柔らかなものが頬にあたっている。わずかに香ったそれに、すがるように身体を押し付けながら、さらに丸まる。ここは一番安心していい場所だと無意識に思う。それなのに、まだ寒い。どうしてこんなに寒いのだろう。埋めようのない空虚感に押しつぶされそうになるのはどうしてなんだろう。
「チカちゃん」
 奥深く潜り込む自分をそっと引き戻す人。
「ちょっとだけ起きようか」
 小さく、労わるようなそれが柔らかく届く。ここは大丈夫。そう聞こえた気がして、僕はそっと目を開けた。
「熱があるんだ。ゆっくりでいいよ」
「いずみ、さ……」
 押し出したそれは、変なふうにかすれた。喉が痛かった。
「おじやを作ってもらったからね。食べてから薬を飲もう」
 まるで傷口を癒すような繊細さで前髪を撫で上げられ、僕はただ促されるまま身体を起こした。間接照明がフローリングの床を照らしている。淡いグリーンのカーテンと、専門書が詰め込まれた本棚。そして窓際にあるドラセナ・マッサンゲアナ。幸福の木。
「ここ、は」
 どうやら泉さんの自室らしいここで、ベッドをも奪い取っているらしいことにようやく気付いたものの、どうしてこうなっているのかが分からない。あれから、僕はどうしていたんだっけ。
「あぁ、いいよ。そこで食べれば。それとも食べさせてあげようか?」
 逡巡する間もなく小さな土鍋とコップを運んできてくれた泉さんは、そんな軽口で毛布を再度かけなおす。
「家にはさっき電話しておいたから」
「え……」
「こっちに泊まらせるって言ってあるから、安心してここで休めばいいよ」
 甘えてはいけないことぐらい分かっていた。固辞しなくてはいけない。だけど、どうしても今、あの家に帰ることが辛い。引き戻された記憶に重なる現実が重い。つながるもの全てを見ることがきつい。
「大丈夫。何も考えなくていいんだ」
 痛むような眼差しはほんの一瞬。
「ほら、あーんして」
「いや、あの、自分で食べられますから」
「えー。食べさせてあげたいのに」
 拗ねたように唇を尖らせる人に、僕は笑った。笑える。大丈夫。元に戻ればいいだけだ。僕は何もなくしてなんかいない。元々ないものを、なくしたりなんてしない。

 

 

 


 結局、僕は一週間も泉さんのベッドを占領していた。さすがに三日もするとお世話になるのも心苦しくて帰宅を申し出てはみたのだけど。
「ダメダメ、まだ微熱があるし。チカちゃん、このまま帰ったら絶対無茶しそうだから」
 子供を叱るみたいにいなされた。自宅に帰れば、無理して学校に行くことを見越していたのだと思う。何でもお見通しな人に、真綿で包まれるように大事にしてもらった。
「帰る前に、快気祝いといこう。食事の約束してたの、のびのびになってたろ?」
 帰宅許可と同時に泉さんがそう言って連れて行ってくれたのは『ラルゴ』で、出迎えてくれた野木さんは僕を見るなり黙って髪をくしゃりとまぜた。カウンターには消化のいいものが所狭しと並べられ、あれもこれもと追加されていく。僕を挟むように会話する泉さんと野木さんのそれは、ともすると掛け合い漫才のようで。可笑しくて噴出すと「何がおかしいんだ」と僕を巻き込んでさらにそれはヒートアップした。楽しい時間。泉さんと野木さんがくれたそれは戻る勇気になった。

 

 

 


「あぁ、至君だっけ。待ってるみたいだね」
 ヘッドライトに照らされた先、泉さんは義兄の姿を認めたらしくそう緩やかに車を止めたのだけれど。
「チカちゃん、ちょっと待っててくれる?」
 ドアに手を伸ばした先で止められて、泉さんはそう言い置くなり助手席をロックして先に降りてしまった。まさかとは思うけれど、母がいるのだろうか。思った先、その声が聞こえた。閉められた窓ごしでは何を言っているのかは分からない。だけど。よく響く低音は母のものでは到底ない。義兄でもない、泉さんでもないそれに胸を掴まれる。僕はただ身体を丸め、耳を塞ぐ。大丈夫、大丈夫。何度も繰り返しながら、もらったはずの勇気がしぼんでいくのが分かる。
「必要ない」
 運転席のドアが開いて、投げるように聞こえた泉さんの声。そして僕の鞄と制服の類が後部座席に置かれた。
「い、ずみさ……」
 泉さんはただ笑って、そのまま車を出してしまう。
「ごめん。まだもう少し拉致られてて?」
 乞われるようなそれを額面どおり受け取ってはいけない。分かっていて僕は抗えない。いつもの僕ならきっと大丈夫だと言えるのに。どうしてこんなに弱くなってしまったんだろう。まだ会えない。それなら、いつになったら平静でいられるようになるだろう。ただ声を聞いただけで、こんなにも胸が痛むのに。

 

 

 


 学校とバイト先との往復。今までとあまり変わらない日々。ただ違っているのは昼休みを、日差しの強さに誰もが敬遠する屋上で過ごすこと。誰が探しに来るわけないのに、会いにくるわけないのに、一人で警戒しているようで滑稽な気もするけれど。
「今日は何にしよう」
 あれから家には帰っていない。帰りたくない。そんな気持ちに流されて促されるままに舞い戻ってはきたものの、正直どうしようかと迷って靴も脱げずにいた僕を、泉さんは振り返らなかった。
「お茶にしようか」
 ただその一言で、背中を追いかける理由をくれたのだ。
「え、あ、僕が淹れますから」
「じゃあお願いしよう」
 引き出された台詞に満足したように、寛いだ様子でソファに横になった人は、そのまま目を閉じてしまった。とりあえずケトルをコンロにかけて、ティーポットとカップを用意してしまうと、お湯が沸くのを待つしかない。僅かばかりの時間。
「そうだ。俺、チカちゃんの作ったご飯が食べたいなぁ」
 ぼんやりと回り始めた思考が息苦しさを覚えるより前、いきなりのそれに中断される。
「ということでチカちゃん、明日から晩御飯当番ね。とりあえず和食をリクエスト」
 思いつきのように差し出されたそれが、少しでも居づらくないための交換条件だということはすぐに分かった。そして、それ以上にその与えられた役割に意味があることも今なら分かる。ぼんやりしていると深みにはまりそうな時間を、こうやって毎日のおかずを少ないレパートリーから思い浮かべることで埋めていられる。それは少しでも楽でいられるようにという泉さんの配慮。
「時間だ」
 小さく、アラームがそれを知らせた。教室まで移動できるギリギリの時間。知らせるのはもちろんあの旧式の腕時計ではない。今、僕の手首にしっくりとおさまっている洒落たデザインのそれは泉さんのものだ。あの日から顔も知らない父親の持ち物だったというそれは動かなくなっていた。気まぐれも終わりだと、告げるように。

 

 

 


 正門近くまでくると、全員が揃って足を止め、ペースを落としながら遠巻きに何かを眺めているらしいことに気付いた。帰宅途中だけじゃない、部活中の人までランニングを装ったり、ボールを転がしてみたりなんともわざとらしい。おかげで結構な混雑振りで、歩きにくいことこの上ない。なるべく足早に抜けようと人波の隙間を見つけた先、軽いクラクションが注意をひいた。
「チカちゃん!」
「え、野田さん?」
 Tシャツにジーンズという格好でありながら、どうしてこう目立つのだろう。しかもその背中越しには高そうな車が見える。どうやら相乗効果でこの状況らしいのだけれど、ご当人は平然としていた。
「今日は鍋だぞ」
 指差された後部座席には、ネギの頭が飛び出したなんとも不似合いなスーパーの袋。
「何鍋にするかなぁ。キムチ?豆乳?」
「この時期にですか?」
「暑いときに熱いものを食うっていうのがオツなのよ。身体にもいいしって、あれ信じてないな」
 一歩で距離をつめられ頭を撫でられると強張りが少しほどけるように和らぐ。そんな優しい手に背中を促され、助手席に滑り込もうとしたときだった。
「藤木」
 初めて聞いた、呼ばれた僕の名前。誰とも違うものに聞こえて、ただそれだけで進めなくなる。振り返ることが出来ないまま、目の前のドアを握り締めた。
「話があるんだ」
 さらにその声は近づいた気がした。話。話ってなんだろう。僕にとって必要なことは全部聞いた気がするのに。
「こっち向いてくれないか」
 請われるようなそれに揺らぐ何かが震えに代わる。これ以上何を聞けというのだろう。どう応えろというのだろう。
「無理強いはよくないな」
 触れられたままだった背で宥めるような指先に支えられて飲み込んだままの息を吐き出すと、阻むように野木さんが割って入った。
「藤木」
「自己都合優先か?デカいなりしててもやっぱりボーヤだな」
「あなた、どなたですか」
 揶揄するようなそれ。鼻先で笑った気配。それでも硬質な声音に変わりはない。
「それが何かボーヤに関係があるか?話す必要性はまったく感じないし、ましてこんなところで不躾すぎる問いじゃないかな」
 こんなところ。野木さんの言葉に、僕は感じてもいなかった視線を一気に自覚した。相手が僕だと気づいた時点で興味は失せただろうはずが、よりによってこの人が踏み込んだことで状況はさらに煽られている。駄目だ。多分、この人はこのままじゃ絶対に引かない。
「それじゃ、藤木と話をさせてください。別に俺もあなたに話があるんじゃありませんから」
 周囲なんて歯牙にもかけない。冷静で、まっすぐで、強い自己を持っていて。
 いつしか僕を捉えて離さなくなっていた、その強さは憧れ。どんなに辛くてもそれは事実。だから。認めて、そして手放すのだ。
「日比谷さん」
 喉の奥で絡まったそれは、届いただろうか。僕は奥歯を一度かみ締める。
「色々お気遣いいただいて、ありがとうございました。もう僕は大丈夫ですから」
「いや、あの、な」
 言いよどむなんて初めてで、言葉を選ぼうとしているのがよくわかる。正直な人、情に厚い人。だけどそれはただ僕に痛みしか与えない。
「それから、嫌な気分にさせて申し訳ありませんでした」
 聞いていられなくて終わらせる為に口を開いた。事実だけを拾い集める。床にひしゃげた紙袋。こぼれたマフィン。後悔の塊。漂う甘い匂い。何がそんなに不快にさせたのか分からないけれど、それももう今さらだ。
「なにが」
 いまさらなのに。
「なにを謝ってる」
 そんなこと、知らない。どうだって、いい。全ては終わったこと。それだけ知っていればいい。振り切るように前身を車へ向けたのに。
「何も聞かない、知ろうともしない」
 掴まれた肩にあの日が重なる。だけど。
「それでも、終わりにしちまえるんだな」
 その瞳だけが違っていた。

 

 

 


 何が、何を、どうして、なぜ。払っても払っても、問いかけばかりが胸を打つ。あの切なげな眼差しが、僕を捉えて離さない。最後に拒んだのは僕のほうなのに、手放されたような気がするのはどうしてなんだろう。
「チカちゃん?」
 何度も名前を呼ばれて、一番優しい場所にいるのだと思うのに、そのたびあの人に呼ばれた声を思い出す。あの時、とどまれば。応えていれば、何かが変わったのだろうかだなんて考える自分がいることが信じられない。その人へと繋がる。何もかもが。かけたはずの鍵はどうしたんだろう。
「泣けるんだね、チカちゃん」
 頬を優しい手で包まれて、目元をぬぐわれる。
「そのぐらい、持ってかれちゃったんだ?」
 困ったような、笑っているような、複雑な表情をした泉さんがそう言った。
「ちょっと、悔しいな」
 何一つその言葉の意味を理解できないまま、それでも優しい、温かな気持ちが流れ込むのが分かる。
「アレは扱いづらい、ただのガキだぞ」
 手のひらに乗せられた小さな紙袋。
「取り柄もコレしかなさそうだけど」
 ふわりと香る甘い匂い。
「どうする?」
 それが何を指しているのか。分からない振りをするには、もう遅すぎた。
「どうしても渡してくれってさ」
 望まなければ傷つかないことを知っていた。得られるものだけ手に出来ればいいと思っていた。諦めることも、忘れることも簡単だと信じていた。
「もう一度だけ言っておくよ。自分が動かないと、何も変わらないんだ。選ぶのはチカちゃんだよ」
『何も聞かない。知ろうともしない』
 責めているような言葉。だけどそれは、
『それでも、終わりにしちまえるんだな』
 懇願の響きにも似て。

 

 

 


 知りたいと思うのは、傲慢だと思っていた。だけど聞かないままでは終われそうもない。いつの間にか、そのぐらい特別な人になっていた。だから例え自分にとって痛いものだとしても、それは必要なことなのだ。紙袋の重みが苦いものを思い出させるたぴ、そう繰り返した。だけど。そのドアの前に立つと、まるで初めて来た日のように貼りついたみたいに足が動かなくなる。違うのはそれが躊躇いからではなく拒まれることへの恐れだということ。遅いといって呆れられたけれど、あのドアが開いたとき、多分ほっとした。入っていいんだと、言われた気がしたのかもしれない。
「自動ドアじゃねぇって、前も言っただろ」
 意気地のない僕の上、二度目の台詞が降ってきた。ため息まじりの声に怒気はなかったのだけれど、思わず身構えてしまった僕をどう思ったのか。それ以上の言葉はなくただ手首をつかまれ引き入れられると、退路を断つようにドアは閉められた。
 机の上にも、キッチンの周囲にも何もない。染み付いているように思えたあの甘い匂いもしない。
「それ。食った?」
 ドアを背中にしたまま、そう聞かれて手の中の袋を見つめる。渡されたそれは中身も見ないままだった。
「とりあえず、食って」
 促されたきり押し黙られてしまうと、どうすることも出来なくて、そっとその中身を覗き込む。
「これ」
 懐かしくさえ感じる、それはここで最初に食べたスコーンだった。けれど、これが一体どうだというのだろう。どうしても分からない。それでも目の前の人は、それきり黙りこんだままで。これを口にしなければ何も話すつもりがないのなら、選択肢は一つしかない。その中のひとつをつまみ出すと、一口かじりついた。
「あ、れ」
 美味しい。それはいつもと変わらない。だけどあの日食べたものとは何かが違っていた。
「分かったか?」
「分かるって、美味しいです、けど」
「けど、違うよな。あん時のとは」
 確かに、そうだ。だけど、だから?何が言いたいのか少しも分からない。
「それには卵が入れてある」
 卵。そういえば何でもあるような気がしていたここで、卵だけは見たことがなかった。
「あれは、他のヤツにやるの前提で作ったモンだったからな。卵は入れてなかった」
 僕ではない他の人のもの。当たり前のそれに何かが軋む。
「卵アレルギーってあるだろ?公平、俺の幼馴染がそれでさ。ガキの頃はかなり酷くて、呼吸困難とか蕁麻疹とかでて大変だった」
 公平、と呼んだ声音が優しくなったことをこの人は気付いているのだろうか。
「対処法は、とにかく食べさせないってことで、卵抜きは徹底してた。だけど甘いモン好きなあいつに最も酷だったのは、メシより菓子制限でさ。市販のものは大抵入ってるから厳禁だって言い渡されてた。俺もそれに付き合ったけど、甘いものが元々不得手な俺と違って、あいつにとってはかなりストレスだったんだよな。後で辛いのは自分なのに隠れて食って、何度も大騒ぎになったよ。散々怒られるのにそれでも懲りなくてさ。そんなアイツ見てて、何とかしてやりたいって思ったのが最初だった」
 カップの中身にためらう僕に『飲めねぇか』と聞かれた、その意味。
「きっかけがそれだから、俺が作るのは普通の菓子じゃなくて、アレルギー持ってるヤツが食べられるもので」
 心配、だったのだ。僕の様子が、その人にわずかばかりでもかぶったのかもしれない。
「それを知ってるから、あいつも俺の作ったモンは気にせず食っちまう」
 この人のつくるものは、自分のもの。疑問を抱くこともない安心感。僕には遠いそれを羨み、そしてようやく気付いた。あの人は、僕の作ったものを食べたのだ。
『お前、これに卵いれただろ!』
 激昂は、当たり前だ。
「あいつがぶっ倒れた時、頭ん中が真っ白になった。手の中にあった紙袋にマフィンが見えて、発作じゃないかとすぐに思った」
 例えそういうつもりでなくても、どういう経緯であの人の手に渡ったのか分からないとしても。全て、そう全ては僕のつまらない気持ちのせい。
「僕の、せいですね」
 これ以上は聞いていられなくて、遮るように口を挟む。
「いつも、僕のすることは人を傷つけてばかりなんです。申し訳ありませんでした」
 握り締めていた紙袋をテーブルに、食べかけのスコーンも迷った挙句その上に乗せた。
「その人にも謝っておいていただけますか」
 零れ落ちそうになるものを堪えるように、奥歯を噛み締めたとき。
「やっぱ謝るのな」
 ため息のように落ちたそれ。
「なにが? お前の何が悪いの? そうやって自己完結して逃げて、自分さえ楽になれればそれでいいとかホンキで思ってんの」
 問いかけに似たそれは、けれど何も求めていないようにも聞こえた。静かなそれはだからこそ胸の奥に落ちる。
「それ」
 淡々としていたはずの声音が、焦れたように僅かにとがった。
「お前のなんだけど」
「え……」
「俺の話の続きも、それも、いらないなら自分で捨ててけ」
 逃げ出そうとしていたことも忘れて、追いかけた先。強い眼差しに引きずられるように全てが崩れた。
 てらいなくただ真っ直ぐに僕を映しているこの人から、どうやって逃げられるだろう。僕のものだと告げられたそれを、どうして捨てられるだろう。
 捨てたくないと思う自分に、その衝動に戸惑う。
「発作が起きて頭ん中真っ白になったって言ったけど、それはでも正確じゃない」
 一歩、躊躇いのないまま詰められる距離。
「あの時、公平が咳き込み始める少し前」
 痛いくらいの視線に焼き切れそうで。
「あいつが持ってた紙袋がお前にやったはずのモノだってのはすぐに分かった。最初はあいつが横取りしてきたのかとも思ったけど、中身はどうやら違ってるみたいだし。どういうことなんだって、ただそれだけで頭ん中が一杯で」
 身じろぎひとつ出来ない。
「だから、一気に具合の悪くなった公平を目の前にして大事な幼馴染の体調より、別のことに気を取られてた自分が許せないと思った。それなのに、それでもなお、なんで公平がそれを持ってたのかとか、お前が公平に渡したのかとか、いつの間に知り合ってたのかとか。そんなことにこだわってる自分がそこにいて、俺はうろたえた」
 逸らされない瞳が切なげに揺れる。
「みんなが公平を心配してる中で、そこから抜け出せないでいることが信じられなくて苛立ちばかりが煽られた。その感情の在り処に気付きもしないで自制すら出来ないまま闇雲に突っ走った挙句があの暴挙だ」
 伸ばされた指先が、一瞬唇に触れる。それだけで震えた。
「お前を責めながら、だけど俺はその実公平のことなんて考えてもなかった。言い掛かりでしかないそれに、お前が縛られてしまえばいいと思った」
 口元が、自虐的に歪んだ。
「お前が誰かのためにつくったものなんて、粉々になってしまえばいいと思った」
 胸を塞がれたみたいに苦しい。
「理不尽さを自覚しながら、そうさせたのは誰だなんて、全部をお前に押し付けて」
 全てが痛い。だけど、まるで目の前の人のほうがよほど痛そうに見えた。
「それなのに。そうやって戻ってきたはずの日常はあまりに味気なくて。大事にしてたはずの時間までも集中できないまま不安定な自分を突きつけられた。何より、お前との時間が俺を変えたんだってことをこのドアが教えてくれた」
 この部屋の、ドア。楽しかった時間の詰まった場所への入り口。逃げ出したあの日。
「お前は来ない。あんなふうに詰られて来るわけがない。仕向けた自分を自覚しながら、それでもドアが開けられるたびお前を探すのをどうしても止められなかった。他の誰でもない、お前を」
 言葉が回っている。だけど意味が分からない。
「そんなことを何度も繰り返して、ようやく分かった。そもそも主軸が違うんだってことに。公平じゃない、お前なんだって。知らない間に、お前が公平と親しくなってた。菓子なんて俺以外と作ったことないみたいだったのに、そんなお前があいつに作ってた。そんなことで、それだけで。みっともないぐらいにうろたえて、頭に血が上ったんだ」
 分からないまま、ただ言葉だけが降り積もる。
「だから完全に見落としてた」
 のぞいた苦笑い。
「あれはお前のせいなんかじゃない」
 そんなわけがない。言葉にならないそれが伝わったみたいに、目の前で首を振られた。
「あの袋、俺の作ったロールケーキも入ってたんだろ。原因はアレだ」
 ロールケーキ。そう。分かるように半分残して入れた。だけどそれは。
「まるで見せびらかすように公平がマフィンを手にしてたから、俺のを食ったとは思わなかった。どんだけ周りが見えてなかったんだってことなんだけど」
 自分の作るものはアレルギーのある人向けって、そう言ってた人はどこかばつの悪そうな表情で僅かに視線を外す。
「卵は入れてあった。あれだけじゃない。今までお前にやったヤツは、途中から全部な」
 途中から、全部?
「最初は単純に反応の薄いお前をどうにかしてやろうと思っただけだった。卵もだけど、砂糖の分量とか食感とか色々加減して。わかんなかっただろうけど、お前、途中からマジ美味そうに食ってて、密かに満足してたんだ。考えてみれば、十分特別だったんだよな。お前限定で作ってたんだから」
 向けられた言葉を掴み損ねる。特別とか限定とか。与えられるはずのないそれらが次々に落ちてきて、どうしたらいいのか分からなくなる。僕の手にあるべきものではないのに、手を伸ばしたくなる。
「傷つけたのは分かってる。悪かったとも思ってる。身勝手なのも承知のうえだ。いまさらだと言われても仕方が無い。だけどそれでも俺はお前みたいに簡単に引けない」
 いつか失くすものかもしれないのに。
「誰が相手でも、な」
 強い力がその瞳に戻っていた。まるで逃げだしたいと思う僕に気付いたかのように。
「とりあえず宣言だけ、しとく」
 やわらかな声音。それだけで簡単に僕を揺さぶってしまうことを知っているような気さえする。抵抗するように目を閉じた、その瞬間。
「逃げるのはナシな」
 僅かに唇の端に触れた何か。
「やっぱ、ちと甘かったか」
 耳元に落ちたそれに、鼓動が跳ねた。
「え、いま、今、なに」
「お前が特別って言ってるオトコの前で、無防備なカオしてっからだよ」
 転がりでた声に、返ってきたのは満面の笑み。
「待ってるから」
 それは、あの人の隣で見せた穏やかなものを上書きしてしまいそうになるほど印象的で。ただそれだけで簡単に囚われてしまいそうになっている自分を隠すように俯いた。縛り付けた気持ちが緩んだのに気付きながら。

 

 

 


「冷凍~、ぜってぇ手抜きだ」
「時間考えろ、十分だろうが」
 型に合わせて敷かれたパイシート(というものらしい)にフォークで穴を開けている僕の目の前。カボチャや牛乳なんかをまとめて乱暴に混ぜながら不機嫌そうな人を尻目に、マイペースな人はとても楽しそうに見える。
「あ~あ。この間まで抜け殻みたいだったのに、もうこんなかよ」
「うっせぇ」
「史くん、こんなヤツ今すぐ一刀両断にしてやって」
 パイ皿にフォークが勢いよく当って、鈍い音がした。
「何が史くんだ」
「え、いいじゃん別に。ね?」
 親しげに呼ばれることに慣れない僕がまごつく間に、さらに促されタイミングを逸する。
「心が狭いねぇ。やだやだ。史くんの時計の君が聞いたらどういうんだろうねぇ」
「お前、マジでパイは食いたくないんだな」
「あー、はいはい。分かりました。大人しくしてますって」
 時計の、何?僕は借り物のそれを定位置に見る。借りっぱなしだったけれど、もうそろそろ買わないと。
「あとはオーブンに入れるだけだからな。もういいぞ」
 気付けばパイ皿にはボウルの中身が流し入れられていた。
「飲むモン入れてくるから、これ食べてろ」
 差し出されたドーナツに、横から手が伸びる。
「秀一、これおからドーナツだろ。史くん、食べよ」
「公平、お前に作ってきたんじゃないんだけどな。俺は」
「だって昨日言ったじゃん。食べにいくから卵抜きって」
 幼馴染の力関係がなんとなく分かった気がする。諦めたように背中を向けた人を気にも留めず、大きな口を開けて頬張る人には勝てないに違いない。
「お前はこっちな」
 差し出されたマグカップは真新しいもの。そしてその香りは。
「あー、いいなぁ。俺も同じのがいい」
「一人分しかないんだ。お前のはない」
「ひっでぇ。どういう扱いだよー。史くん、このクソ暑いのにホットなんて嫌だよねぇ」
 期待を込めた眼差しに、思わず差し出しそうになったのだけれど。それより強い視線に晒されて、握りこむ。
「いただきます」
 湯気の向こうに、柔らかくなる目元。
「美味しい」
 ふわりと甘く優しいそれは、後口が少しだけ苦く残る。
「ビターチョコレートだから、甘いだけってわけじゃないんだけどな。もう少し甘い方がいいか?」
「あー、もう甘すぎだっつーの」
 答えるより先、その人は大げさに顔を覆い、天井を仰ぐ。
「あーあ。なんかつまんないなぁ。こんなことならいっそ史くんの手作りマフィン、代わりに食ってやるんだった」
 耳障りな音がして、コーヒーメーカーから注がれていた中身が跳ねてテーブルに染みを作っている。
「代わりって何だ」
「え、だってあのマフィンって秀一の誕生日プレゼントだったんだろ? だから食うのはさすがに遠慮したのに」
 固まったまま動かなくなった人に、僕も息を飲む。本気で気付かなかったという人に、そしてまさかこの人に気付かれていたとは思わなくて。
「なに、お前食わなかったの?」
 意地悪くほくそえむ横顔はまさにしてやったりと言わんばかり。
「鈍いヤツだねぇ」
 そんな実に楽しそうな人の目の前に、ティーパックが突き出された。
「え、なにコレ」
「飲みたいなら勝手に飲め」
「知らないでいるよりマシだろ?」
 微妙な空気をつくった張本人は、そう言い置くと袋からさらにドーナツをつまんで咥え、ティーバックを受け取りコンロに向かってしまった。目の前に見えるのはひどくばつの悪い表情をした人だけ。
「あの、な、マジであれ、俺のだった?」
 うなだれたまま、それでも窺うように視線を投げかけられ、僕は頷いた。返ってきたのは大きなため息がひとつ。
「マジ、俺、最低」
「あ、でも、僕も何も言わなかった、から」
 あまりの落胆振りに僕の方が驚く。そんなに期待されるほどの出来ではなかったのに。
「な、それ、他のヤツは食べた?」
 他の、って。
「味見は、してもらいましたけど」
「……真中サンと野木サンってヒト?」
 言い当てられてさらに驚く。確かに他にそんなことをお願いできる人がいない僕だけれど、名前なんて言った覚えもないのに。
「……、か」
 つぶやくようにこぼれたそれを聞き取ることはできなくて、その後を追ったのだけれどそれはすぐに笑顔に振り払われた。
「ま、急がずいくさ」
 そして差し出されたもうひとつの袋。
「サーターアンダギー。沖縄のドーナツ」
 一口サイズの丸いそれ。
「俺は結構好きだけど」
 長い指先が運ぶのは、僕の口元。
「お前はどうかな」
 促されて目を瞬かせた。だけどこの気恥ずかしさに気付いているだろう人は、楽しそうに待つばかりで、その手を引く様子はない。
「ん?」
 数センチの攻防に、僕は押し切られて口を開けた。カリッとした表面と中の食感の違いに、ほんのりした甘さを味わおうとしていた僕の唇は、最後に触れたものに気付いて止まってしまった。
「お前は、好き?」
 触れたのは一瞬。だけどその指先を、その人はそのまま自分の唇をなぞり意味ありげに舐めた。もうどんな味なのかなんて分からなくなる。
 それ以上まっすぐ見られないまま、ただ全身が心臓になったんじゃないかと思うほど鼓動をうって、なにがどうなっているのか自分でも分からない。
「パンクしそうだな」
 ただ惜しむことなく向けられる全ては慣れなくて、だけど。
「待ってるから、ゆっくり来いな」
 髪を撫でられた、その手は甘い匂いがした。それはまるで。
「特別だってこと、ちゃんと信じさせてやるから」
 いつか溶かされてしまいそうな気がした。甘い匂いのするそのホットチョコレートのように。

 

ホーム     NOVEL