「せっかくのかーいいカオが台無し」
 眉間に突きつけられた指先は、払うより前に離された。
「なんだ、相良か」
 日曜日の校内。特別棟奥のベンチなんて誰も来ないと思ってたのに。休日前にまで見たくはない顔がそこに見えて、ただでさえ悪かった機嫌が下降の一途を辿る。
「なんだって、倉茂さ。オレには特に手厳しい気がするんだけど気のせい?」
 否定しないことが答え。分かっていて聞いたのだろうそれに相良は気落ちすることもなく、それどころか何がおかしいのか口元さえ緩ませる。どうせオレが何を言ったって気にもとめない。そのくせオレの微妙な感情をまるで見透かしてるみたいなタイミングで近付いてくるところが、やっぱり嫌いだ。
「難しそうなカオしてるから何かと思えば」
 膝の上、乗っているのは『天文ナビ』年間購読料1万円程度のそれは、尚先輩が快く貸し出してくれる数少ない代物だった。
「何か用?」
 ここにいることの言い訳を手にしていることに内心ほっとしながら、愛想なく告げても目の前のこいつが堪えるはずもない。
「創立祭の個人戦、弓道に決まったじゃん? おかげで俺、出場できないんだよな。部員は出られないって、考えれば当たり前のルールだけどさぁ」
 それどころか、ずうずうしくも空いたスペースに許可もなく座りやがった。
「ま、でも倉茂人気のおかげで個人練習指導の依頼がひきも切らなくて。食券とか授業ノートとか別口でメリットがあるから、泣く泣く諦めたんだよ、俺は」
「あ、そ」
 そりゃお疲れ、ご苦労さま。一体何と言えばここを動いてくれるんだ、こいつは。
「でもさ。みんな結構マジ入ってるぜ? 倉茂、大丈夫かよ」
「別に」
 大丈夫じゃなけりゃ生徒会に頼めばいいんだろ? 例え何かあっても聞くつもりないし。
「お、余裕だねぇ。でもそれってさ」
 開かれていた雑誌が横から伸びてきた手で閉じられる。
「館脇先輩を信用してるっつーこと?」
『勝つって、そう言われたか』
 重なる言葉。約束にも満たないそれを知っているということは館脇先輩自身が漏らしたということなんだろうけど、一体どんなふうに口にしたのか。
「言ってる意味が分かんない」
 大きく息を吐き出して、オレは立ち上がった。こいつが腰を上げないなら、オレが離れればいい。
「俺、この後、館脇先輩から練習見てくれって言われてんの」
「そう」
「多分、こういうの初めてだぜ? 館脇先輩、今まで創立祭に参加したことなかったし」
 それは意外。てっきりこういうのを楽しむタイプだと思っていた。
「オレ、寮に戻るから」
「嬉しそう、ってわけでもないみたいなのな」
 手の中の雑誌の端を引き止めるように握られて、あからさまに大きく息をつく。
「さっきから何?」
「な。倉茂さ、ホントは誰に勝ってほしいの?」
 ちょっと力をいれれば簡単に奪い返せたそれを手の中に取り戻して、そのまま数歩。
「館脇先輩」
 振り返った先、僅かに目を見張ったそれをさらに変えてやりたい。不意にそう思う。
 ついさっき見た二人の姿が胸に重く圧し掛かる自分を振り払うように。
「満足?」
 驚くぐらい冷めた声がこぼれた。

 


 掴まれた腕に、棘ばかりの声音に、
 あの一瞬、心が乱された。
 だけど。
 それはやっぱりオレだけ、だったな。

 


『あれ、ツカ。なにしてんの』
 だらしなくベンチに寝そべっていたはずのオレは、その名前に思わずその身を縮めた。声はそう近くはないというのに。
『DVD、返却日今日までだったんだよ』
『え?視聴覚室借りて見たのかよ』
『映画館、とまでいかないけどよかったぜ』
 覚えめでたき優等生。AVかと騒ぐ連中に去年封切られたはずのタイトルを読み上げるその声は笑っている。
『お、こんなとこにいたよ。ツカ、正門前で広江待ってたぞ』
『あ。やべぇ、時間過ぎてる』
『え、何。どこ行くんだよ。しかも広江とだ?』
『二人きりはいかんな。ここはひとつ俺が』
『ばーか。邪魔されてたまるか』
 駆け出す足音は軽やかで、連なるように騒々しさも消えてしまう。あっけなく戻ってきた元の静けさに、だけどオレはその身を起こして特別棟に足を向けた。
 どうしてなんだろう。
 何を確認するつもりだったんだろう。
 特別棟の2階。廊下の端。
 突き当たりの窓から、覗いた正門。
 あの調子で騒いでいるんだろう。何度か後ろを振り返り、見せ付けるように肩を引き寄せるケーゴの隣。
 広江って名前、どこかで聞いたことがあるってさっきからずっと考えてたけど、見て分かった。
 ケーゴ、お前が最初に星詠みに推してたヤツだよな。
 遠めだったけど、素直さがこぼれるような笑顔に目が離せない。まるでふわふわの綿菓子みたいな、それ。
 自虐的だな、と思う。
 オレはもう、あんなふうに笑えない。
 不意に近付かれて、一方的に詰られて。
 怒りより、平静でいられないほど波打つ胸の痛みを抱えた。
 そんなもの、お前にとって何の意味もないのに。
 バカみたいだな。振り回されてばかりいる。
 だけど。それならあの瞬間、オレに向けられた感情は一体なんだったんだろう。
 ホントにお前のことが分からない。
 あの日から、もうずっと分からないままだ。
 だけど。そんなオレにもたった一つだけ、今度こそ分かったことがある。
 ケーゴ。
 今のお前に、オレはいらないんだってこと。
 お前の隣はもう、オレじゃないヤツで埋められているってこと。
 三年かかってなお、隣を探してしまうクセの抜けないオレとは違うって、こと。
 親しげに並ぶ二人が見えなくなっても、オレはそこから目を逸らさなかった。
 もう二度と、勘違いしないように。
『倉茂さ、ホントは誰に勝ってほしいの?』
 どうだっていい。誰だっていい。
 本当はもう。

 

 

 

 
 完成された月球儀を横目に、拡げたピースの欠片からその形を追う。選んで、はめ込む。それがなかなか進まない。これだと思ったピースが上手くはまらなくて、無理やり押し込もうとするオレの指先から、それは抜き取られた。
「津永は?」
「今日は、まだ」
 両手がオレを覆うように両側につかれる。
「館脇先輩、邪魔したら尚先輩に言いつけますよ」
「そんな可愛くないクチをきくのはどのクチだ、こら」
 背中に乗せられた体温。左頬を軽く摘まれて、その手の温もりにふっと何かが緩む。
「ほらみろ。ココが微妙に形が違ってるんだよ」
 お前、短気は損気だぞ、なんてまるで親父みたいな台詞に笑うつもりが、なぜだか目の前が滲む。
「意地になって無理に押し込んだってはまんないだろ、って……倉茂?」
 似ているけど違う。そんなはまらないピースが、オレみたいだと不意に思ったらどうにも堪え切れなくなった。それは多分、この人の前だから。
「しょうがねぇなぁ」
 背中から、緩く抱きしめられる。優しい腕。
「同じだな、あの時と」
 凍えてしまった何かを温めるだけの静かな抱擁に、しゃくりあげるようなそれが止められなくなる。
「たまにはまともな状態で口説かせてくれ」
 冗談の中に混じる慰めに、虚勢ははれない。もう今はすがりつきたい。
「プラネタリウム、また行くか」
 入寮日。ケーゴの真意に触れて、不安定に揺れる気持ちのままふらふら歩いていたときこの腕に引き止められた。確認されたのは暁星の新入生だということぐらいで、それきり何も聞かず、温もりを分けるようにその胸を貸してくれた。その手を引かれるまま連れて行かれたのが、人もまばらなプラネタリウム。暗闇に安堵して、その次に散りばめられた光が、癒すように届いた。
「決めた。やっぱりマジで、勝ってやるよ」
 この人の腕の中と同じくらいに。

 

 

 


 何かが足りなくて、何かが大きすぎて。多分オレはそれに気付かなくて。見逃している間にすれ違ってしまったのだ。
 もいちど、なんて望めないほど。

 

 

 


「創立祭団体戦優勝は創部史上初の囲碁部!」
 そのコールに堪えるように、軍手が高々と挙がり何事かを叫ぶ声、また声。体力とは縁遠い文化部に軍配があがり、横に座る仁木先輩は過去に例のないその結果が生んだ異様な盛り上がりにひどく満足気だった。どうやら綱引きという種目は、力だけで勝てるものではないらしい。
「個人戦は予定通り午後一時半から行います。エントリー予定者は二十分前までに射場前に集合。以上、解散してください」
 促すアナウンスに、冷めない熱気とともにざわめく集合体は移動し始める。
「倉茂は俺と一緒にメシな。弁当、用意してるから」
 創立祭当日、星詠みは一人で行動できない決まりらしい。朝いちの寮までの迎えにも驚いたけど、どこに行くにも徹底して生徒会の誰かが張り付くというガード振りには驚きを通り越して半ば呆れていた。
 星詠みから特定の人物への励ましも、もちろんその逆も駄目だということで生徒会の人としか口をきけないなんて、一体どんな行事なんだか。胸の中でひとつため息を落とし、立ち上がったはずのオレはだけどすぐにそのまま動けなくなる。
「仁木先輩」
 ふんわりと笑うそいつに、重なる記憶。確か、そう。綿菓子みたいだと、そう思ったんだ。
「どした、広江」
 震えたのは身体だけじゃない。張り付けていた表情が強張っていくのを自分でも感じていた。
「出場者変更ってまだ受付できますよね?」
「変更? 間に合うけど、今頃? 誰か怪我でもしたか」
 エントリー名簿のファイルを確認する仁木先輩の隣、オレはゆっくりとその声に背中を向ける。
「僕です。昨日の練習中すでに怪しかったんですけど。やっぱりちょっと無理みたいで」
「おいおい、大会前だぞ。大丈夫なんだろうな? 責任とれったって無理なんだから大事にしてくれよ。で、代わりは剣道部の誰だ」
「それがうちの部で出場できるレベルの人が他にいないので、権利譲渡でお願いします」
 印象通りのやわらかな声。誰にでも可愛がられているんだろうと容易に想像がついた。
「部長協議は終了してるので問題ありません。僕の代わりにテニス部のツカ、束村君をエントリーしてください」
 反射的に振り返りそうになって、慌てて背中にある椅子を掴む。
「束村? なんの興味もなさそうだったのに。さすがに広江の頼みじゃ断れないってか」
「そんなんじゃありませんよ」
 そうだ。ただのイベント。予算獲得ゲームの代打。あいつにとってはそれだけのこと。
「了解。じゃ、束村には時間までに来るように伝えておいてくれ」
「はい」
 弓道なんて、そんな付け焼刃でどうにかなるもんじゃないし、きっと仁木先輩の言う通りなんだろう。こいつの頼みなら、笑ってきいてやるのかもしれない。どちらにしても勝敗以前の問題だ。
「倉茂」
 足元。ぼんやりと窓から入り込む光の筋を眺めていたオレに、そのやわらかい声はどこか鈍く届く。一面識もないはずの相手だからなのか。それとも。
「倉茂、あのさ」
「こら、エントリーしなくなっても星詠みへの接触は禁止だぞ」
 けれど言いかけたその先は、仁木先輩に止められて。オレはようやく振り向く気になった。
「おなかすいたろ? 倉茂、生徒会室でメシにしよう」
「あ、はい」
 とりたててお昼、というほどでもなかったけれど、とりあえずもの言いたげなその表情を見ていたくはなくて素直に頷いた。
 歩き出す背中に続こうとしたオレの背中に、それでもそれは追いかけてきた。
「見てて。ちゃんと」

 

 

 


 用意されていた学食発注だというまだ温かいお弁当箱。目の前の人がふたを開けるのを見てから開けたそれは、だけど中身が全く違っていた。
「嫌いなものはないよな」
 わずかに戸惑うオレに、どこか楽しげにそう問われて気付く。どうやらこれも星詠み特典というやつらしい。
「あ、はい。いただきます」
 チキンライスにハンバーグ。エビフライにから揚げ。どこからリサーチしたのか好きなものばかりが詰められているそれは、完全お子様ランチ仕様。チキンライスにはグリンピースも見当たらない完璧さ。それなのに。
『見てて、ちゃんと』
 請うように響いたそれが耳について離れない。何が言いたいのか、少しも分からない。見てて。何を? 主語のない曖昧なそれに、気がつけば捕らわれている。
「ま、あと半分だ。よろしくな」
 箸のすすまないオレをどう思っているのか。その人はただそう言って笑った。
 残すところは個人戦。きっと、館脇先輩が勝って、それで終わり。
 何もかもを遮断するように目を閉じて、オレはそっと息をついた。

 

 

 


 個人戦の種目に弓道だなんて、そんなメジャーなものではないはずなのにと思ったけれど、暁星では中等部の授業で数時間の枠があるという。さらに武道一般という補習を必ず中等部在学中の一年間でとることになっていて、剣道か柔道、または弓道のどれかを必ず選択する。だから持ち上がり組がほとんどのここでは何の違和感もないんだろう。ルール説明をされて、言葉の半分も理解できないのはごく少数派に限られているということだ。
「射詰は一本ずつ引いて先に外した方が負けなんだ。ま、人数は多いけど部員はいないし。決着つくのは早いと思うよ」
 丁寧に説明してくれる仁木先輩の声はかなり落とされている。午前中とは打って変わった雰囲気。武道といわれるだけあって張り詰めた空気は独特で、その静けさに飲み込まれてしまいそうになる。
 端から一人ずつ引いていく。中れば残り、外れれば下がる。その単調さの繰り返しの中。
「さすが」
 思わずこぼれた、そんな仁木先輩のそれと重なる感嘆のため息。的のほぼ真ん中に射抜かれた矢。それは館脇先輩が放ったものだった。
「余裕だな」
 中てた本人はけれどどこか淡々としたまま、ただ一度オレを見て口元を緩めただけだったけれど。
『決めた。やっぱりマジで、勝ってやるよ』
 約束を予感させる一矢に、裏打ちされた自信を知る。安心すればいい。そう何度も心の奥で繰り返していた。

 

 

 


 連続で中てるというのはやはり簡単なことではないらしい。予想通り次々と脱落していく中、勝つという言葉に疑う余地のないほどの力で、館脇先輩はそこにいた。その射場に残っているのはもう二人。
「まさか、の展開だな」
 始まってからずっと、意識的に視界から外し続けていた。そんなオレを挑発するかのような強い視線を、けれど無視する。
「同じテニス部で最終決戦か」
 なに頑張っちゃってんの、そんなトコで。意地悪く考えるその隅で、あのやわらかい笑顔がだぶって小さく胸を刺す。
「最後だな」
「え?」
 どちらかが外すまで。そう言ったはずの人のそれに、問いかける前に答えは落ちてくる。
「二人残った時点で『近寄』で勝敗を決めるっていうのが今回のルールだからね。つまり、同じ的に一本だけ引いてより中心に中てた方が勝ちってこと」
 一歩前に進む伸びた背筋は、だけど気負うでもない自然な立ち姿。最後になってもなお館脇先輩は流れるままにあっさりとその矢を放った。
「お見事」
 真ん中の円から少し外れた、その位置に息を飲む。射抜かれた的から目が離せない。
「本当に最後だ。倉茂、見終えるのも星詠みのお仕事のうちだから」
 いつまでも射場に戻らないオレの視線を遮るように仁木先輩に間近で促され、渋々向き直るのとそれはほぼ同時だったのかもしれない。
 あいつの手には弓はすでになく、その的に見えたのは館脇先輩が放った一本だけ。
「決まり、だな」
 緊張が緩むようにそれは歓声へと変わる。勝ったのは館脇先輩。その言葉通りに。
「さて。いよいよ表彰式だ」
 言われるまま立ち上がり、オレは一度も射場を、あいつを振り返りはしなかった。

 

 

 


 笑顔でね。そう舞台袖で何度も念を押されるほど、無愛想なカオをしているのだろうか。自分ではよく分からない。
「ではまず優勝者への授与者、今年度星詠みの倉茂克己」
 背中を押され壇上に上がると、拍手と歓声に混じりオレの名前が連呼される。この騒ぎ自体が理解できないまま、とりあえず仕事だと心持ち口角を上げると、それはさらに大きくなった。収拾は誰かがつけるんだろうと、一礼してそのまま仁木先輩から表彰状と目録を受け取る。
「創立祭団体戦優勝、囲碁部」
 アナウンスが合図。上がってきた代表にそれらを渡して終わりのはずが、その背中には何人もが続いて。結局部長なんだろう人にそれを渡し、どういうわけだか残り全員と握手をすることになってしまった。それだけのことに嬉しそうな人たちも、巻き起こるブーイングもわかんない。減るもんじゃないし、別にいいんだけど。
「では、引き続き個人戦の表彰に移ります。優勝、三A、館脇壮介」
 いっそう大きくなる騒がしさの中、悠々とそしてどこか飄々と目の前に立ったその人は
『勝ったろ、ちゃんと』
 そう唇でオレに伝えた。
「では、優勝者に確認します。星詠み願い権を行使しますか」
 決まり文句らしいそれ。向けられたマイク。館脇先輩は企むように片頬を歪めた。
「ここでしない、なんて選択はないって。だろ?」
 迷いなく口にされたそれに、盛り上がる周囲をよそに目を瞬かせる。てっきり断ってくれるものだと思っていたのだ。
「星詠みには生徒会救済権が与えられます。それを念頭に願い事をひとつだけ、どうぞ」
 何を願うって?思わず身構えたオレだけど。
「それなんだけどさ。公表なしでいいだろ、仁木。断られれば素直に引くし」
「おい、お前どんな願い事する気だよ」
 仁木先輩の呆れ顔とともに、騒々しかっただけのそれが微妙に色を変える。
「デリケートなんだよ俺は。ご褒美ならそのぐらい配慮しろってコト」
 意味深な台詞に、囃し立てる声と口笛。
「ご了解いただいたところで、倉茂」
 手招きされて、仕方なく近付く。三歩もいかないうちに手の届く距離だ。
「何ですか、もう」
「ちょい耳かせ」
 オレの疑問に答える気はないらしい。仕方なくそのまま大人しく続きを待つ。
「倉茂の在学中、テニス部の試合に応援に来ること」
「は?」
「って表向きコメントな」
 耳打ちされたそれは意外なもので。意図が分からず聞き返そうとしたオレの口が、大きな手で塞がれる。その瞬間、騒々しいなんてものじゃないそれで包まれた。こんなにそばにいるのに、何か言いかけた館脇先輩の声がまともには届かなくなるぐらいに。
「静かに、静かにお願いします。では星詠み、あなたはその願いを受諾しますか」
 表向き? 何の為の? まぁ誰も内容を知らないってことは、履行されたかどうかも分からないってことで。単に引っ掻き回して楽しんでいる、ってとこなんだろう。そう踏んだオレは、目の前のその眼差しに降参した。
「受諾します」
 どんなふうに見えるのかとか、どう伝わっているのかとか。そんなことは考えてはいなかった。ただ
『ノルよな』
 そう言っているような表情に、ご褒美だというなら頷くしかない。
「サンキュ」
 引き寄せられるように肩を抱かれても、抵抗しようとはあまり思わなかった。だけど。
「倉茂、五秒我慢しろ」
 そう耳元で囁かれ、はいはいと答えかけたオレの目の前、その男前な顔がさらにゆっくりと近付いていて。
「え、ちょ……」
 そのあまりのリアルさに、我慢も何も固まってしまったみたいに本気で身じろぎすら出来ない。反射的にぎゅっと目を閉じたオレは、だから無防備で。いきなり身体が後方へ引かれたことは分かっても、事態が飲み込めない。
 気付けば誰かに背後からシャツの襟を掴まれていて。ただ息苦しさに息を喘がせながら、何度か浅く呼吸しながら目を開けたその先。
「何やってんだ! このバカ」
 烈火のごとく怒っているその華奢な背中には見覚えがある。
「何って、ねぇ。ちょっと親愛の情を表してみたんだけど」
「親愛の情? そんなんであんなこと誰にでもするってか?」
 いつも丁寧に望遠鏡を撫でる指が、今は硬く握りこまれている。
「そーだよ。もちろん津永にだって出来ちゃうし」
「いらんわっ!」
 どこかあの部室を思い出す漫才みたいな掛け合いに、沸きあがるのは爆笑で。すっかり主役は奪われた感がなくもない。でも、怒っている尚先輩を煽るように笑う館脇先輩はオレの隣にいたときよりずっと楽しげで思わず笑みがこぼれた。だけど。
「なにすん……」
 まるでそれを咎めるように、襟元をきつく引かれて。いまさら背後を思い出し振り返った先にいたそいつに、言葉が出なくなる。
 射抜くような強い眼差しは、だけどどこか冷ややかで。僅かにためらったその間に、腕を取られる。
「え、おい!」
 あの時外れたその手は、だけど今少しも緩まない。引きずられるように壇上から連れ出されても、あまりに堂々としているせいなのか、掛け合いの続く先輩達のせいなのか。誰にも止められることはなかった。
 ただ一度、尚先輩の言葉を相変わらず軽く躱し続けている人が、やわらかく笑んだ気がしたけれど。

 

 

 


 お互い口をきかないまま。ただ足音だけがもつれ合うように響く。引きずられているのと、背中しか見えないせいで何度も躓きそうになっても、その手は離れなかった。
 強く引き込まれ、まるで突き飛ばすみたいに背中を押されたのは見慣れたレイアウトで、だけどオレのとはあちこち違う。整然とした、ケーゴの部屋。
「何言われた」
 抑揚のないそれは冷たさを増している。
「答えろよ」
 距離を詰められて、後ずさる。
「答えろ」
 すぐに足元が何かにぶつかって、行き場がなくなって。
「答えられねぇのか」
 嘲笑に、唇を噛んだ。
「答える必要、あんの?」
 あの時と同じだ。そう苦く思いながら。だけど。
「ない? そうかもな。だけどお前になくても、オレにはある」
 その続きは違っていた。胸元を押されて、倒れこむ背中を受け止めたベッドが軋む。
「付き合うのか」
 縫いとめられたように両腕をとられ、圧し掛かられて。
「なんで」
 なんで? それはオレの台詞だ。何がどうなってこうなっているのか。
「離せよ」
「離したら、あの人んところに戻るんだろ」
「あのな」
「離すかよ」
 その瞳は、痛いぐらいに真っ直ぐで。逸らすことを許さない。その強さの前に晒されて、息を飲んだ瞬間。気がつけばその距離は隙間なく埋められていた。頭の中は真っ白で、何も考えられない。ただ唇に感じる熱だけが、何かを必死で伝えていて。それは離れてもなお消えはしなかった。
「なに、やってんの」
 混乱するまま吐き出したそれは、だけど震えているのが分かる。
「新手のイジメかよ」
 そんなわけない。そう思いながら、だけどどこにも答えはなくて。
「気がすんだ?」
 それでも必死で積み上げてきた壁を守ることに必死になる。
「も、いいだろ。離せよ」
 何も見たくない。何も感じたくない。何もかもを拒むように全てを閉ざそうとするのに。
「こんぐらいで済むなら、お前泣かしたりしなかったんだよっ!」
 その熱に包まれて。
「好きだ」
 不意打ちのそれに、息が止まる。
「あの人に渡すぐらいなら、もう諦めないからな」
 だけど。
「何それ」
 これ以上踏み込ませるわけにはいかない。
「自分がなに言ってるのか、分かってる?」
 切り捨てたのは、お前じゃないか。
「幼なじみでも、友達でもない。ただの同級生相手に」
 好き? 好きってなに?
「悪趣味な冗談やめろよ」
 言い放ったそれは思った以上に辛辣に響いた。それなのに。
「冗談?」
 押し戻した目の前のこいつは薄く笑って。
「お前こそ分かってない」
 そう静かに呟く。
「俺があん時、どんな気持ちで離れたのか」
 頬に触れる冷たい指先は、だけど小さく震えていた。
「あんなガキの頃から、お前だけだった。他の誰も、どうでもよかった。たけど。無邪気にくっついてくるお前が可愛くて大事なのは確かなのに、その分だけいつかお前を壊しそうで怖かった」
 ひやりとしたそれが、唇に触れる。
「例え泣かせても、お前がそれで俺を嫌悪しても。何もかもぶち壊してしまうよりはいいと思ったんだ」
 ガキだった。まだその程度のカワイイもんだった。そんな自嘲じみた声。
「そんな俺の気も知らずにのこのこ現れて。目立たないようにしてるかと思えば、星詠みなんかになっちまって。おまけに館脇先輩には懐きやがるし」
 語尾に滲む苛立ちは隠さないまま。
「こっちが黙ってりゃ、館脇先輩は意味深なことばっか言って絡んでくるし。引いたオレがバカみたいな気にさせられて」
 唇をなぞられて、鼓動がはねた。
「おまけに個人戦が弓道だ。館脇先輩が得意なのは知ってたけど、もうあっさり手を上げる気にはならなかった。DVDとか相良に借りて、それじゃ間に合わないから広江に頼んで弓道場まで紹介してもらって」
 あのとき、並んで歩いていた二人が不意に繋がる。
「そこまでして残ったのに、最後の最後で焦ってしくじった。だけど。取り逃がしたのは勝ちで、お前は逃がすつもりはない」
 強い意志の見えるそれは、昔とは全く違う色をしていた。
「一度は逃がしてやった。二度目も見ない振りしてやった。だからもう、次はない」
 息も触れるほどの位置。
「幼なじみのお前もただの友達のお前もいらない。俺が欲しいのはただ」
 引き込まれる、その瞳。
「誰より特別なお前だ」
 だからもう諦めろ。囁いたそれは、口元でとけた。

 

 

 


「いや、だからそれはこっちだろ」
 合うピースを選んでいるオレの目の前、拾い上げた欠片をちらつかせ混ぜ返す人。
「館脇、お前ホント邪魔」
 容赦ない台詞でそっけない尚先輩も相変わらず。創立祭の喧騒の名残はもうどこにもなく、日常が戻ってきた。だけど。
「館脇先輩、コートに戻って来てください」
 そこに最近加わったもう一人。
「なんだ、またお前かよ」
 扉の前で仁王立ちなのは、ジャージ姿のケーゴだ。
「大会前だから気合い入れろって、つい三十分前に檄を飛ばしたのは誰ですか」
「あ、あぁ。俺?」
「俺? じゃありません」
 煙に巻くのは得意でも、ケーゴ相手にはなかなか上手くいかないらしい。舌打ちして、だけど館脇先輩は腰を上げた。
「なんだよ。俺がここにいるから、連れてくる名目で倉茂のカオ見れるくせになー」
「ちょ……」
 何言ってるんですかと叫ぶより前。
「そんなことしなくても、ちゃんと毎日飽きるほど見られるんで」
「バッ……バカケーゴ!」
 あからさまな牽制に真っ赤になるのに。
「そんなカオしたら、今度は俺が行きたくなくなるだろ。克己」
 とどめの一言は甘ったるく響いて、それ以上の言葉は沈められてしまう。
「さ、とっとと行きますよ」
「束村、お前ね。一応俺は先輩なんだけどさ?」
「知ってますよ。だからこの上なく十分に敬ってるじゃないですか」
 あっさり肯定しながら、どこか薄っぺらく聞こえるのはもちろんオレだけじゃない。
「嫌だね、心の狭いヤツは。もしかしなくても俺が勝ったことを執念深く根に持ってるんだろ」
 勝ち負け、というよりもケーゴが最後までこだわったのは館脇先輩の俺へのお願い。
「別に。余興がどうでも、肝心なところで勝てばそれでいいんで」
 ことさら笑顔で強調したケーゴに、嘘つけよ、と思わずにはいられない。
 固めていた壁を甘い口付けで取り払われて、優しくあやされるように抱きしめられて。それでも何度も聞きたがった。だから今までのお返しにしばらく黙っておこうと思っていたのに。
『答えないなら、その代わりに別のもんで応えてもらうかな』
 そう言うなり、冷たい指先はあらぬところに進入しようとしたのだ。もちろん目茶目茶暴れてやったけど、力の差は歴然で。
『そろそろ答える気になった?』
 あれ、ほとんど脅しだよ。
 洗いざらい喋る羽目になったのが、いまだにちょっと口惜しい。
「さて。それじゃ津永先輩、お邪魔しました」
 歩調も歩幅も進まない館脇先輩の背中を押し出すと、ケーゴもまた背中を向けたけど。
「克己、帰り迎えにくるから。ここで待ってろ」
 そう言い置くのはやっぱり忘れなかった。あの日からずっと。昔みたいに一緒に帰る。たった五分もかからない帰り道なのに。
「やっと静かになったな。あ、倉茂。ムカつくことに館脇のピースが正解」
 多分さっきからずっと気付いていたんだろう。それだけ言うと再び尚先輩は今日届いたばかりの雑誌を持って、望遠鏡のある窓際へと場所をうつす。
 似ているけど、そこにはまるのはたった一つだけのピース。そんなことに胸が痛んだのはついこの間。
 カチリと音がして、それは綺麗におさまった。

 

 

 


 もいちど、あの頃みたいに。
 望んでいたそれは、形を変えていまそばにある。
 もいちど、あの頃のように素直になって
 もいちど、あの頃のように真っ直ぐに見れば
 開けられているそこは
 幼なじみでも友達でもない、特別な場所。
『俺を好きになれよ』
 傲慢に聞こえるはずのそれは、だけどどこか自信なさげで。切なさを伝えたその想いは、もうすでにオレの胸の中で響いている。
「意外に鈍いよな、ケーゴも」
 ただの幼なじみなら、ただの友達なら
「キスなんてされて、ただじゃおくかよ」
 何気に掴んだピースが、音をたててはまった。
「バーカ」
 こぼれたのはどこか甘えた声で。一人堪えきれず笑いながら、時計を追いかける。
 一緒に帰る、それだけでドキドキしている自分を抱えたままで。

 

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