どうして。
 投げかけられるたび、息苦しくて。あえぐたび掴むものを欲しがった。だけど。
 『ねぇ、どうして?』
 歌うように、だけどどこか暗く冷たい響きをしたそれが、
 『どうしてこんなことに』
 深いため息に混じり落ちたそれが、
 『どうしてなの』
 悲鳴のような、それが。
 俺にそれを許すことはなかった。
 どうして。
 投げかけられた以上に問いかけ、繰り返した末に突きつけられた残酷なエンドマーク。
 そう、全ての元凶はただ一つ。
 それが俺だということを、今の俺はもう知っている。

 

 

 

 

 鈍い音が、アスファルトを蹴り上げる足をさらに加速させるはずの残り約二十メートル。閉まり始めた門扉を前に、あからさまに失速する背中を幾つも追い越しながら知るこの先に待つ人。
「またかよっ」
 一人きり本気のラストスパート。朝の定例行事と化しているゲームに登場するのは、この辺でやめにしておきたい。間違いなく最悪な状況を前に、不吉な予感を打ち破るべく全力疾走で猛然と突撃した目の前。
「生徒手帳」
 掠めるように阻まれた鉄柵。容赦無く取り上げられた手帳の向こうで、鳴り終わらないチャイムが虚しく響く。
「参った、アウトかよ」
 一斉に降り注ぐ羨ましげな視線を素知らぬふりで遮断して、かけられる後輩達の声に余裕の笑みで応える。そんな俺の視界の端で捉えた『週番統括長』の腕章。くせのない髪が風に揺れて覗く瞳は冷ややかに、けれど真っ直ぐ俺へと向けられていた。
「予鈴、まだ鳴ってましたけどね」
 遅刻は遅刻。潔さが信条。それでも、翻るはずのない回答を前に食い下がるのは何度目か。数えたことはないが、この顔が目の前を遮った数と同じなのは確かだ。
「だから?」
 引き結ばれた唇からこぼれ落ちるのは、最低限のセンテンス。眉をひそめることさえなく、機械的に動く赤ペンの先。それだけで後に続くはずの何もかもを奪い退ける。
「遅刻の定義を、今さらここで説明しろとでも?」
 理知的な瞳、と囁かれるそれを見せたのは一瞬。硝子みたいに冷ややかな一瞥とともに、淡々と繋がれた短い言葉。数少ない反論の語群はまたも、もろく消え失せた。さすが全国模試上位の常連。遅刻の定義、ときた。説明しろと言えば、きっと嫌味なぐらい懇切丁寧にそうするに違いない。
「会長直々のコールまであと四回」
 突き返される生徒手帳。赤が目に痛い。
「前代未聞だな」
 カンにさわる言い回し。腹いせに嫌味のひとつぐらいお見舞いしたいところだけれど、返す言葉もないのも事実で。代わり映えしない結果に噛んだ奥歯が、小さく音をたてた。

 

 

 

 

 かけられた声全てを同じ言葉で退けて、手に入れた静かな場所。けれど盲点だと思っていたのは、どうやら俺だけだったらしい。
「どこに消えたかと思えば何やってんだ、こんなとこで」
「あまりの人口密度に宮がいるかと思ったぜ。おい、こっち。ヒガシいたよ」
 気が付けば、巧く学食からまいてきたはずの連中に囲まれていた。TPOをわきまえない奴等は言いたい放題、当然のように同じテーブルにつく。拡げていたファイルの類が、遠慮もなく押しやられた。
「静かにしろよ。どこだと思ってんだ」
 場所がら大声は出せない。有利に働くはずのそれはあっという間に意味を成さなくなる。
「ヒガシに不似合いな図書館、だな。しかし朝っぱらから生徒全員を羨ましがらせたヤツが、こんなトコで」
 何度繰り返されたか分からない台詞を、閉じたファイルの音に重ねて無視。平穏な昼休みを諦めるつもりはまだない。
「何だ? 中世欧州の歴史? そういや小テストって荒木田言ってたな」
「んなもん一人で幸運独り占めしてんだから素直に諦めろ」
「またわけのわからないことを」
 俺のファイルを玩ぶ奴等を横目でひと睨みして、目の前の字面を再び追い掛け始める。
「森野のヤツ、嘆いてたぜ。何で今日、ヒガシの目覚まし遅らせちまったんだろうって」
「不公平だよな。朝からおいしいとこばっかかっさらってさ」
 軽い口調。だけどちらつく恨みがましさには、充分本気が込められている。滑り込みセーフのはずの判定を鼻先で覆され、能面みたいな表情で注がれる嫌味を羨ましがるこいつらの気がしれない。もちろんそれを口にしたところで納得するわけがないのは過去が証明している。ならばと無駄なことはやめて無視を装い、手近の参考資料を再度引き寄せた。
「シカトすんなよ。氷姫と口きいたくせに」
 会話にもならないあれを、口をきいたと大騒ぎする連中には、ただもう呆れるしかない。
「そうか? そうだったかな」
 だから、それで? 答えにならない返事で口を噤む。
 氷見悠。通称、誰が付けたか氷姫。我らが暁星学院名物、創立祭・体育祭・暁祭の三大イベントにさえ加わらず、誰とも馴れ合わず、その一定の距離を保ち立つことを容認させている人。我関せず主義は終始一貫。精巧な人形に優しさも穏やかさもなく、代わりに傍にあるのはブリザード。近付けばマフラーやコートぐらいでは凌げない、厳寒気温が待っている。俺に言わせれば氷姫なんて可愛らしいモンじゃない。例えばそう、あの童話。全てを凍りつかせてしまう雪の女王ってヤツなんかハマリ役だ。胸の奥、渇いた笑いが込み上げる。
「これだよ。週番統括長は立ち当番は不定期で、取り締まりは他の週番に任せるのがお約束。それでも唯一接近出来るってのが、あの午前八時二十五分の正門前なんだぞ」
「そうそう。予鈴が鳴ってあの人が正門に見えたら、速度は落として生徒手帳を準備するってのが、ここ二年半変わらぬ暁星の常識なのにさ。待ってるヤツを差し置いて、文句ばっかりのお前が手帳取られてるんだもんな」
「替わってやるよ、いつでも。ついでに遅刻と同時に決まる寮の掃除当番も一緒にな」
 バカげてる。視線と笑みでケムにまきながら、心底そう思う。昼食時間を惜しんで要約をまとめた切れ端が、代償みたく小さく丸くなった。
「替われるもんなら、本気でお願いしてるとこだけどな」
 わざとらしい深いため息に、知らぬ間に会話に引き戻される。
「何だよ」
「ヒガシらしいって言えば、らしいよな」
「お前等、全然わけ分かんねぇ」
 何を納得してるのか揃って頷く。呆れる、とは微妙に違う視線。
「いいよ、いいよ。お前はそれで」
「あ、そう」
 右を見ても左を見ても野郎ばかりが続く日照りのせいか。綺麗だとうっとり眺める連中を理解不能だと退けてきた。どうして誰も気付かないのか。その熱さにさえ、あの氷は溶けることはない。きっと誰にも。
「ってかお前ってなんでそうもあっさり、さっぱりなのかね。しかもそれで宮の隣ってポジションまでゲットしちまうしさ」
「誤解を招くような言い方すんなよ」
 どうやらまだ文句をつけたりないらしい。さらに引き合いに出された『宮』の名前についにボールペンを投げ出す。綺麗、美人と謳われるのは同じでも、氷姫とは対照的な暁の宮。冬と春。拒絶と受諾。近付く他人を許さない氷姫と、特定の誰かを持つことを許されない宮。共通項はただシンパの多さというヤツだ。
「誤解、って言われてもさ。結局のとこ今でも一番仲いいじゃん。宮だって他の誰より楽しそうだし」
「そりゃ、お前等のせいだろ? 二枚看板気にしすぎなんだよ。普通にしてりゃいいじゃねぇか」
「ヒガシなら出来るかもしんないけどさ」
 全員が全員、頷きやがった。
「頭では分かってても、やっぱり宮は特別の格別、特上の極上だし」
「宮と話してると、なんか平常心ぐらついてくるっつうか」
 普通が一番難しい。声を揃える連中には付き合いきれない。そう思ったのが顔に出たのかもしれない。
「ヒガシだってモテるくせに、特定の女と付き合わないのは、やっぱり宮のせいじゃないかって噂もあんだぜ?」
 どこか得意げな声。腕組みしたまま見送りかけた言葉を反芻しかけて。
「何と言っても、昔は『斗真』『洸』のカンケ……」
 軽い口を塞ぐには武力行使が一番。襲撃は見事成功し、堀の言葉は呻き声に変わった。
「痛ぇ……。何も本投げなくても」
「妙なこと口走るなよ。無責任な噂で女の子にもてなくなったらどうしてくれる。どこの誰が付き合わないって?」
 嘲ら笑って片肘をつく。
「お前等が知らないだけだっつうの。完璧情報不足、だな」
「何だよっそれっ!」
 揃った大音響に、わざとらしく耳を塞ぐ。連中の口はそれきり意味をなさなくなった。これで八割は成功。憶測ばかりを並べられ、見当違いな感情を向けられるより楽な方を選ぶのは当然だ。現在進行形の噂より、適度な好奇心を充たせるだけの事実。嘘ではない、そんな程度。
「知らないのも仕方ないんじゃないの?」
 僅かに取り戻した余裕は、あっさりと水をさされた。斜め前に分厚い専門書が置かれ、僅かに椅子をよけた松末の隣。
「お前のカノジョ、何人いたっけ」
 情報には事欠かない新聞部所属。まして俺の幼なじみの台詞は意味深で、連中は色めき立つ。
「何、何?さすが中嶋、何か知ってるな」
「おいおい、何だよそれ」
「こいつ、いつのまにそんな経験値あげちまってるわけよ?」
「さぁ、ね」
 思わせ振りな笑顔ひとつ。中嶋はしたり顔で加わって、俺は心の中でため息をつく。
「人聞きの悪い。たんに俺がいいオトコだってことだろうが」
「いいオトコ、ね」
 不意に感じた心許なさは僅か。
「信じらんないヤツだな! 男子校で寮生活のくせに」
「宮まで捉まえといて、女もかよ」
「誰か紹介しろっ、このヤロ」
 喧騒に引き込まれるように立ち消えたそれに安堵して、中心へと足を踏み入れた。
「うるさいんだよっ! お前ら」
 薙ぎ払うように声を張り上げた瞬間。
「うるさいのは君だよ」
 背中に届いた静かなくせによく響く冷ややかな声は、他の誰とも間違えようがない。テリトリーの第二図書室ではないここに、どうしているのか。
「ここをどこだと思ってるのかな。それとも騒いでいい場所かどうかも分からないってことなのかな」
 見れば苛々することが分かっていて振り返ってしまうのは、逃げたと思われたくないだけだ。だけどそれで最初に目に入ったのが『誰が借りるんだよそんなモン』代表格の洋書の原書らしいタイトル背表紙ってのは微妙なところだ。相変わらず何も映していないような瞳も、つくづく優等生然として見える隙のなさも、何もかも全部後回しで。
「小学生でも知ってることが出来ないなら出て行くべきだと思わないか」
 正論だった。素直に謝るべきだと思いながら、それでもそうは出来なかった。
「好奇心旺盛な年頃で、探求心は尽きないんです。氷見先輩のように成績にはなかなか結びつきませんが」
 手早く私物をまとめ、奪われていたファイルを取り返すことも忘れない。
「知らない間に先輩の邪魔をしていたようです。どうぞごゆっくり。落ち着きのない幼稚園児は退散させていただきます」
 ことさら笑顔を強調し、重ねた私物を手に迷わず立ち上がる。
「あ、おいヒガシ」
「お前等も、センパイの貴重なお勉強の邪魔するなよ」
 分の悪い立場で言い置いた台詞は陳腐でしかなかったけれど、気にしてなどいないことをアピールする程度にはなった。それなのに、指先は裏切るようにどこか強張っていて。奇妙な不安定さがたまらなくて、見咎められているわけもないのに隠すように握り込んでいた。
「……しまった」
 だからその違和感に気付いたのはその指先が僅かに緩んだ、特別教棟を後にした辺り。伝わる重さに手の中を改めると、俺のものではない分厚い本が一冊。書架から引っ張りだしていた資料を、勢いにまかせて持ち出してしまっていたらしい。
「今更、戻れるかよ」
 今来たばかりの渡り廊下に視線を投げて、けれど俺は再び手の中へとそれを埋没させた。

 

 

 

 

 現在、選挙管理委員会室も兼ねている、役員任期満了間近の生徒会室。選挙活動内容の打ち合せの終わった俺を、奥の部屋から呼び止めたのは現会長、持田泰明先輩だった。
「お忙しそうですね」
 多忙ぶりを優に推察できる、積み上げられた書類やファイル。
「そうでもないよ。実質業務は残るところ、役員改選だけだから。まぁ最近人の出入りが激しくて、ちょっと騒々しいけどね」
 扉一枚で締め出せたそれも、その横にあるボードを埋めるスケジュール表を見れば素直には頷けない。
「周囲が騒々しいのは東倉も同じかな? 新聞部がさっき立候補者データを確認しにきたんだけど、支持率すごいんだって? 選挙の意味があるのかってこぼしてたよ」
「そうやって持ち上げといて、いい気になってるとあいつら容赦なく落としますからね」
 どこかのスポーツ新聞みたいな見出しの躍る紙面を思い出した俺に、持田先輩は口元を緩めた。
「いや。あいつらが言うことも一理あるんだよな。重本が立候補したときには正直俺も驚いたから。なんてったって相手は宵の東倉だし」
「うわっ! 止めてくださいよ。それ、完全に名前負けですから」
 聞かなくなって久しいそれに、やんわり否定する。
「まさか。面と向って言われなくなって安心してるなら教えてあげるけど、今の中等部にも知らないヤツいないと思うな」
「……なんですか、それ」
「名付親を誰だと思ってんの? きっと卒業したって消えてなくなったりしないよ」
 僅かに遠くなる視線。持田先輩は思い出したのだろう。尊敬と、崇拝。完全無欠の孤高の人を。けれど俺が瞬間とらわれたのは全く別のところにあった。
「ま、それも仕方ないか。それだけ東倉が期待させてしまうってことだし。会長職に就いたらイベントは大変だな」
「まだ決まったわけじゃありませんよ」
「決まったようなものなんだろ? 自信、あるくせに」
 無意識に零れた苦笑い。俺という人間を表す時、十人中十人がきっと口にするだろう『自信家』という肩書き。誰もが納得するそれを耳にするたびに曖昧に誤魔化してきた。手段にしかすぎなかったものが、いつのまにか一人歩きしていることを自覚しながら。
「その自信を早く見せてもらいたいんだけどね」
 捉われた胸の内に止まったのはそこまで。
「まずは遅刻厳禁ってところからかな。分かってるだろうけど」
「ですよね」
 机上にあった黒の表紙を指し示されて、唇の端になんとかのせた笑いも弱々しい。週番報告書。校則違反者等の名前を連ねてあるそれには、当然遅刻者名も含まれている。罰則はそれぞれ異なるが遅刻の場合、10回で反省文。15回で講堂清掃。20回で生徒会長直々のコール。
 そう。現在記録更新中の俺の遅刻は、今期通算16回を数えた。会長直接コールまで後4回。生徒会長になった時には、自分で自分を呼び出すつもりかと、氷姫の今朝の嫌味は事実痛いところを突いている。
「しません、と断言したいところなんですけどね」
 かけたはずの目覚ましが、遅刻するかどうかギリギリの時間にまで変えられてはさすがに自信がない。寮の部屋に鍵をかけても、朝六時になると寮管理室でマスターキーの貸し出しが可能になる。それは遅刻者が出ないようにという配慮だったはずなのだが、現在そのところ当初の目的とは違う方向に使用されていることの方が多い。
「東倉?」
 漏れたため息は、諦めを多く含んでいる。気を付けようにも敵の数が多すぎるのだ。
「したくてするわけじゃないんですけどね。俺のは正真正銘、純粋な遅刻なんで」
「純粋な遅刻?」
 何気に口にしたそれを思わず聞き返されて、答えに窮したのは僅か。
「あぁ、いるじゃないですか。同じ遅刻でも動機が不純っていうか。俺には理解不能ですけど」
 軽い調子で続けたはずのそれ。名前を躊躇ったのは無意識で。
「理解不能、か。相変わらず氷見には容赦がない」
 だから名指しされた分だけ、踏み込まれた気がした。
「皮肉屋。無愛想。排他的。協調性の欠片もない。あと何だったかな」
「勘弁してくださいよ」
 そこまで直截な言葉を使ったことはないが、先輩相手というオブラートで包んだところで意味は変わらない。それでも今ここで簡単に同意できるはずもなくて、否定も肯定もしないという体裁をつけはしたものの『我が意を得たり』が本音。それなのに。
「否定できないところ、あるんだけどさ」
 ひっそりと零れた呟きに、応えようもなく立ちすくむ。静けさが生み出す緊張感に、掬われそうで。
「でも、東倉。本当にそう思ってる?」
 踏みしめたはずの足元が傾いだような錯覚。今さら何を、そう思うのに。含まれた微妙なニュアンスは言葉以上の何かを滲ませているように胸の奥に落ちていく。息苦しさを誤魔化すように俺はただ笑った。

 

 

 

 

「で、どこまでですか?」
 俺の行く手を窓から阻んだ年齢を刻む手が、積みあがった古い書籍を愛しそうに撫で上げる。
「第三書庫だ。いやぁ助かった。さすがにワシでも宮さんにさせるわけにいかん」
 それでも武道指導講師というだけあって、伸びた背筋とその所作は年を感じさせない。
「辻口先生。僕、そんなに非力に見えます?」
「宮さんは大事な茶飲み友達じゃからな。力仕事みたいなもんは東倉でええ」
 湯飲みを手にどこかのご隠居みたく高笑いすると、ことさら美味そうにお茶をすすった。かくしゃくとした老齢なこの人に、逆らえるヤツはそうそういない。
「はい、はい。させていただきますけど、俺バスケ部へ出勤途中なんですから、吉丸先輩に遅刻の言い訳してくださいよ」
 かくいう俺もその筆頭で、時折こうやって使われているのだが。
「するわけないじゃろ。遅刻して玉転がしをクビになれば万々歳だの。剣道部をソデにしたことを後悔すればいいんじゃ、こいつは」
 つまらなそうにジャージ姿の俺を一瞥すると、そう言い放たれる。
「辻口センセ。もしかして、まだ根に持ってんですか?」
 呆れた、と言外に匂わせるとその人は機嫌を損ねたようにそっぽを向く。
「中学でだって、部活には入ってなかったじゃないですか」
「武術というのはそんな瑣末な問題じゃない。勝手に辞めおって」
 けれどその眼差しは温かく、どこか痛ましげなものが混ざる。
「バスケと陸上で今は手いっぱいですよ、俺。剣道は、とりあえず目標を達成したんで」
 だからもちろん俺は気付かないふりをする。
「それじゃ、これはお持ちしておきます」
 抱え上げた書籍の向こうで、その人がため息をつくのが見えた。
「宮さん。悪いが鍵だけ持って行ってやってくれ。それ以外は手伝わんでいいからの」
 厳しいけれど、優しい。だから逆らえない。でも、だからこそ。それだけはきけない。
「悪いね」
 向けた先が宮でないことを気付いたに違いない人は、けれどそ知らぬふりのままほんの少しだけその表情を歪めた。

 

 

 

 

 二人並んで歩き始めると、どこか遠巻きに眺められる。こういう空気は暁星内ではかなり久しぶりで、俺はそっと隣を歩く宮、こと坂上洸を横目に捉えた。
『まるで宵の明星と明けの明星だ』
 宇崎先輩が洩らしたのが最初だという、中等部入学と同時につけられた別名の対の相手。人目を惹く、なんて言葉ではまだ易しい。美辞麗句を尽くしてなお足りない気にさせられる容姿と、それに見合う中身。ふわりとした柔らかな笑顔は、誰をも惹きつけ誰をも癒した坂上。
 別格。そんな存在だからこそ、その隣が欲しかった。立てる自分に固執していたのかもしれない。『宵の東倉、暁の坂上』と並び称されて、対の名前にあるべき自分を証明しているような気にさえなっていた。けれど。
『明星の二人は特別な関係だ』
 噂というにはあまりに確信めいて囁かれ始めたそれに、怯んだのは他の誰でもない俺だった。『洸』が『坂上』に変わり、むやみに触れなくなり、距離を計り。そしていつの間にか独占禁止法と不可侵条約という二枚看板が埋めてしまった誰一人独占できなくなった場所で、坂上は今も笑っている。一人きり、誰より強い、綺麗な瞳のまま。
「東倉さ」
「ん?」
「なんで、剣道やめたの」
 隣にいる俺を見ることなく、今その瞳はただ真っ直ぐ前に向けられている。
「坂上まで急に何? 前に言わなかったっけ」
「聞いたよ。二段とったからもういいって」
 通っていた道場の師範が、ついさっき見た辻口先生と同じ表情をしたことを思い出す。
「そういうこと。一区切りついたからな」
「それで、次はバスケとハイジャン?」
 どこか淡々とした声が珍しくて、足を止める。
「それじゃ、その次は何?」
「次? そりゃさすがに考えてないな」
「そう」
 笑った俺を僅かに振り返った、そこにいつもの笑顔はなかった。
「まるで全部にゴールを決めてるみたいなのに。その先はまだなんだ」
 まるで何もかも知ってるんじゃないかと思わせるそれに、言葉が奪われる。
「東倉」
 けれどそう言ったきり、坂上もまた何も言わない。見えない瞳からさえ逃れるように、俺はそっと背中を向けた。
 レールは途絶える。追いきれないかもしれないなんて思っていた自分が愚かしいほど、残り時間はもうさほど長くはなくなっていた。いざそこに立った時どうするのか。決められないまま、今もまだ迷っている。そんな浅ましい自分がたまらなく薄汚れているように思えた。

 

 

 

 

 遠くで聞こえる何かが、どんどん近くなる。ぼやけた空間が少しずつ輪郭を形作り始めて、連なるようにそれが蝉の鳴き声だと分かる。まただ。そう思ったときには、もうあの日に飲み込まれていた。
『……さんの面倒で手一杯だって、すげなく追い返されたのよ。無理に決まってるわ』
『でしょうね。あちらは今では何もかもがすっかりなかったことになってるんだから』
 甲高い声。苛立ちの滲むそれに、汗だくだった身体が震えた。祖父が倒れ、祖母一人が家と病院を往復していた頃。それでも道場を休むことを許されてはいなかった小学生の俺は、あの日も稽古から帰ってきたところだった。
『でも本当にどうするのよ。これ以上母さんが無理するのは反対』
『じゃあ貴和子、あんたが面倒みんの?』
『冗談でしょ。佐和子だってそんな気ないくせに』
 祖母に負荷のかかる現状に業を煮やしたのだろう伯母たちが押し付けあっているのが自分のことだとすぐに分かって。まるで他人の家に踏み込んだような居たたまれなさに玄関から動けない。
『どうしてこんなことになったんだか』
 鬱陶しげなため息までも届いた気がして、後ずさりした。いてはいけない、聞いてはいけない、そう思ったけれど。気付くのは少し遅すぎたのかもしれない。
『母親に忘れられる子供で』
 逃げ出す前に捉まった感情を削ぎ落とした声がひやり、と胸を撫でて。
『まして父親の子供かも疑わしいだなんて。私ならそれだけで生まれてきたことを悔いそうだわ』
 そのまま刺し貫いた。
「……っ」
 痛みに揺り起こされるように、不意に開けた視界。真っ白な天井とカーテンの薄い布地がゆらゆらと揺れている。そのたびその隙間から届く光にちらつく埃が見えた。
「夢、か」
 漏れたそれはまるで喉を塞がれていたかのようにひどく掠れていた。吐き出した息とともに、込み上げる嘲笑。
「違うな」
 繰り返されるたび鮮明になっていくそれはけして夢なんかじゃない。刻み込んだ記憶の一部。あれは始まりでしかない。
「分かってるさ」
 背中に張り付くシャツが、まるであの時の濡れた胴着を思い出させて長椅子から抜け出す。カーテンを開けると、シャツをはためかせるような強い風が通り抜けた。
 目の前を阻むようなそれは一瞬で、幾度かの瞬きの後に見えたのは眩しいぐらいの夕日。そして。見慣れた景色に溶け込んでしまった人。この位置からしか見えない、第二図書館のたった一つだけある小さな窓。その人はいつも一人だった。周囲には誰もいない。誰をも寄せ付けない横顔が、何もかもを瞬間奪い去る。まるで俺を試すように。
「絶対に、ない」
 俺の全てはすでに決まっていて、他の何にも揺れたりはしない。それ以上に優先するものなどあってはならない。だから。
「嫌いだよ、この世で一番」
 そう俺は繰り返す。聞けばきっと冷ややかな瞳で無機質に『お互い様だ』とでも言うだろう人を思いながら。

 

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