何もかも諦めたように沈んだ瞳が、ほんの少しだけ捉まえられるようになって。
それが単純に嬉しかったのはいつまでだったろう。
応えが単語になり、言葉へと変化して。
感情が薄く色づき始めたお前は、時折俺をひどく落ち着かなくさせる。
そのたび、歩き出していこうとしているお前を腕の中に引き止めていたくなって。
そんな自分がたまらなくガキみたいで口惜しい。
だけどそれが真実。

 

 

 

 

「あぁ、日比谷先輩」
 ノックもないまま滑り込むように現れたのは、ここの住人になって二度目の冬を迎えた数少ない一人。そしてついさっき、慌てて出て行った藤木を呼び出した張本人。
「藤木ならもう行ったぞ」
 すぐそこには空になったマグカップ。久しぶりにホットチョコレートを飲ませてやりたかったのに、きっと半分もゆっくり味わえなかっただろう。
「あぁ、ええ。そうみたいですね」
 計ったようなタイミングに作為的なものを匂わせながら、そいつは立ち去るどころか慣れた手つきで煮詰まったコーヒーを自分のカップに注ぎ始める。
「屋敷」
 生徒会役員がここではなくわざわざ別棟の図書館に藤木を呼び出したことに裏を感じないでもないが、それについて言及する立場にない俺が出来るのはせいぜいがコーヒーブレイクを阻止することぐらいだ。胸の内で『とっとと行け』と冷たく変換し、退出を促したつもりだったのだが。
「大丈夫ですよ。向こうには作原もいるんで」
 事もなく笑うと目の前に腰をすえられて、零れ落ちそうになったため息を飲み込んだ。
「何か用か」
 わざわざ藤木を呼び出しておいてここに来たということは、こいつ自身は俺に用があるということなのだろう。とりあえず形だけの問いかけは投げはしたもののそうと分かれば長居するつもりはない。暢気そうにコーヒーをすするそいつをそのままに、手早く辺りを片付け始める。
「イヤだなぁ。愛想ない上に露骨に不機嫌だし」
「この後バイトがあんだよ。忙しいんだ、俺は」
 周囲はまだ受験という重い空気を纏っている。そんな中、二年制の製菓専門学校への進学が決まった俺はそこから抜け出してはいるものの、その分短期バイトを詰め込んで実は本当に忙しい。誰にはばかることのない事実を強調してみせたのだけれど。
「藤木に会いに来られる程度には、って注釈つけてもいいですか?」
 例えばこれが公平相手なら『だな。それが何か?』ぐらいは言ってやるのだが、どうにも対処を誤ると面倒そうな相手に聞こえない振りで蛇口の水量をさらに増す。
「あー、もう、日比谷先輩もホント藤木限定ですよね」
 意味深な呟きはそれでもちゃんと耳に届いたけれど、無反応のままでわざとらしくその視線を置時計へと向けた。それが単に時間をアピールするためのポーズであることぐらい目の前のこいつには分かるはずだが、もちろんそんなことに配慮するヤツでないことも百も承知の上で。だけど。
「ここの合鍵、そろそろ回収させていただこうかと思って」
 視線の先、所在無げに置き忘れられているそれは、ほんの少し前まで華奢な手首に持て余すように絡まっていた腕時計。そしてついさっきまであったはずの所有権もまた、目の前で揺れていた。

 

 

 


 生徒会役員でもない俺が本来の持ち主達より悠に長い時間手にしていたせいで忘れていた。借り物の返却は当然。ましてもう次に使うことすらないかもしれない場所のもの。拒む理由などどこにも見当たらない。
「美味しいスィーツ1つで、もれなく卒業式まで延長受付中ですけど」
 企むようにそいつは笑ったけれど。今、コートのポケットの底にある冷たい感触は、馴染んだそれとは違う。
「持ってきてどうするよ」
 何かをするたびあいつの手首を回るそれはシンプルで、デザインそのものは悪くないが、年代物らしいせいかよく止まってその役割を果たせないことが多い。そのくせ大きすぎるサイズとともにいつだって存在を自己主張していた。少しの間、真中サンのだったらしい洒落たものが納まっていたこともあったのだけれど、それもいつの間にか元通りになっていて。その時には胸のすく気分と、どこか面白くない気分両方を味わった。
「また止まってるし」
 どうせ手首にあまるなら、いっそ俺のものを留めておきたいなんて。
 空っぽの生徒会室の窓から見つけた背中に、声をかけることすら躊躇った俺の台詞じゃない。
「情けねぇの」
 俯いてばかりいた顔を上げて、穏やかに微笑む。そうあればいいと望んでいたものだったはずなのに、いざ出くわして感じたのは不条理な感情。
 ただそれが俺のいない場所だったというだけで。
 そんな表情して笑うな、なんて。

 

 

 

 

 煌々と歩道までも照らす明かりが続く一角。僅かにスピードを落とし、その姿が見当たらないことを確認してしまえばそのまま通り過ぎるつもりでいた。バケツの中の花に埋もれるようにしているその人が顔を上げなければ。
「申し訳ありません、もう閉店……」
 女子供が好きそうな王子様顔に確かに浮かんだはずの愛想笑いが、俺を確認した途端にいっそ気持ちいいぐらいに消えてしまう。あいつを一度酷く傷つけた俺を、この人はいまだ認めていない。
「花がいるなら特別価格の2割増しで売ってやるぞ。あぁ、もちろんアレンジなしでな」
 人気フラワーコーディネーターの台詞とは思えないそれを聞き流すのも慣れた。大体ここで一度だって花なんて買ったことがない。用件なんて一つしかないのを知っていてのそれだ。別にあいつ以外にどう思われようと興味はないが、完全に敵に回してしまうには後々支障がある相手なだけに売り言葉に買い言葉、というわけにはいかない。
「その時には史に頼みますから」
 まだあいつをそう呼んだことはない。けれど意図的に呼び捨てたはずのそれにどうにも照れくさくなって、物珍しさを装い見回した足元。豪華でも特別派手なわけでもない小さな白い花に目を引かれる。向日葵かチューリップぐらいしか区別のつかない俺にそれが何かなんて分からないけれど、野原に咲いていそうなそれはどこかあいつを思い起こさせた。
「マトリカリアの八重咲きでホワイトワンダー」
「え」
「それだよ。フィラフラワーつって、大きな花と花の間を埋めるのが役目。それを入れると雰囲気が優しくなるって、チカちゃんのお気に入り」
 普段なら聞いたってまともに答えないだろうはずの人のそれに、思わず目を瞬かせる。どんな気まぐれなのか。辛辣さも、嫌味もなく、ただ淡々とした口調がかえってひどく気にかかる。
「お前、マジでむかつく」
 いい大人に、まるで子供みたいにつまらなさそうに呟かれても。一体なにがどう繋がってのそれなのか全く分からない。
「意味不明なんですけど」
「わかってたまるか」
 ただ、ますます下降していく様子はもういつもの人で。俺もまたいつもと同じように引く事にする。
「お邪魔しました」
「おい」
 呼ばれて振り返った肩越し、けれど見えたのは背中。
「二度目はねぇぞ」
 威嚇するようなそれに、指先に触れた銀色のそれが小さく音をたてた。

 

 

 

 

 いつだって俺が抱きしめているようで、本当はお前があの小さな花のように俺を癒している。
 優しくしたいだなんて思いながら、その気持ち自体がお前から貰ったものだ。
 お前がいなければ、きっとこんな自分も知らなかった。
 そしてどうしようもない独占欲も、知らずにすんだだろう。
 俺を刻み付けたい、なんて。

 

 

 


「日比谷さん」
 開いたままの教室の扉。声をかけるより先、俺を見つけた藤木が無防備にふわりと笑んだ。途端、ざわりと揺れた空気に優越感を覚えながら、もちろんそんなことおくびにも出さないまま、近付いてくる姿をただ待つ。
「まだ少し早いですよね」
「あぁ」
 浴びせられる視線を完璧に捕捉したまま、意図的に目の前のやわらかい髪の毛を撫でる。
「ちょっと時間あるか?」
 飛び交っている噂を肯定させて溜飲を下げるというのもどうかと思うが、そのぐらいは許されるだろう。俺のいない一年という時間の中で、またこいつは綺麗に羽化するに違いないのだから。そんな言い訳を繰り返しながら歩く俺に小走りに続く足音が聞こえたのは階段を降り切った辺りで、逸る自分を抑えつつ少しだけ歩を緩めた。けれど。
「あ、日比谷先輩」
 スピードを上げたくなったのは仕方ないだろう。
「卒業おめでとうございます」
 送辞の原稿らしきものを持ったまま、余所行きの顔でそう言われれば無視するわけにもいかない。鷹揚に頷きながら、俺は不意に思い出した。無意識に向かっていたそこは、もうすでに俺の居場所ではなくなっているのだ。
「藤木も、今朝はお疲れさん」
 どこに行くか。僅かに意識が逸れたところへの不意打ちに、反射的振り返った俺は目が合った瞬間に弾かれたように逸らされた。
「そんな、別に」
 訝しむ俺にますます小さくなりながら、その言葉は先へとは繋がらない。
「丁度良かった。約束のコレ、渡しとく」
 埒が明かないと元凶を問い詰めるべく睨みつけたそこに見えたのは、あの日と同じ。
「有効期限は今日から卒業までだかんな」
 俺の手から離れたそれは、おずおずと差し伸べられた手のひらに落とされた。

 

 

 

 

 今までとは違う、俺ではなく藤木の手で開けられた場所。同じはずのそこは、だけどどこか違って見えた。
「今日の式の装花をやって欲しいって言われて、それで」
 その対価がこの鍵ということらしい。多分俺が一言口にすれば同じ結果はそこにあっただろうけど。
「そっか。楽しみだな、お前の花」
 お前は少しずつ前に進んでる。危なっかしいけど、ちゃんと。それが嬉しくて、だけどやっぱりちょっとつまらない、なんて言ったらきっと真中さんあたりにぶっ飛ばされそうだけど。
「え、と。日比谷さん」
 そろそろと窺うように、だけどその瞳が見てるのは俺だけだから。それでいいんだと思うことにする。今は。
「これ、僕がつけてもいいですか?」
 その手の中にあるのは、今頃きっと正門前で下級生達が準備をしているだろう、毎年卒業生の胸元を飾ってきた造花。返事をする代わり、俺は行儀悪く手近のテーブルに腰をかけた。
「あの」
「時間、なくなるぞ」
 胸元に触れたその指先と同時、片手で抱き込んだ身体が小さくはねるけど、素知らぬ振りを決め込む俺に俯いたままぎこちなく何度もやり直すのが見える。真っ赤に染まった耳に、造花が潰れるのなんて構わず抱きしめたくて困ってるなんて気付きもしないんだろう。
「出来ました、よ?」
 抱き込んだままの左手はそのままに、俺は右手でポケットを探った。

「え、と」
「これ、忘れてっただろ。この前」
 かざしたそれに無意識だろう、つかれた安堵の吐息。俺はそのまま左手でその腕を捕らえて、はめてやる。相変わらず手首にあまるそれは、けれど規則正しい時を刻んでいる。
「これからはもう少し手入れしてやれよ」
 正直、やっぱり俺の時計をやりたいと往生際悪く思ったりもした。だけど、盤面やベルトを見る限り丁寧に扱われているのはまる分かりで。それならば、と修理専門の時計屋に持ち込んだのだ。時計の不具合というのはオーバーホールといって部品を洗浄したり、油を注油したりすることでほぼ解消されるというのは本当だったようだ。自己満足に浸りつつ、綺麗になったブレスレットの部分をそっと撫でると、その肩が震えているのに気がついた。
「え、おい。おま、なんで泣いてんの」
 指摘されて、いよいよ堪えきれなくなったのか小さな嗚咽がその喉から零れ落ちて俺は慌ててその表情を追うべくひっぺがそうとしたのだけれど。
「ちが、うっんです」
 飛び跳ねるような不安定なそれ。そしてその華奢な身体がどん、と俺の胸に納まった。
「ごめ、な……」
 胸元に感じる温もりと、しがみつくその指先に伝わる感情に、俺は幾分ほっとして、そっとその背中を何度も撫でる。
「うん?」
 こいつのそばにいるだけで、こんなに優しい気持ちになれる。それがただ嬉しい。
「あ、ありがと、ございま、す」
 こいつが喜ぶのが、何より嬉しい。
「おう」
 そう思いながら、だけどどうやったら今のお前からキスを奪えるか、なんて考えてるのも俺だ。どうしようもないこんな俺は、もしかしたらお前には不似合いなのかもしれないけど。
「離さないからな」
 そっと両耳を塞いで、呟く。
 潰れてしまった造花を公平にみせびらかしてやろう。とりあえずはそう決めて。

 

 

 

 

 もう少しだけ、寛容な大人なふりで傍にいよう。
 いつまでそうしていられるかなんて、俺にだって分からないけれど。
 だけどまだもう少しだけ俺の胸の中に隠してしまえるうちは。
 憂鬱をおりまぜたそれは、苦い。ビターチョコレート。

 

 
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