「ケーゴのバカ、マヌケ、アホ、ボケ……」
 勢いに任せて思いつく限りの悪口雑言を吐き出す。だけどオレの貧相な語彙が尽きるのは早く、それがまた悔しい。
「なんだよ、なんだっつーんだよっ」
 言い足りない分をどこかにぶつけずにはいられなくて、八つ当たりするように転がっていた空き缶を蹴飛ばした、つもりだったのだけれど。
「痛ってぇ……」
 目測を完全に誤った靴先は、見事に地面と衝突。思わず掴んだ足先が滲んで見えるのは、この痛みのせいに決まってる。
「その程度だってか」
 怒っているのはオレの方で、ケーゴは多分鼻も引っ掛けちゃいない。それが情けなくも耐え切れなくて逃げ出すように背中を向けたオレ。ここにいない相手を罵倒してはみても、その隙間にもたげるこの心細さはいったいなんだろう。
「こっちだって、同じだ」
 何でも知っていたはずの、一番近くにいたはずの幼馴染み。でもそれはもう三年も前の話。そう割り切っていたし、関係ないとも思っていたはずだったのに。
「オレだって、別に」
 関係ない。続けようとしたはずのそれは言葉にならないまま、喉につかえてしまう。
「……ケーゴのバカヤロ」
 零れ落ちたそれは、なんだか泣き出す前の子供のようで。あの日の苦い記憶へ戻されてしまう引き金になった。

 

 

 


 お役御免となったランドセルの代わり。真新しい鞄はちょっとオトナな気分にさせてくれるアイテムで、飽きもせず眺めたり、開けたり閉めたりを繰り返していた。壁にかかった真新しい学ランも、気分をさらに高揚させる。ちょっと手足があまるのが癪だけど、もちろんでかくなって新しく買わせてやるつもりだ。このぐらいで十分だと言ったことを絶対後悔させてやる。誓いも新たに母さんを見たオレは、呆れたように深いため息を送られた。
「克己、聞いてなかったでしょ」
 分かっているならわざわざ確認しなくても。笑って誤魔化そうとしたオレに、わざとらしいため息がもう一度落とされる。
「こんなのでこの先大丈夫なのかしらね。圭悟くんがいるから、安心してたのに」
「え?」
 手の中にあったはずの鞄が、滑り落ちる。床を叩いたはずのそれが、まるで胸の中に落ちた気がした。安心してた? してたって、どうして過去形なのかが分からない。だって同じ中学にいくんだ。これからだって一緒なのに。
「残念だわねぇ、本当に。転勤はつきものだから仕方がないって束村さんは笑ってたけど、引越しも大変よね」
 転勤。引越し。
「まぁ土地柄こっちより朋志君の喘息にはいいだろうって単身赴任はやめたみたいだから、せめて少しでもよくなるといいわねぇ」
 知らない。聞いてない。だけどそれは口に出来なかった。知らないなどと思ってもないその口ぶりに、何を言えるわけもなくただ黙り込む。だけど。
 同じ年に生まれてずっとお隣さんで、どこに行くのも何をするのも一緒だった。もちろんこれからもずっとそうだと無条件に信じていた。ついこの前だってオレの部屋でゲームをしながら、中学の話をたくさんしたのに。なのになんで。どうして?
「ちょっと、克己?」
 家庭の事情ってヤツに子供が抵抗できるわけがない。そんなことでごねたりするほどお子様なんかじゃないつもりだ。だけど。せめてケーゴの口から聞きたかった。人づてにこんな大事なことを聞きたくなかった。機会なんていくらでもあったはずなのに、どうして言ってくれなかったのか。
 はやる気持ちを抑えてインターホンを鳴らしたオレは、だけどそこにもう答えはないのだと知らされた。
「あれ。克己ちゃん、聞いてなかった?兄貴、昨日が入寮日だったんだけど」
 ダンボールが積み上げられた玄関。器用に通り抜けながら出てきた朋志は、埃よけなのかマスクをしたまま、大変なんだよとぼやいてみせて。
「あ、忘れてたんでしょ。克己ちゃん、習慣ってコワイね」
 そう無邪気に笑った。俺が知らないなんて、思いもよらないそれに。
「兄貴、暁星に行くことになってたじゃん。ギリギリまで暢気にしてたけど、こっちが慌てたわりに準備万端でさ。兄貴らしいよね」
 求められる同意に、オレは胸のうちの動揺を押し隠すのに必死で。
「あぁ、ホント。ケーゴらしい」
 なんとか拾い集めたそれは、オレの奥底に散らばるように落ちた。らしい。そう言いながら、それはオレの知ってるケーゴなんだろうかと不意に思う。転勤がなくても、最初から中学は別だったのだ。
『なー、ケーゴ。中学行ったら何か部活やんの?』
『そだな。とりあえず俺は運動部で検討中。克己は?』
『オレ? どーしよっかなぁ。わかんないからケーゴが決めてからにする』
『お前ね』
『いーじゃん。どうせまた一緒にいるんだし』
『ま、な』
 そんな話をしたの何日前だった? 何も知らない。何も聞いていない。あんなにたくさん話をしていたのに、肝心なことは何一つ。
 オレはあいつの何だったんだろう。幼馴染みで親友。そう思っていたのはオレだけだったということなんだろうか。認めたくない現実にオレは打ちのめされた。

 

 

 


 離れていた三年。オレはことさらケーゴのことは考えないようにしてきた。切り捨てられたという事実を受け止めるには、やっぱりオレはまだまだお子様で。だからそこから目を逸らし続けた。別にケーゴだけが友達じゃない。こだわる必要なんてない。切り離したって、たくさんの笑い声の中、ちゃんと中学生活を楽しんだ。
 だけどそのまま続くはずだったそれは、今もうオレの手の中にはない。
「どうしてここにいるんだろうなぁ、オレ」
 何も言わずに離れていったケーゴのそばに、どうして。
「いまさら、だけどさ」
 何の表情もないケーゴが、オレの視線の端に映りこんだとき、不意打ちな分だけまっすぐにそれを捉えた。
 目の奥が熱くなる。そこには何の感情も見えなかった。だけど、だからこそオレから目をそらせるもんかと瞬きさえ惜しんだ。
「ツカ、知ってんの?」
 そう広くもない寮の廊下の端と端。立ち止まったままのオレとケーゴを不審に思ったのだろう。雑音に混じって届いた多分誰よりオレが一番聞きたくて聞けなくて、耳を塞いでいた現実への扉。
 僅かに歪められたように見えた唇は、ためらう様子も見せなかった。まるでオレに聞かせるように。
「ちょっとね」
 向けられたのは背中。知らない、でもなく、幼馴染み、でもなく。友達ですらない。だからこそこれほど端的な言葉はないのかもしれなかった。
 怒りと悲しみがオレの中で通り過ぎてしまうと、可笑しくて仕方がなくなった。もしかしたら。もしかして、また昔みたいにやれるんじゃないかなんて。期待していた甘ちゃんだった自分が、確かにそこにいたことに。
「バカは、オレか」
 名前を知っている、顔を知っている。ただそれだけだというのなら、積み上げていたはずの過去の時間も必要ない。どうしてこうなったのか、そんなことを考える意味もない。
「バイバイ、ケーゴ」
 堪えていた瞬きをしたとたん、こぼれ落ちたものに気付いても。
 オレには幼馴染みなんていない。それでいいんだろ?

 

 

 


「なー、倉茂。いいじゃん」
「そうだよ。星詠み特典とかもあるしさ」
 半年前。降って沸いた親父の海外転勤話について行かないと言い張って、暁星進学と寮生活を引き換え条件にされたとき。駄々をこねただけ翻すことができなかったオレだけど。たった一ヶ月に満たない間で、やっぱり潔くついていけばよかったと、半ばうんざりしながら思う。
「いや、だから。オレには無理だよ」
「倉茂が無理なら、もう他になり手なんていねぇって」
 そこで大きく頷かれても。だいたいなんだよ、その『ホシヨミ』って。勢いでうんと言わせようとしているところがすでに恐ろしい。
「大丈夫だって。にっこり笑ってりゃ終わるんだから」
 へぇ。にっこり笑ってりゃ終わるんだ。ならお前らがやれっつうの。張り付いてるだけになってる笑顔を自覚して、上げた口角を意識した。
「まぁまぁ。そんなに取り囲んで騒いでも、倉茂は何のことだか分んないって」
 割り込んだその声に、瞬間笑顔が剥がれた。伸びた姿勢のせいで、さらに上背が強調されてみえる。それだけでもムカつくってのに、そいつは眉をひそめたオレに気付きながらも満面の笑みで、当然のようにあけられた目の前を陣取った。その余裕ぶりも、強引なところもどこかの誰かを思い出させる。さすがに親友だって言われてるだけあってよく似てる。
「な、倉茂」
 促されて、頷かないわけにはいかないものの、オレはますますそれが何であれ引き受ける気はなくなった。
「とにかくさ、オレには出来ないから。他、あたってよ」
 このままここでヤツのカオを見ていると間違いなく不機嫌さを露呈するに違いない。
 オレはことさら笑顔を強調して、そのまま席を立った。追いかける声全てを、いや、オレが昔いた場所に当たり前のようにいる相良を無視して。

 

 

 


 差し込む夕日に照らされて、夜を映し出した天球儀が不思議な色合いを見せる。オレは何をするでもなく、ただそれをくるくると回していた。
 全く疎いものばかりに囲まれているのだけど、どういうわけだかこうしているだけで穏やかな気分でいられる不思議。単純に寮にいる時間を減らしたくて、流されるように入った場所だったのに。
「倉茂、少しは進んだ?」
 行儀悪く頬杖をついたままだったオレは、慌てて放りっぱなしだった作業を思い出す。
「尚先輩」
 視線の先。机の上には、バラバラのピースが山積みになったまま。月球儀となるはずの代物だけど、いまだに球体の欠片にも見えない。
「まぁ焦る必要もないけど。ただそれは誰の手も借りずっていうのがルールだからね」
 柔らかく笑うと、尚先輩はご自慢の天体望遠鏡を磨き始める。
「そういえば、それ結構新しいですよね。部費でなんとかなるもんなんですか?」
「これ? あぁ、これはね」
「そりゃ津永が身体はってゲットしたもんだぞ」
「え?」
 面白そうな表情で、オレの手元のピースをつまみ上げた人は意味深に片頬を上げた。
「館脇先輩」
「先は長そうだなぁ」
「……大きなお世話です」
 言いながら語尾が弱くなるのは、どうしようもない。あんなところさえ見られなければと思いながら、だけど知られているということにどこか安心している自分も確かにいる。
「館脇、誤解を招くような言い方やめろよな。唯一の新入部員がドン引きしたらどーしてくれる」
「その唯一の人材を引っ張ってきてやったのはオレだから、別にいいんじゃね?」
 な? と促されるように肩を引き寄せられる。
「ちょ、先輩」
「館脇さ、倉茂にちょっかいだしてる暇なんかないんじゃないの? お前、一応テニス部部長でしょ? 可愛い後輩達がコートで待ってるぞ」
 なんでもない台詞に思わず肩が震えたのを、館脇先輩は気付いただろうか。
「なに、津永、妬いてんの? それならそう言ってくれればいいのに」
 宥めるように指先にこめられた力に、意図があったのかどうかわからない。それほどに僅かな間で。
「おめでたいヤツ」
 のんびりした口調で、だけどバッサリと。相手にしていないと言わんばかり、尚先輩はただ愛しそうに手の中のそれを撫でる。
「冷たいわ、尚クンたらやっぱりワタシよりそれが大事なのね。身体で手に入れたくせにっ、っ痛っ!」
 がっしりした身体でしなをつくり大仰に嘆いてみせた人は、そのまま蹲る。
「誤解を招くっての」
 尚先輩、いくら雑誌でも角だと威力倍増です。
「二期連続の星詠みお務めに対する正当な労働報酬、まぁ代価ってヤツ?」
 ホシヨミ。オレはその言葉に引っかかる。そういえば、クラスの連中が騒いでたのも確か。
「倉茂も有力候補だろ、間違いなく」
 そう尚先輩に意味深な顔を向けられて、ようやく素直に聞いてみるつもりになった。
「ていうか。そのホシヨミって何ですか?」
「あぁ、そうか。編入組だったな」
 中高一貫教育を謳っている暁星は、縦の繋がりが深い。オレみたいな何も知らない編入組は珍しいのだ。
「うちの創立祭って、いわゆる部活対抗のスポーツ大会なんだ。その優勝プレゼンターってトコかな。ちなみに星詠みをやると、在籍してる部活への予算アップが約束されてる」
 その結果がこの望遠鏡だということらしい。なるほど、それで労働報酬。
「津永、それじゃ情報不足」
 頭を押さえながら、館脇先輩は口の端で笑った。
「基本、星詠みは一年から選ばれるんだ」
「え、でも」
「そ。なんせ去年の一年が不作でさぁ。仕方なく一昨年の星詠み再びとなったわけよ」
 不作。不作って一体……。
「そりゃお前、せっかくご褒美貰うのに、どうせならカワイイのから欲しいじゃん?」
 あ、ヤバい。と思う間もなくそれは命中した。もちろん館脇先輩の頭上に。
「外野は置いといて。ま、そういうわけで弱小天文部としては星詠み輩出は大歓迎。選ばれればよろしく」
 優しい表情、だけど意外に押しの強いそれに口元が引きつるオレの目の前、星図盤を落とされた館脇先輩が呟いた。
「この天文オタク……」
 もちろん今度こそ殴られる前に、脱兎のごとく逃げ出してしまったけれど。

 

 

 


 クラスメイトや、館脇先輩、しいては経験者だという尚先輩にまで言われて、頭の片隅には残っていたものの他にも一年は大勢いるわけで、まさかと思っていた。だけど。
「で、どうかな。できれば協力して欲しいんだけど」
 呼び出された放課後の生徒会室。見知らぬ上級生達の視線は居心地が悪く、目の前に置かれた紅茶を暢気に口にすることも出来ず。ただ立ち上る湯気を追いかけるふりで逃げ場を求める。
「他にも色々あたってはみたけど、倉茂指名がダントツなんだ。リクエストには出来るだけ応えるのがウチの身上なんで」
 生徒会長だと自己紹介した人が、あからさまに気乗りのしないオレを相手に苦笑いするのが目の端に映った。
「お祭りみたいなもんだし、気楽に受けてもらえればこちらとしてはありがたいんだけど。倉茂は編入組だから馴染むにはちょうどいい機会じゃないかな」
 正直、馴染む気もあまりなくなって久しいオレとしてはどうにかして巧く断れないかそればかりだ。尚先輩にバレれば、館脇先輩みたいに星図盤で殴られるかもしれないけど。
「どう?」
 のぞき込まれるようにして、返事を促される。引き受けるつもりもないのに思わせぶりなことを口にすることは出来ない。
「あの、やっぱりオレには」
「務まらないんじゃないんですか」
 思わず振り仰いだその先。オレの言葉の続きを引き取ったのは、他でもない。
「束村、お前ね、説得する相手を萎えさせてどうすんの」
 どうして今ここにいるのか。突然割り込んだことに取り立ててお咎めもなく、そのままオレの隣に立ったケーゴは笑っていた。
「仁木先輩。編入組の一年が過去星読みを務めたことなんてありませんよ。第一ただのプレゼンターとは違うんですから、もっと人選したほうがよくないですか?」
 真っ直ぐに前を向いて、一度もオレを見ないケーゴ。現状から逃げられそうな空気に、だけどオレはムカついていた。
 庇っているのではないことぐらい分かる。本気でやれないと思っているのだ。オレなんかに出来るわけがないと。
「広江とかどうです?こういうのは中等部から慣れてますよ」
 膝の上、握り締めた手の平の痛みに押されるように、オレは思わず立ち上がった。
「気を遣ってもらって申し訳ないけど、いい機会だと思うのでオレでよければぜひ」
 口走ったそれは、心の中とは正反対。だけど。ここで引くわけにはいかない。ただ強くそう思った。
「ありがとう、束村クン」
 呼んだことのないそれは、どこか空々しく聞こえた。だけどそれにケーゴがどんなカオをしたかなんて知らない。満面の笑顔をつくりながら、オレはケーゴを見なかった。見たくもなかった。冷たい視線に晒されるなんて、もう二度とゴメンだった。

 

 

 


 ドア一枚。それでも意外に分厚いのか、すぐ向こう側にある騒々しさは遠くなる。
「やっと、一人だ」
 校内でも、寮でもなかなか一人にはなれない。途中入寮のせいで二人部屋を一人で使っていなければ、もうとうに耐えられなかったかもしれない。
「オレだけ、か」
 後悔するのは考えるまでもないことだった。それでも、それより意地が勝ったあの時のオレ。だけど。
「やめときゃよかった」
 負かした気分で浮上したのは一瞬。
「バカみてぇ」
 こだわっているのはオレだけ。打ち切ったのはオレからなのに、それきり興味を失ったように誰かと全く違う話をし始めたその背中に思い知らされただけだった。潰れてしまった胸の端、残ったのはただ、底を撫でるざらつく何か。
 打ち消すように身を投げ出したベッドは、その乱暴さに抗議するように軋ませる。それはオレの胸のうちからもれたような気がして、思わず唇を噛んだ。誰に聞かれるわけでもないのに。
「バカ、だ」
 忘れるともう何度繰り返したんだろう。同じところで立ち止まる自分が可笑しくて、悲しい。
 見ない。知らない。そう決めて。だけど不意打ちに横切られると、気付けば追いかけていて。そのたびに何度も突き付けられる。昔はオレのものだったはずの笑顔は、今はオレだけに与えられない。
「なんで、こんなになっちまったのかな」
 でるはずのない答えをまた探りそうになって、オレは目を閉じた。

 

 

 


 星詠み決定は、煩かったオレの周囲をさらに騒がしくさせた。想像以上のそれに、たかが賞状だか目録だかを渡すぐらいでと不思議に思いもしたけれど、暁星独自のお祭りムードの延長かと、うんざりはしたものの大して気にも留めずにいた。
「楽しみだよ。倉茂相手なら、久しぶりに星詠み願い権行使するヤツでてきそうだし」
 そう、相良に声をかけられるまでは。
「俺も頑張っちゃおーかな」
 星詠み願い権って、なんだ? 分からないまま、面白がるように口の端を上げた相良に不安だけが煽られる。それでも。
「そう?」
 もちろんなんでもないふりで、平然と笑っては見せたものの。意外と言わんばかりに目を丸くされても、わざとらしくて胸はすかない。それどころか、当てつけるように引き受けたのは、もしかして暁星入学と同じぐらいの間違いだったんじゃないかと、嫌な予感は増すばかりだった。

 

 

 


 まとわりつく視線も、何かと近付いてこようとする連中も鬱陶しくて。今のオレに逃げ込む先はひとつしかない。
 オレが唯一安心できる場所。天体写真集を捲っている尚先輩の傍で月球儀にいつかなるはずの欠片を手に過ごす時間。同じものの中にいるのに、波打つような気持ちに誘われるまま考えてしまうのはただ一つ。
 星詠み願い権、ってなんだよソレ。
「倉茂、仁木からちゃんと説明されたんだよな?」
「え?」
 突然投げかけられた確認と疑問符が混ざりあったようなそれに、ぼんやりしていたオレは気付くのが遅れた。
「星詠み願い権って何だって、今そう言ったよね」
 気になって、だけど今さら誰にも聞けなくて。どうやら無意識に呟いていたそれは、写真集に夢中だと思っていた人の耳に届いたらしい。
「説明なしに引き受けた、なんてことないよね?」
 星詠みが決まった時、嬉々として新しい接眼レンズを検索した尚先輩はどこにもいない。尖った声音と勢いに呑まれて返事さえ出来ないでいるオレをどう思ったのか、手元の写真集を机に叩きつけた。写真集とはいえ二万円近くするというそれを。
「え、あ、尚先輩」
「仁木のヤツ」
 今にもドアを蹴破る勢いで行ってしまいそうな先輩の背中に、オレは慌てて飛びつく。
「あの! そうじゃなくて。説明されたんです。多分、きっと」
 長々と話をされたのは覚えている。何度か確認するように覗き込まれたことも。だけど何一つ頭に入っていなかった。他のことに気を取られていたせいで。
「オレが、覚えてないだけで」
 自分のことなのに曖昧にしか言えない。ようやく押し出した声は俯いた足元に消え、掴んでいたはずの背中からいつのまにか滑り落ちていた手の平を握りこむ。
 呆れられても仕方がないと身構えたオレに、だけど落ちてきたのは髪の毛をかき混ぜる優しい手のひら。
「星詠み特典は聞いた?」
「あ、それはちゃんと」
 まずは餌付けとばかりに、生徒会室に入るなり説明された。在籍部への予算アップとは別に、学食一ヶ月分のチケット。それから。
「生徒会救済権も?」
「あ、はい。一度だけ、何でも聞いてくれるって」
 意味不明なそれを、だけど引き受ける気もなかったオレはなんでも券みたいなものかと深く考えもしなかったけど。
「それと対になってるんだ。星詠み願い権ってのは」
 対? 対ってどういうこと? ますます分からなくて眉間に皺が寄るオレに、尚先輩は苦笑した。
「創立祭は団体と個人の二種目に分かれてるんだ。星詠みが優勝者へのプレゼンターを務めるのは同じだけど、個人優勝者はその賞品の選択ができる」
「賞品を選べるんですか?」
「そ。規定枠にあるものか、もしくは星詠み願い権かをな」
 選択肢の一つに星詠み願い権があるということは。
「飲み込めたか。言葉通り、星詠みに一つだけ願い事を聞いてもらえるっていう、言わば星詠み自身が賞品ってこと。つまり今回は倉茂、お前ね」
「賞品って言われても、オレにかなえられる願い事って」
 そこが分からない。その不思議に、よどみなく続けられていた声が止まった。尚先輩は散らばったままのピースを摘む。
「あの、な」
「そりゃあるでしょうが。倉茂だからこそお願いするっつーことが」
「またお前か」
 いつの間にそこにいたのか。意味深な表情をした館脇先輩が扉の向こうにいた。
「過去例から言うとダントツ一位は『一日デート権』ってとこだ」
「は?」
 一日、なんていった?
「そりゃ騒ぐだろ? 倉茂、かーいいし」
 いや、だからオレ、男なんですけど。
「いまさらノーは聞ける状態じゃないぜ?」
 言葉もでないオレの代わり、尚先輩は嗜めるように館脇先輩の名前を呼んで、そのままオレを見た。
「大丈夫。あんまり無茶なことを行使しようとしたときのために、生徒会救済権があるんだから」
 それがあってなお、一日デート権はセーフということか。ボーダーラインがどこにあるのか分からないそれに安心していいのかよく分からない救済権だけど、頷くしかない。
 何より今さら駄々をこねてみせるほどにはコドモになれない。ケーゴの横顔が不意に浮かぶ。
「なら、安心かな」
 本気でそんなことお願いするヤツがいるかどうかも分からないし。そう笑ったオレに、館脇先輩の眼差しが真っ直ぐに届いた。
「オレが、勝ってやろうか」
 そんな言葉とともに。

 

 

 


 ピークを過ぎた静かなダイニングルームの隅。オムライスにスプーンを突き立てて、こっそりグリンピースをよりわけながら、ついその手が止まるのは館脇先輩のあの台詞のせいだった。
 全く知らないヤツに優勝されて、わけのわからないお願いをされるより、館脇先輩が勝ってくれた方がいいに決まっている。だけど。
「本気、かなぁ」
 尚先輩までが凝視してたぐらい、面白がってる、というふうでもなくて。だから余計に気になった。
「あ、いた! 倉茂」
 緑の塊を皿の端に追いやり、スプーンの中身を確認して口に入れたとたんのそれに、思い切りむせる。
「悪い、大丈夫か?」
 咳き込むオレの喉元からは、へんな音が鳴るばかりで返事どころか呼吸さえ危うい。慌ててテーブルの上にあるはずのグラスを探りかけたとき、背中が強く叩かれた。
「……も、死ぬかと思った」
 何度か浅く息を吐き出すと、ようやく声が戻ってきた。ほっとして、目の前の水に手を伸ばして元凶の相良が動いていないことに気付く。じゃあ今オレの背中を叩いたのは。
「さすがツカ」
 礼を言うべきかと振り返りかけ、だけどそれきり動けなくなる。すぐ隣、通り過ぎる黒いシャツと色褪せたジーンズ。見えたのはそれだけ。
「気をつけろよ」
 オレ、じゃないんだろうそれに応えるつもりもない。いつもなら近付きもしないくせに、空席だらけの場所で、こんなに近くを通らなくてもいいじゃないかと思う。しかも、そのまま通り過ぎていくと思ったケーゴはすぐそこで立ち止まったまま。
「ツカも今からメシ? ちょっと遅くねぇ?」
「ちょっとな」
「そういやツカも聞いたかよ。創立祭の種目決定したって」
 それでも目の前のヤツが、そう続けたおかげで礼もうやむやに、グラスをそのままにスプーンと持ち替える。無視だ、無視。そう唱えながらオムライスを崩しにかかったのに。
「あぁ、なんか言ってたな。館脇先輩が」
 皿の上で甲高い音がして、グリンピースがテーブルにこぼれる。
『オレが、勝ってやろうか』
 イエスともノーとも口に出来なかったけど、それはひどく揺らがせた。散らばるそれが、まるで自分の胸のうちのように見える。
「団体が綱引き、個人戦は弓道だっけ。個人はアーチェリーにしたかったらしいけど、さすがに無理だろ」
「ていうか、綱引きってどうよ。そりゃ体育祭の定番だけどさぁ」
 もちろん、綱引きがスポーツかどうかなんて、そんなどうでもいいことを話してるヤツに、オレの動揺を気付かれるわけもないけど。
「仁木先輩は名案だって自信満々だったぜ」
 こぼれた緑色を適当に集め、今度こそ黙々と俯いたままスプーンを口に運んでいたオレの向こう側、同じトレイが置かれてまたもその手が止まる。
「確かに、綱引き部なんてないからな」
 軽口をたたいて笑う、それだけでイライラする。避け続けた相手を気にも留めず平然と座ってしまえる無神経さにムカつく。
「お、マサだ。情報公開してくっぜ」
 倉茂、またな。そう言われて、引きつる口元を押し隠して片手を上げて。途端にぶつかる視線に俯いてしまった後で、どうしてオレが逃げなきゃなんないんだろう。そうまた口惜しくなる。
 今すぐこの場を立ち去りたい。だけど小さな塊をつくるグリンピースとは別に、まだゆうに半分以上残っている鮮やかな黄色と赤。オレだって平気だということを示すにはここで席を立つことは出来ない。それだけで、味気のなくなったものをただ口に運び続けた。

 

 

 


 閑散としたこことは違って娯楽室はきっと今頃賑やかなんだろう。おかげで余所余所しい二人の空気を知られることもない。
 結局、目の前に座ってなおオレとケーゴの間にあるのは沈黙だけ。なぜ、と思ったこの現状も、冷静に考えればなんとなく分かった。あのとき、この空席ばかりの状態で、同じ一年同志で離れて座るっていうのもおかしな話だということなのだ。多分。
 スローペースを意識して全ての皿の中身を空にしてしまうと、グラスの中の水を勢いよく飲み干した。
 限界だった。
「お先」
「随分と親しいんだな」
 立ち上がると同時、不意打ちのそれにトレイの中でプラスチックがぶつかり合う。
「ものすごい、やる気になってんだけど」
 他の奴等には惜しげもなく向けられるやわらかさなんてどこにもない。
「館脇先輩」
 ただ単調なだけの声音。見え隠れする棘だらけのそれに向き合う気なんてない。黙って擦り抜けようとして踏み出した足は、トレイの上で倒れたグラスが転がると同時に進めなくなる。
「ちょっ、なに」
 いきなり左腕が痛んで、掴まれていることに気付く。
「離せよ」
 振りほどこうとして、逆にさらに引き寄せられる。
「勝つって、そう言われたか」
 耳元に落ちた低音は、嘲るように聞こえた。
「嬉しかったか」
 わけが分からない。何が言いたいのか。何を言わせたいのか。三年ぶりの会話は、距離だけしか感じない。
「関係ないだろ」
 もう今さらどうしてこうなったかなんて、理由なんかどうでもいい。
「好きなのかよ」
 何だよ、ソレ。嗤いだしそうになる。バカバカしすぎて。
「答える必要、あんの?」
 何もかも知っていると思っていた過去の自分が間違いだったことを知っている。だから今、ケーゴが何を言いたいのかなんて当然分かるわけがない。
「ないだろ」
 掴まれていた腕が僅かに緩んで、ようやく取り戻し握り締めた指先が冷たい。
 一度も表情が追えないまま、全てを振り切ってしまえば夢だったんじゃないかと思えそうなぐらい現実感がない。腕の痛みが熱を生んでいなければそう思えたのに。
「……痛ぇんだよ」
 オレが掴んだのは腕じゃなくて、胸元だった。

 

 

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