「お前、それ、本気で言ってる?」
 硬い声音。痛いくらいキツい視線に晒されているのを感じて、マフラーに逃げ込むように首をすくめた。否定しなくちゃ駄目だと分かっているのに、だけどどうしてもそれを口にすることが出来ない。
「分かった。もういい」
 黙ったまま、俯いたきりの僕に呆れたのか、怒ったのか。落ちてきた言葉はあまりに簡潔すぎて、何も捉えられない。何が分かったのか、どういいのか。それ以上の言葉もなく背中を向けられ遠くなっていく人を感じながら、温かかったはずのマフラーの中で唇が震える。形作れなかった名前が凍えていた。
 もしもあの優しい時間まで巻き戻すことができれば。そう思いながら、だけど僕は知っている。例えそう出来たとしても。僕はまたきっと同じ言葉を口にするに違いないことを。

 

 

 


 バイトがいつもより早く終わる土曜日の夕方。
「よぉ」
 店先に立つ人に、思わず目を瞬かせた。
「もう時間だろ? ちょっとだけ付き合えよ」
「え、でも」
 前に一度、バイトが終わってから映画にでも行くかと誘われたことがあったのだけれど、放課後のバイトでさえ難色を示した義父の手前、どんなに嬉しくてもそれに頷くことはできなかった。
 それじゃ仕方ないとあっさりその提案を引いてしまった人は、だけどその翌日バイトに行く前なんだと顔を見せてくれて、以降定期的にこうやってのぞいてくれるようになった。もちろん日比谷さんも長い時間いられるわけではなくて、いつだって店先でほんの少し話をする程度だったけれど。
「今からなら、いつもと同じ時間ぐらいまで大丈夫だろ?」
 突然の時間延長の提示に、気持ちがふわふわとまとまらない。浮き足立つままに、もちろんと頷いてしまいそうになって、だけど不意に気付く。
「あ、でも日比谷さんは」
 イタリアンレストランをされているという実家でバイトをしている日比谷さんは『低賃金の強制労働』と口にしながらも休むことは稀で、実は楽しんでいるに違いないと僕はかねてから思っている。
 唯一僕のバイトが早めに上がれるのが土曜日なのだけれど、レストランが準備で忙しくなる時間に重なっているので、そんな日比谷さんがこのタイミングでここにいるなんてことは今までに一度もないことだった。
「俺の方は早めに上がってきた」
 だからまずその台詞に驚いたし、予告なしの誘いもまた初めてで戸惑いも感じた。
「行くだろ?」
 そんな僕を言葉ひとつで促すと、あからさまに不機嫌になった泉さんをものともせず、日比谷さんは店内の時計をこれみよがしに眺めやり、半ば強引に僕を連れ出した。

 

 

 


 こうやって歩くのはいつぶりだろう。広い背中を追いながら、ふと考える。
 告白めいた言葉をもらって半年以上がたちながら、お互いバイトもあり、二人でいる時間といえばもっぱら昼休みの生徒会室という相変わらずさで。あまり代わり映えのない日常を積み重ねながら、けれどゆっくりとその距離が近づいている気もしていた。
 ただそれは多分周囲からするとかなりなスローペースなんだろう。食べてるときには他の何も考えられない至福のとき、とばかりにそれを頬張っていた人が、しばらく味合うことも忘れたように真顔になったぐらいには。
『バイトなんか休めばいいじゃん』
 もうそろそろデートの行き先にも困るぐらいになったかと、からかう気満々で聞いたに違いない幼馴染みの軽口だったのだろうけれど。休みの日もなかなか時間が合わないからとあっさり切り返した日比谷さんに、飲み込みかけたそれを胸につかえさせつつも折口先輩はそう言い放った。
『お前、仕事をなんだと思ってんの』
『そりゃさ。仕事とワタシとどっちが大事なのーとか史くんは言わないと思うけど。秀一、お前そのうちぜってーフラれるぞ』
『公平、それ置いて出てくか』
 呆れたと言わんばかりに宣言したものの、日比谷さんにそう一喝されて、折口先輩はお皿の上のブッシュドノエルを抱え込んだ。
 もちろんそれはいつもの2人の光景で、あくまで冗談の範疇。分かっていたはずの僕はだけどその時どうしても否定したくて。
『あ、あのっ、でも、植物園にも連れて行ってもらいましたし、えっと、プラネタリウムにも一緒に行きましたし、あと、えっと』
 気付けばこぼれていたそれ。勢い込んでとにかく一緒に行った場所をあげるのだけれど、どうにも後が続かなくて口ごもる。確かに片手で足りるほど、のそれに萎みそうになるのに、日比谷さんはちょっとだけ目を見張って、そしてそれがゆっくりと緩むのが分かった。
『ということだ』
『もーいいです。もーお腹いっぱい』
 大げさに、だけどそういって手の平で覆ったのは額で。かなり大きめなそれを黙々と食べると、その日はそのまま出て行ってしまったのだ。ただあの時向けられた日比谷さんの眼差しは、居心地がいいのか悪いのかよく分からなくて。2人きりの場所で1人オロオロしたのはよく覚えている。

 

 

 


 どこに行くとも聞かされないままどのくらいだっただろう。細長い雑居ビルの前で足を止めた人は、シャッターの閉まった正面ではなく、その脇にある非常階段を指差して僕を先に行かせた。
「四階だぞ」
 らせん状のそれを息を弾ませなんとか上りきると、分厚い防火扉は開いていて自動ドアの向こう、フロア入り口にある鮮やかなパネルが目を引いた。夕暮れの海岸と、砂浜に小さく影を落とす花。
「ほら、寒いから早く入れ」
 そっと背中を押されるまま一歩進むと、そのまま奥に続くパネルに引き寄せられた。
 切り取られた雄大な景色の中、そのどれにも必ず映し出されている小さな草花。厳しい自然の中にある優しい色に、柔らかな光に、心が凪いでいく。

 

 

 


 時間が止まったような空間の終わり。最後の一枚のパネルから目を離して、ようやく僕は閑散とした周囲に気が付いた。日比谷さんは出入口にあったらしい受付にいて、そこにスタッフらしい人がいる以外、もう誰もいない。
「すみません、僕」
「なんだ。もういいのか?」
 間違いなく閉館の時間は過ぎていたのだろう。すっかり片付けられた受付に、申し訳ないのと恥ずかしいのとで言葉も出ないまま俯く僕の髪を、大きな手がくしゃりとまぜる。つられて上目遣いに窺うと、日比谷さんは笑っていた。
「んじゃ、行くか」
 深く一礼する日比谷さんに慌てて倣って頭を下げると、その人は穏やかに笑ってフロアを出る僕たちを見送ってくれた。
 帰りもまた内階段ではなく、日比谷さんが扉を開けると、とたんに吹き付ける風に曝されてわずかに身震いする。だけど。薄暗いせいだろうか、ゆっくり先を降りる人と踊り場にくるたび視線がぶつかって、そのたび足をもつれさせていた僕は、階段を降りることで精一杯。他の何を感じ取る余裕もなくなっていて。
「そういや、お前、手袋は」
 最後の一段を降りきったところで、不意に日比谷さんが振り返って思わず胸元に飛び込みそうになった。
「え」
 すんでのところで踏みとどまったものの、急接近に心臓がばくばくいってる。
「手袋」
 視線を落とされて、ようやく指先の冷たさを自覚する。言われるまで気付きもしなかった。ピーコートのポケットを探ったものの、そこに目当てのものはない。慌てて出てきたからすっかり忘れていたらしい。
「ボヌールに忘れてきた、みたいです」
「しょうのないヤツだな」
 そう言うと、日比谷さんは自分の皮の手袋を外して、そのままそれを差し出した。
「え、あ、大丈夫です」
「寒がりのくせに何いってんだか」
 大げさにため息をつかれ、まるで小さな子供にするように僕の手をとると、それをはめられる。
「あ、あのっ」
「風邪ひいたらどうすんだ」
 残っていた温もりに包まれる。それはなんだかとてもくすぐったくて、僕には指先の余るそれを思わず握り締める。
「あ、りがと……」
 上気する頬を自覚しながら、なんとか押し出しかけたそれは。
「日比谷!」
 呼び止められたハイトーンに消され、振り返った人には届かなかった。誰だって呼ばれればそうする。それだけのはずなのに。阻まれたまま届かなかった言葉が、まるで僕のように思えた。あんなに近くに感じた背中は、もうついさっきまで追いかけたそれとはまるで違って見えた。

 

 

 


 僕と日比谷さんの間を、何人もの人が通り過ぎていく。握り締めたはずの優しい時間は、零れ落ちてしまった。
 僕には分からない専門用語で日比谷さんと互角に話をする、華奢な手足と長いストレートの髪が印象的な、ちょっと大人びた女のコ。まるで雑誌から抜け出したみたいな二人に向けられる、羨望の眼差し。
『どっちもイケてるよね』
『いるんだ、あんな出来すぎカップル』
 今、目の前のそれが自然だなんて誰に言われなくたって分かっていたつもりだったけれど。いざ突きつけられるとそれは想像していたよりキツいものだった。ショーウィンドーに映る情けない表情をした自分と、広い背中。その向こうに見え隠れする短いスカートの裾。そこに居合わせただけのような立ち位置が、なぜだかひどく堪えた。だから。
「バレンタインは期待しててね」
 そう別れ際に言った彼女の言葉が。
「あっと言わせてあげるから」
 自信ありげなそれが、僕を苛んで。ようやく僕を振り返ってくれた人の顔を見たくなくて、何か言いかけたはずの人の言葉を奪ったのだ。
「よかったですね」
 心にもないそれは、だけど胸の中に重く横たわる。
「あんな美人からもらえるなんて、羨ましいです」
 何かを口にしていないと、違う言葉が飛び出してきそうな気がして必要以上に饒舌になる。
「なんだか色々作ってそうだったから、きっと上手なんでしょうね」
 そう。僕とは違って。自虐的だ、と思いながら身構える。黙ったまま身じろぎすらしないでいる人に、溢れそうな何かに今にも声をあげそうになる自分に。だけど。
「お前、それ、本気で言ってる?」
 たったそれだけで。
「分かった、もういい」
 胸の中、押し潰されたみたいに苦しくて。息ができなくなるなんて思わなかった。

 

 

 


 零れ落ちた言葉は取り返せない。
 ついさっきまでそばにあったと思っていた温もりも、もうそこにない。
 まるで今が現実だと思い知らせるみたいに。ただ唯一指先を覆うそれだけが、僕に残された優しい時間を証明する全てだった。

 

 

 


「チカちゃん」
 気付けば僕の手は泉さんに掴まれていた。フラワーアレンジメント教室用の花を用意していたはずなのだけれど。伺うように目で問いかける。けれど泉さんはその手を放そうとはしなかった。
「それはサイネリア。ガーベラはそっち」
「え、あ……」
 手元に引き寄せたオケにあるのは確かにサイネリアで、慌ててガーベラと差し替えようと手を伸ばしたのに。
「今日は、もう上がったほうがいいよ」
 ガーベラの前に立った泉さんは、そのまま僕の掌を引き寄せる。傷があるのはいつものことだけど、どこか苦い表情でそれを撫でられた。
「薔薇のトゲ、何回刺したの」
 ぼんやりしていることを否定できる状態ではない。さっきからもうずっと小さなミスを繰り返している僕に、それでも泉さんはけして『どうして』とは聞かない。
「配達だけ頼むから。それが終わったらもうお帰り」
 いつでも、どんなときでも。僕の言葉を待ってくれる人。優しい時間、温かいこの場所はいつも僕を包んでくれたのに。今、こんなふうに乱れるばかりの気持ちでいることが信じられない。
「今日は忘れないようにね」
 花束と一緒に差し出されたのは、僕の手袋で。思わず昨日の温もりを探すように、手のひらを握り締めた。

 

 

 


「お、配達ご苦労」
 指定されたマンション。ドアの向こうにいたのは野木さんで、仕事も忘れて思わず立ちつくす僕をよそに腕に抱えたそれを覗き込まれる。
「いつもながら、さすが真中だな」
「あ、こちらでよろしいですか?」
 ようやく口にできたお決まりの台詞と一緒に、そっと差し出した花束。バラとガーベラ、カーネーション。白と青でまとめたそれはとてもシックで上品だ。けれど。
「リクエスト通り」
 似合わない、というわけではない。豪華に仕上がっているとも思う。ただプレゼント用にしては色合いに華やかさが欠けていて、それはまるで。
「チカちゃん、バレバレだぞ」
「え?」
「その花束をどうするつもりなんだろうって、カオに書いてる」
 胸のうちを読まれて僅かにためらう。連想したことまでは、さすがに分からないと思うのに。
「あんなにポーカーフェイスが得意だったのに。な、チカちゃん。それって一体誰のせいなのかな」
 不意打ちのそれに、無反応ではいられなかった。
「ほら。今にも泣きそうなカオしてる自覚、ある?」

 

 

 


 出勤時間は過ぎているはずなのに、野木さんは僕を引き入れると、対面式のキッチンカウンターのスツールへ座らせた。
「自慢じゃないけど、なんでもインスタントしか淹れられないんだな。チカちゃん、紅茶でいいだろ?」
 カップボードの引き出しを探っていた人は、ティーパックの箱を振る。
「あ、でも」
「気にしなくていいよ。俺、今日は休みなんだ」
 完全に読まれているのか、たんに僕の反応が分かりやすいのか。聞く前に与えられた答えは明確だった。だけど。
「毎年この日だけは休みをもらってる。今年はたまたま二連休になってラッキーだった」
 定休日ではない、日付指定の休み。問いかけは、言葉にならずに消えた。ここからは見えないあの花束がよぎる。不用意に近づいてはいけない。そんな気がして、開いたはずの唇が先をためらう。
「はい、どうぞ」
 カウンター越し、おしまいと言う代わりみたいに野木さんはただそう笑った。
 インスタント定番のイエローラベル。ミルクもレモンもないストレート。差し出されたティーカップのソーサーに、スティックシュガーはない。だけど。代わりに置かれたのは小さな陶器のシュガーポット。底に固まったそれは突き立てられたスプーンの先で砕かれた。
 僅かな違和感の前で、いつもと少しも変わらないようにも見える人。僕は砕かれて小さな欠片になったそれを黙って引き寄せた。
「俺は真中ほどチカちゃんのことを知らないけどさ。今のチカちゃん、悪くないと思うよ」
 漂う湯気にふわりと掠めた香り。紛れるような穏やかさでそれは届いた。
「野木さん?」
「ポーカーフェイスって言ったけど、それは表情を変えなかったんじゃない。変わらなかっただけじゃないのかな?」
 手の中の温もりが波立つ。
「始まる前から全部を諦めて拒絶してれば、気持ちなんてそこには生まれない。無関心なもの相手に何を言われても、どう思われても痛むものはない」
 違う? とでも続きそうなそれに俯く僕の頭に、大きな手が乗せられる。
「別にそれが悪いとは思わないよ、俺は。人には与えられる選択肢がそれぞれあって、どうやって歩くかなんて他人がとやかく言う権利なんてないし従う義務もない。それでいいと自分が思うなら、そうあればいい」
 黙って傍にいてくれた泉さんと同じように、野木さんもまた僕を肯定した。身にまとう雰囲気は違うのに、二人はどこかとても似ている。
「たださ。チカちゃんは、これまでと同じようにはいられない何かを自分の中に見つけたんじゃないのか? だからこそその気持ちの振れ幅に驚いて、戸惑って、どうすればいいのか分からなくなってるように見えるんだけど、俺の思い違いかな」
 冷たい指先が頬を撫でて、静かな眼差しが僕を捉えた。
「いいんじゃない?それで」
 あの時、何に身構えたんだろう。
「どうすれば正解かなんて誰にも分からない。ただ何より大事なのは自分の気持ちときちんと向き合うってこと。ただそれだけじゃないのか」
 あの時、何が怖かったんだろう。苦い記憶を前に立ち止まりそうになる。離れないあの言葉。遠くなる足音。追えなかった表情。
「真中はちょっと不満かもしれないけど」
 茶化すようなそれに、誘われるように緩む頬。だけど想うのはただ。
「俺の見込み違いでなけりゃ、それを待てないボーヤじゃないはずだから」
 胸の中で追いかけた人。重なったそれに、握っていたはずのカップを取り落としそうになる。けれどそれきり素知らぬふりの人を前に、僕はつられるように思い出していた。
『待ってるから、ゆっくり来いな』
 柔らかな声。穏やかな笑み。甘い香りのする時間。僕に向けられた全てを。

 

 

 


 気付けば止まりそうになる足を、なんとか追い立てて来たけれど。重い扉を目の前に動けなくなるのは、これで何度目になるだろう。つくづく変わっていない自分を思い知らされた気がする。だから今度こそ自分で開けたくて、そっと息を吐き出した。
「え」
「おっ……と。悪ぃ。ごめんな」
 随分勢いよく開いたのは、どうやらそれが同時だったせいらしい。けれど視界を制服で塞いだのは、あのときのように迎えてくれた人ではなくて。そのまま横をすり抜けていく人を反射的に振り返ってしまいそうになったのだけれど。
「史くん! 遅かったね」
 かけられた声に、そのままドアを閉めた。二人でないことに安堵したのは一瞬。久しぶりに見る人が嬉しそうに紙袋を振って見せた。けれど。いつもの定位置。いるはずの人がいなくて。
「待ってたよー。史くんより先に食べたら、秀一に報復されそうなんだもんな」
 心が狭いと文句を言いながらもすでに折口先輩の目の前にはマグカップが置かれていて、いそいそと中身を確認している。
「おおー、ミルクレープだ。うまそう」
「あ、あの、日比谷さんは」
「あれ? あいつ言ってなかったの? 生徒会公認のバイト」
 昼休みにバイト? まるで出来損ないの言い訳にしか聞こえないそれ。
「史くんもコーヒー駄目だよね。ココアにしよーっと」
 頓着なく目の前で牛乳を温め始めるあの人の大事な幼馴染みの意図までも、深読みしそうになる自分が嫌だ。
「あのさ、もしかしなくても信じてないっしょ?」
「え」
「あー、沸騰するっ。ココアとって」
 コンロから離したミルクパンを持ったまま急かされて、囚われそうになった何かを抜け出した。渡したインスタントの大袋ココアを折口先輩は袋ままで中身を落とす。日比谷さんがいたらきっと眉をひそめたに違いない。
「マジでバイトだから」
 大きなスプーンで怪しい分量のそれを混ぜていた手が止まる。
「生徒会からの依頼。趣味と実益を兼ねて、ここの使用料代わりに中等部の調理室でバレンタイン用チョコを製作中」
 バレンタイン。チョコレートの甘い香りが、今はまだ少し苦い。
「量を作るからここじゃ手狭なんだってさ。だからそれが終わるまでは来ない」
 明確な理由。だけど置かれた時間に、続きはあるのかなんて。
「言ってないヤツもヤツだけど。秀一はつまんない言い訳はしないよ。もちろん、分かってるとは思うけど」
 語尾に僅かばかり尖ったものを感じた。そう。そんな人じゃない。だけど。顔を上げられない僕の目の前に、それが差し出された。
「史くんのはこっち」
 抹茶だろうか。生地がもう一つのオーソドックスなそれとは違っていた。アレルギーのある折口先輩のものと混同しないようにということなんだろう。見える配慮は当然のものなのに、今日に限っては違って見える。
「今さらだけど、なんで秀一が二種類作るかちゃんと分かってるよね?」
 折口先輩がここに来るときには前日にそう言っていることは知っていた。だから、そのときには必ず卵抜きのものが渡されていて。
「俺は食べらんなくても、史くんは食べられるわけ。普通なら、俺仕様のモンを一つでいいと思わない?」
 大げさに落ちたため息。
「特別仕様なのは俺じゃないから、あん時俺がぶっ倒れたんでしょうが」
 特別だと、確かに言ってくれた。だけど。それは今でも有効なのだろうか。
「餌付けされてるだけなら、やめときなよ」
「そんなんじゃ……」
 反射的にあげた顔はそのまま固まった。僕の口に押し込まれたのは、折口先輩用のそれ。
「違いが分かんないって言うんなら、秀一も報われないってコト」
 口の中で崩れていくそれが胸につかえる。
 信じられないのは日比谷さんではなく、僕自身なのだ。

 

 

 


 疎まれて、存在を否定されて、何も望まないでいることが一番楽だと知っていた。何かを気まぐれに与えられても『終わり』はいつも片隅にあって。そしてそれは常にそれでよかったと思う選択だった。それなのに。
 足りない、と思ってしまう自分が。手を伸ばしたいと考えてしまう自分がいることが、逃げ出したくなるほど怖い。

 

 

 


「史、入るよ」
 軽いノックの後。律儀に声をかけてから顔をのぞかせた義兄は、ベッドの上でぼんやりしていた僕にそっと近づいた。
「これ、史が好きそうだなぁと思って」
 手渡されたのは写真集。表紙を飾るそれには見覚えがあった。
「ついこの前の土曜日まで二週間写真展やってたらしいんだ。ただ折口に教えてもらったのが木曜でさ。史、週末はフルでバイトだろ。時間的にも無理だったから誘えなかったんだよな」
 僅かに何かが引っかかる。
「そういうのはパネルで見るのが一番だろうって、日比谷が言うのもそりゃもっともな話だけどさ。なにせ閉館が17時で」
 一番早く上がれる土曜日のバイトでも17時までだ。そう。絶対に間に合うわけがない。それならどうして僕は見られたんだろう。
「折口がこれを貸してくれるって言ってくれたんで、本物はまたの機会にな」
 凪いだ湖に落ちる樹木の影に差し込む朝日。その湖面に浮かぶ小さな花びら。あの日見たパネルの中でもかなり長い間立ち止まった一枚が、そこにある。
 閉まっていた正面のシャッター。螺旋階段の非常口。そういえば通常なら出ているだろうはずの案内板も開催時間も見なかった。迎えてくれたのはパネルだけ。見終わってから片付いた受付に気付いた僕は、時間を忘れて閉館時間を過ぎてしまったのだと思ったけれど、17時を回って入ったあの時、すでに閉館になっていたということだ。
「史?」
 水面が揺れるように、広がる想い。乱されるばかりのそれをどうにもできなくて、全然楽ではいられない。こんな僕よりもっとつりあう人がいるんだとも思う。だけど、そばにいたい。いつまでかなんて分からない。それでも。手を伸ばさずにいることはもうできない。
 まだ待っていてくれるかどうか分からないけれど。何もしないで諦めたくはない。逃げないと、約束したから。

 

 

 


「お、待ってたで」
 この時間帯は、本当に日比谷さんに明け渡されているらしく人の出入りはほとんどない。とはいえ、この部屋の特色上出入りできる人たちは頭にあったはずなのだけれど。
「え、あの」
 どう考えてもそこにはない人の登場に、躊躇った分だけ言葉が遅れた。
「藤木、やんな」
 聞かれる前に問われてしまうと、案外聞けなくなってしまうものらしい。
 見知らぬ人にそう確認され、微妙なイントネーションの違いに促される。
「あ、はい」
 コンビニ袋が小さく音をたてた。
 窮屈そうに座っていた椅子から立ち上がると、その人がひどく上背のある人だと分かる。そしてようやく昨日ここにいた人だと気付いた。
「公、折口からコレ」
 差し出されたのはいつもの紙袋。
「それと『昨日は言い過ぎた』って伝言や」
「それは、本当のことですから」
 いつも僕サイドで日比谷さんとやりあっている人は、だけど大事なところでは間違えない。その名前の通りに。
「アカンて。そんなコト言うてるとつけあがるし。顔出しづらいぐらいに珍しく反省しとるからな。だいたい日比谷のヤツがめっちゃ甘やかしたツケを俺が払うっつーのもいただけんのやけど」
 目ざとく僕の手の中にあるものに気付いたらしい人は、意味ありげに笑った。
「まぁしばらく邪魔せんほうがよさそうやし、アイツはとりあえず止めとくわ」
「邪魔って、いえ、あの」
「やっぱ、他のことはなんも考えれんのとちゃう?」
 誰だかわからない人に筒抜けなのもどうかと思うけれど。間違いじゃない分だけ肯定も否定もできない。
「オレもいっぺんでええからそんなん欲しいわ」
 どちらかと言えば、辟易していると言われたほうが納得する外見だと思うのだけれど、その人のそれはひどく真摯に聞こえた。
「ほな、お邪魔さん」
 ひらひらと片手をあげて、出て行く人を見送り終えてから、結局誰だったのか分からないままだったなと思う。
 薄い袋に映る板チョコのパッケージ。羨ましがるほどのものが出来るわけはないけれど。
「伝えるって、決めたから」
 あの時、押しとどめた言葉を隠さないで。
 あの時、奪ってしまった言葉を聞きたい。

 

 

 


 一度は湯せんにかけたはずのチョコレートが固まり。一度は冷蔵庫で固まったものに白い筋模様が入ってしまい。後がなくなった今日こそは、と何とか作り終えてはみたものの。
「なんか、微妙かも」
 見栄えが悪いのは諦めも付くけれど、刻み方が粗かったのか、その食感は市販されているものとは随分違っていた。もちろん、引き合いに出すほうがどだい無理な話なんだけれど。
「もうちょっと無難なのにすればよかったのかもな」
 タイムリミット。勇気の塊になるはずだったそれは手際の悪さが見て取れるまちまちな大きさで、随分と貧相な具合をさらけ出している。
 それでも。
 ちょっと高いハードルにしたかった。
『バレンタインは期待しててね』
 そう言った彼女に張り合うわけではないけれど。叶うなら、どうか。

 

 

 


 ペーパーバッグの奥底に押し込めた箱は、ラッピングというには心苦しい包装で、随分小さく見える。
 日比谷さんお手製のチョコレートは予約制だということだけれど、かなり評判がいいせいで追加を受けたという噂も聞こえていた。それはどうやら本当だったようで、今日の昼休みに渡そうと思っていたそれをいまだ抱えたままの僕がいる。
 考えてみれば、実は日比谷さんが放課後をどう過ごしているのか何も知らない。バイトの時間まで教室に居残っていたり、誰かとどこかに行ったりするのだろうか。どこに行けば会えるのか、なんて考えたことすらなかったのだ。僕はいつだって待っていれば良かったから。
「とりあえず、教室、かな」
 上級生の教室へ足を向けるという、僕にとってはかなり難易度の高いそれ。だけど躊躇している暇はないのだと、それを踏み越える。
 見知らぬ下級生が珍しいのか、たったひとつフロアが違うだけで、あちこちから無遠慮な視線が飛んでくるのが分かる。どうしても俯きがちになる僕は、それでも何とかクラスのプレートを探していたのだけれど。
「うわ……」
 襟元が後ろから引っ張られて仰け反りそうになる。
「自分、どこいくん?」
 仰ぎ見るようになったそこにいたのは、あの日見た人。
「あ、あの、どこ、というか。えっと」
「ふーん。そっか、でけたんや」
 子猫をつまむようにされていた手が離されると、なぜだか代わりに頭を撫でられる。
「このへんウロウロしとったら、後でめっちゃ怒られるで」
 上級生のフロアに入るなとでもいう規則があったのだろうか。それでも来てしまった以上は、とりあえず目的を果たしてしまいたい。
「え、あ、そうなんですか? えっとそれは後で謝りますけど。ちょっと今は見逃していただけると」
 いい終えないうちに吹き出すように笑われて、思わず固まる。何がおかしいのか分からないけれど、もしかして何か知っているかも知れないと思うと立ち去れない。
「あー、堪忍。そういうんとちゃうんやけど。ま、あとで聞き」
 誰に、かも言わず、その人は笑みを深くした。
「日比谷なら、中等部に行ったで。そのまま帰るんちゃうか? なんか急いでたし」
「あ、ありがとうございました」
 勢いに任せてお辞儀すると、僕はもう脱兎のごとく駆け出した。なんだか全部を知られている。そんな気分にさせられる人の名前をまだ知らないことを不思議に思う暇もなく。

 

 

 


 見つけた。そう心を弾ませたのは一瞬。正門前、その広い背中の向こうにあるのは、まるであの時と同じ光景だった。違うのはただ、彼女が着ているのが近所の有名な女子高の制服だということぐらいで僅かに怯む。
「力作よ。どう? ご感想は」
「ま、いいんじゃねぇの」
 自信ありげな眼差しで、まっすぐ見つめる彼女に、日比谷さんはあっさり肯定してみせた。
「なぁに、その態度。なんか投げやりよね」
「あ? 文句あんなら帰れよ」
「大概、口に気をつけたほうがいいわよ」
「誰が」
「日比谷にきまってんでしょ」
 遠慮ないその口ぶりが親しさに繋がっているようで、いたたまれなくなるけれど。
「あ、あのっ」
 顔が上げられない。何とか声をかけたものの、続きが言葉にならない。そもそもなんと言えばいいのかも分からないまま口にしたのだ。
 それでもスニーカーのつま先は確かにこっちに向いていて、それにすがるようにただ右手を突き出した。
「これっ」
「あれ、このコ」
「もぅ、マジお前帰れ」
 ため息に、息をのむ。うんざりした声音にみっともないぐらいに大きく震えた。取り落としそうになったそれを、だけど引き寄せるように掴んだのもまたその人で。その強さと温もりに、僕はようやくそっと日比谷さんの横顔を覗き見る。
「え、なに、日比谷のは?」
「もうねぇよ」
「え、それってどういう」
「千勢、何度も言わせんな。帰れ」
 面倒だ。そんなふうに聞こえたそれを最後に、日比谷さんは彼女を置いて歩き出してしまう。大きなストライドで蹴散らすように進みながら、掴まれた手は放されることはなかった。強引に引っ張られたままの右手首は、時折痛みも感じるけれど。それでも近くにいる人の温もりの方がずっと嬉しい。

 

 

 


「ちょい奥、借りるぞ」
 背中しか見ていなくて全く分からなかったけれど。ドアひとつ開け放されたそこは見慣れた空間でありながら、全く別物だった。
 和やかな空気だったはずのそこが一気に微妙な緊張感に乱されるのが分かる。
「え、ちょっと日比谷?! それに」
「邪魔すんなよ」
 唯一困惑しながらも止めようとした義兄をたった一言で黙らせてしまうと、日比谷さんはさらに強く僕を引き寄せて奥へと押し込めた。
 手前の部屋とは違って木目の書庫とソファでいっぱい。狭いそこで離れて立つには無理があるのだけれど、一度手を放されてしまうと、手を伸ばせば触れられる位置というのはどうにも落ち着かなくさせる。
 無意識に伸ばしかけた指先に、僕はそれを思い出した。
「あ、あの」
 差し出したはずのそれを、まだ渡していなかったのだ。
「これ、あの、なんていうか、全然上手く出来なくて、だけど」
「開けていいか?」
 頷いたまま、長い指先が器用に解く包みを見ていたものの、開けられる直前で思わず目をつぶってしまった。
「トリュフ、か。結構難しかっただろ」
 静かな声に混ざるそれはため息にも似て。それだけで逃げ出したくなるけど。
「全然、駄目なの、分かってるんですけど。だけど一度も、結局、作ったもの食べてもらったこと、なかったから」
 不器用さを隠すことすらできない。まるで今の自分みたいなそれが今の精一杯を渡したかった。
「本当は、いつも、いつ終わるかって、そればっかり考えて、ました」
 息継ぎが上手くできなくて、小さな子供みたいにたどたどしくなる。
「ずっと、上がったままのシーソーに、乗ってる気分だった。いつ落ちるだろう、いつ日比谷さんが降りてしまうんだろうって、そればっかりで。だから。あの人が現れて、その日が来たんだって、そう思って」
 綺麗な人。人目を惹く、羨む先の人。目の前の人に相応しいと誰もが思う人を前にして竦んだ足。
「そう、思わなきゃ、いけないのに」
 突きつけられた現実に、自分を知る。
「いざ、そうなったら。なかったことになんて、全然できなくて」
 いつかくる日に囚われすぎて、踏み出すことが怖かった。
「そばに、いたかった」
 言葉は、終わりを待たずに広い胸元に吸い込まれた。
 痛いぐらいに、抱きしめられて。
 甘い匂いに、泣きそうになって。
 そっと、その背中に手を伸ばすと、いっそう強く引き寄せられた。
「一応言っとくけど」
 言い聞かせる、みたいな口調はだけどどこか優しくて、僕は黙ってその温もりの中続きを待つ。
「千勢はただうちでバイトしてるだけで、別になんでもないぞ。オトコもいるしな」
「え、だって」
 バレンタインに手作りチョコレート、期待しててと言えばそれは間違いなく。
「あれでもパティシエ志望だからな。本命チョコレートをいちいち見せにくんだよ。俺に張り合う気満々でな」
「あげる、んじゃなくて」
「見、せ、に、だ。お前、さっき見てなかったのか? 現物は出してなかったろ。あいつが俺に見せてたのは携帯カメラの画像。つーか、お前俺らの話聞いてたんだろ?あれが付き合ってる奴らの会話か?」
 それじゃ、本当に。
「千勢が誤解を招く言い方をしたのは確かだけどな。お前はまた何も聞こうともせずに、しかも全然平気ですみたいなカオするから」
 何も聞かない、知ろうともしない。そう前にも言われた。
「ちゃんと言えよ。言わなくたって分かってやりたいと思うけど、伝えようとしてくれなきゃ始まんねぇんだ。今みたいにな」
「ごめん……なさ」
「とりあえず、返事はもらったってことでいいんだな」
 言われる全てに小さく何度も頷いていて、そのまま勢いにまかせて返事をしようとして無意識に止まる。返事。そういえば返事をもらうのは僕の方なんじゃないだろうか。僅かにあいた間に、あからさまなため息が頭上から落ちた。
「まさか、とは思うけどな。お前、今日、俺が公平に預けたの、開けてないとか言う?」
 ここ2日ほどは、部屋の中に紙袋だけが置いてあった。昨日はそのままバイト先で泉さんと食べたけど、今日は何も考えられなくて実は中身を見てもいなくて。正直に肯定すると、触れていた上半身が反らされるのを感じた。
「それでこれなら、それはそれで俺的にはラッキーってこと、なんだろうけどな」
 まるであやすように髪を撫でていた指が止まると、僅かにその腕が緩んだ。
「それならなおさら」
 低音がぐっと近くなる。
「20点減点」
 耳元に落とされた意味不明なそれは、
「現在進行形にして言いなおせ」
 すぐさま明確な意図を告げた。
「告白するのに過去形を使うヤツがあるか」
 腕の中に囲われたまま顎をとられて、真っ直ぐな眼差しに掴まる。要求されると、とたんに言葉にしたその全てが恥ずかしくなって。思わず涙目で見上げると、なぜだか日比谷さんのほうが先に目を逸らした。
「お前、タチわりぃぞ」
 そう言うなり、僕のつくったトリュフをひとつ口に入れた。
「言えないなら、代案決行だよな」
 すくい上げられるように埋められる距離。口の中に広がるチョコレートに、もう何も考えられなくなる。息が止まるかと思うほど、胸を叩く鼓動が痛い。
「残りもこうやって食わせてみるか?」
 目の前でかなり本気をちらつかされて、反射的に唇を両手で覆った。だけどそれもまたすぐに日比谷さんの手の中にとられてしまうと、抗うより任せてしまいたくなる。
「どうする?」
 そう。一度も見たことのない、甘い笑顔で答えを望むから。望まれるまま正直な気持ちを伝えたくなる。
「ずっと、そばにいてほし……」
 想いは唇に飲み込まれ、溶けていく。
 まだ、自分に自信があるわけじゃない。
 だけど。
 この腕を、失くしたくないなら。
 俯くより先、手を伸ばす。そう、決めた。

 

 

 


「ところでさ、どうだった?」
 いつもの時間。いつものように現れて、何事もなかったように手を差し出した人は、これみよがしな日比谷さんのため息をものともせず、目的のものにご満悦だった。何個目を食べきったのか。手の中を空にした人は、袋を抱えたまま、脈絡のないそれを口にした。
「どう、って。何がですか」
 泡だて器でひたすら生クリームと格闘していた僕は、肝心なところを聞き逃したのかとそう返したのだけれど。
「昨日、もらったろ?」
 口元にのぞく興味という名の好奇心。
「チョコレートチュイール」
「え」
 三方を摘み合わせるような形をしたそれは、確かにチョコレートクッキーだった。だけど。その口ぶりに、バレンタインだから、という理由以外のものを感じて、間違いなく折口先輩はそれが何かを知っていると思う。しまいこんだはずのそれを見透かされたようで、耳元までが鼓動を刻み始めると、泡だて器がボウルの中に滑り込んだ。
「ふーん。なんかねぇ、雨降って地固まるってことなんだ? 昨日はなかなかこの奥から出てこなかったらしいじゃん。葉芝は今にも泣きそうに何があったのかって聞いてんのに、秀一はご満悦で『見たまんまだろ』って言ったもんだからもー大変、痛っ」
「男のお喋りはいただけねぇなぁ。分ってんなら、そろそろ邪魔しにくるのはやめようとか思え」
 凶器と化した木杓子を持ったまま、折口先輩の背後から泡だて器が入ったままのボウルを取りあげると、そのまま流し台へと移動する。
「藤木、こっちはいいから型紙だけ敷いといて」
「あ、はい」
 言われるままパウンド型と型紙を引き寄せると、すっかり定番になったホットチョコレートとマフィンが隣に置かれた。
「終わったら休憩な」
「なーんかさらに扱いが違うよねぇ。俺、最近ここでインスタントものしか飲んでないんだけど」
 カップの中身を見比べながら、恨めしそうに視線を投げかけられても、日比谷さんは我関せずと言わんばかりに木杓子で混ぜる手を休めない
「開き直って、なんか余裕ってカンジ?」
 つまらない。そんな表情で無視を決め込んだ人の背中を見ていた折口先輩だけど。
「だけどそんなに安心してていーのかな」
 意味深に片方の口角を上げ、勿体つけるようにいったん口を閉ざして、袋の中に手を突っ込んだ。
「浮かれてて知らないだろうけどさ。昨日、二年のフロアに史くんが来たんだよな」
「え」
 何を言われるのかと思ったら、そんなことで。齧り付いたマドレーヌを咀嚼する人を伺い見たものの、無視を決め込んだはずの日比谷さんがあっさりそれを翻したことに驚く。
「結構な数残ってたからさ、いまや噂の人だよ」
「噂って」
 別に何をしたわけでもないのに、何をどう噂されるのかが分らない。だけど。
「なんでまた」
 いつもより少し低い、押さえつけるようなそれは不満そうで。
『このへんウロウロしとったら、後でめっちゃ怒られるで』
 あのときのそれを思い出す。
「なんで、ってそりゃ秀一探しにに決まってるじゃん。あんな時期に痴話ゲンカなんかするから自業自得ってヤツ?」
 痴話ゲンカなんて括られて、体温が上がる。鼻先で得意げな折口先輩とは反対に、吊り上げたはずの眉を行き場をなくして困ったふうに歪ませた日比谷さんは、力を落としたように大きく息を吐いた。
「気付いたら止めろよ、公平」
「止めたよー。龍のヤツが」
 随分と間延びした答えに、さらに脱力したかのように日比谷さんは天井を仰ぎ見た。
「相馬? 逆に悪目立ちするだろうが」
「うん。かなり目立ってた」
「……確信犯め」
「えーだって、俺はもうすっかりインスタントな仲だし」
 マグカップから立ち上る湯気と甘い香りを横目で指されると、日比谷さんの視線は僕へと向けられた。
「もう上のフロアには来るなよ」
 想像以上の強い否定に弱気になりそうになったのだけれど。
「誰かれ構わず見せてやるほど、俺の心は広くないっつーこと」
 思わぬ直球に抱きしめられた時のように身じろぎひとつ出来なくなって、胸の奥に熱が灯る。
「うわ認めたよ。秀一、お前キャラ違ってるから」
「だから?」
 冷たい一瞥を投げつけると、今度こそ本当に遮断したらしく何を言っても振り返らない。
「狭量なヤツ。史君、こんなヤツで後悔しない?」
 面白がって水を向けられたのは分っていたけど。甘い匂いに誘われたように、ただ笑って頷いた。食べかけのマドレーヌが目の前に落ちてなお、不思議そうに見つめられても、目を逸らさなかった。
 『上がりっぱなしのシーソーだって、お前は言ったけど。俺だって他の誰よりお前が怖いんだ。代わりなんてきかねぇ相手なんだから当然だろ』
 臆病な僕の心を強くしたのは、唇にまだ残っていたぬくもりに落とされた告白。

 同じ、だから。
 誰も見ないで、と思う僕がいることを
 見ない振りはもうしない。 

 

 

 


 チョコレートのクッキー生地の中にカードを閉じ込めたチョコレートチュイール。
 端から少しだけのぞいていたカードは2枚。
『I seem to considerably like you』 俺はかなりお前が好きらしい。
『You?』 お前は?

 綴られていた言葉は、また胸の奥に熱を点す。だから。

 日比谷さんが見せてくれたパネルと同じ写真のページに想いを挟み込んだ。

 栞のようにはみ出したそれをそのままに、素知らぬ顔で折口さんからの借り物を差し出せば気付いてくれるだろうか。

『 I have the same feelings as you do too』 ぼくだって、あなたと同じ気持ちです。

 あの日口にしたチョコレートのように、やわらかく甘く満たされた僕の決心に。

 

 

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