「無理をお願いしているのは承知の上なんです」
 意思の強さをうかがわせる真っ直ぐな眼差し。
「撤収作業でも何でも手伝います。だから」
 お願いしますと深々と頭を下げたその潔さに、応えてあげたくなった。
「いいよ。どうせ最終日だし」
「え、香西君。それはちょっと」
「何も手伝わなくていいけど、残り二日の宣伝担当をお願いしてもいいかな?」
 どう見ても個展責任者ではない同世代のオレにあっさり頷かれて、虚をつかれたような表情を見て満足した。
「ラスト番、ちょうどオレだし。各務さんにはオレからちゃんと説明しておきます」
 心配そうに眉を寄せる人を、笑顔一つ向けて納得させてしまうことも忘れない。
 表は閉めてしまうから、非常階段で上がって来て。そう言ったとき。
「きっと、喜びます」
 なにより先に落ちたその言葉の正直さが、眩しくて、羨ましかった。
 誰かの為に真摯に頭を下げられる彼も。
 そうさせる誰かも。
 想いが優しく響いて、オレの胸を締め付けた。
 

 

 昔から、欲しいなと思ったものはわりと簡単に手に入った。
 そんなに必死にならなくても、そこそこ勉強はできたし、元ミスなんとかだったという母親譲りの甘さの残るこのカオも、カワイイという評価は微妙でも評判は悪くない。
 両親とも仕事で忙しい人だったけど、年の離れた姉に親バカだといわれるほど溺愛されている自覚もある。
 恵まれている。十人が十人ともそう思うだろう。もちろんオレもそれを否定するつもりはない。ただ、そんなもの全部が、本当に欲しいものの前では色褪せてみえるだけで。
 もし、オレの手の中にあるもの全部と引き換えにそれが手に入ると言われたら、オレはあっさり投げ出していただろうけど。可能性のない仮定形のそれは、ただ虚しく降り積もっていくばかりだった。
 そう。よりによって、絶対にオレのものにはならないものが欲しいだなんて。天邪鬼な自分を嗤いながら。
 だけどそれももう終わる。振り積もった『もしも』は、跡形もなく崩れ落ちたのだ。
「どこにもいけない気持ちは、どこにいっちゃうんだろう」
 終わりだと、忘れるのだと何度も繰り返すのに。
「なんで、好きになっちゃったのかなぁ」
 ギャラリー奥。飾られたパネルに切り取られた真っ青な空と対峙する一面の緑は、だけど他のどれとも違っていた。
 空でも、緑でもない。くっきりと浮かび上がっているのは緑に映りこんだその影ひとつ。ただそれだけでその存在を主張するかのような影はひどく印象的で、どこか引き付けられた。
「これがオレなら、な」
 引き付けられる分だけ、比べてしまう。
 あの人の中に存在しているオレは、いつだっておまけの付属物。
 ピンぼけしたままの存在で、何が叶うわけでもないのに。

 

 

 


 姉のおまけ。今も昔も、もしかしたらそう変わってはいないのかもしれない。それが最も端的にあの人にとってのオレを表しているのだとしても、いまさら変わりようがない。
 あの人と出会った頃、オレはまだランドセルを背負っていて、あの人はもう学生服さえ着てはいなかった。
 姉の数多い友達の一人。あの頃のオレの認識なんてそんなものだ。ただ姉の周囲を取り巻く人とは違って、常に手放さないカメラと、どこか硬質な空気がまるで全てを遠ざけてもいるように見えた。オレの知るオトナの誰とも違う人。安易に近づけない分だけ、気になる。最初はそんなただの子供の好奇心、だったのかもしれない。
 静かなシャッター音が耳に届かなければ、満たされない興味はいずれ薄れたに違いない。だけどまるで背中を押すように、その音はオレを呼び寄せた。ファインダーを覗き込む、その強い眼差しに引き込まれるように。
「すごいね。パシャッって綺麗だね」
 思わず割り込んだオレを振り返った人が、その時どんな表情をしたのかあまり記憶にない。だけど。
「そうか。綺麗か」
 音が綺麗。そんな写真なんて何も分からない、何の足しにもならない子供の誉め言葉に、頭を撫でてくれた大きな手のひらは憶えている。
「撮ってみるか?」
「え、いいの?」
 初めて聞いた声は、やわらかくて温かくて。ただそれが嬉しかった。ましていつも大事そうに手の中にあったそれを躊躇なく差し出されて、おずおずと、だけどそれで

も両手を伸ばした。落とさないように力いっぱいで握りこんだカメラ。
 オレが最初に覗いたファインダーの向こうには、穏やかに微笑んだ人がいた。

 

 

 

 

 会うたびにいろんな話をしてくれた。
 切り取られた優しい色彩に触れて。
 その人の持つ体温を感じる。
 それは、オレにとって特別な時間。
 だけど。
 子供だったのだ。
 何も知らなかった。
 重ねた時間だけ、同じだと思っていた。
 差し出される何もかもが
 オレのものだと、
 信じて疑いもしなかった。
 その先にあるものを
 見もしないで。

 

 

 


 写真で食べていくのは、困難なことだ。今ならそれがよく分かる。趣味の延長程度なら誰も反対しないそれを、だけどその人は仕事に選んだ。
 暢気に格好いいと誉めそやしたオレは、あの人の目にどう映っていたのか。子供だったという言い訳は、それを認めてしてしまうようで口惜しい。
 だけど。
 あれから八年。
 その人は、ここまできた。
 目の前にある写真集。
 小さくても盛況な個展。
 すごい。
 すごいけど、辛い。
 そうさせてしまう理由を、今のオレは知っているのだ。
『ひとり立ちできたら』
 何度となく聞いたそれに、明確な目的が伴っていたことを。
「あ、各務さん。お帰りなさい」
 ドア越し聞こえたスタッフのそれに、受付表をまとめていたオレの手が止まる。
「泰良は?」
 馴染んだ声音は昔のままなのに。変わったのはきっとオレの方。
 どうせならずっと子供のままでいられれば、何もかも素直に喜べたのに。第一印象に縛られたままの人は、そんなオレにも気付かない。
 だから、押し込めるしかないのだ。
「泰良、ご苦労さま」
「お帰りなさい。各務さん」
 ちょっと我儘で、やんちゃな弟のふりで。

 

 

 


「増刷?」
「らしいな」
 昼過ぎ、各務さんの師事している津田先生から電話が入って、個展中だというのに呼び出されていた各務さんは、どこか他人事のような口ぶりでそれを教えてくれた。
「すごいね。津田先生も勿体つけるんだもん。オレの方がドキドキしちゃったよ」
 写真集の増刷。個展の終盤を締めるビッグニュース。それなのに気を抜くと表情が歪みそうで、ことさら大げさに安心したとばかりにため息をついてみせたその先。
 目の端にちらつく、テーブルの上に載った菓子箱。差し入れだと持ち帰ったそのロゴには見覚えがありすぎた。
 甘いものが苦手なオレが、唯一美味しく食べられるシュークリーム。レクランという洋菓子店のイチオシというそれは、時間次第では売切れてしまうことで有名だ。だから、姉がオレの機嫌をとろうとするときには必ずこの箱が差し出される。
 そう。レクランは、津田先生の事務所ではなく、姉の勤務する出版社に近い。それがどういう意味なのか、考えると苦いものがこみ上げる。
「ね、各務先生って呼んであげようか?」
「面白がってるな。お前にだけは一生呼ばれたくないぞ、俺は」
「えー、なにそれ。ソンケーしてるのが分かんないかなぁ」
 冗談ひとつに、突かれた胸。見ない振りでただ笑う。
「でもホントおめでと。これでますます前途洋々ってカンジだね」
「そう上手くいってくれればいいけどな」
 自他共に認める慎重派らしいそれに、だけど珍しく僅かにのぞく自信を感じ取る。
「いくよ。全部」
 各務さんにとって未来に続く一押しになったそれは、オレにとっては駄目押しに他ならない。
『もうそろそろ、うんと言ってほしいね』
 あの日聞こえたそれに、応えさせるだけの全てを手にした人。
 思わず震えた指先を、手近の受付表を掴むことで誤魔化してうつむく。
『俺の気持ちは証明できたと思うけど』
 聞けなかったその先の続きは、あの指先に光って見えた。

 

 

 


 例えば、相手が姉でなければ。
 あの真摯な眼差しをした彼のように
 まっすぐに気持ちを向けられただろうか。
 そうしたら。
 弟、なんていうおまけではなく
 なんのフィルターもないまま見てもらえただろうか。
 あの夏の日。
 言ってしまえばよかった。
 出口を塞がれるより前に。
 何もかも知る前に。
 せめて一度ぐらい
 オレだけを写してほしかった。
 その眼差しの中に。

 

 

 


 夏休みも終わる頃。暑さには滅法弱いオレが、エアコンをきかせた部屋でタオルケットに包まったまま雑誌をめくっていると、久しぶりに顔をのぞかせた人の苦笑いにぶつかった。
「寒いよ、泰良」
「だって暑いんだもん」
「いつ見てもそんな調子なのよ。いい加減にしないと身体に悪いって言ってるのにきかないんだから。各務君、お茶いれてくるから待っててね」
 何度たしなめられても直らないオレをそのままに、母さんはそういい置いてドアを閉めた。
「ほんとにちょっと温度上げなきゃ、風邪ひくって」
 ソファの上にあったリモコンが取られ、慣れた手つきで操作される。
「各務さん、暑くないの?」
「暑いとか寒いとか言ってたら、写真なんか撮れないよ」
 涼しげにそう言われても説得力がない。それでも正論ではあるそれに、タオルケットから抜け出すと、さすがにちょっとひんやりする。
「ま、明日は山手だから、もう涼しいのかもな」
「え、撮りにいくの?」
「ちょっと時間ができたからな。日帰りだけど」
「オレも! オレも行きたい!」
 気付けば口にしていた。さすがに予想しなかったのだろうオレの我侭に、各務さんは僅かに躊躇ったようにも見えた。だけど大抵のことに頷いてくれる人の答えを確信してもいた。
「暑くても文句いうなよ。受験生」
 仕方ないな、とこぼれるため息もただ優越感しか生まなかった。
 丸一日独占できる。ただそれだけで。

 

 

 

 

 風を、音でも感じる。
 深いところで、呼吸する感覚。
 小さな湖を覆い隠すような緑の中に差し込む薄日。
 人為的なものの欠片も見当たらない場所。
 そこに溶け込む、シャッター音。
 見えるのはただ背中だけ。
 振り返らない人が、何を捉えようとしているか分からなくても、同じものを同じ時間に見ている。ただそれだけで楽しくて浮かれていたのだ。
 だから雨に出くわしたことも、ただのちょっとしたアクシデントだった。
「まずい」
「え、何が」
 居心地のよさに眠気を誘われていたオレは、幾分風が生ぬるくなっていたことに気付く。慌てて機材を片付け始める人に促されて空を見上げた。
 さっきまで青空が広がっていたそこは、あっという間に薄暗い雲に取って代わられていく。
「泰良、これ」
 着ていた上着を強引にかぶせられる。否を言わせない勢いで、背中を押される。
「車までもつか」
 カメラケースを抱えた各務さんの前を走り出したときには僅かに感じる程度だったのに、それが強い雨脚となるのにはそんなに時間がかからなかった。車に戻ったときには二人ともびしょ濡れで。
「ごめん。シート濡らしちゃうね」
「そんなことどうでもいいから。ほら、これでちゃんと拭いて」
 車に積んであったタオルをオレに押し付けて、各務さん自身はろくに構わないまま。何かを逡巡したように見えたのは一瞬だった。
「どこかで一泊しよう。このままじゃ風邪ひかせる」
 帰りまでの二時間を覚悟したオレに、各務さんはそう提案した。思いがけないそれが単純に嬉しくて、緩んでしまう口元を隠すようにタオルの中からそっと覗き見た隣。
 いつものように仕方なさげに笑っているはずの人はそこにはいなかった。少し強張った表情のまま零れ落ちたため息に、体温が下がったような気がしたのは濡れた背中のせいだったのだろうか。
 得した気分に弾んでいたはずの気持ちは霧散して、それきり顔をあげられなくなる。
 オレの知らない人がそこにいた。

 

 

 


 飛び込んだホテルはそこそこのクラスだったせいか、濡れていることを咎めるようなこともなく逆にフロントではバスタオルと温かいお茶が差し出された。
「とにかくまず風呂だな。泰良」
「あ、うん。ごめん、ありがと」
 呼ばれ、促されるままバスルームに入りドアを閉めると、そのままへたり込むようにうずくまる。
 ホテルまでの車内、極端に言葉数の減ったオレを何度も体調をうかがうように気遣ってくれた。変わらない。変わってなんかいない。あの一瞬の横顔は錯覚じゃないかと思わせるその全てが、どうしてだろう。ひどくリアルに感じられて。あと一歩が、近付けなくなった。
 なんで。どうして、あんな、表情してたの?
「泰良、大丈夫か?」
 ドア越し。優しいそれに、身体が震えた。
「あ、大丈夫だから。すぐでるね」
「バカ。ゆっくり温まれよ」
 不審がられる前に勢いよくバスタブにお湯を張り、その音に安心する。
 濡れた服が張り付いて気持ち悪い。だけどそれ以上に胸の奥が重い。平気な顔をして出て行くにはまだ少し時間がかかりそうで。額を、胸元を押さえつけた。

 

 

 


 着替えはここに置いておくからと、もう一度声をかけられて、ようやく時間を意識した。申し訳程度にバスを使い、ここを明け渡す前に洗面台の鏡で笑顔をつくる。所在なげなカオしてオレが、泣き出しそうに笑っていて。思わず目を伏せて、唇を噛んだ。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「いや。そんなことよりちゃんと温まったか」
 着替えを済ませていた人は、機材をチェックしていた。忙しないそれにどこかでホッとしながら、わずかに一度だけ視線を向けただけの人に、何か違うものも感じていた。
「メシ、どうする?」
「ごめん。さすがにちょっと疲れたみたい。先、休んでいい?」
「やっぱり具合が悪いんじゃないだろうな」
「大丈夫だよ。じゃ、おやすみ」
 向けられた視線を背中で遮り、シーツを引き上げる。目を閉じてしまえば、また明日になれば元通り。そうなればいいと願いながら。

 

 

 


「……不可抗力だろ」
 耳障りのいい低音にぼんやりと意識が引き戻されると、それは少しずつ意味のある言葉になっていく。完全な闇、ではない。目の前の壁に絞り込んだ光が白く映りこんでいて、どうやら浅い眠りの中にいたらしいことを知る。
「あ? もう寝てるって」
 ひそめた分だけ甘く響くそれに、自分がここにいる状況を思い出す。どうやらオレのことらしい会話を拾い、自宅に連絡もしないままだったことにようやく気付いた。
「そう何度も念押しされなくたって分かってるさ。相変わらず過保護だな、杏奈」
 くだけた様子に、見える付き合いの長さ。同級生だ。だからそれは当たり前のことなのに、立ち位置の違いを思い知らされた気がした。『杏奈』と呼んだ今さらなそれに、胸が引き絞られたみたいに痛い。
「早耳だな。そうだよ、個展の話が出てる」
 息がうまくできない。個展? だから、今日も写真を撮りに来たのだろうか。そんなことカケラも匂わせてはくれなかったけれど。
「お前のおかげかもしれないと今は思ってるよ」
 本決まりになったら、教えてくれたのだろうか。だけど、姉は知っていた。
「だからな。もうそろそろ、うんと言って欲しいね」
 ため息交じり、落ちたそれに。
「俺の気持ちは証明できたと思うけど」
 乗せられた、想い。
 見えた、何もかもかもが。
 苦しくて、寂しくて。
「じゃあまたな。分かってるって。杏奈の可愛い王子様は、ちゃんとお城までお送りしますよ」
 涙が、こぼれた。

 

 

 


 本当は、どこかでずっとそうなのかもしれないと思っていた。だけど分かっていて見ない振りをしていただけだ。
 各務さんにとって大事なのは姉で。オレは大事な人の身内。ただのおまけ。
 先延ばしにしてきた現実は、我侭の代価にしては高すぎる気がした。
 兄のように思っていただけなら、喜ばしいだけのそれが、胸を塞がれたように苦しい。
 特別だと思っていた。もちろんそれは間違いではないけれど正しくもない。各務さんとオレの気持ちとは重ならない、同じようで違う。ただそれだけで。
 好きなんだと気付いたとき、その異質さに叶うわけもないことを理解しながら。行き場のない気持ちを持て余したオレに、それを手に微笑む人を間近で見ることは耐えられそうもない。
 何も始まらないのなら消えてなくなれと願う端から溢れる気持ちに、堪えられない。
 大好きな人の幸せを願えない自分が、惨めで、寂しい。

 

 

 


 その人といると、いつだって楽しくて。どんなカオをしているかなんて考えたことすらなかったのに、会うたび頬を上げることを意識するようになった。微妙な距離感をどうすることもできないまま、どんどん重くなる気持ちを押さえつけ、なんでもないふりでいつもを装い続けた。
 個展の話を聞いたときも。写真集の話を聞いたときも。手を叩いて喜んで、だけどその奥底では近付くタイムリミットに怯えてもいた。
 そして。オレはその刻限が来たことに気付いたのだ。
 個展の初日、オープニング前に現れた姉の左手の薬指にあった所有のシルシ。
 幸せの象徴が終わりを告げる。シンプルで優美なそれが、オレの気持ちを凍りつかせた。

 

 

 


 撤収日を明日に控えた個展の最終日。スタッフ揃っての打ち上げにオレも誘われていた。もちろんオレは最初から行くつもりはなくて。だから、彼の申し出はちょうどいい言い訳になった。
「時間延長って」
 当初、あまりいい顔をしなかった人をオレは説得にかかった。
「バイトの都合で時間までに来られないらしくてね。でも、どうしても見たいんだって。ね? 写真家冥利に尽きるでしょう?」
 名前も聞かなかった彼を、友達のように話した。その後はそのままそいつと出かける。そういうことにするにはその方が都合がよかったから。
「オレが責任もってラストまでいるし。ちゃんと戸締りもしとくから」
 だからいいよね? そう笑って。いつものようにその人が頷くのを待った。だけど。
「どのぐらいかかるんだ?」
 珍しく返事が持ち越されて、躊躇う。
「打ち上げには来られるんだろう?」
 こんなことは初めてで、考えるふりで視線を逸らせた。打ち上げが始まった頃に、断りの連絡をしようと思っていたのだ。
「いや、どうかな。ちょっと分かんないかも」
 こうまで聞かれて「行く」と嘘はつけなくて、曖昧さで逃げるのに。
「どして? 遅れてもこれるよな」
 思う以上に執拗に繰り返されて言葉に詰まる。今、ここで見逃して欲しいのに。
「泰良」
 外したはずの視線の先、真っ直ぐな瞳がオレを射抜く。
「話があるんだ」
 重なったのは、あの指輪。
 唇が今にも震えだしそうで、宥めるように指先で撫でる。
 残酷な人。
 だから。
「ごめん。ホントに分かんない。大事なヤツなんだ」
 瞬きをしたら零れ落ちそうなそれに耐えて、オレは笑った。
 目の前が滲んで、各務さんの顔はよく見えなくて。だけどそれがちょうど良かった。

 

 

 


「結局帰らず、か」
 最後の人を見送りがてら、そのまま表のシャッターを閉めて戻る。入り口の案内板を中に収めてしまうと、時間に取り残されたような気分になる。
 最終日だというのに各務さんは打ち合わせがあると言って午前中にでかけたきり、結局戻ってはこなかった。
 ここでこうして一人きりでいると、なぜだか初日前夜、各務さんと二人で一枚一枚眺めたことを思い出す。
 雄大さに飲み込まれそうになる自然の中、そのどれもに散りばめられた小さな息吹。
 花だったり、水面に浮かぶ一葉だったりするそれは、やわらかくて、だけどどこか凛としてもいて。不思議な雰囲気に満ちていた。
 ただ、唯一ギャラリー奥にあるこの一枚のパネルには写りこむ影がある。人物は苦手だと公言している人が、珍しく落としたそれは人のカタチをしていた。
 厳しい自然を切り取りながら、どこか優しい写真なのは変わらないけれど。これだけは他のどれとも違って見えた。
 それは多分、きっと。

 

 

 


「ほら、寒いから早く入れ」
 促す声に振り返ると、最初の一枚に吸い寄せられるようにして近付いて、そのまま見入られたように動かなくなった華奢な姿が目に入った。
 綺麗な瞳。まだ幼さの残る頬のラインが、それを際立たせているように見える。
 その向こう側、彼はその背中を満足そうに見つめていた。口元を緩ませたそれは、ひどく甘く映る。けれどオレへと向き直り、丁寧に頭を下げたときは、もうどこにもその名残はなかったけれど。
「すみません、ありがとうございます」
「いいよ。たいしたことじゃないもん。しかもあんなに熱心に見てくれるコなら大歓迎」
 各務さんの写真の持つ空気に近い感じ、とでもいうのだろうか。目の前の彼が見せてやりたいと思ったのが分かる気がした。
「だけど意外だったな。てっきり連れてくるのは女の子だとばかり思ってたんだけど」
 感じた空気に半信半疑で、からかうつもりで口にしたそれに、その目は真っ直ぐオレを見て、そして頷いたのだ。
「間違いじゃないですよ。俺にとって、一番大事にしたいヤツですから」
 揺らがない強い想いがそこに見えた。
「そう、か」
 射抜くような眼差しは、どこか冷たい印象を与える。だけどその存在を見つめる時、その目は、その全てが払拭されてしまったかのように柔らかだ。
 大事だと言い切る強さとともにある優しさが、今のオレには痛みさえ感じさせる。
「羨ましいな」
 二人をつなぐシルシはなくても、絆がある。それは誰にでも与えられるようで与えられない奇跡。
「あぁ、ごめん。受付表だけ書いといてくれるとありがたいんだ」
 差し出した二枚のどちらも当たり前のように引き寄せた彼を横目に、濃紺のピーコートを脱ぐことすら思いつかないのだろう熱心さで、あの奥のパネル前にいた後姿を眺める。
 君になら。選ばれた側にいる君なら、その写りこんだ影があの人の特別かどうか分かるのかもしれない。そんな埒もないことを考える自分が愚かしくて苦笑する。
 何もかも終わったのだ。奇跡なんて、そんなに簡単には起こらない。
 一人じゃ、何も始まらないのだ。

 

 

 


 多分、このコは何も聞かされてはいなかったのだろう。誰もいないことを閉館と勘違いして、恥ずかしそうにはにかんだのを見てそう思った。
 それと知らせず、ただ喜ばせたいというだけで特別な時間をつくった目の前の彼はそれで十分だったに違いない。深々と一礼した彼に倣うように、そのコもまたどこか満ち足りたような表情のまま頭を下げた。幸せそうな後姿を見送りながら、オレはただ静かに息を吐き出した。
 あの人は今頃、スタッフに報告しているのだろうか。左手の薬指、シルシを身につけた姉がその隣で笑っているのだろうか。
 今日をやりすごしても、現実からは逃れられない。言うべき言葉も、どうするべきかも分かってる。だけど。二人並んだ姿を想像するだけで喉を塞ぐ塊を、歪む唇を。どう誤魔化せばいいんだろう。
 明日には、もうここにないパネル。撤収すれば元通りの空間が戻るこの場所のように、オレの気持ちも元通りになればいいのに。
 あの奥にあるパネルを前に、オレはただ立ち尽くしていた。

 

 

 


 不在着信十二件。
 マナーモードが常識の場所という隠れ蓑に、奥の部屋に放置したままだった携帯。全ての戸締りを終えてそれに気付いた時、電源を落としておくべきだったと後悔してももう遅い。履歴を追わなくても相手は分かる。今切れば、それが意図的だと思わせるだけに違いなくて。ひどく分の悪い状況にため息をついたとき、それはまた手の中で震え出す。表示されている『香西杏奈』の文字。出るまでかけるつもりだろう姉に、対抗する術のないオレはとりあえずいったん出るという選択肢しかない。
「泰良!? 今どこにいるのよ」
 声を出す間もなくいきなり喧嘩腰で怒鳴られて、反射的に耳から遠ざける。それでも甲高い声は十分に届いた。
「ちょっと、聞いてるの!?」
「どこ、ってまだ会場だよ。聞いてない? 各務さんには説明して了解もとってるんだけど」
「あぁ。聞いたわよ」
「じゃあ」
 だから今日は遠慮すると言ったはずだと、そう続けるはずだったのに。
「で、あんたの大事な人とやらは、そこにいるの?」
 静かに切り込まれて、二の句が告げなくなった。
「仮にも姉ですからね。ご挨拶ぐらいしておきたいわ。紹介するぐらいいいでしょ」
 そう口にしながら、まるで今のオレの状況を知っているかのようにそこには何の期待も感じられない。
「いや、あのさ」
「泰良」
 たった一言、名前ひとつで全部を退けられる。
「できないなら今すぐこっちに来なさい」
 黙りこんだまま返事をしないオレに、何かいいかけたのか、わずかに届いた音では判別がつかない。
「タクシーをよこすから。いいわね」
 言い渡すようなそれに答えることもできないまま、切れた電話をただ握り締めた。

 

 

 


 一次会は終わる頃だ。場所変えでもしてオレに報告するつもりなのだろう。考えるだけで逃げ出したくなる状況に、そのたびタクシーを止めたくなったけれど。
「同じ、だよな」
 たとえばここで流れていく光の洪水に飛び出して、溢れる人ごみに紛れたとしても。
 どんなものも、どんな人も遮断したまま、オレの心の中には何も届かない。
 ただ一人の人が胸の奥に居座っている限り。過去にならない限り。何も変わりはしないだろう。だから。
「同じ、だ」
 目を閉じて、窓へ頭をもたせかける。抱えたまま離せない重い気持ちを宥めるように。

 

 

 


 予想通り、一次会は終わっていた。だけど、この状況は予想してはいなかった。
「ちょっと、しっかりしなさいよ、煌」
 呼び捨てられた名前に傷つくより、あまりに珍しい光景に目をみはる。最近できたらしい創作割烹の店。個室で人目がないとはいえ、各務さんはまだ畳の匂いがするそこに、ぐったり倒れこんだままだ。近付くとふわりとアルコールの匂いが漂った。
「来たわよ、泰良」
 乱暴に身体を揺すられて、だけどその人はオレに気付かない。身構えていた分だけホッとしたそのとき。
「泰良? 泰良は、これないんだって」
 語尾が乱れるように伸びる。アルコールに弱い人が、どうやら今日ばかりは勧められるまま飲んだのだろう。二重のお祝いだから、それも仕方のないことかもしれないけれど。
「杏奈、どーしようか」
「うっとうしいわよ、煌」
 手厳しいそれにも、各務さんはただ口元を緩めたまま。
「優しくねぇな。杏奈の言いつけ守ってたんだぞ。そんなニンゲンに、なんて言い草だよ」
 どこか甘えるようなそれは、胸を刺す。
「泰良、あんた責任もってコレ送り届けといて」
 呆れたようなため息ひとつで振り返った姉は、そう言い放った。
「え、ちょっとなんで」
「元はといえば、泰良がもっと早く来ないから、こういうことになったんじゃない」
 どんな理由なんだと思う。嬉しくてすすんだアルコールの責任を押し付けられても困る。
「なんでオレ? それをいうなら姉さんだろ? ここまで酔う前にちゃんと止めろよ」
「いいオトナの面倒なんか見てられますか」
 邪険な台詞で、だけど頬に触れる指先。目に入ったそれから反射的に目を逸らす。
「ほんとに起きなさいって、煌」
「そのぐらい当然だろ?」
「当然?」
 こんなにそばにいるのに、目の前の人がオレに気付かない。それがやけにきつくて。
「結婚するんだから当然だろ!」
 勢いに任せて言葉にしたとたん、それは現実味を帯びて胸に落ちた。そして。
「ふーん。当然、ね。確かに。するわよ、結婚」
 だから? そんなふうに続きそうなほど、軽く告げられて。思わず視線を上げた先、鮮やかに微笑む姉に息が止まった。
 強張りが解けない。次の言葉が探せない。姉のため息がひとつこぼれるのが聞こえた。
「お、泰良君。わざわざ悪いねぇ」
 音もなく開いた障子の向こう。微妙な空気を打ち壊すように顔をのぞかせたのは津田先生だった。
「タクシー、すぐ来るからね」
 向けられた笑顔とその言葉に、固まったままの感情は封じ込まれる。
「仕方ないヤツだな。おい、各務。ちょっと起きろ」
「津田先生はいいですよねぇ」
 身体を半分預けるように歩く足元はおぼつかない。
「もういいから、とにかくしっかり歩け。泰良君、面倒だけどよろしく頼むよ」
 半覚醒の状態のこの人をオレが送ることはすでに決定事項らしい。
 ついているのか、いないのか。思わずこぼれたため息は、安堵なのか痛みなのか判別もつかない。
 押し込められたタクシーの中、オレの肩口に預けられた重みは温かくて、ひどく切なかった。

 

 

 


 マンション前で降ろして、そのまま戻ってくれていいから。そう渡されたタクシーチケット。だけど、さすがにこの寒さでそれは出来そうもなくて。近くなる通過点のはずの場所を前に、躊躇っていた。
 もう少しだけ傍にこの体温を感じていたいと思う気持ちが、それを僅かに上回る。
「あ、その前でお願いします」
 少しだけ待っていてもらおう。そう思った先。半身から不意に温もりが消えた。
「あぁすみません、いくらですか」
 奪われた言葉に出遅れる。
「あ、これ」
「はい、降りて」
 差し出そうとしたチケットは、そのまま押しやられる。
「え、あの」
「早く」
 オレが降りないと各務さんが降りられない。単純に位置の問題だということに思い至り、促されるままいったん車を降りたのだけれど。
「お世話さまです」
「あ、ちょっと、各務さん!」
 自動で閉まるはずのドアより早く、各務さんはその入り口を閉ざす。慌ててタクシーを引きとめようと踏み出したはずの一歩目。
 その身体がぐらりと傾いだ。
「うわっ! 大丈夫?」
 抱きとめた人の瞳は、もう見えない。オレだと分かっているのかいないのか。分からないまま、ただその腕を引き寄せた。

 

 

 

 
 エレベーターがあるマンションで本当に助かった。ふらつきながらもなんとか目的のドアの前まで来ると、俯いたままの人の背中を叩く。
「各務さん、ついたよ。鍵は? ね、鍵はどこ?」
 かけられた重みが増したように感じた。相槌のような、疑問符のような音が漏れ聞こえ、億劫そうにあちこちを探っていた人が、コートの底からそれを掴み取ったのが分かる。
 受け取ろうとして、だけどそれを拒むように、慣れた手つきでそのカードキーを難なく差し込むのが目に映る。その違和感の前にたじろいだオレは、だけど反対に腕を掴まれてドアの内へと引き込まれた。
 声をあげる間もなく、気付けばその腕の中にいた。抗う間もなく、口付けられていた。
 背骨がきしむほどの強さと、噛み付くようなキスは、まるで俺の全てを奪いつくされてしまいそうになる。
 何がどうなって今こうしているのか。分からないまま、ただその体温を感じている。流されてしまいそうになるほど優しい場所に包まれて、そのまま何もかも預けたくなる。
 だけど。
 アルコールの匂いに混じって香ったそれは、誘惑の隙間に入り込み、痛みに変わった。
『するわよ、結婚』
 フラッシュバックする微笑。
 細い指を彩る幸せの象徴。
 イヤだ。
 口に出せないまま、拳で、胸を叩く。
 押し戻した弾みで、嫌な感触が口元に残る。
 反射的に見上げた目の前、唇を親指で拭う人はどこか冷めた目をしていた。知らない、見たこともないオトナの顔で。
「酔ってんの?」
 間違えたの? そう聞くには勇気がなくて。なかったことにできる言葉へ言い換えた。それなのに。
「酔ってる、か。そうかもな」
 自嘲するように呟かれて目を逸らされた。ただそれだけで唇が震えた。奥歯が鳴るのを止められない。
「……泰良?」
 いぶかしむような声音に、ようやく頬を伝うそれに気付いた。
 いられない。ここには、いられない。
 何もかもに背を向けて、オレはその人から逃れるように飛び出した。
 一度だけ聞こえた声はオレを呼んだような気がしたけれど、それも飛び乗ったエレベーターのドアに遮られて届かなくなった。
 ただもう逃げ出すより他にない。ただそれだけで急くままに走って、走って、走った。
 あの人の手の届かないところへ離れてしまわなければ。ただそれだけで。

 

 

 


 ダッフルコートのポケットに押し込んだままのタクシーチケットを思い出したのは、どのぐらい走った後だったのか。寒そうに身をすくめる人の中で、一人汗ばむ身体を冷ますようにタクシー待ちの列に並んだ。
 もしもあのままあの場所にいたら。あの時姉の香水に気付かなければ。オレは一体どうしていたんだろう。
 間違えられただけのキスに、浅ましくもすがりつきそうになったオレを、あの人はどう思ったんだろう。
 冗談にもできずに泣き出したオレの涙は乾いても、あの人の記憶からは消してはしまえない。
 オレもまた、あの冷めた目を忘れることができないように。
 本当に何もかも終わるのかもしれない。そんな気がした。

 

 

 


 自宅少し手前で、降りたタクシーを見送って。重い足を引きずるように歩いていたオレを追い越して、自宅前で車が止まった。助手席から降りてきたのは姉で、だけどその車高の低さは各務さんの四駆ではない。車を降りたにも関わらず、姉はそのまま見送らずに運転席へと近付いた。
「津田センセ……」
 穏やかに表情を綻ばせた姉、窓からのぞく横顔も見知った人。だけどそこに漂うのはどこか近寄りがたい雰囲気。思わず立ち止まるオレの目の前で姉がかがむのが見えた。
「う、そ」
 隙間なく埋められた距離。差し入れられた髪に愛おしむように触れる手。
 受け入れがたい光景に、身動ぎひとつできないまま、立ち尽くす。混乱して定まらない気持ちは、その車のテールランプが見えなくなる頃には怒りへと変わっていた。
「姉さん!」
 振り返った姉は、悪びれることもなく意味深な笑みを見せる。オレの存在なんて歯牙にもかけてはいない。そんな様子に勢い込んで駆け出そうとした腕が、不意に何かに掴まれた。
「話があるって、言ったろ」
 胸の奥が震える。自分の身体なのに、言うことをきかなくなる。振りほどいて逃げるべきだと思うのに、そこにある感情の色を確認したくなる。
「泰良」
 揺らがない眼差しに晒されて戸惑う。すぐそこに姉がいるのに、まるで見えているのはオレだけだと錯覚させてしまうほど強い瞳がそこにあって。
「あの、あのさ」
 二人の姿を見なかったんだろうか。見ていたらこんなふうにはいられないだろうけど。
「今、姉さんと」
「杏奈なんかどうでもいい」
 口をつぐむべきかどうか迷いながら口にしかけたオレに、まるで吐き捨てるみたいなそれが、その先の言葉を見失わせる。言葉も、掴まれた腕も、瞳も。そこにある意味全てを図りかねて。
「泰良」
 かすれたその声に、胸を掴まれた瞬間。
「ご挨拶だわね」
 すぐそばで落ちた面白がるような声音に、各務さんはあからさまに嫌な表情をしてみせる。
「まさかとは思うけど。煌、まだもたもたしてんの? 協力しがいのないオトコねぇ」
 呆れた、と言わんばかりのため息に、各務さんはオレをそのまま引き寄せる。
「どこが協力なんだよ。邪魔の間違いだろうが!」
「ちょっと、静かにしてくれる? 夜中で、しかもうちの前なのよ。何事かと思われるわ」
 憤懣やるかたない人をあっさりいなして、姉は手の中のキーホルダーを玩ぶ。
「大体、別に邪魔した記憶はないわよ」
「待たせすぎだっつうんだよ! だから他にもってかれるんだろうが」
「もっていかれそうになったのなら、煌の責任でしょ。その程度の存在だっていうことじゃない」
 手厳しさに目を見張る。およそ恋人の会話とは思えない。各務さんは歯噛みするように視線を足元へ向けた。
「それに時間がかかったのも自分のせいでしょ。海外写真班に同行してれば、もっと早くここまでこれたでしょうが」
 海外?いつそんな話があったんだろう。
「回り道をわざわざ選択したのは煌よ」
「分かってるよ。それは」
「ならいいけど」
 オレを素通りしていた視線が、ピタリと合わさる。
「リスクしか与えないだけのただのオトコに、泰良はやれないの」
 まるで悪戯が成功したみたいな笑み。
「待った甲斐があるオトコになってるんだと思わせればいいだけじゃないの?」
 指先で額をそっと突かれる。
「先に入ってるわよ。寝不足はお肌の敵なの」
「え、姉さん?」
「言っとくけど、ちゃんと帰してね。外泊は駄目よ」
「分かってるよ」
 オレではない人へ向けられたその返事を引き出すと、姉は言葉通りに門をくぐった。

 

 

 


「泰良」
「あ、あのさ。いっこだけ聞いてもいい?」
 いくつもの『もしも』をそのたびに否定してきた。だけど、今すこしだけその続きが頭をのぞかせる。
「姉さん、結婚するって」
「なんだ。その話?」
 気落ちしたように嘆息され、思わず身構えるオレを宥めるように髪を撫でられる。
「来春らしいぜ。その祝いも兼ねての打ち上げだったんだけど。てか、泰良シスコンだっけ?」
 他人事のようなそれ。だけどそれじゃ足りない。
「それって、各務さんじゃ」
「は?!」
 驚いた、なんてものじゃないぐらいの動揺ぶりにオレの方がびっくりする。引き剥がすように肩口を押さえられて、覗き込まれた。
「津田先生だよ。なんでオレ?」
「だって」
 いろんなことが思い浮かぶのに、ありすぎて何から言えばいいのか分からない。
「なんで誤解されてんのか分かんないんだけど、もしかしてずっとそう思ってた?」
 頷くのがやっとのオレに、目の前の人は天を仰ぐ。
「いいヤツだけどね。恋愛感情は一度も持ったことはないよ。泰良に会わなけりゃ、もしかしたのかもしれないけど」
「オ、レ?」
「まだ子供だった泰良にさ。シャッター音が綺麗だって言われたとき、俺は曇りのない泰良の瞳が綺麗だと思ったよ」
 歪みのない、子供特有の瞳だとそのときは思ったのだと笑う。
「だけど泰良は変わらなかった。いつも真っ直ぐで、感情に素直で。そのうち、杏奈より泰良に会えるのが楽しみになって」
 それを姉に見抜かれたのだ、と苦笑する。
「ちょうど就活の真っ最中でさ。そこそこ大きな商社の内定も出てた。カメラはアマチュアで楽しくでもいいかと流されそうだったんだけど」
『別に就職先なんてどうでもいいけど、そこらへんのただのオトコになんか、泰良を口説く資格はないわよ』
 そう言い渡されたのだという。
「それにはさすがにムカついたんだけどさ。まぁ杏奈のいうことも一理あったんだ」
『あのコが妹ならそれでもいいわよ。だけど違うでしょ? 高いリスクだけ背負わせて、守れないようなただのオトコはゴメンだから』
 このまま就職して、本気を見せればいい。一度はそう思ったんだ。そう懐かしむように遠くなる視線。
「そんな頃に泰良とカメラもって一緒に出かけて。いろんなものを撮ってた俺に、泰良が言ったんだよ。俺の写真が好きだって。それがあんまりいい笑顔でさ」
 優しく笑うその瞳に、泣き出しそうなオレが映っている。
「あぁ、道は決まったなと思ったよ。好きなヤツに、こんな表情で、ずっとそばにいてほしいって」
 そっと頬に触れる指が、零れ落ちたそれを拭う。
「ギャラリーの一番奥の写真な」
 真っ青な空と、足元の影。
「その時撮ったヤツだ。泰良を被写体にすると、気持ちが露呈しそうで、だけどどうしても残したいと思って、ああいう形になった。気恥ずかしいけど、あれが俺の原点だと思ってる」
 姉のものだとばかり思っていた。だから嫌いで、でも引き付けられるのもそこにある想いのせいだと思っていた。
「長かったよ。泰良への気持ちを証明してみせるって決めて杏奈の条件を飲んだけど、泰良はどんどん成長して、目を放した隙にどこかに飛んで言ってしまいそうで」
 怖かった。オトナな人の漏らしたそれが胸に沁みる。
「か、がみ、さん」
「なに?」
 目眩がしそうなほど、どこかふわふわして現実感がなくて、確かめるようにそっとセーターの端を掴んだ。
「酔っ払ってる、なんてオチじゃないよね」
 疑り深いオレを、攫うような笑顔が掬い上げる。
「拒まれたら、酔った勢いってことにしたいって、ずるいことも考えたけどな」
 本当に酔ってたら、あんなに簡単に俺を連れて部屋までは行きつけないよ。言われてみれば本当にそうだけれど。
「酔うほど飲んでないよ。店の人に酒をこぼされたからな。シャツに匂いがついてたんだろ」
 あぁでもしないと、話もさせてくれないふうだったし。個展成功の祝い金代わりに杏奈に一芝居打たせたと、あっさりされた種明かし。ということは、あの玄関先でのあの口付けも。
「俺も一つだけ確認したいんだけど」
「え?」
「俺を後回しにした大事なヤツって、誰?」
 真剣なそれに、ようやく何もかもが解けていく。こんなにそばにいて、何も気付かずにいた。違う。近すぎてなにも見えなかった。
「え、とね」
 羨ましかった。ただそれだけだったんだけど。今思えば、あのコに向けられる彼の眼差しは、被写体を前にした各務さんに似ていた。だからちょっとだけ、喜ばせてあげたいと思ったのかもしれない。
 難しい表情をしたまま、面白くなさそうな人。それが嬉しくて、オレはそっと伸び上がる。
 唇の端、掠めただけのキス。
「誤魔化す気だな」
 近付くと、表情は見えなくなる。だけど上がる体温と、わずかに乱れる語尾にそれは散りばめられている。
「そんなつもりはない、よ?」
「どうせなら、もっとちゃんと誤魔化せよ」
 唇の端が上がるのが見えた、それが最後。あとはもう何もわからなくなる。
 落ちてきた奇跡が逃げ出さないように、その全てで引き寄せる。
「好、き」
 吐息のように漏れたそれは、奪われるように飲み込まれてしまったけれど、合わさった鼓動は少し早まって、応えるように強く抱きしめられた。

 


 いつもその瞳が映すファインダーの前に、オレはいた。
 これから先の未来も、だからきっと、ずっとそうやってそこにいる。
 綺麗なシャッター音を響かせる人のそばに。ずっと。

 

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