「なんだ。こんなところにいたんですか」
 講堂の二階にある小さなバルコニー。騒々しさから逃れ、吐く息も白いその凍りそうな空気に滑り込むようにして息をついたのはついさっき。
「風邪ひきますよ」
 ふわりと背中に感じた重みに続くように燕尾服特有の裾が見えた。
「さすがに誰もいませんね」
 12月24日。毎年この日の夕方から開催される暁祭は生徒全員が正装参加。しかも生徒会役員は代々伝わっているという燕尾服着用が義務付けられている大仰さだ。そしてもちろん目の前で暢気に夜景を眺めているそいつも一体どこの指揮者かと思うようなそれを着ているのだが、口惜しいことに笑えるはずのそれがさらに男前を上げていて難癖をつけてやることも出来ない。
「そうだな。それを楽しんでたんだけど?」
 言外に邪魔だと言ってやる。どうやって抜けてきたのかは知らないが、きっと周囲の連中は突然いなくなった会長を必死に探しているはずだ。真夜中の12時までは残り十分をきっている。セレモニーの終わるその時間、終わりの鐘を鳴らすのは現職の生徒会長。つまり今ここにこうしている東倉の役目。
「いいじゃないですか。せっかく煩いのを撒いてきたんだから、ちょっとは歓迎してくださいよ」
「俺が? そんな無駄な期待してないで、さっさと持ち場に戻れ」
 鐘のある時計塔がランタンのほの暗い明かりに照らされているのが見える。今からではギリギリ間に合うかどうか微妙なところだろう。
「やですよ。せっかく策を弄せず二人になれたのに」
 振り返るなりそいつはそのまま自分でかけた二枚目のコートごと俺を引き寄せた。燕尾服に合わせた上等の多分チェスターフィールドコートもまた借り物に違いないけれど、数時間しか着ていないだろうそれからふわりと香る匂いに鼓動が僅かに跳ねた。
「あれ、抵抗しないんですか」
「何。それ以上何かする気なのか」
 触れられているのはただ、俺を覆うようにかけられたコートのフロント部分のみ。逃れようとすればすぐに解けるほどのそれを、振り払う気にはなれなかった。もちろんそんなことはおくびにも出さないけれど。
「あなた、ホント俺の扱いが上手いよね」
 至近距離。けれどそれ以上は埋まらない先で、ため息をつくように笑うそいつを差し込むやわらかな光が照らす。
「あのな」
「氷見先輩」
 囁くように落ちたそれ。なんて声で呼ぶんだろう。言うべき言葉があったはずなのに、その温もりに溶けてなくなってしまうみたいにそれは消えてしまう。
「サンタクロースっているんですよ」
 前髪を揺らす冷たい風が運んでくる、途切れ途切れのクリスマスソング。
「この一ヶ月、マジで休みなく働いたいいコには、ちゃんとプレゼントをくれるんです」
 ね?
 そう言って俺の目の前で白い手袋を嵌めたままの片手を開くと、その手の平にこぼれ落ちるようにして消えていくのは真っ白な雪。
 けれど。
 見たこともない穏やかな表情でそれを見つめるそいつに、なんだか心許なくなって。俺は思わず燕尾服の裾を掴んでいた。自分でも上手く説明出来ない唐突さは、俺以上にそいつを驚かせたらしい。けれどそれきり口をつぐんだまま身動ぎできなくなった俺のその手を、そいつはただ白い手袋で包んだ。
「防寒着代わり。このぐらいいいでしょ」
 伝わるぬくもり。子供みたいに口元を尖らせて笑ったそいつは、いつもの東倉で。
「なに言ってるんだか」
 とたんに感じるバツの悪さに居心地が悪くなる。それでも今さら無理やり引き抜くなんてことも醜態を晒すみたいで、俺は悪態一つで終わらせることにした。
「役得だなぁ」
「あ、そ」
 本気で喜んでいるらしいそいつをあっさりいなすと、指先を握るその手にほんの少しだけ力が入る。
「ま、いっか。ジンクスは完遂されそうだし」
「ジンクス?」
「暁祭伝統のジンクス。知りません?」
「興味ない」
「あなたらしいですよね。ま、いいです。あなたはそれで」
 苦笑じみた笑い声に重なるように、こいつが鳴らすはずだった鐘が鳴り響いた。
 そいつの肩越しに静かに舞い落ちる雪は、まだ当分止みそうもない。
「もう少しだけ、ここにいてください」
 聞こえるか、聞こえないか。そんな小さな願いを、俺はその雪に気を取られて聞き逃した振りをする。
 もう少し一緒にいるために。
 『暁祭に二人きりで鐘の音を聞き雪を見れば、その相手と幸せになれる』
 そんな低俗なジンクスを俺が知っていることはきっと一生の秘密だ。

 

 

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