張り詰めた空気に混じる心地良い緊張感が何より好きだった。これ以上のものはない、あるわけがないと思っていた。
 その場所で、あの人に出会うまでは。

 

 

 

 

 ホイッスルと同時、電光掲示板に光る得点が、ゲームセットの数字へと変わる。暁星バレー部最大の目標だった全国制覇。瞬間、疲労は高揚感に取って代わる。
「やった、やったぜ! タカっ」
「勝った! 勝った! 貴先輩、勝った!」
 歓喜の声に、掴まれる腕に、汗だくのユニフォームで、テーピングだらけの両手で応える。嬉しくて、ただ嬉しくて、こみ上げる思いに言葉が追いつかない。
「優勝おめでとう。今の気持ちは?」
 歓声と歓喜に包まれ、投げかけられた声は途切れながらどこか遠く聞こえる。誰が誰に何を言っているのか分からない。まとまりのない感情に振り回されながら、最高の気分を味わっていた。間近でたかれたフラッシュと中学の大会にしては多すぎる記者に囲まれてしまうまでは。
「これで心置きなくってことになるんじゃないかな」
「守くん、桜華台進学も現実になりそう?」
 本当のところどうなの、と続く問いかけ。幾度となく繰り返された、進展しないインタビュー。
「ようやく全国が終わったばかりなので、まだ何も考えていません」
「桜華台から話はあったって聞いてるけど」
「いえ、まだ本当に白紙状態なので。進路についてお話することは何もありません」
「それじゃ守くんの気持ちとしては、どう。いってみたいとは思うでしょ、名門だしね」
「名門というのはもちろん周知の事実ですけど」
 今まで試合に集中したいからと避けてきた話題だけに、さすがになかなか離してくれそうにない。予想通りの展開。言葉尻を濁さないように気遣いながら、手の中にあったはずのものすべてが醒めていく。冷やりとしたものが胸のうちを撫でるのを感じた。
 たかだか中学生の進学先が、こんなに大騒ぎになるのは強化選手になった一年ほど前からだ。最近のバレー人気の低迷とそれに伴う弱体化に歯止めをかけるという理由らしいそれは、選抜メンバー最年少の俺を顔出しさせることでも果たそうとした。選ばれたことに対しては純粋に喜べたが、同時にそれは大きな弊害も生んだ。始終つきまとう視線と取り囲む黄色い声援。無作法なカメラと無神経なマスコミ。もちろん全てがそうではないけれど、俺はいい加減うんざりしていたのだ。
 本当のところ、進学先についてコメントする気はない。中等部の連中に対しては時期をみてとは思っているが、勝手に作りあげた守貴広しか知らない他人に説明する気はさらさらない。名門チームからの誘いは事実で、進学することが内定していることも。
「暁星と違って男女共学だからね。本決まりになったら何かと大変なのは分かるけどさ。桜華台の受験倍率は間違いなく上がるって噂だし」
「憶測ばかり乱れ飛んでるのも嫌なものだろうし。このあたりで正直な気持ちを、ぜひ聞かせてよ」
 専門誌ではない記者が多く混じる今日のこの状態はバレー選手の俺へのものではない。僅かに見える見知った記者さんには申し訳ないけど『好きな女の子のタイプは』なんて類の質問が紙面の八割を割くような興味先行の記事に協力する気もない。簡単に諦めることがない人達だと知ってはいるけど、目の前の窮地に今はただはりついているだろうはずの笑顔で煙に巻くしかない。
「あの、ですね」
 向けられるマイク。カメラのフラッシュ。無遠慮な視線全てに辟易しながら。
「失礼します。すみません、連絡事項がありますので少しあけてください」
 ため息が零れ落ちそうな俺を引き止めたのは、騒々しいこの場所にそぐわない穏やかな声だった。耳障りのいいそれは不思議と何にも邪魔されることなく俺まで届き、反射的に顔をあげる。取材陣の苛立ち混じりの恨めしそうな表情の向こう側で見え隠れしているのは、大きな瞳が印象的な人だった。オトナ達がやんわりと断ったぐらいで引き下がるわけもない。張り付かれたまま数歩。そのTシャツに絡まる腕章に、俺と同時に気付いた彼らは一時中断を余儀なくされ、俺はさらに数歩進めてわずかばかりの開放感を味わう。
「割り込んで申し訳ない。終わるのを待ってようかと思ったんだけど、ちょっと時間がないものだから」
 目の前、遠慮がちにかけられた声と向けられた笑顔。ふわりとした柔らかな空気をまとう人のそれは、どこかぎこちなくて。そんな表情をさせているこの状況が申し訳ないと思うと同時、衝動的にこの人の全開の笑顔が見たくなった。
「こちらこそ、すみません。正直助かりました。できるならこのまま戦線離脱したいところです」
 その人だけにしか聞こえないくらいの小声で、意味深に片目を閉じると、ようやくその人も安心したようなそれになる。とたんに幼くなるその表情に、なぜだか胸の鼓動が跳ねた。
「今から表彰式の準備に入りますので、控え室へ移動してください。式は三十分後の予定ですが、準備が出来次第始めますので呼びに行くまではそちらで待機ということになります。閉会式がその後……」
 気がせいているのだろうか少し早口なそれは、高くも低くもない心地よさを覚えた。綺麗に切りそろえられた爪先が、握り締めたファイルの端でわずかに白くなっている。真っ黒なちょっと硬質そうな髪。襟元からのぞく細い首。顔が見たいなと、俯いたまま表彰式と閉会式の進行を説明している人を前に、ぼんやりとそう思った。
 左腕にある大会スタッフの腕章。その細い腕に絡まるそれは青色。青色の腕章は、各高校からの応援要員であることくらい知っていた。だからもちろんこの目の前にいる人は、確かに俺より年上ということになるのだけれど。
「あの」
 かわいい、なんて男に対しての褒め言葉とは思わないが、正直それしか思いつかない。顔かたちだけではない、まとっている空気なのかもしれない。ふんわりとした優しいそれは、なぜだか落ち着かなくさせる。
「あの……」
 困ったような表情で見上げられて、俺は顔が見られたことではなく、自分がさっきから何も返答していないことに気づいた。
「すみません、分かりました。ありがとうございました」
 その台詞を言い終える間もなく、再び背中が騒ぎだす。
「あ、守くん。もう一言だけ」
「進路のことは」
「濱口監督にはもう会ったの?」
「すみませんが取材はここまでにしてください」
 追いすがる記者陣にも、ようやく横脇から出てきた大会役員や協会関係者からストップがかかる。俺は軽く頭を下げて、中北から放られたウェアに袖を通す。勝利の余韻にまかせてコートに佇むメンバーを軽く追い立て、後に続きかけたはずの俺の足はなぜだか不意に動かなくなった。理由もなく、なぜだかひどく心残りな気がして。ただその気持ちに押された。
 何気なさを装って振り返った瞬間、見事としかいいようのないタイミングで視線が絡んだ。偶然とはいえ出来すぎなそれは、微妙な気まずさも感じたのだと思う。わずかに目を見張ったその人もまた、それきり動かない。
「貴先輩」
 前を歩く後輩達が、立ち止まってしまった俺を不思議そうに呼ぶ。
「おう」
 そう返事をしながら、いつまでも視線を外せない。
「貴先輩、監督が控え室でお待ちですが」
「悪い。今行く」
 かなり前を歩いていたはずの慎一郎に間近まで駆け寄られ、諦め悪い自分を知る。何をどうしたいのか分からずじまいで、振り切るように背中を向けた時。
「あのっ!」
 呼び止められた。ただそれだけのことに、ひどく胸が騒ぐ。
「あの」
 一呼吸分、迷うようにとぎれて続いたのはたった一言。
「優勝おめでとう」
 もう一度振り返ったときに見えたのは、あの真っ直ぐで柔らかな笑顔ではなく、逃げるように走っていく後姿だけだった。

 

 

 

 

「さみぃなぁ」
 吹きさらしの寒さに首をすくめつつ、そうはない一人になれる場所に座ったまま手の中のスチール缶をもてあそぶ。立ち入り禁止という理由だけでなく、この時期に屋上にあがってくる物好きもそうそういないだろう。
「もう効力ゼロかよ」
 温もりはもうわずかばかり。目的地に行くための自衛手段としてコーヒーを買ったつもりが、自販機から転がってきたのは目茶目茶甘いロイヤルミルクティーなんつーもんで。おかげで冷えていくばかりのそれを重いまま手にしているしかない。
 こんなに寒いのに、やっぱり思い出すのはあの夏の日。それもどうしてだかあの歓喜の瞬間ではない。出会いと呼べる代物ですらない、すれ違った程度のそれは、決まっていたはずの一番間近な将来設計さえ危うくさせていた。
『考えさせてくれって、守』
 決めていたはずの進路を有無も言わさず保留にし、周囲を慌てさせながらだんまりで押し通してきたものの、いよいよこれ以上は待てない、とついさっき最後通告を受けたばかりだ。それでもまだ答えはでない。
 桜華台へ行って、バレーに集中できる環境を手に入れることに何の迷いもなかったのが嘘のようだ。一番大事なことだったはずなのに、俺はどうしても振り払えない。あの人の笑顔が。声が。たった一度きり通り過ぎただけの人が、どうしても忘れられない。
「どうするよ、俺……」
 不可解でいて至極単純なこの感情。知らないと突っぱねるには子供でもなく、納得してしまうには躊躇いが大きすぎた。
 中高一貫教育の男子校というだけに、暁星にはその手の噂や訳の分からない行事、決まりごとが当たり前に存在している。在籍しているうちに毒されてしまうのか、大抵の連中が世間一般の偏見は棚上げして、その短い時間を楽しんでしまう。ご多分に漏れず俺もそんな一人だったはずだけど、それは結局どこか傍観者でいたからだ。本気なんてそこにあるわけがない、そう思っていた。
「ありえないって。絶対」
 つぶやいたその語尾が上がる。何かが邪魔してる。納得しないと言い張ってる。否定の言葉を続ける俺自身の中に、その人の笑顔がある。消しても消しても、消えない。消えるどころか、どんどん大きくなるばかりだ。
 理性はやめておけと言っている。だけど自分の胸を叩く何かで、気持ちのブレーキはきしむ。今にも走りだしてしまいそうだ。名前さえ知らない相手にこんなにも捕らわれてしまうなんて、正気の沙汰と思えない。忘れてしまえればいいのに、全部。意のままにならない自分の気持ちに抵抗するように、目を閉じる。冷え切ってしまった缶は小さな音をたてて、形をわずかに崩した。

 

 

 

 

 テレビの画面に映る華やかな垂れ幕と色とりどりのユニフォーム。そしてその中に見える真っ赤なジャージは、その場所に当たり前のように存在する事を許された憧れの象徴。
「申し訳ありません」
 頭を下げたあの日。
「何が君の気持ちを変えたのかね。ここなら最高のチームで、最良の環境が望めるのに」
 そう言ってくれた尊敬する人が、画面の向こう側で難しい表情のまま見える。
「タカ、お前は絶対桜華台に必要なんだよ。ユースの時みたいに俺達と一緒にやろうって言ったじゃないか」
 憧れていた人が高々と手を上げる。誇らしげな表情を、けれど羨ましいとは思わない。
「わがまま言って申し訳ありません」
 憧れのユニフォームも、約束されたレギュラーポジションも簡単に捨てられた。
「しょーがねぇよな。何も考えられなかったんだから」
 思い出すたび笑いが堪えられない。あんなに散々悩んだくせに、答えはなんともあっけなく手の中に落ちてきた。あの日のTシャツを暁星の制服に変えて、高等部進学試験開始十分前に現われたその人は、試験用のテスト用紙を両手に抱えていた。
 最初はあんまり考えていたせいで白昼夢でも見たかと思った。まさかの展開に試験が始まってもそれどころではなく、呆けたままの俺は試験官の田渕に頭を小突かれた。渋々目の前にある字面を追いかけ始めて、いまさらに気付いたのだ。暁星の高等部にいるなら、追い掛ける位置としては絶好の場所にいるのだと。
 試験終了直後、気がつけば桜華台への進学取消に走っていた。六年間の憧れは、あっという間に蹴り飛ばされて彼方。
「井澤さん、か」
 その時盗み見た名札が、一つ目のデータをもたらした。高等部入学まで一ヵ月と少し。もう少しで、会える。先はまだまだ長い。
「井澤、何ていうんだろうな」
 画面から届く歓声と興奮したアナウンサーの声。引き付けられて止まなかったそれは、もちろん今でも大事なものだ。ただ、優先順位が入れ替わってしまっただけで。
 多分もう俺をあんなふうに再び騒がせられるのは、あの人だけだ。俺の中の価値観を一瞬でひっくり返してしまった人にもうすぐ会える、その瞬間を思い描きながら。

 

 

 

 

「ちょっと待て。親父、今なんて言った?」
 何の前触れもない突然の帰国に驚く息子は無視され、半ば強引に連れて来られた洒落たレストラン。案内された個室に違和感を覚えたものの、それでもまあ久しぶりの親孝行もしてみるものかと『シェフの本日のお勧めメニュー』なんて呑気に眺めていた俺は、約半年ぶりに会う親父をまじまじと見た。 ワインも飲んでもいないのに、酔うはずもない。だけど、今、親父の口から重要な言葉が聞こえた気がした。
「貴広、しばらく会わん間に耳が遠くなったのか? 酒井医師にでも診てもらえ」
 冗談なのか本気なのか。この親父のことだから、きっと本気で言ってるんだろうと知りながら、再度質問の仕方を変えて問う。
「親父、もしかして今、再婚するとか言ったり、した?」
 もちろんこの後の台詞では、まさかな、なんて言葉が続くはずだった。からかうように笑った俺は、けれどその台詞を口にすることはできなかった。至極真面目な顔で即答した親父のせいで。
「何だ、ちゃんと聞こえてるんじゃないか。今日はお前のためにわざわざセッティングしたんだからな。ありがたく思えよ」
 ありがたく? それは今この状況でふさわしい言葉ではないはずだ。そう場所柄もわきまえずに叫びたくなる俺を押さえているのは、それでもやはり目の前で悠長にワインなんて頼んでいる親父の姿だと思う。こんな大事な話を前にして、今更赤ワインだろうが白ワインだろうが何年物であろうがどうでもいい。全日本ユース代表で試合に出たときも、桜華台からの推薦話のときも帰国しなかった親父がこの中途半端な時期、私用で帰国したと聞いた時。不思議に思ったそのからくりが、現実となってここにある。
「タイが緩んでるぞ。もうすぐ高校生にもなるくせに、だらしない奴だな」
 それでも一応息子の年が分かるぐらいには関心があるらしい。俺を大人扱いしているのか、はたまた何も考えていないのか。それにしても乱暴な話には違いない。どこに再婚相手を子供に紹介するとき、説明なく結果のみを伝達する親がいるのか。慎重さのかけらもなく、まして引き合わせに感謝しろとくる親なんてこの世にいるのか怪しいものだ。確かに『再婚? ふざけんな!』なんて言ってしまうような子供でもないつもりだけれど。
 母が亡くなって七回忌も過ぎ、親父はまだ三十五歳。何と言っても母が病弱だったがためだけに医者という職業を選び、母の未来は長くはないだろうと言われ猛反対する親を強引に説得し十九で学生結婚を果たした強者である。正直、誰が逆らえるというのか。
 深いため息の後、残ったのは諦めと純粋な興味。中学へ上がってからは海外での仕事が続く親父の生活空間の中に、いまさら一人増えたところで俺自身の生活には何の支障もない。要するに母親としてではなく、親父のパートナーとなる女性と考えればいいわけだ。そう思うと幾分楽になる。
「まあ、料理でごまかされてやるか」
 ため息まじりに一人つぶやいた声は、親父の声に消された。
「あぁ、由里香。時間通りだね」
 背後のドアが開いて、親父が席を立つ。ゆっくりと近づいてくるであろうはずの女性に対し、さっき指摘されたタイを直す。こんなスーツまで着せられて、気遣いを強要されることに少々閉口しつつも、社交辞令は必要不可欠だ。とりあえずは完璧な笑顔で迎えるべく立ち上がる。出来の良い息子のふりで。
「はじめまして、井澤由里香です」
「守貴広です」
 現われたのは、やわらかなベージュのスーツが良く似合う美人。つい笑顔を向けてしまいそうにさせられて、感じた既視感に困惑する。いつもならすんなり出てくるはずの言葉も引っ込んだまま、その女性の柔らかな物腰に、微笑みに、なぜだか強ばる表情をなんとか取り繕う。だけど。似てる。誰に?名前、何と言ったっけ。確か、それを俺は大事に繰り返した記憶がある。
「それから、ほら挨拶して」
 穏やかな声と優しい笑顔が投げ賭けられたその瞬間。思わず息を呑む。
「はじめまして。井澤譲です」
 空白だった俺のデータ。知りたかった人の名前は、その人自身の口からもたらされた。

 

 

 

 

 スーツケースに慣れた手つきで荷物を詰め終え準備万端の親父を横目に、俺は何度も言葉を飲み込んだ。どうにもならないと知っていながら、かなり諦めが悪い自覚はある。けれど。
「どうした。まだ反対だと言い張るのか」
 再婚自体に反対するつもりはない。全く無い。ただしそれは相手があの人の母親で無ければ、の話だ。レストランの食事は史上最悪のイライラに押しつぶされそうで、せっかくのフルコースも何一つ満足に味わえなかった。お世辞にも和やかな、とは言えない空気の中で、それでも隣に座ったあの人を全身で意識していた。
『譲よりずっと貴広さんは背が高いのね。これじゃどっちが年上なのか分からないわ』
『いや。うちの貴広は図体こそでかいがまだまだだ。譲君、不出来な弟になるわけだがよろしく頼むよ』
 兄弟? おとーと?! 言われるたび叫びたくなるのは俺一人。親父と、自分の母親と笑顔で団欒しちまうその人は、無表情の俺に関心もないのか食事が終わるまで終始穏やかで。衝動に突き動かされるように帰りのタクシーの中ご機嫌の親父相手に、おめでとうの代わりに反対を宣言してしまうほどそれは最低の気分だった。
「我が息子は自立した大人のようだとしか言われたことがないんだ。俺の自慢を減らさないでくれよ」
 そりゃ残念。知ったことかとばかりに返事もしないでいると、親父は駄目押しを口にした。
「正式に籍を入れるのは当分先だが、譲君とは仲良くしろよ。兄弟になるんだからな」
 再婚相手に連れ子がいる。それもありな展開だろう。だけどよりによってそれがあの『井澤さん』だなんて、悪い冗談にもほどがある。兄弟になんかなって、何が嬉しいものか。
「次に会うときは、多分結婚式前だろうが、それまでにはその無愛想なカオをなんとかしといてくれ」
 腕時計に視線を落とすと、言いたいことを言い終えた親父は荷物を持ち、俺は黙ったままそれでもいつものように後を追う。エレベーターは丁度やってきたところで、いつもならエントランスまで降りて見送るのが扶養家族の義務だという親父が珍しく止めた。
「じゃあな、貴広」
 ドアはためらいもなくあっさり閉まる。しかしそのまま下降するはずの箱は、思い直したようにもう一度開いた。
「何? 忘れ物?」
「あぁそうだ。譲君、明後日にはこのマンションに引っ越してくるからな。分かってるだろうが、兄弟喧嘩なんてするんじゃないぞ」
 ついうっかり忘れてた。そんなふうに続けられた言葉が理解できなくて、呆然とした。引っ越してくる? いつ? 誰が? その意味に気づいた頃には、親父はすでにタクシーの中というわけで。親父の策略にまんまとはめられた事に文句一つ言えず、俺は受け入れることしか残されていない現実に向き合わなければならなくなったのだ。兄と弟として暮らすそれが、突然日常になるなんて。
「兄貴だなんて、納得できるわけないっつーの」
 好きな人と家族になれて嬉しがるくらいなら、その程度の気持ちなら、あんなに悩まなかった。単純に一緒にいられることを喜んでしまえるぐらいなら、逆にあのときに忘れてしまえた。そして今頃は、桜華台で寮生活のバレー三昧でいたはずだ。
「あっちは完全に忘れてるっていうのに」
 同じ学校。たった一つの年の差。接点があるようなないような微妙なポジション。それでも少なからずの共通用語はあると踏んだのだろう大人はそれを切り出した。しかし。
「バレーをやってるんでしょう? かなり上手なんだって聞いたけれど」
「ま、その身長が有利なスポーツを選んだよな。貴広」
「譲はスポーツが不得手だし目立つ方ではないでしょうから、同じ学校でも貴広さんは知らなかったでしょうね。だけど譲は知っていたんじゃないの? 同じ学校なんだし。ね」
 守貴広と聞いて反応もなく。バレーのことに触れても来ない人。訝しむ俺の目の前で、目の前の人は曖昧に笑った。
「中等部は全国優勝したんだよ、確か」
 まるで記憶の片隅にあったものを手繰り寄せるかのように、おぼろげに答えられて理解した。そう。確かにあの時、目の前の人は俺の名前を呼ばなかった。知りもしなかったし何の興味もなかったのだ。『おめでとう』なんて社交辞令、真に受けてたバカさ加減にあきれる。傷ついたのはプライドなんてつまらないものじゃない。俺が忘れられなかった人は、俺を覚えてもいなかったあまりに苦い事実。

 

 

 

 

「貴広さん、本当にごめんなさいね。こんなに慌ただしく引っ越しだなんて。入学式は今日だったんでしょう?」
 どうやら俺の表情には、思い切り寝不足がでてるらしい。今朝の入学式でも本気で寝そうになって、見知った顔ばかりに囲まれてるおかげで、片っ端から寝てんじゃねぇと後頭部や背中を式の間中バンバン叩かれてたぐらいだから、気付いて当たり前か。俺は曖昧に笑ってみせる。
「私も今回はイギリスで仕事が入ったものだから、譲にも一人暮らしさせるつもりでいたのよ。身の回りのことは一通り出来るし」
 義理の母親になる予定のその女性は、およそキャリアウーマンには見えないほど穏やかに微笑んだ。そしてその隣には、あの人。俺の入れたコーヒーのカップの底をスプーンでクルクルと回している。
「だけど貴方のお父様に、この際別々に暮らすより、早くお互い慣れたほうがいいんじゃないかって言っていただけて、それもそうかなと思ったの。私も本当ならもう少し出発が先になるはずだったから」
 俺を完全無視した大人の事情。おかげでこの二日、せっかくの休日は散々。寝不足のおまけつき。恨み言は尽きないほどあるけど、今更どうにもならない。目の前にいる人もまたどこか居心地が悪そうに俯いたままだ。
「そうですか。それで親父とイギリスでは御一緒に?」
 実際どうでもいいことだけど、彼女が一方的に話していられるのも限界が見えていて口にした言葉だった。けれどそれは逆に彼女の頬を染めさせて、微妙な空気に包まれてしまう。どちらも言葉は続かない。リビングの向こうに見えるダンボールの荷物に、重たい現実が見え隠れしているように思える。
「ごめんなさい。そろそろ行かないと飛行機の時間なの。譲、貴広さんと仲良く。ね」
 居たたまれなくなったのか、言葉どおりなのかはわからない。けれどそれにあの人はあの時と同じ笑顔で応えた。
「分かってます。いってらっしゃい」
 うっかりその横顔に見惚れそうになる自分を叱咤し、俺も立ち上がる。
「ここでいいわ。貴広さん、本当の兄弟だと思って仲良くしてやってね」
 選択権などあるはずもない。俺には頷くことしか残されていない。間の抜けた返事。けれど彼女は満足したらしい。
「親父のことよろしくお願いします」
 重いドアが閉まる前に付け加えたその言葉によって。

 

 

 

 

 俺は最初から躓いたのだ。あの時この人に出会っていなければ、もっと巧くやっていけたのかもしれない。けれどこの人を忘れられなかった俺は、俺を忘れてしまっていた人の前ではもうあの時のようには笑えない。最初からやり直したかった。出会ってさえいなければ。出会ったからこその選択がこんなに皮肉な結果になるなんて。
 手持ち無沙汰なのか、カップを手にしたままぼんやりしている人。その背中をダイニングテーブル越しに見ながら、自室に引っ込むタイミングを計れないままの俺。お互いがお互いを持て余して息を潜めている静か過ぎるリビング。
 そんなどこか重苦しい空気に小さく触れるように、やわらかな声が落ちてきた。
「あの、あのさ」
 掛けられた声はあの夏の日と同じだったのに、強張った表情がそれを裏切っている。
「貴広君って、呼んでもいいかな」
 うまくやらなきゃ。そんな気持ちが流れ込む。そう。確かにそれは俺にもわかった。
「ほら、僕達いずれ兄弟になるわけだし、名字で呼ぶのって変だよね」
 事実だった。それでもその人の口から聞くどこか義務めいた言葉は、想像以上に俺を頑なにさせた。
「いいですよ、別に。じゃ俺はあなたをどう呼びましょうか」
 他人行儀な丁寧さで、刺のある声で。無表情より冷たい表情で薄く笑う。きっと俺自身大嫌いな表情。
「譲さん? それともお義兄さん、とでも?」
 色をなくし、表情を失いそうになりながらそれでも俺をまっすぐに見る人に、ようやく踏みとどまる。他に言い方は幾らでもあって、その中でこれ以上ない最低な言葉を選んだ。俺がこの人に近づけないように。この人が俺に近づかないように。だけどそれで傷つく人を目の前で見ることもつらくて。思わず伸ばしかけた手をとまらせたのは、響き渡ったインターホンの音だった。
 反射的に目にしたカメラ越しの顔に見覚えがない俺の後ろから、『テツ』と小さく聞こえた声。それはどこか助けを呼ぶようで。思わず振り返ったそこに、それを証明するような笑顔がこぼれたとき、俺は思わず奥歯を噛み締めた。
『誰だよ、こいつ』
 口を開けばそう問いただしてしまいそうだった。
「あ、あの、友達が片づけを手伝ってくれるっていうんだけど」
「あ、そ」
 それが精一杯だった。自然にこぼれる笑顔を間近で見て、やっぱり無理だと思う。越してきた当日にやってくるオトモダチといるほうが、楽しくてホッとするに違いない。そんな当たり前の事実にたまらなくなる。そいつ誰だよと問いただす権利もない未来のオトウト。それだけの存在でしかない、俺。
「俺、でかけるから。メシも適当にやって」
 理由なんてこの人には必要ないのだ。それが耐えられなかった。俺だけが持つ必然。だから逃げ出した。何もかもから逃げ出して、そしてそれは今もずっと続いている。

 

 

 

 

 ボールかごがすぐに空になってしまうハイペースで、一人サーブを打ち続ける。一人きりのコート。
『個人練習をしたい』
 あの日。当てもなくマンションを出て、思いついたのは強化選手としての特権を利用すること。うちの高等部では物足りない、と言外に匂わせると、協会は簡単に市の体育館のコートを時間外にあけてくれた。オーバーワークを心配するコーチ陣からはカリキュラムも組まれた。練習後の付き合いが悪くなった俺に、彼女ができたらしいと騒ぐ連中もいたが、意味深に笑ってやったら誰も何も触れてこなくなった。心置きなくコートを独占し、好きなバレーと向き合う。今までなら真っ白になれたはずの時間。
「あぁ、もうっバカヤロウ」
 乾いた音をたててネットに引っ掛かったそれは、散らばるボールにぶつかって転がる。得意なはずのサーブミスが何本目かもわからない。何を練習しても巧くいかない。いくわけがない。個人練習と称したこの時間。ここにこうしていても、考えるのはあの人のことばかり。俺は全く身の入らない、練習にならないことを知っていて続けているのだ。
「バカは、俺か」
 バレーを始めて今まで一度だって一人で練習なんてしたことはない。バレーは好きだったけど、どちらかというと短時間集中型だったし、なにより練習は全員でというのがポリシーだった。だけどそれを曲げて俺は今、ここにいる。
「優しくない、ね」
 思い出すだけでキツい。あんな表情をさせるつもりじゃなかった。あんな風に言うつもりじゃなかった。そんなことばかり性懲りもなく繰り返す自分。何だか急に泣きたい気分で、ボールの散らばるその場に座り込む。
「自分で自分の首締めて、帰宅拒否症になってるんじゃ話になんないよな」
 せつなくて、悲しくて、やりきれない。あの人を見ていたくて、見ていられなくて。あの人に触れたくて、触れられなくて。それなのに抱き締めたいと思う自分。そしてそれ以上にあの人を傷つけるだけにしかならない俺の存在。
「譲」
 あの人の前では絶対に言えない、あの人の名前を俺はそっとつぶやいた。

 

 

 

 
 バレー以外のことには本当に疎いと言われてきた俺ではあったけれど、それを改めて思い知らされたのは案外早かった。
「おーっ、やっぱお似合いだな、あの二人」
 特別教棟の窓から見下ろせる渡り廊下。偶然見つけた譲は、あの日ドアホンごしに見たヤツに髪を払うように撫でられて笑っていた。
「なんか空気ちげーよ」
 この日ばかりではない。見かけるたび譲の隣には必ずそいつがいた。引っ越し当日にやってきたぐらいだ。かなり親しいんだろうとは思っていた。だけど。
「お似合いって、誰と誰が」
 過敏に反応しながら、それを悟られるわけにはいかない。気づかれないように視線を引き剥がし、興味なさげに盛り上がる連中を振り返る。
「おまえ、疎いにもほどがあんぞ」
「マジ知らねーの?かなり有名だけど。高森先輩と井澤先輩は中等部の頃からトクベツだっつー話」
「ってか、俺その二人知らねぇし」
 防御策に必死になる。一年前なら知らなかった。そう必死で繕う。
「え、今渡り廊下通ってたじゃん」
「タカらしいっつーか。なんつーか。よくそれでカノジョができたよなー」
「だな」
 こみ上げる笑いが止まらない。違う。気づかなかったんじゃない。俺が気づきたくなかっただけだ。『譲』と呼ぶヤツの声を聞いたとき、その眼差しを見たとき俺は確かに同じものを感じていたのだ。ただ知らないでいたかった。俺がいたいと望んだ場所は、もうずっとずっと前から別のヤツのものだったのだということ。それでも。
「貴せんぱーいっ!」
 唐突に呼ばれ、その声に思わず苦笑いがこぼれる。一年に戻ったはずの俺に、校内ではありえないはずのそれ。ついさっきまでそこにいた人を思ったのは一瞬。けれど通り過ぎただけの人がもういるわけもないと、覚えのありすぎる声の元へと視線を投げたのだが。
「よぉ……」
 引き寄せられるように見つけてしまった人に固まりそうになる自分を必死で押し止め、意識的に紙切れをひらひらさせながら飛び跳ねている後輩へと満面の笑みを向けた。
「どした、光樹。何やらかした」
「せんぱーい。崎が木場先生に資料を取りに来る用事を言い付かったんです」
 通行許可証なんだろう紙切れをコレコレと突き出している内ノ倉光樹の隣には現在中等部のアイドル崎佳也が大声で叫ぶ光樹の制服の裾を引っ張っていた。
「光樹、崎が恥ずかしいから大声だすなっつってるぞ。崎、光樹のお守りは大変だろ」
 恥ずかしいんだろう崎は、わめく光樹の隣で口ごもったまま俯いてしまう。
「えー。俺が崎の護衛なのにー」
「どうでもいいけど光樹、昼休憩あと十分しかないぞ」
「あ、ホントだ。それじゃ先輩また今度」
 大慌てで崎の手を引いて校舎の中へ飛び込んでいく光樹。そんな光樹に手を引かれるままに歩き出しそれでも必死で振り返って頭を下げる崎に手を振ってやる。
「やれやれ、間に合うのかね。あいつは」
 そうこぼした俺を取り囲んだのは胡乱なまなざし。
「やっぱ、お前ってニブい」
「どうしてこんなんがいいんだ」
 わけのわからないことを口走られても対処のしようもない。窓にもたれるように背中を預けると、目の端、あの人の後姿が一瞬だけ捕らえられた。
 会えたら、真っ先に笑ってほしいと思っていた。名前を呼びたかった。呼んで欲しかった。ご飯を食べたり、どこかに出かけたり。ゆっくりとやさしい時間を一緒に過ごしたいとホントに思ってた。思ってたんだ。
「どれもこれも今となっちゃ叶わぬ夢、か」
 夕飯どころか朝飯すら一緒ではない。ことごとく生活時間帯をずらしまくった生活。
「食いたかったな、あのチャーハン」
 個人練習を開始した日、帰宅した俺を皿に盛られたチャーハンが待っていた。鍋の中にはスープ。温めて食べてという小さなメモには続きがあった。
『家族予備軍として心配させてください』
 浮かれた気分は一瞬で吹き飛んだ。義務でしかないと知ってしまえば素直に食べられるわけもなくて。俺はその裏に乱れる気持ちのまま書き込んだのだ。夕飯は今後も一緒に取れないと。

 

 

中編