢の中にいる君は背中しか見えない。
「あ、政恒」
 そのまま切ればいいのに、『またな』そう言われて、悪あがきのように引き止めてしまう。
「どした?」
 微妙に何かを感じたのかもしれない。うかがうようなそれに、必死でこみ上げる固まりを飲み込む。
「いや、別に。羽目はずしすぎるなよ」
 次は、ない。またな、とはやっぱり言えなかった。携帯の電源をそのまま落とすと僕はそれ以上こらえられなくて、ただ泣いた。自分から切ろうとし

ているのに、馬鹿みたいだと嗤いながら泣くことをやめられなかった。
 あの日の音が、胸の中で繰り返し響いていた。単調なメロディに、重なる音。ただそれだけで違う曲になる。
 政恒、君を知らなければこんな想いを知らずに終わったのかもしれない。だけど、あの時重なった偶然は、あの曲のように僕を変えてしまった。
 知らずにいればよかった、とは思わない。
 僕にとっては大事な、大切な時間だった。
 できるなら政恒にも、そう思って欲しい。
 二度と会わない君にそれを望むのは、身勝手だろうか。

 

 

 


 環境も友達も、何もかも新しくて。
 慣れるため、だけでなく詰め込んだ約束とバイト。
 それでも不意にできた空白の時間には、しまいこんだ携帯が鳴ると全てを反故にしたくなった。充電をやめることもできず、着信拒否にすることもで

きず。着信あり。メールあり。そんな表示がいくつ続いたのか。五月晴れの続く頃、それも途絶えて。望んだはずの終わりを意識したとたんに全てを翻

したくなった自分が情けなくて、そのまま解約手続きをした。
 僕が祖父母の家で暮らしはじめると、母も単身赴任していた父の元へ行き、誰もいなくなった実家に帰ることもなかった。
 切り取ったままの高校生活から一年たち、二年たち。就職活動をし始めた頃。
 君はまるで忘れることを許さないように、その存在を主張した。
 作曲家、加持政恒。そんなキャプション。
 何気に目をとめた雑誌に、君がいた。アイドルとの対談、というインタビュー形式のそれ。少し頬がシャープになっていて、それはひどくオトナに見

せた。大学時代に音楽サイトを立ち上げ、それをこのアイドルのカレが聞いたことがきっかけで。どこで何が繋がるかなんて分からないものですね、と結ばれていた。その笑顔は変わらないまま。
 目を塞ぎ、耳を塞ぎ、ずっと遠ざけていたものを突きつけられて思い知らされた。
 きっと何もかも時間が解決する。そうずっと信じてきたけれど。
 時間は優しくて、だけどとても現実的だ。
 たったこれだけで、
 僕は揺らぐ自分を自覚した。
 逃げだした僕を試すように。

 

 

 


 スーツが定番の社会人になった頃、政恒の曲はあちこちで耳にするようになった。諦めの悪さに辟易しつつ、僕は結局それら全てのCDをパソコンに

取り込んだ。
 あの時、ちゃんと終わりにしていれば。
 せめてさよならぐらい伝えていれば。
 こんなにも引きずらなくてすんだのかもしれない。そう思いながら、繰り返される音にその身を浸した。

 

 

 


 もう忘れることを強制するのはやめよう。
 思い出したらそれに飽きるまで浸かって、
 懐かしんで、戻りたいと素直に願って。
 街中に君の作った曲がどんなにたくさん溢れても、
 僕のそばで笑って、あの音をくれた君は僕だけのものだと。
 思うことぐらいは許されるだろう。
 卒業して五年。ようやく折り合いをつけ始めた、このタイミング。
「外さないなぁ、杉下も」
 その見事さに苦笑する。それも。
 政恒は来ない。何気なく付け加えられたそれに意図があったのかは分からない。だけど確かに現在、件のアイドルの主演映画の音楽担当を引き受けた

という政恒は、言い訳にしか過ぎない僕とは違って本当に忙しいんだろうから。
「ごめんな、政恒」
 まだ君には当分会えそうにない。会いたいと思ううちは会えないから。焦るつもりがないせいで、どのくらい先の未来になるかは予測不能だけれど、

それでもいつか。穏やかな気持ちで目の前に立てるといい。いつか、そう思ってる。今はもう。

 

 

 


 仕事を早めに切り上げて帰宅したものの、あまり時間に余裕は無くて、慌てて着替える。時間だけしか教えられていない僕は、一度も顔を出していな

いせいでいつも集まるという店がどんな雰囲気なのかすら分からなくて、迷ったあげく薄手のニットとジャケットを選択した。
「しかし、わざわざ迎えだなんて。ほんと信用されてないのな」
 あんな別れ方をしたんだから仕方がないとも思うけど。ちょっとばかり気が重くなるのも本当で。姿見に映った僕は、叱られる寸前の子供のように見

えて、笑えないとため息が漏れたとき。インターホンは鳴った。
「相変わらず時間に正確だよ」
 約束の五分前。
 疑うことなく僕はそのドアを開けた。

 

 

 


 しかめっ面か、呆れ顔か、怒ったままか。
 何にせよ、そこにいるのは杉下、のはず、だった。だけど。
「……つね」
 かすれた声は、言葉にならない。まさか。どうして。真っ白になった頭の中で、繰り返されるのはそんなことばかりで。何一つまともに機能するとこ

ろがなくなったような気がした。
「忘れられては、なかったみたいだな」
 薄いサングラスが隔てても、そこには何の感慨もないことが分かる。無表情のまま向けられる眼差しを避けることも出来ず、僕はただ過去に絡めとら

れたように動けなくなる。だけど。
「なぁ、樋口」
 くっきりと引かれた一線に、張り詰めた何かが切れた。
 思い出すら、奪われる。そんな予感に頭が冷える。
 それなら、許されないこの気持ちも一緒に消してくれればいいのに。
「忘れるわけないよ」
 忘れてしまえるなら、離れたりしなかった。だけど、こんな日がくると知っていたら違う選択をしただろうか。
「久しぶり、加持」
 もう、呼べない名前。その資格を、君を好きになって僕はすでに失くしていたのかもしれない。
 いつか、はもう来ない。
「悪かったよ、こんなところまで」
 ほんの数時間。居心地の悪さをやり過ごせばいい。もう二度とない時間を。
「わざわざ迎えに来てもらわなくても行けるのに」
「あぁ、そう」
 軽くいなされるように響いたそれは、
『信じろとでも?』
 そんな続きが聞こえるようで。
 狭い玄関。ドアは開け放たれたままなのに、どうにも息苦しくて、僕は先を促すように腕時計に視線を落とした。
「なぁ、そろそろ行かないと」
「安心してたんだろ」
 かぶさるように落ちた言葉。喉の奥で漏れた音に、そのまま嗤いだすのかと思った。張り付けているはずの笑顔が、そのまま強張る。
「俺が来ないって、思ってたんだろ」
 冷めた声。唇の端、僅かに薄くのった笑みは僕を打ちのめす。
「否定しないんだ?」
 それは事実。だけど、全てじゃない。
「そんなに会いたくないヤツに、平然と笑えるのな。相変わらずお優しいことで」
 微妙なイントネーション。
『応えるつもりのない相手にお優しいことで』
 そうだ。あの時もそう言われた。
 だけど加持。先輩と君は違う。応えて欲しかったのは僕だ。君の彼女に嫉妬していたのは僕だ。優しくなんてない。ただ、嫌われたくなかった。それ

だけ。
「だんまり、か。五年もたってんのにな」
 五年も。君にはそうでも僕にはまだ五年なんだ。
「全部、あの時間全部が嘘だったんだよな」
「ちが……」
 反射的、追いかけたその瞳に射竦められる。
「じゃ、なんで逃げた」
「加持」
「跡形もなく消えるみたいに。なんでだ」
 傷つけたんだ、といまさら思う。そう、いまさら。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
 何を言えばいい? どういえばいい? 君が好きだから逃げたなんて、もし僕が言えば君はどうするんだろう。
「ごめん」
 君の望む言葉は僕の中にはない。そう繰り返して唇を噛んだとき、それが響いた。
「樋口……?」
 電話を知らせるただの着信音。それなのに慌てて携帯を掴んで名前も確認せずに通話ボタンを押した僕は、不自然なほど動揺して見えたかもしれない。不審さをにじませ落ちた声音に、そう言い訳する。
「はい、樋口です」
 漏れそうになったため息を言葉に代えて平然さを装う必死。気付くわけがない。そう繰り返す。だけど。それでも、マナーモードにしておくべきだっ

た。震えが、まだ止まらない。
 トラブル発生報告に必死な新入社員の声が、引きずられそうな僕を何とか引き止める。震えを押さえ込むように、片耳を塞ぎ、背中を向けた。

 

 

 


 携帯を切っても、僕は後を振り返ることが出来ずにいた。たくさんの曲に埋もれている君は、きっともう忘れているに違いないのに。そ知らぬふりで

いればいいのに。
『覚えちゃった』
 そう小さな子供が自慢するように笑った君。
 あの日くれた、君の音。
 形にしたくて、専門学生時代の友人に頼みこんだ。
 全く同じアレンジとはいかなかったけど、それは僕だけの着信音。
「わけわかんねぇ」
 ため息まじりの呟きに、ドアの閉まる音が続いて。
「それ、あの時の曲だよな」
 確かめられたそれに、感情を読み取ることはできない。だけど。
 気付かれた。
 この曲に。いや、それだけじゃ、ない。
「なんで、逃げた」
「か、じ」
 何を言わせたい?
 もうこんなに苦しい。
 会わなかった五年なんて、君の存在の前で粉々になったみたいに。
「答えろよ」
 君はもう分かったんだろう?
 自分から離れるような真似をしておいて。
 たった一つ、君が即興で重ねた音を後生大事に持ってる。
 そんな僕が、僕の気持ちが。
 分かってなお、それを聞くのか。
「樋口」
 分かってなお、そう呼ぶんだ。
「何を言えばいい?」
 友達でも、なくなるんだな。
「言わなくても、感づいてんじゃないの」
 何も言わずに終わらせられるなんて、間違いだった。
「それでもわざわざ聞きたいなんて、悪趣味だな」
 あの頃なら、もしかしてコドモだったと言い訳もできたかもしれないのに。逃げた分、ツケがまわった。
「樋口」
「僕はね、もう限界だったんだ。友達面して加持のそばにいることが。特別な人が加持の隣に立つのを、笑って見ていることは辛くて、あれ以上は耐え

られなかった」
 だけどもう、本当に終わり、だ。
「好きだったよ」
 降り積もった五年の想いは、だけどずいぶん簡単に聞こえて可笑しくなる。
「友達でならこのままいられるって何度も思ったのに、聞き分けのない自分が面倒になったぐらいにね」
 消せなかった想いは、今度こそどこかに収まるだろうか。
「ごめんな、加持。こんなヤツで。だけど、言わせたのは加持だから、ちゃんと忘れてくれよ」
 着信音も、もう消してしまおう。
「もう」
 あの時、決めたとおり。もう会わない。言いかけたはずのそれが行き先を失う。
 背中を覆うように、抱きしめられたその腕にとらわれて。

 

 

 


「もう、なんだよ」
 気持ちを知ってなお追い詰めるつもりなのかと振り払おうとして、かなわなくなる。
「なにを言うつもり?」
 苛立ちを含みながらもどこか弱いそれに、ためらう。
「忘れてなんか、やるもんか」
 ふてくされたコドモみたいな台詞は、僕を迷わせる。どうやってここから逃れればいいのか分からなくなる。
「そんな、あっさりしてるから」
 首筋に触れた髪。肩口に感じる重み。
「俺は。俺は、お前は気付いて逃げたんだと思ってた」
「か、じ?」
「お前のことが好きな俺から、逃げたんだと思ったんだ」
 くぐもったそれは、ちゃんと耳に届いた。だけど頭の中でそれを把握することができない。
「あの音楽室で、くるくる変わる表情を知って。もっと見たいと思ったから誰よりそばにいて。ただ楽しくて、居心地がよくて。それだけだったはずな

のに、少しずつ別なものも感じてた。他の誰といるときとも違う、不思議な感情だった」
 視線が定まらない。何一つ理解できない。
「ただそれが何かなんて、もしかしたら高山先輩の告白がなけりゃ気付かなかったかもしれない」
 胸の前、強くなる交差する腕。
「お前が断ったとき、ほら見ろって、そんな気分だった。相手が男だからじゃない。お前の隣に俺以外のヤツだなんてありえないって。理由もなく自信

があったんだよな。だから、お前が黙って抱きしめられたとき、何やってんだって。ただもう何もかも頭から吹き飛んで、気が付いたら先輩から引き剥

がしてた。お前にも先輩にも滅茶苦茶腹がたって、挑発にまで簡単にのって、あの台詞だよ」
 自嘲的に語尾が笑う。
「それなのに当人に平気なカオで、たいしたことじゃないなんて言われてカッとなった。お前にとって意味のないことが、俺にとってはそうじゃない。

大事そうに抱えてるカメラにも、俺に背中を向けたお前にも苛ついて。無防備で無自覚なお前を思い知らせてやるつもりだった」
 まだ覚えている。今と同じ体温を。震えた背中を。
「だけど。どう考えたって高山先輩より俺の方が近しいはずなのに、先輩の腕ん中で身動ぎひとつしなかったお前に抵抗されて」
 当たり前だよ。相手が君だから、だ。平気でなんか、いられなかった。今だってそう。
「なんかもう悔しいんだか、寂しいんだか、自分の中でなんにも消化できなかった。お前、あの時、俺のこと怖いと思っただろ」
 怖かったに決まってる。
「分かったんだ。ちゃんと気付いた。だけど。放せばいいのに、放せなくて。強引に距離を埋めたいって、ただそれだけで」
 名前を呼ぶ、ただそれだけで。特別を意識して、知らない間に積み重なった想い。好きだから怖い。好きだから、だから。
「それがなぜかなんて考えたのは、かなり後だ」
 不用意な言葉に惑わされそうになる。取り違えそうになる自分が怖くて、それ以上は聞けない。
「コドモの独占欲、だよ」
 僕とは違う。
「でなきゃ暁星でかかる麻疹みたいなもんだ」
 懐かしい過去に引き戻されているだけの加持とは。
「加持、そんなのはもう忘れなきゃ」
 一方的な気持ちのせいで背中を向けた僕に、裏切られて傷ついた加持にあるのは執着心。似ているようでけしてそれは重ならない。

 

 

 


 もしもあの日、君を見送っていても。
 もしもあの時、この気持ちを伝えていても。
 多分、何も変わらなかった。
 僕と君は、最初からあまりに違いすぎた。
 あの二年が特別だったんだ。

 

 

 


「なんだよ、それ。お前のは本物だけど、俺のは否定すんの?」
 抗う間もなく手放されて、だけどそのまま肩口を掴まれる。
「線引きしたいなら勝手にしろよ。だけど、俺の気持ちまではそうはさせねぇ」
 見たこともない厳しい視線に晒される。
「もう、逃がしたりしない」
「やめろよ」
 逃れられない代わりに、視界を閉じる。
「先に否定したのは加持だ」
 君の背中に隠れてしまう、守られるべき存在が僕の気持ちを決定付けた。
「選んだんだろう? ならそれでいいだろ。今さら、今さらそんなこと言われても」
 傷つきたくないんだ、もう。
「それが誰のことを言ってるのか、分からない」
 逃げ出して傷つけたかもしれないけれど、僕だって同じ。だからもう、このまま終わらせてくれ。恨みがましいことを言い出す前に。
「代償、ってんなら甘んじて受けるさ。だけど言ったろ。忘れてなんかやらない。後悔するのは、もうたくさんだ」
 掬い上げられるように抱きしめられて、
 吐息が、唇に触れた。
 こじ開けられる、何もかも。
 息をすることすら思い出せなくなる。
 全部を釘付けにしたまま、
 まるで僕の奥底をさらうように
 熱が暴かれる。
「佳久」
 切なく呼ばれたそれは、まるであの日のピアノのように静かに入り込む。
「か、じ」
「政恒、って呼ぶ約束だろ」
 髪をすく、頬を撫でる手が優しくて、震える。
「五年待った。だけど変わらなかった。ずっと大事なところにお前がいた」
 請われるようなそれは、ひどく切なく胸に響いて。
「コドモの独占欲でも、まして麻疹なんかでもない。佳久、お前がずっと欲しかった」
 逃げ切れなく、なる。
「違う、なんて言うなよ」
 隔てるもののない眼差しは、まっすぐで。
 誘いこまれるように甘い。
「佳久、もう、逃げるな」
 近付く距離に、目を閉じたとき。あの曲が聞こえた。だけどそれは思い出の中のそれでも、僕の耳に馴染んでしまったそれでもなくて。違和感に引き戻された僕のこめかみに素早く押し付けられた唇は至近距離のまま舌打ちして、探った上着からその音源を取り出した。
「なんだよ。あ?分かってるって。ばっくれねぇよ。うるせぇな、後で会うんだからいいだろうが。切るぞ」
 忌々しげに携帯を閉じると同時、落ちたのは面倒くさげなため息が一つ。
「杉下。早く来いってさ」
「え、あ!」
 見れば言われた時間はとうに過ぎている。
「平気だって。佳久が聞いてたのは集合時間の一時間前だから」
 そうだ。大体迎えに来るって言ったのは杉下のはずで、しかも来ないと言っていた君が目の前にいる。その現実。
「気付いてたんだ、杉下は」
 気付いてた? 何に? 意味が分からなくて、視線で問いかける。
「俺がお前のこと好きだってことも。それに、お前が連絡をたってんのが、多分俺に理由があるんだろうってこともな」
 ばつの悪そうな表情に、釣り込まれる。
「え、なに、それ」
「元々は、俺が気持ちのない相手と付き合って人を試すようなことをするからだって。それで落ち込むのは自業自得だけど、自分たちがとばっちり食

うのはおかしいだろうがって、さんざん責められたしな」
 それって、杉下には僕の気持ちを知られていたということなんだろうか。
「だから、責任もって連れて来いって連絡くれたんだよ。邪魔しやがってと言いたいとこだけど、そういうわけでそろそろ行かなきゃマズイ」
 単に不義理を責められることは覚悟していたけれど、思いがけない事実にどんな表情で顔を出せばいいのか。ひたすら気恥ずかしくて、少し前とは違う意味であまり気が進まなくなる。
「あ、佳久」
 二の足を踏む僕の手をとった政恒は、反対の手を向けた。
「携帯」
「え?」
「着メロ。誰に作ってもらった」
 そうだ。さっき聞いた、政恒の携帯の着信音は。
「なんだ、あれ。全然違うっつーの。まじムカつく」
 さすが本職、というべきか。僕のものとは似て異なる、完璧なあの曲で。
「入れといてやる」
 憤慨しているらしい様子に黙って差し出した携帯ごと掴まれて。
「俺、お前限定で心が狭いから」
 そのまま口付けられる。吐息も漏れないほど、奪いつくされるような、甘いそれ。
「連中に会っても、ぜってぇ俺のそばから離れんなよ。ま、離さねぇけど」
 膝から崩れそうになった僕を満足げに眺める政恒に、ただもう壊れそうな心臓を抱えてうつむくと、その頭上にも優しいそれが落ちた。
 この温もりが手にあることが信じられない。
 また、逃げ出したくなることもあるのかもしれない。
 だけど。
 別れの日。我慢し切れなくて窓越し追いかけた。正門前、大勢の中で背中しか見えなかった君が、今確かにここにいる。
 さよならのあの日から、繋がった今だから。
「あ、政恒」
 あの日の電話、言えなかった続きから始めるのも悪くない。
「好きだよ」
 振り返る、君を待つ幸せを噛み締めながら。
 

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