おずおずとした喋り方も。
窺うように俺を上目遣いに見る大きな瞳も。
綻ぶように緩む口元も。
何もかもが俺を引き寄せ舞い上がらせる。
ちょっと視線を逸らされたり、
他の誰かの話を楽しそうにする。
ただそれだけで俺の中を苦いものでいっぱいにさせる。
プラスにもマイナスにも、こんなに揺さぶる存在。
大好きって、言われて。
嬉しすぎてどうにかなっちまうと思ったはずなのに。
まだ足りないって言ったら、どんなカオをするんだろう。
なぁ、知ってるか?
あいつと一緒にいるときの方が
すげぇ柔らかいカオして笑ってる。
まだ俺の前で見せてくれないそれが
焼きついたまま離れない。
俺のどこを好きになったの?
どこか自信なさげにお前は言ったけど。
それは、俺の台詞なんだ。
あいつでなく、俺を選んでくれた。
どこがよかった?何が違ってる?
認めるのは悔しいけど。
もろちん、負けるつもりだってもちろんないけど。
多分あいつ、結構いいオトコだぜ?

 

 

 

 

「五回目」
 頬杖をついたまま、バスケ雑誌を見るともなく繰っていた目の前。河合のうんざりした声に、俺は僅かに視線をあげた。
「ため息だよ、ため息。なんでそんなかな。昨日は地に足がついてないんじゃないかってぐらいゴキゲンだったろ」
 そうだ。昨日の日曜日。確かに俺は浮かれていた。夏休み中も補習に部活に合宿で埋められたうえに、体育祭の実行委員まで押し付けられたせいで、スケジュールは満載。せめて叶と同じ高校だったらなら、もうちょっと何とかなったのだろうけど、そんなこと言っても今さらだ。なかなか会えない現状に苛つきながらも、毎晩の電話だけは欠かさなかった。そんな中ようやくこぎつけた叶との久しぶりのデート。浮かれるなというほうが無理な話で。
「もしかして、またか」
「ま、な」
「まぁでも、そんなのいつものことだろ」
「だな」
 そう。今に始まったことじゃないそれに、どうしてこんなにへこんでいるのか。
「じゃなに、その仏頂面は」
 問われて頭の中で繰り返し始めた昨日に、俺はまた視線を戻す。字面ひとつまともに追えていない自分を隠せないことを知りながら。

 

 

 


 久しぶりにゆっくり会えると分かって、どこに行きたいと聞いたとき。どちらかといえばインドア派の叶が言い出したのは、水族館でも映画でもなく、全国区レベルの数チームで行われるという親善試合観戦だった。
 もちろんそれは俺もチェック済みで、一度日程も確認していた。滅多にない機会だし、見てみたいと出場校を調べてもいた。でもそれは叶と会えることが決まるより前の話。
 2人で一緒にいられることの方が、今の俺には一番大事で。逆に言えば、それがどこでも俺にとって大差はない。行き先なんてどこでもいいと思っていた。でもだからこそ行きたいところが同じ、というそれは、自分でもびっくりするほど俺を喜ばせた。以心伝心、みたいな感じがして。

 

 

 


 部活を終えて、はやる気持ちのままついた待ち合わせ場所。
 どこかぎこちなく笑う叶の後に、そいつらはいた。
「いやー偶然、偶然」
 白々しい台詞を吐きながら、べったりと叶に張り付いている暁星バスケ部の連中に、テンションは一気に急降下。ただそれを前面に出すとさらに連中が面白がるのは過去の経験上よく分かってたし、また叶に困ったカオをさせてしまうことは避けたくて、それを必死で押し隠した。
「ホントにな。で、お前ら全員揃ってどこに行くわけ」
 言外に俺たちとは違うだろうけど、と強調したつもりだったのに。
「偶然って続くんだよなー。ね、叶ちゃん」
 馴れ馴れしくも叶の肩を引き寄せて、余裕の笑顔を向ける三村に嫌な予感が増幅する。
「試合観戦でもして新人戦の参考にするかって思ったら、叶ちゃんも行くっていうしさ。せっかくだし、ぜひ一緒に。なぁ、いいよな仁科」
 胸の中で、三村も、もちろん周りにいる奴ら全員2、3発殴り倒した。だけど。
「嫌だっつっても、どうせ付いてくんだろ」
 諦めたふりで、納得したふりをする。
「あの、仁科」
 ごめんと続きそうな気配に、できる限りの笑顔でとりあえず隣をキープして。
「2人きりは、また今度な」
 耳元で落としたそれは、まるで自分に向けている気がして。こぼれそうになるため息を、俺はただ必死に飲み込んだ。

 

 

 


 試合自体はとても盛り上がってたし、レベルの高いそれは観戦していて確かに得るものがあったんだと思う。いや、全然集中出来てなかった俺には、ほんとのトコ分かんないけど。
 最初の方こそ、かなり俺を気にしていた叶だったけど、いざ試合が始まるとバスケはまだまだ素人だから早く一人前になりたいと言っていた通り、かなり真剣にコートを追いかけていた。
 一生懸命な瞳は眩しくて、邪魔をするのははばかられた。それなら、分からない様子が少しでも見えれば説明してやろう。そう思っていた。けれどその先からその役目すら三村に奪われっぱなしで。そうなると俺はもう大人しくコートに目を向けるしか出来なくなってしまった。当然、というかやっぱりというか、本当に見るだけだったけど。
 気付けばなんだか俺の方が完全に部外者だなと、どこか冷静に思う。部活帰り。少しでも一緒にいたくて、着替える間も惜しい。そう思って制服でもいいよなと言ったのは俺なのに。
 暁星の制服とは違う。ただそれだけで、まるで線引きされている気さえして。滅入る気分をどうにかしたくて、首元を締め付けていた臙脂のネクタイをそっと引き抜いた。

 

 

 


 結局、総当たり戦全てを見たせいで時間は当初の予定よりかなり遅れ、2人になれたのは、タイムリミットも近い空席も目立つ電車の中。
 これがせめて満員電車なら、もっとずっと傍にいられるのに。そんな馬鹿なことを本気で考えたりした。
「仁科、ごめんね。なんか、みんな付いてきちゃって」
 騒がしかった連中と別れてから、もう何度目かの謝罪。面白くないことなんておくびにも出していないつもりだけど、それが伝わっているのだろうかと、ことさら軽い口調をつくる。
「仕方ないって。今回は特にバスケの試合だったしな。興味あるのは分かる」
 絶対に意図的だと思っていてなお寛容なふりで。気にしてないよと繰り返しても、叶の不安そうな表情は振り払えないままだった。見上げる瞳を目の前に、思わず引き寄せたくなるけど、さすがにココじゃそれも無理で。柔らかな髪の感触を探る間もないぐらいに触れたのが精一杯。
「今度はどこにいくかな」
 そう口にしながら、次の約束は当分先に違いないことも知っている。まるで遠距離恋愛みたいだと、思わず吐き出したそれがため息に聞こえないように、身体を伸ばして誤魔化しながら確かに触れたはずの体温をつなぎとめるように手のひらを握り締めた。

 

 

 


 あいつらといる叶を見ると、俺は自分が奪った三年間を思い知る。俺の勇気のなさが生んだ、味気なかったに違いない中学生活。
 告白するまでは、誰も彼も叶に近づくヤツは許せなくて、全部を自分のものにするんだと息巻いていたけれど。いざその片手をとってみれぱ、そのまま全てを自分の腕に閉じ込めてしまうことはかなわなくなった。
 もう片方に繋がるものに俺がいくら苛立っても、その中で笑う叶を見れば、それを取り上げてしまうことは出来ない。
 そう思う端から、それでも好きだと想う気持ちのまま、衝動的にそこから引き剥がし、全部を抱きしめたくなる。
 こんな男じゃなかったつもりなのに。誰より一番格好よくいたい奴の前で、そうなれない自分が歯がゆい。
 手に入れたはずの幸せな奇跡を、どうやって守ればいいのか時々分からなくなる。

 

 

 


 体育祭の実行委員なんて、一年にとっては完全なる雑用係だ。まして、実行委員長がバスケ部の前キャプテンの米原先輩とくれば、その仕事も自然に増えるのも仕方がないのかもしれない。備品の確認や振り分け調整。練習場所の割り当てに、果ては揉め事の仲裁まで。目の前に迫った本番を前に、日曜日だというのに午前中の部活を終えると昼からはこちらに駆り出されて、忙しさも半端ではない。
「仁科、翠緑の半被がクリーニング出来たらしいから取りに行ってくれるか」
「分かりました」
 応援旗とバックホードの内容確認を終え、ようやく本部になっている視聴覚室に戻ってきたところで、またも声がかかる。
「一人じゃ無理だろうから、誰か手のあいてるヤツ連れてっていいぞ」
 助かった。俺は迷うことなく後ろにいた安原の首元を捕まえる。
「行くぞ、ヤス」
「え、オレ今戻ったばっかりで」
「そりゃ俺も同じだっつうの」
 無風のこんな日は、一歩外に出るとさらにまだキツイ日差しが容赦なく体感温度を上げる。
「あっちー」
 恨めしそうな声をあげる安原をそ知らぬふりで放置して、Tシャツの襟元を扇ぎながら手首に見えた時間。
 叶は部活が終わった頃だ。年の離れた兄貴が帰国しているらしく、空き時間は連れまわされているのだと昨日の電話で言っていた。
 家族写真を財布にいれているぐらいだ。仲がいいのは当然。だからだろうか、叶はいつもより饒舌で。その声もいつもより弾んで聞こえて。
「楽しそうだな」
 そう、気付いたら口にしていた。抑揚のなさが、驚くほど冷たく響いた。
「仁科?」
 途切れた言葉が作り出したわずかな空白の後、心細げに呼びかけられたそれに、自分自身に舌打ちしたくなるぐらいに。
「あ、いや、ホントいいなぁと思ってさ。俺はもうこの最近、空き時間なんてモン自体がないから」
 何もかも、叶にとって楽しいことを喜んでやりたいと思うのに、そうさせている存在に嫉妬でがんじがらめになりそうな自分を抑えきれなくなりそうで、俺は慌てていつもより短く電話を切り上げたのだ。何か言いたげな叶に気付きながら。
 もっとうまくやれると思ってた。好きだと応えてくれた叶に、与えられるものは全部やりたくて。物分りのいい男のふりをして。だけど。
「会いてぇなぁ」
 あのやわらかな唇に触れたのはいつだったか。
 会って、抱きしめて、確認したい。
 今だってちゃんと俺のだって。

 

 

 


「半被30着。確認してくださいね」
 エアコンの効いた店内。体育祭シーズンだからだろう。学生服やジャージ姿で店内はそこそこ混んでいた。そんな中、安原は飛び込んだ直後からずっとエアコンの吹き出し口前でうっとりしている。帰りの荷物分担はヤツが七割だと数え始めたとき、安原の携帯が鳴り出した。
「げっ!根岸先輩だ」
「おい、外に出て取れよ」
「せっかく涼んでたのに」
 文句を言いながらも、安原が渋々自動ドアをくぐるのを見るともなく視線を向けた先。進学校で有名な東亜の制服が目の端に映った。
「よお、仁科じゃん」
「……山岡」
 入れ替わるように現れたそれが見知った顔だったことに気付いたとたんに、追い出したはずの安原を引き戻したくなる。
「なに、こんなトコで」
 日曜だというのにしっかり有名進学校の制服を着込んでいるあたりが、らしいといえばらしい。
「あぁ、港南も体育祭なんだ」
 そこに見えるあからさまな優越感に、半ばうんざりしながらただ軽く頷いてやり過ごす。同じ中学だっただけで、そんなに接点はなかったはずの山岡だが、対抗心を一方的に燃やされているらしく、なにかにつけて絡まれて辟易していた。俺が親しくしていた後輩達にまでそれは及んでいて、高校進学時に別れてせいせいしていたのだが、こんなところで会うなんてついてない。
「東亜はさ、ほら、勉強重視だから。結構地味らしいけど、仕方ないよな」
「そうか。大変だな」
 話をするだけで一向にカウンターには進まないところを見ると、別にここに用事があったわけではなく、どうやら俺に気付いて入ってきただけらしい。迷惑なヤツだ。
「ねぇ、ノリくん。この人だぁれ」
「お、おい。明日香」
 べったり張り付くように腕を絡ませていたはずの彼女は、あっさりとそこからすり抜け甘ったるい声と視線を向けてくる。かなり自分の容姿に自信があるらしいが、全くもって興味のひとかけらもない俺は、それをかわして手元の荷物を持ち上げた。
「悪いけど、ちょっと急ぐんで」
 社交辞令にでも『また』とは言えない。開いた自動ドア。戻ってくる安原に気付いて、予定通り七割分の箱を押し付ける。
「あ、ねぇ」
「そうだ、仁科。この間見たぜ。何だよ、あれ」
 追いかけてくる舌足らずな声を阻むように届いたそれは、酷く嫌なものを含ませていて。まともに取り合うつもりもなく振り返りもしなかったけれど。
「一緒に歩いてたの、本山だろ。お前、あんなのと歩くほど相手に不自由してんの?」
 その言い様に手の中の箱を放り投げ、自慢のインテリの象徴だろう眼鏡ごとぶっ飛ばしたくなった。だけど。押し潰してしまいそうになる箱を手にしたまま、軋む奥歯でそれを堪える。
「なぁ」
「それ、誰?」
 飛び出してしまいそうな感情を踵で踏みつけながら、平然さを装う。
「え、誰って、俺は確かに」
 本当に見たのだろう。だけど、それをここで言うつもりはない。俺はとっておきの作り笑顔をヤツの彼女らしいソレに向けた。
「じゃあね」
 面白いほどあっけなく俺に興味を移すのが分かる、お手軽なオンナ。お似合いだよ、ホント。せいぜい揉めやがれ。
 不審気に視線をよこす安原を追い越して、俺は怒りにまかせて速度を上げた。

 

 

 


 あんなヤツに、叶の名前を呼ばれるだけでむかつく。怒りはいまだ治まらない。ただ、俺があの時衝動のまま動けば、あいつは間違いなく叶に近付いたに違いない。興味と好奇心。そんなモンで軽々しく近付いて、傷付けたに違いなくて。だから。だけど。
『それ、誰』
 そんな台詞しか思い付かなかった。もう二度と繰り返したくないと思っていた中学の頃を再現させられた気がした。守りたいと思って吐き出したはずの言葉が、胸の中で痛む。
 あいつだけのせいじゃない。本当は分かっていた。あいつに、あんなことを言わせたのは、俺。過去の自分が招いたそれに、ただ歯噛みするしかなかった。

 

 

 


会いたい。そういつも思っていて。
会えなくて。その分だけ声が聞きたくて。
どこか遠慮がちで、進まない会話でも
こぼれる小さな笑い声が嬉しくて。
いまだに名前を呼んでくれなくても
聞き慣れたはずの苗字が、他の誰とも違うイントネーションに聞こえて。
特別を感じさせてくれる時間。
大事な、大切な。
だけど。
「そう、ですか。分かりました。では失礼します」
 脱力感というよりは虚無感に近い。携帯を握り締めたまま、ベッドヘッドに背中を預けたまま座り込む。
 最初は、偶然だと思おうとしていた。だけど。
 俺の携帯ナンバーを叶に教えたとき、叶は携帯自体を持っていなくて。家電にかける不自由さも気にならないぐらい話せるのが嬉しかったから、もっぱらかけていたのは俺の方だった。そしてそれは決めていたわけではないけれど、いつのまにか22時が定時になっていて。だからその内その時間にかけると、必ず叶が取ってくれていた。
『もしもし、仁科?』
 耳元をくすぐる、いつだって俺をドキドキさせたその声を聞かなくなってもう一週間になる。
「外出に風呂、もう寝た、それに今日はまだ戻ってきてません、か」
 ローテーションのように日替わりで告げられる理由。聞いたことのない声音は、どこか叶に似ていて。その分だけそれに混ざる冷ややかさが気持ちを重くさせた。
 避けられているのでなければ、いくら電話の苦手な叶でも折り返してきてはくれるだろう。だけど一度もそれはなくて。さすがの俺も居留守だと気付かされないわけがない。
「なに考えてる? いま」
 ついこの間まで、そばにいたと思っていたのに。
「今でもちゃんと、俺の、だよな」
 縋るように握り締めた携帯は、その日もやはり一度も鳴ることはなかった。

 

 

 


 個人メニューを戻ってこなすことを条件に部活を抜け出した俺は、暁星の正門前でただ一人を待っていた。制服のせいもあるのだろう。向けられる不躾な視線は居心地のいいものではないけれど、それでもここを動く気にはならなかった。
 会って、きちんと話がしたかった。どうして電話に出ないのか、理由を知りたかった。もう少し待つという選択も昨日までは確かにあったのだけれど、結局は我慢のきかないコドモだったということなのかもしれない。
 ただ会いたいと、そう思った。
「お前、港南の仁科だろ」
 見知らぬ声に、だけど視線を向ける。案の定というか、当然というか。何度か叶の傍らにいるのを見かけたことがあるカオだった。
「今さらここに何の用だよ」
 それでもいつもとは違う、どこかピリピリしたものを感じて僅かに眉をひそめる。邪魔もされたし、色々口出しもされてきたけれど、こうも敵愾心をあらわにされたのは初めてで。
「どういう意味だ」
 分からない。そう口にする代わりに問いかけたそれに、そいつはただ俺を睨付けた。埒が明かないと、もう一度それを繰り返そうとした。そのとき。
「井関、そんなトコでなにやって……」
 こみ上げた感情を飲み込む。
「に、しな」
 驚き、ではない。どこか硬い、拒むようなそれ。そんな声が聞きたかったわけじゃない。
「叶ちゃん」
 俺じゃない手に引き寄せられた肩。強張ったままの叶を、まるで宥めるようにその柔らかい髪を撫でる三村。
 そんな2人を見たかったわけじゃない。
「仁科。お前、部活あんだろ? こんなトコで何してんの」
 いつものようにふざけた口調で聞かれても、俺はただ三村に守られるように俯いてしまった叶から目が放せない。
「駄目だぜ、サボリは。まぁどっちにしても次はうちが勝つけどな」
 なぁ、なんで俺を見ない? なぁ、なんで。
「うちには勝利の女神がいるからさ」
 それが誰のことを指しているのかは、すぐに分かる。でも何が言いたいのかが分からない。
「かな……」
 みっともなくも掠れた声は、まるで庇うように前に出た三村にかき消えた。
「あれ、お前知らないよな? うちの叶ちゃん」
 切りつけるような一言に、反論しかけて。
「誰、それって、言ったんだもんなぁ」
 冷やりとした声が、あの日を思い出させた。

 

 

 


 例えば中学の頃を知る連中なら、俺の台詞をまともに受け取ったろうか。
 考えるまでもない。目の前のこいつらと同じ。簡単に信じてしまっただろう。何もかも知っていた河合以外は。そう考えれば自業自得かとも思う。
 過去からすれば、思われても仕方がない。それだけのことをしていた。そう何度も繰り返すのに。
「そ、か」
 だけど。どうしてだろう。叶にだけは届くと思っていた。口にしたその言葉にある、もう一つの気持ちが。大切に、大事にしてきた。傷つけたくない、そればかり願ってついた嘘が。
 説明をするべきだ。そう思うのに、言葉はひとつもでてこない。
 好きだと何度も繰り返して。その想いを伝えてきたつもりだったけど。それは届いていなかった。
「そうかって、お前なぁ!」
 声を張り上げた三村の後ろで、だからきっと心細い思いをしているんだろう叶に、言わなきゃいけないことは分かっていた。そうすればきっと元通りになることも。だけど。その欠片も形にならない。
「わかった」
 瞳も、声も隠されたまま。
 その手が今掴んでいるのは俺じゃない。
 見つからないのは言葉だけじゃない。
 見失ったのは何だったろう。
 大きな塊が、喉を塞ぐ。 
「ちょ、待てよ!」

 呼び止めるそれは、叶じゃない。
 元通り。元通りって何だろう。
 胸の奥底で何かが震えた。

 

 

 


 スリーポイントシュートがフープを何度くぐり抜けたのか。言い渡された本数が何本だったのかも、どこかうすぼんやりしたままで分からない。
 視界はフープを捉え、身体が覚えているフォームをなぞっても、自分の半分もここにいない気がする。それでもただ、単調に同じことを繰り返していた。
 何度も何度も、浮かぶ拒絶する瞳を打ち消してしまいたくて。
 ポケットに入れたままの携帯を、無意識のうちに何度も撫でた。

 

 

 

 

「仁科、お前携帯切ってるだろ」
 背中ごしかけられた声に、購買での戦利品が手の中で一瞬大きく形を変えた。
「あ? なに? 急ぎだったか」
 あの日。電話をかけることはできなくて。それでも、もしかしてと願わずにはいられなくてただ待っていたけれど。やっぱり携帯は一度も鳴ることはなくて。その事実を認める代わりに電源を落とした。
「悪い。ちょっと調子悪いみたいでさ」
 言い訳めいて聞こえないように、ことさらのんびり続けると、河合はわずかに覗うような眼差しを向けてはきたけれど、週末の練習試合が延期になったことをあっさり口にした。
「そりゃ残念」
「なんだ。ラッキーって言わないんだ」
「は?」
「てっきり本山とデートだって騒ぐと思ったのに」
 不意打ちの、まるで見透かすようなそれに、張り付けていた表情が瞬間剥がれ落ちる。
「パン、つぶれっぞ」
 袋からのぞいていたコロッケパンを、伝言料だと奪い取られるのを黙って見逃してしまう俺に。
「繋がんないと不便でしょうがねぇ。ちゃんと修復しろよ」
 河合が一度だけ振り返って見せた真顔。
「どこまで知ってんだか」
 修理、ではなく修復。その意味に、苦い気持ちのまま、唇を噛む。
 アンテナが何本たってたって繋がらないなら、その意味はないだろ?
 なら、必要ないってことじゃねぇのか。

 

 

 


『それ、誰?』
言ってないなんて嘘はつけない。
裏切られたと思われても仕方がない。
だけど。
例え疑っても、不安をそのまま見せて欲しかった。せめて直接聞いて、問いかけて欲しかった。他の誰でもない、俺自身に。
けれど、叶はそうしなかった。俺の気持ちを確認するよりも、別の誰かの背中に隠れることを選んだ。そんなことに、今さら傷ついている。
そこにいるのは俺じゃなくてもいいんじゃないか。
今まで奥底に沈めてきた不安は、胸にとどまったまま消えそうにない。
「なぁ。俺の腕は、もういらないか」
気持ちは、変わる。
僅かなすれ違いでも、あっという間に届かなくなる。
まして。いつも隣にいるのは俺じゃない。
そいつの背中に守られるようにいるんだろう。
今も、きっと。
「その腕のほうが安心できるか」
一度は俺を選んでくれたはずだけど
だけどいつもどこかぎこちなかった。
大事にしてきたつもりだったけど
たった一言で、どうにかなっちまうほど脆かった。
「なぁ、叶」
一歩も進めない。
確かめる勇気もない。
奪い返しにもいけない。
「俺、ホント、格好悪ぃ」
ただ叶が、俺を見なかったというそれだけで。
虚勢すら張れない情けない自分がそこにいた。

 

 

 


 日曜日の夕方。部活帰りに本屋へ付き合えといわれ頷いたのは俺だけど。
「なにもわざわざここまで来なくても」
 通学途中にある本屋を素通りした河合がそのまま駅へ向かっても、まさかここだとは思わなかった。
「取り寄せするのに、ここが一番親切なんだよ」
 普段から専門書の購入度合いの高さを知っている俺としては、至極もっともな理由を付けられるとそれ以上は言えなくて。自動ドアの向こうへ消えた河合をそのままに、見覚えのあるその位置であのときと同じように立ち止まる。
 もう一度はじめから。そう思って入った港南に叶はいなくて。途切れた糸をどうやって繋ごうかと焦っていたとき。ここで、ガラス越しに叶を見つけたのだ。
 嬉しくて、だけどメチャメチャ緊張して。全然会話にならないことさえ分かってて近付いたけど、どうしたって戸惑わせるばかりで。踏み込めない距離を、だから一息で埋めてしまったヤツの存在に、目の前でその表情を和ませ笑顔になった現実は重く圧し掛かった。
 呼べない名前を口にして眼差しで煽られても、苛立つばかりで対抗する術がない自分が口惜しくて背中を向けた。そんな俺に。
 覚えてる。追いかけてきてすぐに伏せられた瞳も、差し出された紙袋に伸ばした先一瞬触れたその指も。近付きたい。誰よりもそばにいたい。そう強く願った、あのときを。
 重苦しい何かを吐き出すように、俺は大きく息をついて、そのまま自動ドアを潜り抜けた。

 

 

 


 店内奥のカウンターで話し込んでいる河合の右手には『サイエンスマガジン』の文字が見える。付録に風力発電キットや万華鏡がついていたりするそれは河合のお気に入りだ。作ったものを自慢げに見せられて初めてそんな雑誌があることを俺は知ったのだけど。長引きそうな気配に、雑誌の置いてある窓側へと移る。
 目的もないまま、ただ手近にあった漫画雑誌を掴んだもののページは一向に進まない。部活も、実行委員も、引き受けられるものは何でも詰め込んで、忙しさの中に自分を無理やり置いた。そうしていれば何も考えずにいられたから、こんなふうに手持ち無沙汰なのは久しぶりで。気付けばついポケットを探って、目当てのものは自宅の机にしまい込んだままなことを思い出す。
 繋がらないことに気付いただろうか。それとも。
 結局、開いたページから一枚もめくることなく棚に戻そうとして。俺はその雑誌を取り落とした。
 日曜日だから、いくらここが暁星のテリトリーでも出会わないだろう。そう高を括っていたのかもしれない。
 ガラス越しに見えた、通り過ぎていく叶と三村。いま目の前に写るものが事実。それでも認めたくなかった。
 そこにある笑顔を、見たくはなかった。

 

 

 


その笑顔も、眼差しも、手のひらも
もう俺のものじゃないのかもしれない。
俺を好きだと言ってくれたお前は
もうそこにいないのかもしれない。
足元に落ちた雑誌を拾い上げ埃を払いながら、俺はただ嗤った。
今さら、だ。
始まったときから、もうずっと
あいつとの距離のほうが近かった。
ただ見ない振りをしてきただけで。
「よぉ、仁科」
 よく響く低音に、瞬間全身が強張った。ガラスに映りこんだ歪んだ表情。その後ろに見えるのは。
「久しぶり」
 戻しかけた雑誌を奪って笑う、三村と同じ、間違いなく叶に近いところにいる東倉さんその人だった。
「お久しぶりです」
 握りこんだ手のひらに爪をたて、今にもぐらつきそうになる自分を引き戻す。
「最近はずいぶん忙しいみたいだな」
 そこに含むものを感じてしまうのは、気のせいじゃないだろうけど。今はそれに応えるだけの余力がない。
「ただの使いっぱしりなんですけどね。それ、買うんですか?」
「俺が買うのはこっち。それに、お前さっきコレ落としただろ」
 ラックに雑誌を差し込むと、脇に挟んでいた赤本で頭を軽くはたかれる。この人は、どこから見ていたのか。
「いかんなー。立ち読みするにしても丁寧に扱えよ」
「ですね」
 だけどこの人は、けしてそれに触れない。もしも、この人が俺だったら。もっと強くいられるのだろうか。誰のそばにいても、その手を当たり前のように捕まえるのだろうか。誰といるときより笑顔にしてしまうのだろうか。
「すみません。友人を待たせているので」
 この人だったら、なんて無意味だ。俺は俺以外にはなれない。どうしたって、過去も変えられない。崩れそうになる表情を取り繕っていられるにもそろそろ限界で、俺はわざとらしく腕時計に視線をやって、打ち切るように頭を下げた。
「仁科」
 そんな強引さに気付かない人ではない。俺は一度だけ呼び止められた。ひどく静かな声で。
「目に見えるものが、全部じゃねぇぞ」
 優しいバラードに変わった有線のせいで、それはきちんと届いた。思わず振り返った俺に見えたのはその人の背中だけだったけれど。

 

 

 


 東倉さんが何を言いたかったのか。本当のところ、よくは分からなかった。あんな笑顔を見せられてしまえば、それが全てだと思う。それがどんなに痛い現実でも。
「手、離してやんなきゃ、な」
 久しぶりに電源を入れる携帯。電話帳の一番上にあるその名前。
 今日、体育祭が終わったら。
「あ、こんなとこにいた。仁科、本部テント集合だって」
「おう、サンキュ」
 もう一度だけ、かけて。消してしまおう。何もかも全部、消してしまおう。

 

 

 


 前半は、遊び要素の高い種目が多いせいでどこかのんびりもしていたが、後半は得点の高い応援合戦やリレーに主軸が移るので、空気は過熱気味だ。本部席にもそれは飛び火しているようで、慌しさを増している。
「仁科! 部活対抗で使う卓球のラケットが足らないんだ。部室にあるらしいから取ってきてくれ!」
「分かりました」
 部活対抗リレーでは、通常のバトン代わりに卓球ラケットを使うことになっていた。借り物を含め、小道具は昨日手分けして数を確認したことは頭をかすめたが、今そんなことを言っても始まらない。
 グラウンドの歓声も遠い、体育館脇の部室棟。渡された重い鍵束の中に、目当てのものはなく舌打ちする。
「マジかよ」
 押している時間を考えると文句を言う暇もない。事務室に取って返そうと振り向いた俺は時間も、状況も忘れ、そのまま動けなくなった。
 ここにいるはずがない、いるわけがない。そう繰り返して。
 何かを躊躇うように僅かに開いた唇。落ち着かないように握ったり開いたりしている手のひら。でも、その瞳だけは逸らされることはない。
「……な、え」
 喉に張りついたような擦れたそれに、その表情が歪む。だけど、足も手も動かない。近付くことができない。
「仁科」
 立ちすくむ俺の肩が不意に掴まれて、だけど視線は目の前から外せない。
「鍵束だけ持っていっとくから」
「え、あ、河合」
「後はもういいって、米原先輩からの伝言」
 そう言われて、でもわけがわからない。
「時間、そんなにはねーぞ」
 混乱する頭で分かるのはただ、目の前に叶がいるというただそれだけ。
 会いに来てくれた。それがどういう理由でも。それなら、応えなきゃいけない。叶の知ってる仁科らしく。俺はそっと息をついた。
「暁星は、平常授業じゃねぇの? サボタージュとは、意外に大胆なところもあったのな。知らなかった」
 広がる青空を見ながら、からかうように口にしたはずのそれが重く聞こえる。
「そんなことしなくても、会いに行くつもりだったんだけど」
 顔を見れば、何も言えなくなりそうで。
「分かってたのに、諦め悪くて。先延ばしにしてた」
 乱れそうな声音を、この息苦しさを、必死でなだめる。
「ごめんな」
 抱きしめたくなる衝動に、負けるわけにはいかないと唇を噛んだ。
「ごめん、ってなに?」
 ぽつり、呟くように落ちた。まるで嗤っているようなそれ。
「それ、どういう意味?」
 だけど。
「知らないって、言ったこと? それとも、なにも言い訳してくれなかったこと?」
 不安定に響く声に、揺らぐ。
「でなきゃ、もう、いらないってこと?」
「ちが……」
 弾かれたように追いかけた、その瞳は濡れていた。それでもただ真っ直ぐに、俺を捉えていた。

 

 

 


「泣かせたの、俺なのかな」
 なんで泣くの? 俺なんて、もういらないんじゃないの?
「でも、慰めるのは、俺じゃなくてもいいんじゃねぇの」
 俺がいなくたって、あいつがいるだろ?
「三村が、いるじゃん」
「それ。ど、いう、こと?」
「三村がいれば、俺なんかいらないだろ」
 言いたくなかったそれを口にして、僅かに目を逸らせた。その瞬間。
 乾いた音と、左頬に感じた僅かな熱。痛みよりも驚きが勝るようなそれに、叶は目の前で呆然と右手を見つめていた。
「三村? なんで?」
 打たれた左頬なんかより、そのまま顔を覆って崩れ落ちるように座り込んだ目の前の姿の方が痛む。
「なん、で? ど、して」
 しゃくりあげるように言い募る、その身体を抱きしめたくてたまらなくなる。
「俺といるより、楽なんだろ?」
 だから、言いたくなかった本音を晒した。
「ずっと、思ってた。あいつといるときの方が、どこか安心して笑ってて。だから」
「違うって、言っても、信じないんだ?」
 くぐもって聞こえるそれに、返す言葉は見つからない。
「仁科、俺の気持ち、信じてなかったんだ」
 だけど責めるようなそれに、何かが爆ぜた。
「信じてないのは俺じゃないだろ?!」
 あいつの背中に守られて、俺がいなくたってあいつの隣で笑えるくせに。
「暁星のお節介な連中が、事情も知らないでご注進したまんまを信じたんだろ? 俺を問い質しもせずに、三村の背中に逃げこんだんだろ!」
 苛立つまま投げつけた言葉に、息が上がって。
「いらねぇじゃん、俺なんか」
 飲み込む前、隠し続けた本音がこぼれた。わかっても、叶の口からは聞きたくなくて先回りした。
「違う、よ?」
 そんな俺に届く、小さな声。
「逃げたのは、そういう、じゃなくて」
 気持ちをたどるような、俺の好きな優しい声。
「怖かった。電話くれるたび、聞きたくて、でも聞きたくなかった。仁科の言葉は信じたいと思っても、俺、自分には自信ないから。いつまで好きでいてくれるんだろうって考え始めたら、もう駄目になって」
 細い、華奢な肩が何度もあえぐように揺れる。
「三村は! 三村は友達だから! だから何がどうなったって友達だけど! だけど、仁科は違う。嫌われたくない、とか。つまんないって思われたりしないか、とか。俺だって、色々、考えてて」
 思いがけないそれに。
「どんなカオしてるかなんて、も、わかんないし」
 震えているその身体に。
「会うと、みんなついて来て、でも、仁科は全然平気そうで。も、2人でいたい、とか思ってんのは、俺だけなのかな、とか」
 胸を掴まれた。
 好きで、好きで、好きで。
 嫌われるのが怖くて。
 感情を押し隠してオトナなふりをした俺こそ何も見えてなかった。
 今ならわかる。あの時の東倉さんの言葉。
 こんなに不安にさせていた。俺が。
「も、遅い? も、いま、さら」
 駄目? 聞こえたそれに、たまらなくなった。
「ごめん」
 ありったけの想いがとどくように、強く、強く抱きしめる。
「ごめん。ほんとに、俺が悪い」
 言えばよかったのだ。俺も、きちんと伝えればよかった。いいカオしようとして、無理しまくって、挙句肝心な相手を泣かせて。
「平気なふりしてただけで、本当は連中全部にムカついてた。俺のなのに、全部、ひとつ残らず俺のなのにって。けど、そう思うたびに、そんなことしたら、また中学の頃みたいにさせちまうかもとか思うと、なんか」
 背中をぎゅっと握られたまま、なんで? と聞かれる。
「だって、お前」
「俺、楽しかったよ? だってずっと仁科のこと追いかけてたもん。楽しそうな仁科見てると、それだけで俺も楽しかった」
 俺よりずっと弱くて、守ってやらなきゃと思ってた。だけど本当はずっと俺より強いのかもしれない。
「ずっと見てたんだ。仁科より、ずっと長い時間。それは俺、自信あるんだ」
 そう笑った叶の眦から、残っていた雫がこぼれ落ちて、親指でそっと拭う。
「三村に、また殴られるな」
「あ、ごめん。俺」
 胸の中で身じろいだ叶は、そっと俺の左頬に触れる。
「俺のせいだろ? でも、まさか叶に叩かれる日がくるとは思ってなかった」
「だからゴメンって」
「んーじゃ、痛み止めもらっとこう」
 きょとんとしたままの叶から奪った不意打ちのキス。
「に、仁科、ここガッコ」
「誰もいないって」
 照れくさいのか恥ずかしいのか俯く叶に、もう一度そっと顔を近づけたとき。
「タイムアップだっつーの」
 部室棟の向こう側から、見れば河合が顔をのぞかせていた。
「お前なぁ、空気を読め、空気を」
「誰のおかげでこの展開かっつーの。お前、リレー出るんだろーが。もう点呼始まってんだよ」
「お前出ろよ」
 リレーとか、勝敗とか、もうそんなの今この腕の中にいる存在と比べればどうでもいい。ぞんざいにそう言い放ったのだけど。
「俺、見たい」
「叶?」
「こんなこと、もーないよね? 俺、仁科が走るの見たい」
 真っ赤な目で、だけどじっと見つめられればもちろんそれに勝る言葉はないわけで。
 一体どうやったのか、借り物のネクタイ一つで他校生を誤魔化すことなどできるはずもないのだろうが、叶は大騒ぎの本部テントに紛れ込み、俺がゴールテープを切るのを誰より嬉しそうに見ていた。

 

 

 


 俺はやっぱり三村に殴られた。そりゃあもうすごい形相で。だけど、叶に俺の体育祭を教えたのも、話をして来いと言ったのもこいつだと聞いていたので、とりあえず黙って殴られてやった。だけど。
『ムカつくことにな、叶ちゃんはお前の話をしてるときが一番かーいい表情すんだよ』
 そう言わせたので、俺的にはチャラ。痛みわけ、ってとこだ。
「で、またついてくるわけ?」
「お前になんか任せられるかっつーの」
 あの本屋で待ち合わせをしていた俺は、またもついてきた連中にあからさまにため息をついた。駅までの道のりを、だけど叶の隣は譲らない。
「どーすっかな」
「何が?」
 ホームに続く階段前。見上げる叶は、今までとは少しだけ違う表情をしている。どこか甘さの残る、俺にだけ向けるそれに胸が騒ぐ。
「あのな」
「仁科!」
 耳打ちしようとして、かけられたそれに止められる。面倒くさげに振り返ると、そこにいたのは諸悪の根源。なんだよ。またお前か、山岡。
「誰だ、なんて言って、なんだよソレ」
 鬼の首を取った、とでもいうような勢いにうんざりしたまま俺は叶の背中を抱き寄せた。
「行こう」
「やっぱりいるんじゃねぇか、あんなのと」
「あのな」
 考えるより先、振り返っていた。
「お前にわざわざ説明する必要もないけど、一応言っとく。お前の言う『あんな』って代名詞のつくヤツは知らない。ただもし、お前が叶を『あんなの』よばわりしてんなら、いつでも受けてたつぜ」
 言いたかったそれを口にしてしまえば、こんなものかとも思う。例えばこいつが本当に叶を傷付けようとすれば、守るのはきっと俺だけじゃない。手が届かない場所なら、他の手に任せればいい。それだけのこと。
「あ、電車来てる。行くぞ」
 どさくさに紛れて叶の手を引いて、階段を駆け上がる。もちろん連中の足音も離れることはない。
「間に合った、ね」
 乗り込んだ車両。ホームに響く発車の音。息をきらせている叶に、俺は繋いでいた手をさらに引き寄せる。
「え、仁科?」
 俺と叶が降りてしまうのと、ほぼ同時にドアが閉まった。見ればドア越しに、取り残された連中が口々に何かを言っているのは分かる。
「俺だってそうそうやられっぱなしじゃないって」
 満足そうに笑う俺に
「時々コドモみたいだよね、仁科」
 そう言って顔をしかめてみせる叶もまた、そのままこらえ切れずに笑った。
「さて。久しぶりに2人きり。どこに行く?」
 そう。俺はコドモだから、もう我慢なんてしない。

 

 

 


『ひとつ残らず、全部俺にくれる?』
 そう言った俺に、叶はちょっとだけ迷うように瞳を揺らめかせて焦らした後、悪戯を仕掛ける子供のような眼差しで
『仁科が全部くれたらね』
 まぶしいくらいの笑顔でそう、言った。
 だけどそんなの今さらで。
 だから抱きしめて、その唇を塞いだ。
『俺全部で手に入るなら、もう俺のもんだな』
 そう答える代わりに。

ホーム     NOVEL