俺の全てを崩し尽くし、何を失っても守りたいと思わせた人。一番手酷く傷つけるのが自分なら、それを遠ざけようとして。離れようとすればするほど諦められなくなる。決めるはしから思い切れない自分。押し殺して、捨てきれない気持ちに足掻く。まるでそんな俺を嘲笑うかのようなタイミングで、神様ってヤツは現実を思い知らせるものらしい。
 よりによって、どうしてこんなところを見せ付けられなければいけないんだろう。玄関先、どこかうすぼんやりしていた頭の中が、真っ白になっていた。ここは俺の自宅のはずなのに、まるで俺がいることが間違いであるような気にさせられた。
 広い背中ごし。大きな手に守られるかのように見えたその人は。
「……る」
 別のヤツの腕の中にいた。
「あ……」
 小さく漏れた声も、慌ててそこから逃れた華奢な肩も、夢なんかじゃなくて。突きつけられたそれに小さく身震いした。
 あぁ、やっぱり。そう思いながら、つぶやいていた名前を胸のうちで反芻する。ここにはいられない。ここにいていいのは俺じゃない。それしか考えられなかったし、まぬけに立ち尽くすしかない自分を見せるつもりもなかった。
「お邪魔しました」
「あ、待っ……」
 偶然見えたその唇が俺を呼んだように聞こえたけれど、それももうどうでもいい。重い音が後ろでして、俺は全てを遮断した。

 

 

 

 

 歩くに任せていたら気づいたときにはもう市立体育館前にいた。いつもなら利用者の多い時間帯のはずだけど、不思議に誰とも会わなかった。それでも張り付いたままの笑顔が馬鹿みたいで、毒されてるなぁと思う。
 俺だけの場所にたどり着いてようやく崩れるようにコートに座り込んだ。目を閉じても頭を抱えても耳をふさいでも。振り払いたいのに、何度も何度も繰り返される。思い知らせるみたいに焼付いた残像はいっそう強くなる。ヤツの腕の中にいた譲。ヤツの背中にあったその手。濡れた唇。
 たかが失恋ってヤツじゃないか。こんなこと誰にだってあることで、トクベツ不幸なことなんかじゃない。好きになった人に好きになってもらえるなんて、そんな奇跡みたいなこと誰にでもあるもんじゃない。それが俺には与えられなかっただけで。そう、きっと忘れてしまう。こんな気持ちなんて。いつか、きっと。誰もがきっとそう言うだろう。だけど。
 近い将来、義兄弟になるはずの人。切れない絆は簡単には忘れることを許さない気がした。忘れられるまで。そんな見えない先までこんな気持ちで傍にいて、俺以外のヤツの隣にいる人を見ることはもうできない。
 どうしてこんなに好きになったんだろう。どうして兄弟で満足できなかったんだろう。自分の気持ちばかりで、少しも大事にできなかった。優しくしたかったのに。一番近いところで笑顔を見たいと思ったのに。
 俺はやっぱり優しくて可愛らしくて、自慢の義兄貴なんていらないのだ。欲しいのは、ただひとつ。あの日出会った年上の人の隣。特別なポジション。
「最初っからヒトのモンだったっつーの」
 あの人を傷つけないための選択は、今となっては俺自身のために違いない。今にも踏み越えてしまいそうなラインの真上で、俺は分かり切った結末を笑った。

 

 

 

 

 今にも眠り込みそうな自分を、吊り革を持つ手に体重を乗せて支える。家に帰ることもできず、だけどどこに行くこともできないまま、結局ネットカフェで時間を潰した。つけっぱなしのDVDを前にコーヒーをがぶ飲みし、明け方わずかばかりうとうとした。あちこちに皺がよったシャツが気になりはしたものの、着替えに帰る気にもなれなくて。かろうじて違和感のない鞄の中身は昨日と同じ。自分にしか分からないそれが余計に無様に思えた。
「貴先輩」
 満員とまではいかないがそこそこ込み合っている車内。多分他の誰かなら聞こえないふりをした。けれど俺はそうする代わりことさら眠たげな表情で応える。多分一番ごまかしのきかない相手、慎一郎にどれだけ通じるかはわからないけれど。
「おはようございます。どうしたんですか、こんなところで。貴先輩、この沿線じゃないですよね?」
 難なく俺の隣を陣取りながら当然の疑問を持ち出したはずの慎一郎に、確信めいたものを感じるのは俺の弱気のせいなのか。
「いや今朝はちょっと協会がらみで、な。おかげで寝不足だよ。それよりお前、こんな時間で朝練は?」
「中間考査前になりましたから。放課後はいつも通りですけど」
「あぁ、そっか」
 会話を流してしまって後悔する。よりによって慎一郎に、わざわざ振る会話ではない。話題を変えようと口を開きかけた俺に、案の定慎一郎は切り返してきた。
「貴先輩こそ、朝練より協会呼び出し優先、って珍しくないですか」
 どこか棘のある口調はらしくなくて、軽口をたたいて収めようとしていた俺は応えるすべをなくしてしまう。逃げ出した視線の先、ガラスに映りこんでいる真剣な眼差しの慎一郎とぶつかる。
「ま、いいです。今朝は先輩眠そうだし、ここまでにしときます。その代わり、というのも何ですけど放課後、少し付き合ってください」
「おいおい」
「話しがあるんです。断ったりしませんよね」
 そう笑った慎一郎の瞳に、もうあの眼差しの色は見えないけれど。
「何でもいいけど、俺眠いんだな」
 とりあえず、先輩の余裕のふりで。
「ちょうどいいや。着いたら起こせ」
「そりゃいいですけど貴先輩、本気ですか」
「そ。んじゃよろしく」
 問い返す慎一郎に、瞳を閉じて応える。今は何もかも後回しにして。

 

 

 

 

「守。どこ行くんだよ」
 教室の窓がいきなり開いて、聞き慣れた声が俺を呼んだ。制服のまま体育館とは正反対の方向へと歩き始めていた俺は、瞬間振り返ることをためらう。けど俺は守貴広だから。困惑するなんて、あってはならないことだから。ポーカーフェイスで、呼ばれるまま上半身だけで奴らを追う。二日続けてのサボタージュ、書き立てられる記事、噂。何でもないふりの出来ない奴らの正直な表情につられ、俺もつい安心させたくなる。いまさら。そう思いながら。
「子供電話相談室。これでも色々忙しいわけよ、俺」
「守!」
 冗談めかしてそう言い、すぐにその場を離れようとして、まるで見えない力に引き戻されるように動けなくなる。
「明日は出てくるんだろうな!」
「桜華台との練習試合、もーすぐだぞ」
「練習は日々の積み重ねって、お前の台詞だろうがよ」
「……だな」
 声をたてて笑う俺に、奴らは不満そうに、それでもなお抵抗する。
「そのうちお前のポジションなくなっちまうぞ」
 そうだな。それももう遠くない。心の中でつぶやくと、背を向けたまま手を振る。岡江さんや、沖さんは何といって説明したのか。誰がどんなに上手く嘘をついても、中等部からの仲間だから、俺が二日も練習を休むこと自体が噂を増長させるはずだった。分かってる。それでもあいつらは俺を信じている。気付いてしまうから、俺はもう奴らを振り返られなくなる。桜華台進学の事実が知れた時、奴らは裏切られたと怒るだろうか。なぜ、どうして。そんなふうになじるだろうか。
 けれどどこかで、放課後の騒々しさの中にその声も消えていくような気もしていた。結局俺が選んだのは、何年も一緒にやってきた仲間なんかじゃなかったのだ。だから他の何をなくしてもきっと終わりに出来る。
「もういるんだろうな。慎一郎の奴、時間に正確だから」
 昇降口から見える中等部の校舎の屋根。一つ年下の後輩が待つ場所は、振り切らなければならない、もう一つの場所でもある。
「あの時優勝なんてしなけりゃ、な」
 全てはあの一瞬から始まったのだ。そしてあの人の笑顔に出会ったその時から、終わり方までも決められていたとしか思えない。
「あの時、会ってなんかいなけりゃ」
 もしかして変われたかも知れないなんて、未練がましさに嗤う。
「もう、終わりにしなくちゃ、な」
 誰にいうでもなく、俺はひとりそう口にしてようやく「別れ」を意識した。

 

 

 

 

 中等部は中間考査前ということもあるのだろう、誰にも見咎められることなく案外すんなりと指定場所まで辿り付いた。慎一郎の笑顔に迎えられた教室は見慣れた場所。
「誰にも見つからなかったみたいですね」
「そういう時間帯、お前が指定したんじゃないのか?」
 曖昧に笑う慎一郎を相手に、俺は必要以上に警戒する。
「たまには俺もスター気分味わいたかったのに」
 誰もいない微妙なタイミングを計られた気もするが、あえてそれ以上は口にせず眩しいくらいの西日が差し込む窓際へ向かう。そこに並ぶ席のひとつが、自分の場所だった。
「お前、練習は?」
「行きますよ、ちゃんと。遅れることは了承済みですから」
 微妙に感じるイントネーションの違い。だけど俺はそ知らぬふりを決め込んで、教室をことさらゆっくり歩き、そのまま俺のものだった椅子に座り込む。
「懐かしそうですね」
「まぁな。高等部とどこが違うってこともないんだろうけどさ」
 いつまでも視線が安定しない俺に、慎一郎はゆっくりと近付いてくる。
「教室なんて、ホントにどこも大差ないんでしょうけど。だけど貴先輩。先輩がいた頃とここはもう違う」
 同じ教室に、ほんの少し前まで俺がいた。同じ椅子、机、黒板、時計。どこも何も変わってなどいない。でも確かに感じる。
「雰囲気、かな。いる人間によって変わるから、ここは」
 そう、それが当たり前。
「ここだけじゃないですよ。場所だけじゃない。それが例えば人だって半年でも、たった一日でも、変わる時は変わる」
 どこか硬い口調につられて顔を上げると、慎一郎は目の前を塞ぐみたいに間近にいた。まっすぐな瞳が射抜くようで、まるで逃げ場を封じられているような気がした。有無を言わさないその瞳は、言葉より雄弁に話しかける。
「話って、何だ」
 だからその瞳を振り切って促した。机の上にかかれた落書に気を取られているふりで、聞いてやるから早く言えよと言葉を繋いだ。軽い台詞で身構えた自分を隠して。けれど。
「桜華台に行くって、本当ですか」
 冷ややかに流れ込んできたそれに、みっともないぐらい俺はきっと反応した。瞬間大きく喘いだ息に、肩に。誤魔化すことなど出来ない。何故、どうして? どこから、誰から? 幾多の疑問が湧き上がる。けれど俺は、それを口にすることを躊躇った。岡江さん達への応えが事実であったなら、きっと素直に聞けたのかも知れないけれど。
「貴先輩」
「よく知ってるな。まだ内々定の話しだっていうのに」
「じゃあ」
「本当だよ」
 あえて断定したのは、それ以上の追及を避けようと無意識の判断だったかもしれない。しかしそう応えた瞬間、俺は慎一郎に腕を掴まれていた。
「本気なら俺を見て言ってください。貴先輩らしくないですよ、そういう言い方」
 それでもなお俺は、俺の腕を握る手しか見られない。言われて当然だった。俺は慎一郎の瞳をどうしても見られなかった。
「四ヶ月前、高等部に行くって言った時、先輩は俺達の前で笑ってた。あの時、何て言ったか覚えてますか」
 桜華台進学を蹴り飛ばして高等部への進学を決めた時、俺は後輩に聞かれるより早く報告した。
『バレーはどこでやっても同じだから、お前達の追い掛けやすいところにしてやるよ』
 そうだ。そう言った。まさかあの人がいるから、なんて言うわけにもいかず。
「追いかけてこいって、言ったのは先輩だ」
 それでも半分は本音だった。自分には何の迷いもなかった。
「貴先輩にトスをあげられる。また一年たてば、一緒のコートにたてる。俺がどんなに嬉しかったか分かりますか? 俺だけじゃない。司だって、光樹だって、他の奴らだって。みんな俺と同じ気持ちだった」
 乱れのない声は、静か過ぎて痛い。いたたまれなくてますます俯いた。
「その言葉をそのまま翻して、貴先輩はどうするつもりなんですか。俺達のことおいて、置き去りにして」
 慎一郎の声が、一瞬小さくなる。腕を掴んだままの手の先は真っ白で、こぼれそうになる本音に唇を咬む。
「理由を聞かせてください。俺には、俺達には聞く権利がある」
「そんなこと、お前にだって分かるだろう? 設備も、メンバーも、コーチ陣も」
「どうして嘘つくんですか」
 俺の言葉を奪うような台詞に、思わず呑まれそうになって慌てる。
「嘘? 何が? お前、何が言いたい?」
「まさか本気で、今更ただそれだけの理由で『桜華台に行く』なんて言って、俺が信じるとでも思っていたんですか」
「信じられなくても、俺は本気だ」
 振りほどけない慎一郎の手に負けないように、瞳を閉じる。
「俺は桜華台に行く。お前たちとの約束を破ることになったことは謝る。だけど俺は」
「そんなに大事なんですか」
 押し切る言葉を失ったまま硬直する。その意味も掴めずに、ただこの動揺に耐えた。
「約束は守られるためにあるって、先輩いつも言ってた。言い訳なんてするくらいなら潔く本当のことを言えって、そう言ってた。だけどその先輩が、必死になって慣れない言い訳をしてる。俺だけにじゃない。先輩自身に嘘までついて」
 俺は思わず瞳を開けていた。
「大事なんですよね。バレーしかないって言ってた貴先輩を、高等部に進学させてしまうぐらい」
 はじかれるように慎一郎を見た。その表情の中にある、あの瞳を見た。
「気付いてました。貴先輩があの人を探していたことも、それから」
 慎一郎はふっと微笑んで、掴んでいた手を離す。
「貴先輩が、あの人を好きなことも」
「な……」
「見くびらないでくださいよ。見てれば分かります。なんていっても俺と貴先輩は名コンビだから」
「慎一郎……」
「否定、しませんよね」
 俺は必死で自分を落ち着かせようとゆっくり息を吐き出す。
「あの人を見つけた先輩なら、どうにかして幸せになるんだろうって思ってたんですよ、俺は。思わぬライバルに苛々してても、いつかそのうちって」
 何もかも本当に見抜かれていたなんて。思いもよらない言葉に俺はただ混乱するばかりで。
「だけど、気がつけば先輩はわざと自分を遠ざけて、あの人のこと見ようともしなくなって。諦めることを前提に動いてる先輩に、初めてまずいと思った。いつかこんなこと言い出すんじゃないかって」
 逃げ出すんじゃないか、と聞こえた。
「大事な人なんですよね? どうして諦めるんですか? 気持ちを伝えてもいないのに、はなから勝負を捨てるなんて貴先輩らしくないですよ」
「勝負なんて、最初からついてた。俺が気づかなかっただけでな」
 高森の腕の中にすっぽりおさまった華奢な肩を、揺れる瞳を思い出す。
「貴先輩」
「それでも言わなきゃ駄目か。わかりきった結果のために、わざわざ相手を悩ませなくてもいいんじゃないか」
「それで先輩が本当に諦められるなら、俺はもう何も言いません。だけど、だから桜華台に行くっていうなら、俺、止めますよ」
 逃げ出すことは許さない。強い眼差しに晒される。
「あの人と貴先輩、義兄弟になるらしいですね」
 最後のダメ押しに呆然自失の俺は言葉もなく、慎一郎をただ見上げた。
「想いを口にしていまさら傷つけたくない、なんてそれこそ言い訳でしょう? 黙って遠ざけても、気持ちに正直になっても同じなんじゃないんですか」
「言いたい放題、だな」
「先輩が何にこだわってたのか想像はつきますけど、始めもしないで終わりだなんてあるわけないです」
 義兄弟という繋がりにこだわっていたのは俺だけど。それはただあの人にとっての俺との始まりがそこにあったから。
「勝負は終わるまで分からない。そうですよね」
 それは俺の口癖。
「怖気づく貴先輩じゃないでしょう?」
「勝算ゼロは、初めてなんだけどな」
 結末がわかっていても、進むために終わらせることが必要なのも知れない。思い切れれば、何かはきっと変わる。もっと違う関係を作れるときがくるかもしれない。
「俺達ちゃんと先輩を追いかけます。だから高等部で待っててください」
「慎一郎」
「待っててください」
「かなわねぇな。お前には」
 もう逃げ出すわけにはいかない。
「そう、だな」
 与えられた弟のポジションではなく、ただの守貴広として。一度くらいはあの人の前に立ってみよう。
「約束したから、な」

 

 

 

 

 こんな穏やかな気持ちでいられるのは久しぶりだった。上昇する箱の中で変わる階数表示を眺めながら、何をどう話せばいいのか、遠ざけてきてばかりだった人に、どうすれば気持ちは伝わるのか、そればかりを考えていた。近づかないと決めた時には重いばかりだった気持ちが、なぜだか温かい。

「えっ」
「あ……」
 玄関を開けた俺と、出て行こうとする譲。目の前の人の手にあるボストンバックに困惑する俺と、そんな俺を一瞥しただけの譲。昨日と同じ場所にいながら全く逆の立ち位置でしばらく呆然としていた俺は、素通りしていこうとする気配に、ぼんやりしている場合では無いことを感知した。
「何してんだよ」
「今まで散々迷惑ばっかりかけて悪かった。僕、帰るから」
「帰るって、どこに帰んだよ」
「ここは、僕のいるべき場所じゃない」
 初めて聞く譲の冷たい声音に一瞬言葉が遅れる。けれどここで引くわけにはいかない。
「バカじゃないの。あんたの前いた家は引き払ったって、由里香さん言ってただろ」
「……やっぱり、認めてないんだ」
「意味不明な言葉で納得するの止めろよな。どこ行くっての」
 成り立たない会話に苛立つ。何が言いたいのか分からない。
「どこでもいいだろ」
「そんなにここが嫌かよ」
「嫌なのは、僕じゃないだろ?」
 そう言われて、否定できない。今までが今までだから、そう思われて当然のことだと思うけど。だけど諦めるわけにはいかない。まだ何も、何一つ伝えてはいない。
「それに。別に前の家じゃなくたって僕にも行くところくらい、ある」
「そうかよ。そうだよな、たとえば高森ン家とか?」
 これは嫉妬だ。苦いものがこみ上げて、思わず舌打ちした。それでも右手で強引に譲の手首を掴む。
「何するんだよ。僕は出ていくんだから」
「話があるんだよ」
「離せよ。離せってば」
「離すよ。ちゃんと聞くならな」
 掴んだら折れそうな細い手首。離したくなくて俺は譲を振り向かなかった。最後。本当にそうなるかもしれないなら、きっと許される。抵抗をやめた譲の手をほどけないまま、俺は代わりにボストンバックを取り上げた。

 

 

 

 

 俺が手を離すと、逃げるようにキッチンへ向かった譲。ソファーの上に鞄を放り投げ、俺はその背中を瞳で追う。俺のそばにいたくないのか、手持ち無沙汰なのか。お茶をいれようとしているらしい。ずっと避けてきたから、こんな日常的な姿も初めて見る。何から話そうかと思いながらもタイミングを計りかねて話しかけられない俺に、意外にも譲が先に口を開いた。
「昨日は……どこ行ってた?」
 抑揚のない声。向けられない瞳。一人きりで夜明かししたと言えば、どんな表情をするんだろう。行くあてがないのは俺の方だと知れば、何て言うんだろう。
「なに、気にしてくれてんだ? ま、そりゃあね。あんなトコ見られたら、気になるか」
「あれはっ!あれは誤解だから……」
 ソファーの背中にもたれたまま、その言葉に顔を覆う。
「誤解、ね。俺は一体何をどう誤解したんだろうな。あれ、普通は決定打ってヤツだろ」
「そんなんじゃ」
「別に知ってたし、驚きもしないけどさ。大胆だよね、意外に」
 バリケードを張り巡らせ、身構えている自分を笑いながら。
「別に俺には関係ないけどさ」
 俺は出来るだけ静かに呟いた。
「どうせ俺、あんたのこと兄貴だなんて思ったことないし、これから先も思うつもりはないし」
 カップに何かが当たったような耳障りな音は、どこか痛い。結局どんな言い方をしても傷つけるのかもしれない。それでもこのまま弟として見られるぐらいなら、俺の気持ちを正直に伝えようと決めたのだ。想いをめぐらせる俺は、けれどその人自身に追い越されてしまった。
「それぐらい知ってる。君が今でも認めてくれないことは、嫌でも分かったよ。母さんとの再婚話に君が反対してるっていうのは君の親父さんから聞かされてたし。ただ、まさかここまでとは思わなかったけど」
「待てよ。何だ、それ」
 先走る譲を勢いにまかせて阻む。親父の再婚? どうしてそんなことをここで言うのか分からなくて、ムッとする気持ちを押さえられない。けれどそんな俺に負けず、譲も一歩も退こうとはしなかった。
「反対してるんだろ。さっきだって由里香さん、だなんて。母親だなんて、認めてないんだろ。だから僕のことだって」
「ちょっと待てよ。話しが反れてる」
 お互いに合わさずにいた視線が、いきなり出会う。瞬間。俺は息を飲む。
「親父達の再婚話なんて、俺にとっちゃどうでもいいことだ。俺が関係ないって言ったのは、そういうことじゃなくて」
 たとえ気持ちがあいつにあっても、俺にとっては関係ないっていうことで。続けるはずのそれは苛立ちに押されて出てこない。
「本当に分かんないのか? どうして俺が、あんたのことを兄貴だなんて思えないのか」
 あまりに見当違いな言葉に俺の語尾は随分と荒くなり、譲はそれに耐えるように唇を咬んでいた。唇の色がないくらいに、キツく咬みしめていた。だけど俺はもう視線を反らさない。逃げ出したり、しない。
「ただの兄貴が、俺をこんなに動揺させたりするわけ? 冗談じゃない」
 息を吐く。素直に、正直に気持ちを伝えよう。そう思っていたのに。どうやって伝えればいいだろう、出来るだけ優しく伝えられればいい。そんなことばかり考えていたのに。頭の中は真っ白で、何の役にも立たない。
「教えてやるよ。昨日は、ネットカフェで夜明かしした。どうして帰れるよ? あんなトコ見せ付けられて。まだアイツがいるかもしれない。安心しきってそこにいるあんたを見るかもしれない。そしたらまた俺は、ただの通行人みたいに弾き出されるしかないんだ。そんなの一度で十分だ。何も考えたくなくて、だけど逃げ込む場所もなくて。結局どこにいても同じだった。眠れなかった。一晩中、あんたのことばっかで」
 今にも目の前の人を抱き締めたくなる衝動に耐え、視線をさまよわせる。
「再婚に反対したのは、あんたが兄貴になるって知ったからだ。でなきゃ親父がどこの誰と再婚しようがかまわない。あんた以外のヤツなら兄弟ごっこでもなんでもうまくやってく自信だってあったさ。だけど、だけど、どうしてあんたなんだ。よりによって、どうしてあんたが俺のこと弟扱いすんだよ。好きな奴にそんなふうにされてヘラヘラ笑ってられるほど、俺は大人じゃない」
 何を言われているのか分からないんだろう困惑する瞳が俺の目に映る。その唇が何か言いたげに動いたけれど、声にはならない。俺には届かない。
「全国大会のスタッフのあんたと初めて会ったとき、不思議に気になった。あんたが覚えてもいないぐらいの時間しか共有してもいないのに、俺はどうしても忘れられなかった。それがどういうことなのか。気づいた時には正直迷ったよ。名前も学校も何にも知らない人相手にどうするんだって。何度も思ったのに、それでも諦め切れないまま桜華台の進学も延ばしまくった。だから、見付けた時には本当に嬉しくて。俺って何て運のいい奴なんだろうって思った」
 俺は高ぶる気持ちを押さえ付けるように、手のひらを握り締める。
「絶対に、誰よりもあんたの近くにいられるようになるぞって決めてた。だけど皮肉だよな。まさかあんたが兄貴になるなんてさ。何の冗談かと思った。だけど。それでも、もしも俺のこと覚えててくれたら、なんて。あの時一瞬俺、期待したんだ」
 思い出すのは、当たり前の挨拶。それだけで胸が痛くなった、『はじめまして』
「バカみたいだろ? あんたにとって俺は、最初から弟でしかなかったんだって思い知らされただけだった。分かってるんだ。たったあれだけのことを憶えていないって責められるもんじゃない。ただの俺のわがままだって。わかってて、俺は意地でも兄貴だなんて思いたくなかった。いくら優しくても、いくら心配してもらえても。弟だからなんて理由じゃ嫌だった。好きだったから、俺は。好きだったんだ」
 俺はそう繰り返した。ためらいを吐き出すように。
「ごめん。散々嫌な思いさせてきたのにな。だけど、こんなに好きになった人に、弟だからなんて義務感でそばにいられるのだけは嫌だったんだ」
 黙りこんだままの譲に、とうとう俺は瞳をそらせた。
「だから。ここを出て行こうなんて思わなくていい。再婚にも反対しない。兄弟ごっこはまだ当分できないだろうけど、それはちょっと勘弁して。こんな気持ちで、普通なカオしてそばにいられるほど俺も鈍くないし、あんただって嫌だろうし。親父には俺から話して、俺が出て行く」
 出て行く。具体的に考えていなかったことが口をついて。だけど。その方がいいような気もした。好きな人を悩ませてばかりいるのは、おしまいにするのだ。
「本当は、桜華台に編入しようかとも思ったんだ。だけど、高等部にいるって約束しちまったから。同学年じゃなし、無視すれば平気だろ。あんた困らせるようなこと、俺はもうしないから」
 コードレス電話を取り上げてナンバーを押し始める、譲の目の前。親父の住むロンドンは、時差を考えても出勤前だろう。再婚賛成の条件にすれば、わけなく許されるに違いない。暁星の寮があいていればそれが一番手っ取り早い。そんなふうに意識的にそこに集中していて。
「……してるの?」
 だから気づかなかった。わずかに拾い上げた譲の声に、最後のナンバーを押せないまま指先が止まった。
 かすれた、細い声は震えているようにも聞こえた。だけど、声が出ない。名前も、呼べない。
「誰と、約束してるの」
 譲は微笑んだ。けれどそれはまるで自らを嘲笑うような、そんな微笑み。
「ここは出ていくけど、高校は誰かとの約束で変わらないの。誰?」
「誰って……」
「君、僕のこと好きだったって、そう言ったよね? 好きだったって、それ過去形なんだ。過去になった僕は捨てちゃうけど、そいつは捨てないんだ? 約束? 何の、誰との約束? 桜華台に行かないなら福原さんじゃないよな。沢木、内ノ倉、真鍋、それとも崎君とか? あぁ彼女がいるって噂もあったっけ。なぁ、それともまだ誰か他にいるの? 言えよ、言ってみろよ」
 次々並べられた名前に感じるいくつものなぜ。初めて見る、譲の表情。泣きそうで、笑いそうで、でもやっぱり怒ってる? 何に?
「うそつき」
 譲の平手が頬に飛んだけど、俺は反射的にその手首を掴んで回避した。でもまだ状況が把握出来ない。ぼんやりとしたままの俺は、手にあった電話を譲に奪われてしまう。
「僕より他のヤツの方が大事なくせに」
 わずかに引っ張られた手に、掴んだままの手首に気付いて。慌てて手放すと、譲はどこか複雑そうな、悔しそうな表情を見せた。
「無視できるんだろ? 関係ないふりでいられるんだろ? 何があったって平気なふりできるんだろ? 僕じゃない人を優先できるぐらい、簡単な気持ちなんだろ」
 あんまりな台詞だと思った。全然分かってない。衝動的に近づきかけた俺を、だけど止めたのも譲だった。突きつけられたのは零れ落ちた雫。

 

 

 

 

 頬をつたう涙は、俺の全ての感覚を奪う。目も耳も口も手も足も、何ひとつ自分のもののような気がしない。譲が目の前で泣いているのに、俺の腕も唇も動かない。
「どんなこと言っても、僕のことは捨てられる。その程度なんだろ。僕は、僕なんか。どうして、こんな奴、僕は」
 言いよどんで、まばたきを繰り返す。ためらいが見える。涙が、またこぼれる。
「自分ばっかり、みたいに、言うな」
 そう詰られたけれど、俺にはまだわからない。涙の理由も、その言葉の意味も。
「君なんて、どうせ俺のこと知ったのなんてあの全国大会の時なんだろ。それも決勝で初めて声をかけるまで、僕のことなんて知らなかったんだろ。だけど。だけど僕はもうずっと前から君のこと見てた」
 ずっと見てた? 誰が、誰を? 何を言っているのか理解できない。
「あの全国大会も君が出るって知って、どうしても補助役員に割り込みたくて、生徒会で親しいヤツに無理いって頼んだ。君の桜華台進学が、噂では終わらないってのは周知の事実だったから、最後にどうしても間近で見たくて。見られたんだからそれでもういいって満足してた」
 俺を、見てた? そんなバカな。だってあんたの隣にはアイツがいたじゃないか。
「君に閉会式のこと伝えてきてくれって言われた時には、最初で最後のチャンスだと思った。間近に見られただけじゃなくて、初めて話せたんだって。後から夢じゃなかったって頬をつねって確認したよ」
「じゃあ、どうしてあの時」
 俺こそ、今この瞬間が夢でなければいいと思っている。だけど、まるで初対面のような台詞が、弟扱いする言葉が、俺の想いを凍り付かせている。
「何て言えば良かったの? そう言う以外に、僕に何て言えたの? 僕は君のことなら何でも知ってるけど、君は僕のことを覚えてもいないかもしれない。そんな君を、僕が知っているふりして声をかけるの?」
 語尾が弱くなる。出来るわけがないと、瞳が言う。
「バレーに夢中になってる君を中等部の頃初めて見た時、汗だくでキツそうなのに笑ってて。本当にバレーが好きなんだって思った。その次に見た時は、まっすぐに前を見据えてる姿勢がいいなぁと思った。気になって、何度か体育館を覗いて。気がつけば君だけを見てた。大勢に囲まれて、いつも楽しそうな君を見ていることしか出来なかった。当たり前のように傍にいる彼らが羨ましかった。僕が高等部に上がる頃には、君はすっかり有名になって。その距離はどんどん遠くなったけど、それでも見ることをやめることは出来なかった」
 まさか。そんな思いは言葉になったのか、それとも思ったのが分かったのか。
「嘘だと思う? 何を言えば信じるのかな? たとえば君の今使ってるシューズはバレー部後輩一同からの誕生日プレゼントで、崎君からはそのときタオルを貰ったんだよね。個人練習は苦手だからって、納得いくまでみんなをつき合わせて居残ったり、ポイントの決定率で賭けをしてみたり。君はいつだって彼等の中で、楽しそうだった。僕になんて気付きもしないまま、笑ってたんだよ。そんな君に、いったいどうやって僕が声をかけるの? 僕に言わせなかったのは、君だ」
 知らないうちに、自分が譲を傷つけていたことに愕然としながら、信じられないその言葉全てを拾い上げる。その全てにめまいがしそうだ。
「顔合わせの日。君は一瞬驚いたように僕を見たきり、目も向けてくれなくて。一緒に暮らすようになってからは意図的に避けられてばかりで。どんなに自分を恥じたか分かる? 君に会える、君のそばにいられる、ただそれだけで母親の再婚話なんて二の次にしてしまったんだ。兄貴顔したかったわけじゃ無い。弟だなんて思えなかった。だけど、それ以外にどうすればよかったんだよ。他に何が出来た? 名前だけの兄弟でいいって、君とつながっているだけでいいって、そう思わなきゃいられなかったんだ」
 嫌われることが怖くて、受け入れられないことが怖くて。避けてばかりいた誰より大切な人。今、近づいてもいいのだろうか。譲の瞳が、涙の向こう側にある、今。
「僕を見なかったのは君なのに。自分ばっかり、みたいに言うのやめろ」
「高森さんとは、ホントになんでもないの」
 思いもよらない言葉をもらいながら、それでも気になる。あいつの存在。
「なんで」
「なんでって」
 誤解だって言っただろう。そんなふうにその瞳は言っているけど。
「あんなにいつも一緒にいるし」
「だから」
「いや、だから、さ」
 聞かなくても分かる高森の気持ちは、俺が言うべきことではなくて。
「ありゃどーみても恋人同士のそういう」
「慰めてただけだっ!」
「へ……」
「なんか失恋したらしいって!だから慰めてくれって言われて、その、あぁいうふうになっただけで」
 勢い込んで断定されて、続いたそれに疑わしい眼差しを向けてしまうのは仕方ないと思うんだけど。
「自分の気持ち信じて欲しけりゃ、僕の言ってることもちゃんと信じろ。テツは親友だけど、そんなんじゃない」
「つーか、それって相手は」
 あんたなんじゃねぇの、とはどうやら本気で信じてるらしい人を目の前に言えなくて。なんだか少しだけ高森が気の毒な気もする。自分に寄せられる感情にちょっと鈍すぎるよ。
「じゃなんで携帯の待ち受けがアイツなの」
「テツ? なんで」
 拗ねた口調でそう聞かれても。聞いてるのはこっちなんだけど。
「言っとくけど、見えたんだからな。あんたが寝込んでた日、フラップ開いたままで」
「……あれはテツの悪ふざけ」
 電話をカウンターへ置くと、譲はジーンズのポケットから取り出した携帯のフラップを開けて俺へ突きつけた。
「これ」
「なんだよ」
 口元が緩んでしまうのを押さえられない。
「なに笑ってんだよ」
 どうにもとめられない俺に、むくれた譲は横顔を見せる。見せたくなかったんだろうそこには、あの夏の日のオレがいた。
「訂正しろ」
「なにを」
「過去形」
 涙に濡れた頬が、だけど今とても綺麗に見える。
「今もこれからも約束できるぐらい、好きだよ」
 知ってる? 多分知ってるんだろうけど、俺って約束を守る男なんだよ。平然と聞き流してるふりした譲の耳は真っ赤で、それが嬉しい。
「そういえば俺も聞いてないんだけど。言ってくれないの?」
「十年後にもう一度な」
「えぇー、ひっでぇの」
「そんなこと言える立場かよ。君なんか、他の奴のことばっかり大切にして。僕にばっかり冷たくて」
「でも好きなんだ」
 俺は固まっていた身体を、ようやく譲へと伸ばす。今までの距離を埋めるように、ゆっくりと。
「君さ、変わり身早すぎ」
 譲の身体を捕まえて、引き寄せる。譲の手から、携帯がフローリングの床に重たい音をたてて落ちたけど、俺に見えるのはもう。髪も胸も腕も、譲が、俺の腕の中にいる。
「あんたが手に入るんだ。当たり前でしょ」
「……入ったのかよ」
「意地悪だな」
「どっちが意地悪なんだよ、どっちが」
 譲が俺の腕の中で、ほんの少し身じろぐ。
「何?」
「君、ちっとも家にいなくて。会えばメチャクチャ冷たかったし」
「だからあれは、俺は俺なりに必死だったんだって言ったでしょうが」
「初めて作ったチャーハンも、一口も食べなかった!」
「あーあれね」
「信じられない。絶対君って意地悪だ。ちっとも優しくない」
「意外に根に持つなぁ」
 ゆっくりと抱き締めていた腕を半分だけ開放して、譲の瞳を見る。優しくなんて、これから嫌というほどしてあげるけど。
「だけどちゃんと見つけただろ」
 名残り惜しそうだった腕が俺に追い付いてもう一度譲を抱き締める。もう二度と泣かせたりしないと誓いながら、譲の唇にそっと触れる。譲は知らないけど二度目のキス。
「もう、嘘はつかないから」
 口にする約束。
「名前で呼んでもいい?」
 そして。あの日、譲が言ったそれを今度は俺が願う。
「兄弟になるから、なんて理由じゃないならね」
 破顔する譲に、俺も笑った。ここにいていいんだ。この隣に立っていていいんだ。それだけでこれ以上ないくらいに幸せな気分で、譲の顔に、髪に、首筋に唇で触れた。
「譲は、俺の周囲の連中が羨ましいって言ったけど」
「うん」
「俺はこの場所が欲しかったよ。あれからずっと、そう思ってた」
「うん」
「笑った顔が見たかったんだ。このポジションで」
 胸元に顔を押し付けられ、『貴広』とくぐもった声で呼ばれる特別。今度こそ大事にしよう。してあげたいと思った全部をしよう。最初は何にしようか。あぁ、でも譲。その前にひとつだけお願いがあるんだ。
「譲のチャーハン、今度食べさせて」
 あの日食べ損ねたそれをねだる。義兄弟という苛立つばかりだったそれは、きっとこれからは特権にしか思えないんだろう。
「ご飯、一緒に食べてくれたらね」
 ほら、これも特権。
「もちろん」
 これから先、きっといろんなことがあって迷ったり悩んだりするんだろうけれど。もしかして俺と譲の間にも何かがあるかもしれないけれど。この幸せは俺の中に永遠にある。だからもう簡単に諦めたりしない。このポジションを手放したりしない。
「ずっと、一緒にいよう」
 お互いの隣が特別だと思っていられるように。一番でいられるように。
「好きだよ」
 想いがいつまでも隣にいられるように。願いをこめて、抱きしめる。ずっと、ずっと。

 

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