耳元に投げ込まれるように届いたそれに弾かれるように顔を上げると、腕組みしたまま仏頂面の山木と、その手の中で丸くなった資料の束が目に入る。どうやらそれで俺の机を打っ叩いたらしい。
「おいおい、それ俺のじゃねぇだろうな」
 間延びした声で触れようとしたそれは、眉間に寄せられた皺をさらに強くした。呆れたような視線は、言い掛けた言葉を奪い取るぐらいの威力はあった。雁首揃えた連中の表情は雄弁に語っている。誰のせいだ、と。
「なに。どうかしたか?」
「そうくるか。さすがにツラの皮が厚い」
 分かっていながらとぼけてみせるつもりが、苛立ちが多分に含まれたそれに無理らしいことを知る。
「俺の勘違いでないなら、今はお前の選挙戦の打ち合せ中だと思ったんだが?」
 続く嫌味に、それじゃ次はと黙って笑ったのがさらに不味かったらしい。
「ヒガシ!」
 耳をつんざく多重音声に、大げさに両手で両耳を塞ぐ。もちろんそのくらいで追求の手は防げない。
「お前、今の状況は理解してるよな?」
 いつもは能天気なまでに明るい声が、地を這うような低音を響かせて。
「答えてみ?」
「分かってる、つもりだけどな?」
 諦め悪くそれが何か?と付け足せそうに上げた語尾に、山木のこめかみがぴくりと痙攣した。
「ほーっ。分かってて人の話を全然聞いてなかったんだな、お前は」
 ダメだ。俺はあっさり白旗を振ることにする。最も温厚な山木まで怒らせると、このメンバーに味方はいない。
「悪い。ちょっと考え事してた」
 素直に謝るのが得策。もちろん苦笑いすることも忘れずに。
「そんなだから怪我すんだよ。部活中のは仕方ないにしても、右手のはお前の不注意なんだろうが。頼むからしっかりしてくれよ」
「分かってる。この通り反省してます」
「なんかあんまり信用出来ないんだけど」
 深い嘆息がおまけでついてきたけれど、しおらしく頭を下げると、ようやく山木は元の位置へ戻る。
「それじゃ、繰り返しになるけどポスターの件は美術部の池端が協力してくれるということで」
 進行しはじめた流れに安堵しながら、その端ですでに意識が違うところへ流れ始める自分を振り切れない。止まらない、止められない。白い包帯が、あの瞬間への引き金。
『そうやって、目を逸らすんだな』
 掴んでいたはずの手首。歴然とした力の差を。
『凍ってるのは俺じゃない。お前だ』
 たったそれだけで覆された。染められた拒絶の瞳に、揺れた自分を知りたくなかった。
 本当は、気付いていた。
 誰をも映さない瞳は、だけどその分誰にでも平等で。
 嘘や誤魔化しを許さない。
 だから。
 暴かれるのが、怖かった。
 何よりそれを言い訳に、許されたいと願うことが。
 今なら、まだ間に合う。胸の痛みも錯覚だったと誤魔化してしまえる。
 そうでなければ、そうしなければ。
 『ねぇ帰して。正人を帰して』
 許されない。俺は。
 どんなに負けそうだと思っても
 負けるわけにはいかないのだ。

 

 

 

 

 ため息の数だけ見送った背中。諦められたように切り上げられた打ち合せ。引き止めるもののなくなった場所で、俺一人が立ち上がれない。どうしようもなく強い疲労感に目を閉じたまま、どのぐらいそうしていたのか。
「病院で入院患者をナンパして、宮に現場を押さえられた挙句、見舞いの果物かごにあったナイフの柄と刃を間違えて怪我を増やしたって?」
 不意に届いた声に、内心で舌打ちする。気配に気付かなかったのは大きな失態だった。もちろんそう思っていることを中島にはすでに気付かれてもいるだろうが、表には出さない。
「坂上のヤツ、ひでぇだろ? 自業自得といわんばかりに広めてくれたぜ」
 今日だけで何度繰り返したか分からない言い訳を笑ったような気配に分かる。こいつは全部知っているらしいことを。
「あぁ。らしいな。で、部活禁止令くらったくせに何やってんだよ」
「生徒会選の打ち合せ。といってもさっき終わったけどな」
 律儀に返答してしまうのは、無言で引く相手でも、適当に言い逃れられる相手でもないことを知っているからだ。案の定、足音は止まるどころか近付いてくる。
「さっき? 山木達を正門前で見かけたのはかなり前だけどな」
 鈍く触れる、探るようなそれ。出来るだけ何げに目を伏せた。
「らしくない顔して上手い言い訳も思いつかない、なんてな」
 単調さが本気を思わせる。気付かないわけじゃない。それでも。
「らしくない顔、か。どんな顔してても男前だって言われたことあんだけどさ」
「茶化してはぐらかすか。お前、そういうの得意だもんな」
 笑って退けようとしたとたん、混じった不穏な色に、仕方なく声を辿る。教卓の前、黒板を背にして立つ中嶋が見えた。
「なんだ。否定してみるか? でも今のお前にそんなこと出来ないんじゃないのか?」
 笑みはない。ただ真っすぐな視線がそこにある。
「逃げてばかりのお前が、何を否定してみせても所詮口先だけだ」
「……俺のどこが逃げてるって」
 張り詰めた空気にたじろいだ分だけ、笑うつもりが上手くいかない。上がりきらない口角が、俺を強気にさせてはくれない。
「言われないと分からないってならいいぜ? お前の手の中にあるものの中に、おまえ自身が望んだものなんて一つもない。それがまぎれもない現実で、その証拠なんだからな」
 詰るようなそれに、もう表情さえつくれない。
「お前が欲しいと集めてまわるものは全部、雨宮さんの持ってたものだけだ。お前が本当に欲しいものじゃない」
「……なんだよ、それ」
「あの人の持ってなかったものには手を伸ばさない。欲しければ欲しい分だけ、何の興味もないように見せて。引き寄せられても、目を奪われても、興味なんて欠片もみせずにその全部に蓋をしてきたんだもんな」
 奥底にあるものを引きずり出されて、それでも俺は崩れるわけにはいかない。認めるわけにはいかない。
「分析は完璧、とでも?」
 素っ気なさを見せ付けるように、肩をすくめ前髪をかきあげる。
「将来は新聞記者なんかやめて、心理学者かカウンセラーにでも変更するか? 当たってるかどうかは別にして、素人にしてははったりが効いてて意外に向いてるかもな」
 浮かべた笑みも、逸らされない視線を前に役にたたない。いつもとは違う中嶋をかわせない自分を分かっているからこそ、残された手段は一つしかない。勢い良く両手で机を押すようにして立ち上がり、一歩を踏み出した。
「悪いけど、お前の講釈を聞くのはまた別の機会にな」
 左手で鞄を掴み、言い置いた通り足を進める。今はもうそれしかない。
「まだ認めないつもりか?」
「中嶋」
 これ以上続ける気はない。そう投げた視線は、本気の顔の前に意味を失った。
「本当に欲しいものから逃げて、どこまで自分を誤魔化せると思ってる? お前は、あの人じゃないんだぞ」
「言いたいことが、分からないな」
「あの人と同じものをいくら手に入れても、お前は雨宮さんになんかなれない。どんなにお前がそれを望んでも、お前はお前でしかないんだ」
 息が止まる。それ以上、踏み込まれるわけにはいかない。
「当たり前だな。あの人と俺なんかが同じなわけがない。同じなんかであるはずがない。何バカなこと言ってるんだか」
 鼻先を擦り抜ける、その間に。
「東倉っ!」
 投げた言葉は、一瞬にしてその低音に打ち消された。
「あの人と同じ進路、同じ部活、同じ役職。剣道もだよな。あの人の段位まできたとたんに道場へ行かなくなった。違う? 否定できるもんならしてみろよ! どこが違う?全部同じじゃないか。全部あの人をなぞって生きてんじゃねぇか!」
 冷静沈着をなげうって向けられるそれは、逃げを許さない。
「あの日から、お前はどこにもいなくなって。何にも出来ない自分が、飄々と笑うお前が歯痒くて仕方なかった。だけど。だけどお前自身に大事なものが出来れば変わるんじゃないかって、そう思ってた。願ってたよ。でも、後悔してる。俺は殴ってでもお前を捕まえるべきだったんだ。大事なものを自ら捨ててしまうほどの馬鹿になる前に」
 責めるようで、だけどどこか痛ましい声。
「良い意味でも悪い意味でも、自分から人を排除しない。そんなお前が、どうして氷見先輩を見て騒ぐ連中に興味ないって何度も否定したんだよ」
 それは懇願にも似て。
「認めろよ。目を背けて、耳を塞いで。何もかも追いやって、それでもお前は逃れられない。お前は本気で氷見先輩を欲しがってる。だからこそ、そうやって自分から切り捨てようとしてるんだって」
 奥底にある何かが軋む。
「もうやめろよ。逃げるなよ」
 込み上げるのはただ苦い想い。
「過去に引きずられて、大事な人まで傷つけるつもりか」
「誰が傷つくって? 大事な人? 笑えない冗談だな」
「待てよっ!」
 伸ばされた手に、声に。それでも立ち止まってしまったのは何故だろう。掴まれた左手を振り切ることは、わけもなかったのに。
「まだ誤魔化すつもりか」
「どうあっても頷かせたいらしいけどな。俺にだって好みってもんがあんだよ。いくら万人に愛想のいい俺でも、表情にも声にも感情のない、綺麗なだけのお人形はタイプじゃない。だから興味がない。ただそれだけのことだ」
 半身だけで振り返った先に見えたしかめられた眉根が、坂上の台詞と重なる。
『もう、いい加減で自分に嘘をつくのはやめようよ』
 だけどな、坂上。それが例えば嘘でも、突き通せば真実になるんだ。
「分かったか」
 だから笑ってやる。完璧なそれで。
「綺麗なだけのお人形、か。そんなこと本気で言ってるのはお前だけだ。氷見先輩の声をまともに聞けるのは授業中だけだって、お前以外の連中は知ってる。だからそれが憎まれ口でも嘲笑でも、あの人を動かせてしまうのがお前だけだと、みんな知ってる。誰も近付けない厚い氷に手で触れられるのが、お前しかいないってことも。あの人がどこを見てるのかってことも」
 手で触れられる? そう、ならこの痛みは触れて凍傷した無謀さの証か。
「お前、保健室で本当に偶然氷見先輩が居合わせたとかおめでたいこと思ってんの? そんなわけねぇだろ! あの人がどうしてあそこにいたかよく考えろ! お前だけが、あの人にとって位置づけが違うように、お前だって同じなんだろう? 分からないとそれでもばっくれる気なら、俺に教えてくれ。特別教室棟の窓から、お前がずっと何を見ていたのか」
 僅かに飲み込んだ空気に、喉が鳴った。切り取られた横顔が掠めて、痛まないはずの傷が疼いた。重く胸苦しい痛みが身体を支配する。揺らぎ、傾ぐ何か。そんな全てを振り払うように左手を取り戻し、今度こそドアを踏み越えた。
「いくら逃げても、自分から逃げ切るなんてできはしないんだぞ」
 追い掛けるそれが何でも、もう踏みとどまらない。日も落ちかけた廊下に、横たわるように伸びていく影。フラッシュバックする人の残像を踏みつけるように俺はそれを後にした。
『お前、保健室で偶然氷見先輩が居合わせたなんて本気でおめでたいこと思ってんの?』
 あぁ思ってるさ。ただの偶然だって。それ以外にない。意味なんて俺には必要ない。
 あの日と同じ。俺にとって一番大事なものは一つ。それは生涯変わらない。変わるなんて許されない。
「そんなもの、いらない」
 何もかも見透かされてしまいそうな清廉な瞳も。引きずられる感情も。
「いらない、んだ」
 何もかもから目を閉じて。
『ねぇどうして』
 代わりに引き寄せる記憶。
『どうしてなの? なんで正人なの!』
 優しい声で、俺の名前を半日前まで呼んで抱きしめてくれた人が。
『あのこさえ、いなければ』
 呪うように吐き出されたそれはもう名前でさえなく、指先は縋るようにその人を掴んでいた。
『亜紀』
 崩折れた人を守るように引き寄せる人の背中がいつもよりずっと小さく見えた。
『しばらくウチに来い。ばーさんを少し休ませてやれ』
 あの日差し伸べられた温かな手が、固く握り締められたまま震えていた。
『どうして』
 どうして、俺は存在しているのか。どんな理由ももう思いつかない。ただ目の前にある現実に、傷つくより納得していた。間違いは正されるべきだと。
 だから、修正したに過ぎない。本当に消えるべきものを消しただけ。
 本当にいらない存在を。俺自身を。

 

 

 

 

 後悔している。俺あの日あの手を掴むべきではなかったのだ。

 

 

 

 

 両親の顔は知らない。厳格な祖父と優しい祖母も、年に数えるほどしか会わない伯母達も揃って緘口令を敷いたように耳にすることも、写真さえ見たこともない。ただ俺を見るたび疎ましげな視線を隠しもしない伯母達に、幼いながらも自分の出自があまり喜ばしいものでないことを感じてはいた。
 だからこそ祖父の入院が思ったより長引いた時、小学生だった俺の処遇について伯母達が押し付け合っても当然だと思ったし、どちらに預けられても結果はそう変わりはしないことも分かっていた。ただ少しでも早く祖父が退院することを願っていた俺の目の前に、突然その人が現れたのだ。
『迎えに来た』
 祖母ではない人に出迎えられるのも初めてなら、ぶっきらぼうにそう言ったきり口ごもってしまったその人、雨宮さんと顔を合わせたのもこの時が初めてだった。どんな経緯でそんな話になったのか、今となっては確かめる勇気すらないけれど。後に漏れ聞くまで父の親友だったということすら知らないまま、流されるように一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 朝食の支度をする亜紀さんの傍。雨宮さんはダイニングテーブルで新聞を読みながらコーヒーを飲み、洗面所からはドライヤーの音が聞こえて茉莉さんが髪のセットに余念がないことを知らせていた。それがここでの朝の光景。けれどいまだ馴染めないまま、浅い呼吸を繰り返す。
「おはよう、斗真君」
「お、はよ、ございます」
 亜紀さんは、挨拶すら喉に絡んで満足に出来ない俺をただ笑って。
「正人ったら、まだ寝てるのよ。斗真君、悪いけど起こしてきてくれる?」
「はい」
 ほぼ日課になりつつあるそれに、僅かにほっとする。
「正人さん、時間だよ?」
 ドアを叩いても返事がないことの多いその部屋をそっと開けると、案の定布団から髪の毛だけがのぞいている。名前を呼んでも、ベッドの上の固まりは動く気配すらない。
「正人さん?」
 家族の中に間借りしているような拭いきれない違和感は、この人の傍にいると和らいだ。それはきっと過ごした時間のせいだけではない。
『おかえり、斗真』
『え』
 促されるまま雨宮さんに連れてこられた洋風の一軒家。玄関前で待っていてくれたのが、道場で何かと可愛がってくれていた正人さんだった。
『ただいま、は?』
 不安と緊張で固まっていた俺は突然のことに訳も分からずなぜだか視界が潤んで、気が付けば抱きしめられるままその人のシャツへ零れた涙を押し付けていた。優しくて大きな手の平に背中を撫でられて、さらにしゃくりあげそうになるのを必死で堪えたのだ。
「起きっ、う、わっ!」
「いつになったら、斗真は俺のことお兄ちゃんって呼んでくれんのかな? ん?」
 いきなり伸びてきた両手。稽古中とは違う穏やかで深い眼差しに覗き込まれ、俯いた頭を優しく撫でられる。温かい、安心をくれる場所。
「よし、一緒に寝るのだ。スキンシップが大事だもんな」
 勢いのままベッドに引きずり込まれ、慌ててみても七つの年の差は大きくて。
「遅刻、遅刻するよ。朝稽古あるんでしょ? 巽さんに、また怒られるよ」
「巽? いいの、いいの。気にしなくて」
 更にこめられた力に本気で抵抗出来るはずもなく、されるままになってしばらく。小さなうめき声とともに身体が不意に開放される。
「……って。姉貴、暴力反対」
「斗真に手間かけさせないのよ。全くもう、さっさと起きなさい」
 制服の肩口から零れる長い髪。誰もが見惚れる美人に不似合いな拳。
「そんなだから、男が出来ないんだぞ」
「お生憎様。私は面倒だからつくらないだけなの。斗真、こんなのほっといてご飯にしましょ」
 強引に手を引かれドアまできて、茉莉さんは思いついたように言った。
「そうだ、斗真。正人より先に、私をお姉さまと呼びなさいね」

 

 

 

 

 口癖のように繰り返される茉莉さんの、正人さんの台詞は、そのたび胸の奥を優しく撫でた。まだ幼い菜摘に服の裾を掴まれて、甘えるように『とーま』と呼ばれるたび、心許なさに捕まえられるような形容しがたい思いが渦巻く。だけどそれは決して嫌なものじゃない。ただ突然与えられた場所にどう応えればいいのか分からなくて。躊躇うたび流れる微妙な空気を、だけど誰もがさりげに受け入れてくれた。
 きっと一番優しい時間だった。誰もが優しい顔をして、誰もが笑っていられた。幸せという箱の中にいたのかもしれない。目の前の灯りに、神様を信じかけたあの日まで。

 

 

 

 

 ぞくぞくする。そんな感覚が先に浮上する。ついてこない意識をひっぱり上げるように光が届いて、眩しさを遮ろうとして上げようとした左手に僅かな違和感があった。
「悪い。起こしたか」
 身じろぐと、その光が絞られるように弱まった。やわらかなそれに、一瞬、また夢に引き込まれたような気がしてどこにいるのか分からなくなる。
「かなり熱があるんだ。いつから我慢してた?」
 低音で響く懐かしい声。
「た、つみさん?」
 うすぼんやりしたまま、それは考えるより先に言葉になった。けれど。
「上出来」
 肯定されて一気に頭が冷えた。不用意に呼んだその人は中嶋の兄貴で、道場の先輩で、そして。正人さんの親友。
「気分は悪くないな?」
 穏やかな声。変わらない真っ直ぐな眼差しに覗き込まれて頷きながら、逃げ場を探すようにして左手に刺さる点滴の針に気付く。
「医者がこんなこというのは不味いんだろうけど、動けないってのもいいな。こうやってちゃんと話ができる」
 会えるはずのない、合わせる顔がない人がうすく笑う気配がした。
「な、んで」
 辺りを見回してみても、こんな時いつもならそばにいるはずの校医の姿はない。
「往診?かな」
 内心うろたえている俺を茶化すように、向けられた声はどこか間延びしていた。もちろん手当てをしたというのは間違いではないんだろう。ただ、総合病院勤務医の巽さんが往診なんて通常ではありえない。そこにある何かを、誰かを感じる。
「そう、ですか」
 それでも知らないふりで聞き流すのを、目の前の人は気に留めた様子はない。
「さっきまで水口さんもいたんだけどな。あの人暁星出身で俺の一期上なもんだから、人使いが荒いのなんのって。あ、ついでに教えといてやるけど水口さんに連絡が入ったとき傍で茶飲んでたの辻口先生だったらしいから」
「あぁ。それはまた最悪なタイミングですね」
 面白がるように出されたある意味暁星最強の人の名前につられたように笑って、だけどそれきり続かない。うまくコントロール出来ない不安定な自分を看破されているのは分かっている。けれどどうにか逃げ出したくて、眩しさを言い訳にするように自由のきく右手で目を覆おうとしたけれど、その行き先すら阻むようにのせられたのは冷たいタオル。
「タイミング、か」
 語尾に混じったのは確かに笑い声なのに、吐き出されたため息は、まるで自嘲するかのように響く。
「なぁ、斗真」
 タオルで塞がれた視界の中、届いた微妙なニュアンス。
「もしも正人が目を覚ましたら」
 瞬間、凍りつく。祈り続けて、願い続けて。いまだに叶えられない残酷な『もしも』。
「お前、あいつの目の前にたてるか」
 閉ざされたままの瞳が、もし本当に俺を捉えたら。眠り続けてもう六年。ありえないだろうそれに、けれど身が竦む。
「今のお前が、真っ直ぐにあいつを見られるならそれでいい」
 佑は激怒するだろうけどな。呟くように続いたそれに、珍しく感情をあらわにした幼なじみを思い出す。
「だけどな。お前があいつの前に立てるヤツで。正人ではなくそんなお前に俺があの頃出会っていたとしても。お前の隣にきっと俺はいない」
 断言されて、溢れそうになる何かを堪えるように唇を噛んだ。分かってる、分かってた。
「俺にとって、立場や、雰囲気や、選ぶ言葉ひとつがどんなに重なっても、そんなものは何の意味もない。だから」
 俺は、所詮レプリカで。正人さんじゃないから。嗤い出したくなる衝動と押さえ込まれたような閉塞感に、思わず握り締めた自分の指先はやけに冷たい。何もかもを締め出したくて真っ暗な視界の中でなお目を閉じた俺に、大きな手がそっとタオルの上から触れた。まるで慰めるように。
「だから。例えばそれがずっと昔のままのお前だったなら、それはまた違うんだろうとも思う」
 落とされた静かなそれを、捕らえ損ねて戸惑う。言葉は聞こえても、意味が理解出来ない。
「初めて会ったあの頃のお前の方が、もっとずっとあいつと近かった」
 何を言っているのか。誰に望まれもしない。そんな俺のどこが。そう思うのに。
「なんて、な。今のお前には、ていのいい説得にしか聞こえない、か」
 切なげにこぼれた声音が揺れて、胸が引き絞られる。
「本当なんだけどな」
 懐かしむようなそれが、けれど諦めに似たため息に消えていく。俺はただぎこちない呼吸のまま、逃げるように意識を飛ばした。

 

 

 

 

 壁面の書架を埋め尽くした挙句の結果なのだろう。埃をかぶった本は無造作に床に直置きされた状態で、斜めになりつつも見事なバランスで積みあがっている。一つ抜き取れば崩れてしまいそうなそれにまるでピサの斜塔だと笑って、けれど何気に見えたその隙間からのぞいていた名前に釘付けになる。
「どうかしたかの」
 不意にかけられた声に無意識にそれへと伸ばしていたらしい手が触れて、目の前の塔は大きな音をたててあっというまに半分以上が崩れ落ちた。
「辻口センセ。気配なく近付くの、やめてくださいよ。びっくりしたじゃないですか」
 足元に散らばったそれらを拾い集めることで俯く自分を隠しながら、取り繕うのに必死になる。
「大体積み上げすぎでしょう、これ」
 喋り続けていなければ。なぜだかそればかりを思って、俺はただ言葉を紡ぐ。
「片付けの基本は捨てること、ってこの間坂上が言ってましたよ。半年以上触ってないものはいらないものってことらしいです」
「さすが宮さんじゃな」
「この埃からいって、十二分に当てはまると思いますけど」
 掴んだ分厚さに安心してそれを叩く。舞い上がるものに大げさに咳き込んで、まだ少しはましな脇机の上に積み重ねた。
「せっかくの美術鑑賞会をサボらせた辻口先生特命事項って、もしかしてこれだとか言われたりします?」
 今頃、静まり返った美術館でレポートを書く一枚を選んでいる最中だろう連中は羨ましくもないが、正直ここにいるより楽だったに違いない。
「モネもシャガールもいっしょくたにすると佐藤先生を嘆かせとるヤツが、一丁前に何が『せっかくの』じゃ。レポートを書かず済むようにしてやったワシに感謝して欲しいぐらいだの」
 俺が積み上げたその上。辻口先生の手で置かれたのはあの表紙で、いっそうその思いを強くする。
「さて。ちと付き合ってもらおうか」
「センセ。俺、一応ついこの前まで体調不良で怪我人だったんですけど?」
 どうということもない調子でかけられた声。けれど右手に巻いたサポーターを振りかざした俺に向けられたのは、それに反して有無を言わさぬ厳しい眼差し。
「まさか否とは言わんじゃろ」
 浮かべようとした笑みは形作ることさえ出来なかった。

 

 

 

 

「ほれ、どうした。もうおしまいか」
 右に左にと足捌きも軽く、次々と技を打ち込まれる。防戦一方で息の上がる俺に容赦はない。
「これじゃ相懸かり稽古にならん。わしは打ち込み台を相手にしとるつもりはないんじゃがの」
 竹刀を握らなくなって一年以上。想像以上に身体が重い。
「よそ事を考えとる余裕があるのか」
 何よりこの板の上で集中できないまま揺らぐばかりの自分を見抜かれ、その隙をつかれる。
「よくもこれで昇段試験が通ったもんじゃ」
 かわそうとした竹刀が払われて大きくしなった。
「つまらんのぉ」
 元々剣道は年齢や対格差が優劣を決めるというものではない。そもそも格が違う。ブランクだってある。それなのに目の前の人はそれを許さない。そんなものが問題なのではないと、その強い眼差しが言っていた。
「お前にとって、剣道はこれっぽっちのもんか」
 静かでいて激しい。静と動、その両面が存在する張り詰めた空気。何もかもを切り離し、真っ白なまま目の前の相手と向き合う。その場所が、そんな時間が好きだった。唯一の支えだった。だけど。
『どうして』
 振り切れない重さで圧し掛かる。
『あのこさえ、いなければ』
 そこに存在すべき人であるように、綺麗に伸びた広い背中をなぞるようにして時間を積み重ねてなお、その場所は俺に現実を思い知らせた。全てに目をつぶり、なんとかあの人と同じ段位を取ったものの、それ以上を積み上げることは出来なかった。俺はあの人になれない。偽りが許されない場所に立つことは限界だった。どんなに言い訳をしてみても、それが事実。
「迷いすぎては何をも掴めん。己から目をそらせるな」
 息苦しい。呼吸するたび見苦しく肩が上下する。終わらせたくて繰り出した面は、難なく躱され逆に胴を打たれた。駄目押しの面抜き胴。膝をついた俺の目の前に下げられた竹刀が見える。
「無念無想。今さらだがの」
 昔、祖父に何度も聞いた。何も念じない。何も思わない。何もとらわれない。自分自身に集中すること。
「剣の道は人の道。猿真似が通用しないことが分かっておるならば、何を為すべきかも分かろうが」
 踏み出した足先が傾ぐのを堪え、一礼する。
「何を為したとしても、それが真実の自分でなければ何の意味がある。意味なく時を過ごしたわけでないなら、そろそろ今の己の姿を映し考えてみればええ」
 顔を上げたそこには、まるで胸の奥を覗き込むような深い眼差しがあった。それは最後に見た正人さんの瞳のようで。なんだか目の前が滲んで、誤魔化すように重い防具をつけたまま荒い音を立ててその場に蹲る俺を、辻口先生は咎めなかった。

 

 

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