誰、なんだろう。そう思う余裕もなくただ息を呑んだ。ゆっくり何かに引き上げられるようにして目を覚ましたら、視界全てを塞ぐようにいた見知らぬ人。引き結ばれた唇も、吊り上った眉も、眇めた眼差しも全てが鋭角的で、喉を塞がれたみたいに声がでない。逃れたくて思わず泳いだ視線に、聞こえたのは呆れたといわんばかりのため息。
「こんなとこで何やってんだ」
 威圧的に響く低音に、思わず首を竦める。睨みつけられていると感じずにはいられない眼光の鋭さに、転がっていたベンチから身体を起こすこともできない。
「カオに似合わずいい度胸だ」
 動かない僕をどう思ったのか、いきなり手首を掴まれて引っ張りあげられる。
「まったく」
 面倒だ、と言わんばかりに吐き捨てられると、何かを言おうとしたはずの唇はその先を形作ることを止めてしまった。そんな僕にさらに苛立ったのだろう小さな舌打ちは、ますます口を重くする。しかしそれきりその人は僕の様子に頓着する様子もなく、背中を向けると足音荒く歩き始め、何度も転びそうになる僕を振り返ることもなかった。そしてその広い背中越し見えた先に、ようやく僕は自分の状況が飲み込めたのだ。
「入学式の式典前に編入生がいないって、ちょっとした騒ぎだ。迷ってんのかと思えばサボリとはな」
 決め付けられて、違うと思う。だけど僕の口も手も足も抗うことはない。そうか、そう思われたからこんななんだ。それだけが心の中をぐるぐる回る。
「日比谷!」
 かけられたそれに応えるように、僕の手首は勢い強く引っ張られ、そのまま背中を押し出された。
「特別棟奥のベンチで悠々サボタージュだ」
 苦々しいそれが背後から落ち、その行き先を見ると心配そうな表情をした、ほんの数ヶ月前にできたばかりの義兄がいた。
「日比谷、そうやって一方的なものの見方をするのはお前の悪いクセだ」
「葉芝は甘すぎんだよ」
 喧嘩腰、だけどけして険悪ではないそれをぼんやり聞きながら、僕は消えてしまいそうな声でなんとか謝罪して頭を下げた。断定されたそれは事実ではないけれど、遅刻しそうになって迷惑をかけたのに違いはない。
「あ、ち、史?」
 戸惑い混じりの義兄の呼び止める声に、もう一度だけ振り返って一礼すると、僕は静まり返った体育館へ足を踏み入れた。

 

 

 


 機械仕掛けの人形みたいに、起立、礼と促されるままに従う単調なセレモニー。素通りしていく周囲の中で、どうしてここにいるんだろうと何度も思ったそれをまた繰り返しながら、ぼんやりと流されている自分を自覚していた。
『言いたいことがあるならいえばいいじゃないの』
 小さな頃、何度となく言われ続けたそれは、いつも苛立ちを含んでいた。応えたいと胸の中で言葉を探したこともあった気もするのだけれど、それが本当にあったかどうかさえ分からない。聞いてほしいことも言いたいこともない、そんな自分しか見当たらない今となってはさかのぼることすら無意味だ。そういつもなら簡単に終わりにしてしまえるのに。
『まったく』
 躓いたのはたった一言。不機嫌そうな表情と声音。伸びた背中も怖いぐらいまっすぐな眼差しもその全てが存在を主張していた、僕とは対極にいる人。
『つまんない子ね』
 まとう空気の冷たさは、似て違うもののように思えたけれど、たかだか数分の記憶に連なるように引き出してしまった過去の続きを、僕は苦く飲み込んだ。
 俯いた先、手首にあまる緩めの腕時計。年代もののそれは何一つ機能がないどころか時折止まったりもする代物で、今また八時過ぎを指したままになっていた。前に進めないまま、秒針が震えている。何故だかそれ以上見たくなくて、そっと目を閉じる。何もかもを振り払うように。

 

 

 

 
 入学した暁星学院高等部は、中高一貫教育の男子校だ。僕自身は私立に行くつもりはなかったのだけれど、新しく父親になった人の勧めに母親も追従すれば抗う理由もなかった。とはいえ出来上がったコミュニティの中に入っていくというのは正直かなりしんどい。まして元々人付き合いの上手くない僕は、周囲との距離を量ることが苦手で、逆に言えば一人がひどく楽で。入学式から一月を越しても、僕はいまだ一人だった。家でも、学校でも。ただ一箇所を除いては。
「チカちゃん、そっちはもういいから。そろそろ帰らないと」
「大丈夫です。あとここだけですから」
 強い百合の香りが残る空のショーウインドウ。丁寧に拭きあげるその一枚の硝子を隔てた向こうには搬送を待つ真っ白なカサブランカと、それを彩るたくさんの生花が見える。思わず目を引くそれは、あまたの人の足を止めていた。昔、僕が思わず立ち止まってしまったように。
「はい終了」
 見入ってしまって手が止まってしまっていたことに気付いたときには、もうすでに雑巾は泉さんの手に握られていた。
「バイト君が熱心すぎて心配だ、なんて経営者としては贅沢な悩みだな」
 昔から少しも変わらないふわりとした穏やかな笑顔に、わずかに口元が緩む。花が好き。だけど接客が苦手という致命的な欠陥を抱えている僕をバイトさせてくれているのがここ『ボヌール』だ。元々は泉さんのご両親がやっていたのだけれど、つい半年前に泉さんが跡を継いだ。
「入学式の朝だって、朝早くから頑張ってもらったし。眠かっただろ?」
 否定するにはさすがに無理がある。どちらともつかず笑ったものの、浮かんだ厳しい眼差しを一瞬思い出しぎこちなくなって。学校に遅刻はしてないと子供のような言い訳を意味なく自分にしてみる。
 入学式前日。今と同じように後片付けをしていた時、泉さんの作ったブーケが納品先の手違いで全く違う人に渡ってしまったというありえないアクシデントの連絡が届いたのだ。珍しく声を荒げてクレームをつけた泉さんだったけれど、電話をきるとすぐに花の手配に奔走した。結婚式は明日の朝。花は生ものだから、思う通りのものがすぐ手に入るとは限らない。例え花が間に合ったとしても、ホテル内の装花を今夜から受けていた泉さんにとって時間的にかなりきつい。
「こんなときに限って親父達は出てるし」
「僕が開店準備に来ます」
「いや、でもチカちゃん」
「だから綺麗なブーケ、作ってください」
 このままだと泉さんが無理をすることは分かりきっていた。本当は手伝えるならこのままここにいたいぐらいだけれど、そうすることを目の前の人は望まない。僕の家庭環境をよく知る人だから余計に。
「分かった。じゃ、明日お願いできる?」
 それでも引き出せた答えに安堵した僕は二時間ばかり早起きして、学校へ行く前に開店準備を終えた。着いてみればまだ時間はかなりあって、ついベンチに背中を預けずるずると眠り込んでしまったのだ。あの人に起こされるまで。
「近いうちにメシおごるよ。期待しててね」
「そんな。僕がやりたくてしたことですから。気にしないでください」
「あぁもーどーしてそんなカワイイかな、チカちゃんは」
 言い終えないうちに抱き込まれた。見た目まるでどこかのモデルみたいに綺麗な人は、昔からスキンシップ過剰気味だったけれど花屋を生業とするだけにその力は半端じゃない。
「い、いずみさんっ。時間、時間」
「あ、そーだった」
 緩められた腕の中、一呼吸分だけ自分の意思でそこに居座る。唯一、僕の安心できる場所。
「やっぱり送っていこっか。何かあったら」
「何があるっていうんです」
「いやチカちゃん、昨今男の子も危ないっていう世の中だし」
「僕みたいなのは対象外です」
 地味で暗くて目立たない僕に、ありえない心配をする泉さんはそれでもどこか不服そうに眉をひそめた。
「本当に気をつけて帰るんだよ」
「はい。お先に失礼します」
 どうも僕は泉さんにとってまだ小さいチカちゃんのままらしい。くすぐったいような気分のまま綻んだ気持ちは、店の外にでた僕の足と一緒にかたまってしまった。
「あ……」
 どうして捉えてしまったのか。道路の向こう側、あの日見た人がいた。もちろん向こうが気付くはずもない。だけどあの一度きり向けられただけの鋭い眼差しが、反射的に僕を後ずらせた。それなのに。
「笑ってる」
 まるで別人のように穏やかな表情。誰かに向けられたそれがとても楽しそうに見えた驚き。だけどなんだろう。笑うことなんてないように見えた人が、誰かの前では違う。ただそれだけのことがひどく息苦しくて。
「チカちゃん?」
 センサー前で立ち止まったままの僕のせいで、自動ドアが開きっぱなしだったらしい。泉さんはどうも僕の視線の先を追いかけていたようだ。
「百合の香りに引き止められちゃって。それじゃ、お疲れ様でした」
 もちろんそれが何かなんて、さすがの泉さんでも分からないだろうけれど。僕はその場を言い繕うと、あの人とは逆方向へ歩き出した。

 

 

 


 大きなケヤキの下は時折風が通り抜け、まだ肌寒ささえ感じることもある。因縁の、というべきかもしれない特別棟奥のベンチを二度目に訪れたときそれがあまりに心地よくて、昼休みの騒々しさも遠いこの場所は僕のお気に入りの場所に取って代わった。缶コーヒーを片手にパンを半分齧ったところでぼんやり過ごす。高校生活は始まったばかりなのに、先の長さにでるのはため息ばかりだ。
 早く、早く。いつも急かされるように大人になりたいと思っている。誰かに保護してもらわないといけない子供から脱皮して、そしてできれば好きな仕事が出来ればいい。
「おい」
 突然後ろから響いた低音。安心しきっていた場所でのそれに、思わず立ち上がった僕の足元へ食べかけのパンが転がり落ちた。
「なにやってる」
 前にも聞いた。同じトーン、似た台詞。咎められることは何一つないはずなのに、顔を上げられない。ただ黙ってパンを拾い上げ、中身の残ったコーヒー缶を手にした。
「すみませ……」
「なにが」
 反射的にでた言葉に、突っ込まれて二の句が告げない。最初に会ったきり遭遇しなかったから、もうないと思った偶然にとりあえず背中を向けるべく逃げ出す算段をつけようとしたのだけれど。
「ちょっとこい」
 なんで。どうして。思わず上げた視線の先に見えたのは、もう特別棟の窓越し伸びた背中だけ。泣き出しそうになりながら、無視する勇気も持ち合わせていない僕に出来るのは結局言われるままそこへ向かうことだけだった。

 

 

 


 位置からいってここだろうとあたりをつけたそのドアを前に、開けることを躊躇ったのは気持ちの重さだけでなくそのプレートのせいだ。個人的に縁のないそれは、立ち入り禁止にも見える。
『生徒会室』
 他の高校は知らないけれど、暁星でそこは特別なところだ。いろんなことに疎い僕にさえそう感じさせてしまうほど、それは明らかだった。数多いイベントを取り仕切るのだと説明されたその人達は、生徒会選挙は人気投票とイコールに違いないと思わせてしまうほど華やかな集合体で、常に羨望の眼差しの中にいた。かけ離れた存在でしかないそこに義兄の葉芝さんもいるのだけれど、僕を見るたびどこか心配そうに、何か言いた気にするので、さらになお遠巻きにしていた場所でもあって。
「あれ、でも」
 あの人はその中にはいなかったように思う。義兄と親しいらしい彼もまた、もちろんそこにいて何の違和感もない人の類だけれど。
「おせぇ」
 ドアに手をかけることもなく、それは勢いよく内側から開かれた。視界が白のワイシャツで埋められる。
「自動ドアじゃねぇんだから、てめぇで開けて入って来い」
 反射的に追ったそこには強い意志を覗かせる瞳。あきれたような声音。招かれているとは言いがたいそれに晒されながら、それでもドアの向こうに見えるものに気付いた。
「え……」
 なんでこんなところにあるのか分からないが、目の前に見えるそれは間違いなくミニキッチン。家庭用だろうけれどオーブンもある。そしてそこから漂う匂い。
「お前、マジでいつもそんな?」
 違和感ばかりに囲まれて、その場から動けずにいる僕にいい加減焦れたらしい。
「とっとと入って来いっつってんだろ」
 苛々と、それでもその言葉は招きのそれであることを不思議がる余裕もなく、数歩ばかり急ぎ足で進む。
「荒熱もとれたな」
 独り言のように漏れたその向こうに匂いの正体、網の上に乗っかっているキツネ色した小ぶりなスコーンがあった。しかしそれがどうしてここに、しかも『焼き立てです』みたくあるのか分からない。
「いつまで持ってんだ、ソレ」
「え、あ……」
 何一つ反応できないまま、ただ取り上げられた食べかけのパンがダストボックスへと消えたのを見送る。
「マズそうに食うのって、最悪」
 美味しい、なんて考えたこともなかった。昼ごはん代をいかに節約するかばかりを優先している自分を見透かされたようで、顔が火照る。
「ま、別にどんなカオして食っても、そりゃお前の勝手だし俺には関係ないけど。それでもコレは俺の責任だろ」
 温かさの象徴みたいな手作りのそれが、網の上にのったまま差し出される。
「食え。昼飯の代わりだ」
 それにどうして素直に手を伸ばせたのか。後から考えたって分からないに違いない。ただふらふらと引き寄せられていた。
「そっちも貸せ」
 つられるようにもう片方に握っていたコーヒー缶を差し出すと、ラベルをひと睨みされてそのまま中身は流し台へと捨てられた。
「……ちょうどいいか」
 なにがどうちょうどいいのか。その人が小さめのマグカップにコンロにあった小鍋のものをうつし始めると、とたんに目の前にある小さな温もりとは違う匂いが漂う。
「ほら」
 カウンターの上、差し出されたマグカップから零れ落ちる甘いそれ。まじまじと見るそれはココアのような色をしている。
「あんな甘ったるいコーヒーなんてココにはねぇからな」
 見れば目の前の人は、コーヒーメーカーの底に残ったそれをちょっと離れた場所で入れていた。煮詰まった苦そうなそれは、確かに僕には不得手なものに違いない。だけど。初めて見るそのカップの中身が何なのか、分からない僕は失礼にも口をつける前に匂ってしまう。覚えのあるそれはやっぱりココアに似ているのだけれど。
「飲めねぇか?」
 微妙にトーンが変わった。お酒でもないのになんで。そう思ったものの、僕は慌てて全身で否定して口をつけた。慌てて飲むと必ず舌を火傷するのに、そんなことにはならなかった。ただ広がる甘い香りと、それに反して後にはあまり残らない。ココアじゃないのは分かっても、やっぱり何かは分からなかった。
「スコーンは甘くないから、ちょうどいいだろ。ちったぁ美味そうに食ってみせろ」
「あの」
「あ?」
 面倒くさい。そう言わんばかりに眉をあげられて怯みそうになる。これが何かと聞いたら、それはさらに煽られる気がした。
「これ、誰が」
 言いかけて止めるとさらに不機嫌にさせてしまいそうで、なんとか他の疑問とすり替えたものの、その人の顔にはでかでかと『いまさら』と書いてあった。そしてこれみよがしにため息の駄目押し。
「他人の作ったモンを、勝手に人に食わせたりしないだろ。フツー」
 普通。そう言った人はそれきり僕がさっきまでいた場所を眺めている。イレギュラーな存在でいることには慣れたはずなのに、めずらしくもぼんやりしていたことに気付いて慌てた。
「いただきます」
 カップの中身を口にする前に言ってなかったな、と思いながら手の中のぬくもりがなくなっていくのを惜しむ。手作りのそれは、まるで初めて泉さんのブーケを見たときのように心を波立たせた。幸せの象徴のように見えて。

 

 

 


 どうやら大抵の昼休みを、その人は生徒会室で過ごしているらしい。偶然だと思っていたあの日から、半月も後。何度も同じ場所で結局同じコーヒー缶と菓子パン一個を提げていた僕が、そのことに気付いたのは途中で降り出した雨のせいだった。
 ベンチの上には雨よけになるものはない。食べ終わってはいたので、仕方なく教室へ向かおうかと立ち上がったときだった。
「この天気に、奇特なヤツだな」
 踏み出した足がそのまま止まる。
「それとも他に行くトコがねぇのか」
 言葉以上の意味はなかったに違いないそれに、絡めとられそうになった。三度目にして思う。潔癖なほどに真っ直ぐな声音は、それだけで僕を追い込んでしまう。まるで全てを覗かれた気にさせられる。
「もう、戻ります」
「どこに」
 面白半分なものが僅かでもあれば無視した。だけどそこには言葉以上のものが見えなくて、立ち止まるしかなくなる。答えられないことが分かっていても。
「そんなに暇ならちょうどいい」
「あの」
「来い。いつまで濡れてる気だ」
 強引なそれを、どうしてだろう。遮断することができない。近づいてはいけないと思う端から、逆に抵抗する力が失せて行く気さえする。
「なんで」
 動き出す足が向かったのは、あの日と同じ。強まった雨足を言い訳に、今度は自分でそのドアを開けた。

 


「あれ……」
 水揚げの終わった花を陳列していた僕のすぐ傍で聞こえた疑問符。耳元に落ちたそれに思わず右耳をかばうようにして元凶を振り仰ぐ。もちろんそこにいるのはついさっきまでパソコンに向かって発注作業をしていたはずの人しかいないのだけれど、その泉さんはひどく楽しげに笑っていた。
「驚かさないでください。びっくりしましたよ」
「ごめん、ごめん。でもさ、チカちゃん。すごい甘い匂いがする」
 甘い匂い。連鎖する時間に僕の胸が騒ぐ。一日のうちの一時間にも満たないそれを誰も知るはずがないのに。
「さらに美味しそうになっちゃってまぁ」
「意味がわからないんですけど」
「わかんないならいいけど」
 それでも何か言いたげな泉さんを誤魔化すように桶に手を伸ばしたものの『甘い匂い』と指摘されたことがどうにも気になって落ち着かない。キーを叩く音が聞こえてきたことを確認して、僕はそっと自分の肩口に鼻を近づけた。ふわりと香ったそれが甘いのかどうか自分では分からない。ただその行為ひとつが、僕をその時間へと引き戻す。まるであの人のように、強引に。

 

 

 


「ゼラチンを溶かして。豆乳を温めすぎないように気をつけろよ」
 熱いカボチャの皮を手際よくはずしていた長い指は、どこにあったのかフードプロセッサーを用意していた。僕はただ言われるままに木杓子で鍋をかき回す。
 あの日から、どういうわけだかこの場所と時間を共有することになっていた。
「どうせ暇なら忙しい俺を手伝え」
 真顔で言われて、あの日は確かクッキーの型を抜いたのだ。
 毎日、違うもの。それも全てお菓子の類。あまりにイメージとかけ離れていて驚いたのも最初だけで、器用な指先から生まれるそれはどれも温かくてほんのり甘い。言葉も態度もやっぱりそっけない人だけど、最初に感じた威圧感は今はもうどこにもなかった。
「そっちは、あぁ上出来だ。荒熱とらねぇと混ぜらんねぇからな」
 木杓子を取り上げられると、代わりに馴染んだマグカップが渡された。目の前の人はコーヒーだけど、僕の手の中にあるのはココアだ。
『労働の代価ってヤツだ。ちゃんと食え』
 食が進まない僕をどう思ったのか、あれからずっと差し出されるそれら。その日作られたものだったり持ち込まれていたものだったりするけれど、市販のものを渡されたのは一度もなかった。この日はドライフルーツが色どりよく入っているパウンドケーキ。
「おいしい」
 何を食べてもいつも同じという語彙の少なさは自分でもどうかと思うのだけれど、それでもその一言で目の前の人がちょっとだけ口元を緩めることに気付いてからはそれもあまり気にならなくなった。
 六人掛けのテーブルの上。作業をするたび手首を回る腕時計に気付かれて、『邪魔だ』と外されここに置かれてから、僕はまずそれを外すようにした。そんないつもの位置で、難なく秒針を進ませている音が聞こえる。誰も来ない、静かな時間。どうしてこの人がここにいて、何のために作っているのか。何一つ知らないことを自覚しながら、それもまた立ち入るべきではないことを感じていた。誤って踏み込めばどうなるのか。僕は分かっていたのかもしれない。いつのまにか居心地のいい場所になりつつあるここを、失わないようにするための必須条件を。

 

 

 


 そんな僕がそれを知ったのは偶然だった。
「だからさ。そう言われても、日比谷のヤツはそういうの一切受け取らないと思うけど」
 義兄のところにかかってきた電話。家電だったせいでリビングから離れられず、夕飯時で揃ったダイニングを気にしながら声を潜めていた。僕はただとにかく早く終わらせ部屋に戻ろうと俯いたまま箸を動かしていたのだけれど、その人の名前に思わずその手がとまった。
「とにかく俺には無理。悪いけど」
 穏やかで柔らかな印象しかない義兄が、珍しくうんざりしている声音を隠さない。
「そう思うなら自分で渡せばいいんじゃないの?人に頼もうとせずにさ」
 僕はもう食べる気がしなくて箸を置いたものの、いつものように立ち上がれない。手持ち無沙汰を誤魔化す代わりに湯飲みへと手を伸ばす。
「え?そんなの『誕生日おめでとう』って言えば?知らないって。金曜なんだからいるだろ?もう切るよ」
 そっけなく言い捨てて、受話器を置くとため息をついた義兄に義父は笑っていた。
「お前の相方は相変わらずモテるな」
「来週末が日比谷の誕生日だから、毎年便乗して告るヤツがいんだよ。愛想がないとこがクールでいいって言うなら、人に頼むなっつうの」
 恒例らしいことをうかがわせるそれに、胸の中で納得する。今ならなんとなく分かる。いつだって真っ直ぐな正直な人だから、嘘のない人だから。憧れて、惹かれてしまう。誰だってきっと。誰だって……。
「あれ、史、もう食わないの?」
「はい。ごちそうさまです」
 気付けば隣に座った義兄と入れ替わりに立ち上がっていて、そっと息を吐いた。もちろんそのつもりでいたので不自然には見えなかっただろうから、それに気付いたのは僕自身でしかない。ざわりと、何かが僕の奥で僅かにさざめいた。だけど。何かを知る前に駄目だと反射的に思って、それはすぐに分からなくなった。駄目。駄目だ。ただそれだけが、ただ絡みつくように残っていた。

 

 

 


「やめとこっかな」
 捲っても捲っても美味しそうな写真。目の前にあるのはバイト前に寄った図書館で、思わず手にとってしまった『初めてのお菓子作り』という雑誌だった。どうしてこんなものを借りてしまったのか。
 閉店時間が来てもまだ配達から戻らない泉さんを待つ間、取り出すのを躊躇ったのは一瞬で、結局こうやって横目に眺めている。
「だいたいなんでって不審に思われるかも、だし」
 思いがけなく知った人の誕生日。味気ないお昼を、そういう意図はないのだろうけれど変えてくれた人に、お礼するのにはいいきっかけのような気がしたのだけれど。何と言って渡せばいいかも分からないし、第一あの場所以外で作ることは出来ない。
「やっぱり、無理」
「無理って何が?」
 耳元で響いた低音に、慌てて雑誌を隠そうとしたのだけれど、それはもう細くて長い指先につままれていた。
「チカちゃん、お菓子作れるんだ」
「いえ、あの、それは、ですね」
「いいなぁ。食べたいなぁ、チカちゃんの手作りおやつ」
 言い訳しようもない物証を抑えられて、僕はもう悪戯の見つかった子供のような気分で泉さんを見上げる。
「お裾分けしてくれるならオーブンの手配はしてあげよう」
「いえ、あの、ホントに」
 なんだか激しく勘違いされている気がする。意味深な眼差しを投げかけられて、なんともいたたまれない。
「作りたいって、思ったんだろ?」
「というか、ですね」
「チカちゃんのことだから、色々考え込んじゃってるんだろうけど。出来ないのとやらないのは違うよ」
「いずみ、さん」
「自分が動かないと何も変わらないって、分かるよね?」
 やわらかく微笑まれて、知らず頷いていた。なぜだか嬉しそうな泉さんにつられるように。

 


「学校が終わったら、行っておいで」
 まだ迷っていた気持ちを押し出すように、満面の笑みで手渡された紙切れ。最寄り駅からの地図と『ラルゴ』という名前がかかれたそれに促されて、結局ビニール袋を提げてやってきた。ちょっと奥まったところにあるコンクリート打ちっぱなしの三階建てのビル。どうやらここらしいのだけれど、看板のないそこに手書きの地図を見直していたとき。
「チカちゃん、だよね」
 泉さんとは違う低音で、同じように呼ばれて思わず目を瞬かせた僕を、その人は片頬を上げて近づいてくる。大きなストライド。
「真中の秘蔵っ子にようやく会えたな。俺、ここの雇われ店長の野木。よろしく」
 差し出された大きな手と、その柔らかい笑みに全く印象の違うはずの泉さんを重ねていた。

 

 

 


「ボウルと木杓子と、量りはこれ使って。マフィンならこの型でいいと思うんだけど、どう?」
「大丈夫です。すみません。何から何まで」
 美形の周囲には同類が集まるのだろうか。思わずそんなどうでもいいことを考えてしまった。僕をここまで案内してくれた野木さんは、泉さんとはタイプが違えど間違いなく男前だ。短く立たせた硬質そうな髪も、切れ長の目も本当なら僕をたじろがせるに十分な要素のはずなのだけれど、あの子供みたいな笑顔ひとつで霧散してしまったことに正直驚いている。
「俺も本業じゃないんで場所提供しか役にたたないんだけどね」
「いえ。十分していただいてます」
 なんといっても初心者の僕だ。お菓子を作るっていったって、大層なものが出来るはずもなく。失敗するよりマシだと選択したのはバナナマフィン。しかもホットケーキミックスで作るというお手軽さだ。
「オーブンはもうすぐ予熱が終わると思うから。終わったら上においで。飲み物ぐらいはご馳走するから」
「え、いえ。そんな」
「ご馳走ったって、店のレシピにどうかと思ってる試作品だからね。お気に入りのチカちゃんを実験台にしたって言ったら、真中にぶっとばされるかもしれないから、内緒な?」
 それじゃ後でと階段を上がる人の好意は押し付けがましくなくて、素直に嬉しいと思う。だけどその半分で、心の中にある人に対する強張りを、たやすく解かされてしまうようになった気がして戸惑わずにはいられない。
「あ……」
 後ろで音がした。どうやらオーブンのタイマーが切れたらしい。
「とりあえず、量らなきゃ」
 考え事をしている時間はない。全てが借り物に囲まれているのだ。レポート用紙に書き写したレシピとも呼べない代物を取り出すと、とりあえず計量カップを手にビニール袋をあさり始めた。

 

 

 


 とりあえず見た目はそんなに悪くはない。どれもあまり違わない出来栄えの中、それでもさんざん四方眺めて形のよさそうなものを見繕ってきた。泉さんも、野木さんも美味しいと言ってくれたから、多分、食べられないものではない、と思う。
「お世話になってる、から」
 作ってはみたものの、やっぱり渡せないと何度も思って、その数だけ自分で食べてしまおうと袋を開けたけれど、こうやってそれはここにある。持て余しながらも、捨て切れなかったそれに気持ちが残っているようで小さな紙袋が妙に重く感じた。
「失礼します」
 いつもの場所に、いつもとは違う緊張感で足を踏み入れたものの、それを察知したかのように、そこはいつもとは違っていた。
「あぁ、悪い。今日は中止だ」
「え……」
 なんともだるそうに立ち上がるなり、マグカップと袋がテーブルへと置かれる。
「ここで食ってけ。俺はちょっと出てくる」
 どうやらそれだけを言うためにここまで来たらしい人は、手早く後始末をしてしまう。面倒だ、と口にしなくてもこぼれた重いため息で分かった。そして連なるように頭の中に浮かんだのは、義兄の言葉。
『来週末が日比谷の誕生日だから、毎年便乗して告るヤツがいんだよ』
 呼び出し、なんだろう。ということは、多分きっと告白の類に違いない。ここ暁星でそんなことは珍しくないのだと、だから気をつけろと僕に見当違いの心配をしたのは義兄だったけど。
「じゃあな」
 タイミングを完全に逸してしまった僕は、何もいえないまま見送ってしまった。
「どうしよう、これ」
 いつもの僕なら、きっと仕方がないと諦めた。渡せないかもしれないと思っていたのだから、と言い訳したに違いない。それなのにどうしても思い切れなくなる。マグカップの湯気を追いながら、僕はぼんやりと手の中の重みを感じていた。

 

 

 


 結局、どうすることもできず気付いたときには予鈴が鳴っていた。慌てて置かれていた袋を覗くとそこにあったのはロールケーキ。ふわりと香ったのはゴマだろうか。店頭に並んでいてもおかしくないように見えたそれは、僕のものとは似てもにつかない相変わらずの見事さで。それでも。
「これなら、分かるよね」
 ロールケーキの半分を自分の紙袋に移すと、その空いた場所にマフィンをしのばせた。
「時間切れ、かな」
 諦め悪く、手首に引っかかるように存在を主張しているそれを見る。手にしたマグカップは冷めてしまっていて、僕はまだ残る甘い匂いを追いかけた。だけど。
「あ、れ?」
 それを口にするより先、それが定番となっているココアのものではないと気付いて、その手が止まってしまった。いつもと違う。それは僅かに僕を躊躇させた。ただそれでもこれに覚えがあるような気がするのも確かで。
「秀一いるー?」
 飛び込んできた声に反射的に振り返って、そのまま固まってしまう。ここに通うようになって初めてそのドアが開けられて、当たり前のことを忘れていた自分に気が付いた。
「あれ、秀一は?」
 そう聞かれて、わずかに首を傾げる。秀一って誰だろう、そう問いかける代わりに。
「おかしいな。絶対ここだと思ったのに」
 まっすぐにこちらへと近づくと、その人は慣れた様子でオーブンを覗き込んだ。明るい髪の毛はところどころはねていて、大きな瞳が印象的だ。まるで人懐こい子犬みたいに見えるのに、たじろぐ自分がいる。
「あ、ホットチョコレートだ」
 慌てて置いたマグカップの傍に零れた跡が見えた。ホットチョコレートって言うんだ。多分飲んでもそれとは分からなかっただろう僕とは違って簡単に言い当てたその人は、自分の代わりに、冷め切ったマグカップを当然のように口にした。
「あのっ」
 自分のなのに。それは、それだけは。そうこぼれた気持ちが声になった。見たくない、と思った。
「あ、あの僕、次、実験室なので」
 いたたまれない。この場所で初めてそう感じた。
「藤木史くん、だよね」
 逃げ出そうとした僕を笑顔が引き止める。
「葉芝が心配してたよ? 自分が編入を勧めたけど、なかなかみんなと打ち解けられないみたいだって」
 義兄の名前に、どこかで警鐘が鳴る。
「それもこれも初日に高圧的に出て怯えさせた秀一が原因だ、責任とれとか言っててさ。葉芝のヤツ、義弟がかわいくて仕方ないみたいだぞ」
 全てがつながった気がした。
「そしたらいつの間にか昼休みにどうやら一緒にいるらしいって聞いてさ。こりゃ秀一のカオ見てやらなきゃと意気込んできたのにな、残念」
 押し隠していた疑問に、今になってあっさりとでた答え。親友の頼み。なんて義理堅い人なんだろう。
「あ、葉芝のヤツ、自分はまだ一線引かれてるみたいなのにってへこんでたぞ。なんとかしてやれよ」
 多分、それがいいたかったのだろうその人は、片眉を大げさに上げて屈託なく笑って。不意に僕は思い出した。
「失礼します」
 置いたはずの紙袋が見えた。回収してしまいたい。なかったことにしてしまいたい。そう思いながら、だけど何よりここから離れたくて全てに目をつぶった。

 

 

 

 
 夏の近さを思わせる日差しの眩しさ。それが西日だということに気付いたのは、誰もいなくなってしまった教室だった。いつのまにかくるりと回っていた腕時計。午後の授業を受けたことすら頭にない。
 思い出した記憶はそんなに長い時間ではなかったくせに、どんどん鮮明になっていく気がする。ただ一度ボヌールから見た。歩くたびふわふわ揺れるくせっ毛の隣で笑っていた人。穏やかで優しい眼差しは、日比谷さんを名前で呼ぶあの人に向けられていたのだ。
『あ、ホットチョコレートだ』
 あの匂いも、覚えがあって当然だ。一度きりだったから忘れていた。最初に飲ませてくれたあの時、僕が舌を火傷しなかったのは冷めていたから。冷めていたのは、別の人のために用意されたものだったから。弾んだ声で、自分以外のものだなんて考えもしないほど傍に居た人のために淹れられたものだったから。一度きりで、当然。
「バイト、いかなきゃ」
 グラウンドからは部活動中だろうたくさんの声があちこちから聞こえてくる。いつもよりかなり遅れていた。もつれそうになりながら足早に廊下を抜け、階段へ向けたその先。声もなくいきなり肩を掴まれて阻まれた。
「いたっ……」
 勢い余って背中を壁にしたたかぶつけた。だけどそんな痛みと転び落ちるかと思った驚きは、無になり、そして震えへと変わった。振り仰いだ先、すぐ目の前にいるのは少しは知っていると思っていたはずの人。
「これ、お前か?!」
 どうしてそんなふうに思えたのだろう。眇めた眼差しも、滅多に緩まない口元も、だけどそれだけじゃないだなんて。勘違いも甚だしい。今そこに、昼間の穏やかさなどかけらもない。出会ったときと同じ、喉を塞がれたみたいに声がでない。
「お前、これに卵いれただろ!」
 激昂。唸るようなそれ。その怒りと苛立ちの矛先は間違いなく自分に向けられていた。
「卵」
 付き返された袋。それは、その中には。
「日比谷、とりあえず同乗して」
 随分と慌てた様子で、割り込んだのは義兄だった。
「くそっ!」
 急かされて、その手の中からあっさりと紙袋が落ちた。転がり落ちた不恰好なマフィンは、まるで今の無様な僕の気持ちみたいだった。震えはもう止まっていた。

 

 

 

 
 あっという間に戻ってきた静寂。義兄が何か言っていたけれど、僕はただ微笑って首を振り、その背を押した。取り残された僕の中で、責めるようなまなざしと舌打ちが繰り返される。それはゆっくりと降り積もって、その端から凍りついた。
「あぁ、やっぱり」
 ほらやっぱり。何かをしようとするたび、怒らせたり、悲しませたり、苦しませたり。忘れていたことにいまさら気付く。居心地のよさに「もしも」だなんて思うから。
 鍵をかけておかなくちゃ。もっと強く、もう緩んだりしないように。分不相応な気持ちなんて持たないように。
『あのこを見てると自分を嫌いになるの』
 記憶が混在する。遠い、遠いそれが引き出されていく。
『産まなきゃよかったと何度も思ったわ』
 あぁ、そうだ。間違いだったんだと、あの日もそう思ったのに。

 

 

 


 四畳半の部屋に小さな僕が寝ている。父親のいない僕にとって、母は唯一絶対の存在だったけれど、母にとっては違うのだということを知ったのは、朝晩寝苦しい日が増えてきた頃だった。
「仕方ないじゃない。見るたび思い出すんだから」
 薄く差し込む明かりと、静かな、だけど苛立ち混じりの母の声。嗜めるように聞こえたのは、祖母だったろうか。
「わかってるわよ。だから悪いと思ってるわ。だけどだからこそ、あの子を見てると自分が嫌いになるの」
 仕事をする母を煩わせないように、手伝えることは何でもした。母子家庭だからと母が揶揄されるのが嫌で、勉強だって頑張った。だけど何をしても誉められたことも、まして抱きしめられたこともない。そばに居てもどこか遠くて、僕をけして見ようとはしなかった母。
「捨てられるぐらいなら、産まなきゃよかったと何度も思ったわ」
 寒いな、と思ったのを覚えている。寝苦しくて起きたはずなのに、どうしてだかそう思ってタオルケットに丸まったのだ。

 

 

後編