「綺麗な声だね」
 逆光のシルエット。届いたそれこそ甘く響いて。耳慣れない声に記憶を探りながら、見えない先に何度も瞬きした。
「ね、オレと付き合ってくれないかな?」
 意味を捉えるより先、夕日を背中にしていた影がその位置を変えて。
「どこまで? なんて、出来ればボケたりしないでほしいんだけど」
 見えた笑顔に、息を飲んだ。
「答えは? 吉野志信くん?」
 綻んだ唇が僕の名前を呼んで、その瞳が真っ直ぐに向けられている。漆黒の闇を思わせるようなそれに引き込まれるように、僕はただその人に魅入られていた。

 

 

 


 強い音が耳を震わせて、弾かれたように顔をあげると、アクリル板の向こうにいる曽我の眉間に寄せられた皺がくっきり見えた。ヘッドホンから流れている曲はフェイドアウトし始めていて、次の曲が重なっている。クロスフェードに、慌てて手元のマイクスイッチを入れた。
 平静を装い、最後の曲紹介のアナウンスを終えると、OKサインがでて息をつく。ブースの中でぼんやりしたことなんて今まではなかったのだけれど、最近それが頻繁で、僕自身困惑している。
 あれから。気が付けば無意識にあの瞳を思い出してしまうのだからどうしようもない。それだけでもう、あの人の術中にはまってる気もしていた。
 暁星の中で、生島さんを知らない人はいないだろう。弓道部の部長で生徒会の副会長。成績はトップクラスで、スポーツもなんでも器用にこなすタイプ。驕ったところもなく、面倒見も良い、そんなちょっと出来すぎな人。
 僕とはあまりに違うその人の突然すぎる申し出は、正直ただ驚きでしかなくて。気持ちを問われても答えようがなかった。僕にとって生島さんは、あの日まで名前と一般認識しかない先輩であり、雲の上のような人だったのだ。
 すごい人、カッコいい人。嫉妬するなんてレベルじゃない。何もかも出来過ぎで、あまりに違いすぎるからだろう。負に繋がる声を聞いたことがない。ただ素直にそう思わせられてしまう。だけどだからといって、特別な感情は持ってはいなくて。正直にそう言った。
 ブースのドアが小さく叩かれて、また同じことを繰り返していた自分にため息をついた目の前。
『知らないってのが理由なら、ちゃんとオレを知ってから返事が欲しいな』
 そう言ってそれ以上の答えを拒んだ人が笑っていた。
「もう帰れそう?」
 胴着と袴姿。道場からここまでの距離で、どのぐらいの人の視線を集めたのか。その身を包むそれでさらに男前度を上げたその人は、だけどまるで僕しか見えないというように、視線を逸らせることはない。
「番組録音は今、終わりましたけど」
「そう、じゃ正門前で待っててくれる? 一緒に帰ろう」
 伸ばされた大きな手のひらが、そっと僕の髪を撫でると、ブースの向こうがざわめく。過敏に反応する僕に、何か言いたげに目の前の人の片眉が上がったのが見えたけれど、それも一瞬で。まるで意に介さないように悠々と『邪魔したね』と放送室を出て行ってしまった。その後どれほどその場所が大騒ぎになるかを知っているはずなのに。

 

 

 


 中学、高校と続く男子校という環境下のせいなのか。いわゆる校内の中で付き合っている人はいるらしい。そういう噂やイベントに絡ませたシステムも往々としてあった。けれどそれを否定も肯定もするつもりもなく、諾々とそこにいた自分が、まさかその渦中に放り込まれるなんて想像すらしたことはなかった。
『あの生島臣が、放送部の二年と付き合ってるらしい』
 あっという間に駆け巡った噂に、暁星内は大騒ぎになった。ただ生島さんは過去何度か同様の噂をたてられたことがあるらしく、そのたびに飛び交う憶測にノーコメントを貫いたという話で。それなら当然今回もそうするに違いないと安心していたのだけれど。
「悪いけど、口説いてる最中だから邪魔しないでね」
 相手の詮索を増長するような一言を残して、僕へのアプローチを隠そうともしなかったのだ。
 結果、一様に向けられる視線はただ「なぜ」だ。そしてもちろん僕自身がいつもそう感じている。
 なぜ、僕なのか。あの人は問いかけたそれにただ『秘密』だと言って。
『志信くんが答えをくれたら教えてあげる』
 そう笑ったきり答えてはくれなかった。

 

 

 


「趣味わりぃの」
 いろんな視線には慣れたつもりでも、あからさまなそれは初めてで、思わず振り返った。
 色素が薄いだけなのか、カラーリングなのか。茶色がかったその髪は無造作に跳ねているように見えるけれど、寝癖だとはけして思わせないのは整った顔立ちのせいだろう。着くずしたシャツにのぞくチェーン。どこか軽薄な感じをまとわせて、その人は悪びれることなく面白そうに眇め見ている。
「オミ、待ってるんだ?」
 不躾な視線はあまり気持ちのいいものではない。けれど、どうやら先輩らしいことと、生島さんのことを名前で呼んだことで完全に無視することができなくなる。
 僅かに頷いた僕の隣。その人はそのままコンクリートの壁に背中を預けるようにもたれてしまった。
 時間帯のせいだろう。門から吐き出される部活帰りの集団をすでにかなり見送った。そのたびに意味深な視線を送られていたのだけれど、今はさらにその隣にいる人のせいで状況が悪化している。あからさまに興味津々な様子を隠さないそれは、ひどく居心地が悪い。
「な、あいつ、どーよ?」
 ただ隣の人はそんなことにはまるきり関心がないようで、どこか間延びした声でそう口にした。
 興味本位な質問。だけどそう思うには微妙に違うニュアンスが響いた気がしたことが、ひどく不思議だった。
「優しい?」
 そんな当たり前のことを聞かれて、どんな質問だと思う。穏やかで、優しくて、包みこむように大切にしてくれる。評判通り、いやそれ以上の僕にはもったいないぐらいの人。あぁ、それを言いたいのかもしれない。そう思ったのに。
「おや、ノージャッジ?」
 からかうような声は、なぜだかひどく真摯に聞こえた。
「あの」
 落ち着かない気分に急かされるようにのせたそれは、何を言おうとするつもりだったのか自分でも分からないまま、耳元に落ちた言葉にかき消されてしまった。
「どこの誰が志信くんの隣にいるのかと思ったら」
「お、真打登場か」
「いじめられなかった?こいつ意地ワリィから」
 その人との間に広い背中が割り込んで、視界を塞がれる。
「言うに事欠いてその台詞かよ」
「自分の行状を顧みろってことだろ」
 牽制するようで、だけどその声音には楽しんでいるような色が混ざっていて、タイプはまるで違う二人だけれど容易にかなり親しいことを窺わせた。
「さて。これ以上ないぐらい紳士だったぜ。なぁ、吉野ちゃん」
 同意を求める声は届いても、その表情まで追えない。もちろん見て取れたとしても、上手くこたえる自信はなかったけど。
「ま、お前でも番犬ぐらいにはなったか。そりゃご苦労さん」
「何気にどこまでも失礼なのな、オミ」
「どこが? 事実だろ」
 どちらかといえば静謐な感じを受ける人が見せる思わぬ一面に、頬が緩んだ。
「で、俺はこの先どーすんの」
「もちろん一人でご帰還だろ。ね、志信くん」
 呼ばれたときには僕の背中は軽く押し出され、生島さんもその隣を歩き始めていた。
「え、あの、でも」
「オレは志信くんと帰るのを楽しみにしてたの。アイツじゃなくて」
 拗ねるように囁かれて、ドキリとする。だけど。
「邪魔すんなよ、エーイチ」
 静かに滑り落ちたそれは、同じ人のものだろうかと思うほどひどく冷たく響いて、胸がざわめいた。

 

 

 


「何やってんの、シノ」
 休日の朝、いつもなら手繰り寄せるシーツの中で丸まっている時間、僕が握っているのは菜箸だ。
「どーしたっての」
 素っ頓狂な声をあげて、わざとらしく窓から天気を確認する兄に文句のひとつも言いたいところだけど、そんな余裕すらない僕は目の前のフライパンと格闘を続ける。
「しーちゃんったら、お弁当作ってあげるんだって」
「弁当? 作ってあげるって、おい、シノ。誰にだ」
「かーさん。うまく巻けないよ」
「おい、シノ!」
 騒ぐ兄の声なんかより、不恰好なまま玉子焼きになりつつあるもののほうが重要だ。なにせ包丁を握るのは中等部での調理実習以来。しかもお弁当なんて作るのは全くの初めてで、そんなにうまく出来るとは思われてもいないだろうけど。
「そうそう、手前に巻いてから奥に寄せて。卵がなくなるまで繰り返すの」
 せっかくなら、少しでも美味しいと思って欲しい。だって。だって、なんだろう。あの日の生島さんを思い出すと、少しだけ鼓動が早くなる。

 


 六月の創立祭を控えて忙しくなる生徒会に伴って、イベントでは全ての放送部門を担当することになっている放送部も同様に慌しくなる。原稿をつめながら準備に追われ、その日の最終打ち合わせには僕も呼ばれていた。だけど、いつもなら笑顔を見せてくれるはずの人がいつも座っている席は空いたままで、すでに開始時間が来ようとしている。
「生島は弓道部のレギュラー選考会。こっちには顔は出せないって言ってたよ」
 徳永会長にそう声をかけられて、空席のままのそこを知らず知らず目で追っていた僕に居合わせていた全員が気づいていたことを知る。満面の笑みを浮かべるメンバーに囲まれて、何か言おうとしたものの結局言葉にすることはできないまま、真っ赤になっているだろう顔を隠すように手元の資料へ埋めた。
 それから一時間半後。僕の右手に渡された資料のコピー。
「生島に渡しておいてくれるかな。まだ弓道場にいると思うから」
 多分、間違いなく明日でもいいはずの代物を押し渡されて、とりあえずその場から逃げ出すために受け取ったものの。
「なんか無理やりなのがバレバレだよね」
 会わせるための口実。僕自身がそう思うのだ。生島さんが仕向けられたことに気付かないわけがない。
 ただいつの間にか、それをどう思うかなんて考えている自分に戸惑う。
「ただのお遣い、なんだから」
 後付けされた理由は僕にとっては単純にそういうこと。それなのになぜだか自分に言い聞かせているような気がした。

 

 

 


 息をすることすら意識的にさせる。そんな張り詰めた空気の中、生島さんだけがいた。伸ばされた背筋。ゆっくりと静かに引かれた弦が止まると、まるで時までが止まってしまうような錯覚に陥る。
 空気を裂くような音とともに放たれた矢が中心にかかれてある円内に中っている。的心にも、その姿勢は乱れることなくそのままで。弓を倒すのが見えて、ようやく息をつくと同時に身体から力が抜けた。
「あれ」
 僅かな空気の揺れが伝わってしまったのだろう。その気配に振り向いた人に、慌てて頭を下げる。
「すみません。お邪魔してしまいました」
「大丈夫。今ので終わりにしようと思ってたんだ。誰もいないから、入っておいで」
 板張りの上、言われるまま足を踏み出すと、生島さんがちょっと不思議そうな表情をした。
「志信くん、もしかして経験者?」
「え?」
「うちの部員ならともかく、神棚に礼なんて普通は思いも付かないんじゃない?」
 僅かに上体を下げた、それだけだったのに。無意識だった僕の仕草に、生島さんは目ざとく気付いたらしい。
「兄がずっと弓道をしているので、少し通った頃もありましたけど。集中力散漫なのを自覚してやめちゃったんです」
「なんだ。もっと早く知ってたら、放送部から奪い取ったのに」
「え、無理ですよ。通ったっていっても小学生の頃の話なんです。しかも兄と違ってもう全然駄目で」
 綺麗な射形を見たせいだろう。昔の自分を思い起こして首を振るのに、生島さんは柔らかく笑った。
「お兄さんがどうかは知らないけど、志信くんの弓は志信くんにしか引けないよ?」
 否定することを良しとしない人がくれた言葉。
「志信くんの弓、見たいな」
 浸透していくように胸の奥で広がる何かを僕は感じていた。

 

 

 


 当初の目的だったはずの資料は確認されることもなく隅に追いやられ、生島さんのかけをはめて借り物の弓と矢を手に射場にいる。
「中らなくても、がっかりしないでくださいね」
「そんなこと考えながら引かないんだよ? 志信くんの弓が見たいんだって、オレは言っただろ?」
 結果を先回りすることを諌められ、基本の所作を知っているだけの僕に、一立ち分の4本の矢が渡された。
 大きく息を吐き出して射た1本目が失速し、的にかすりもしなかった僕に、生島さんは端的にいくつかのポイントだけを告げていく。
「胸や肩には力をいれない」
 静かに響く声がそばにある。
「そう手首じゃなくて肘で引いて」
 何にも乱されない、そんな気にさせる。
「胸に息をためないで」
 ただ真っ直ぐ前を見据えて放った最後の矢は、的の端に中っていた。
「あぁ、やっぱり。綺麗で真っ直ぐな弓だね」
 誉め言葉は照れくさくて、くすぐったくて。どこを見ていいのか分からなくて視線が定まらない。
「しかも中てちゃうし。これもオレの指導力のおかげ?」
 中てた僕より嬉しそうな声に、もちろんその通りだと何度も頷いたら、それじゃあと頬を押さえられた。
「指導料、もらっちゃおうかな」
 軽い口調とは裏腹に、のぞきこまれるその瞳にからかう色はどこにもなくて。ただ一気に縮まったその距離に震える。
 だけど。身動ぎすらできないでいる僕から、どこかひんやりとしたその手はそっと離れた。
「志信くんのお弁当が食べたいな」
 代わりに落ちたのは、そんなお願い。
 ほっとしたのは確かだった。だけど。
 何かが僅かに軋んだような気もした。

 

 

 


 綺麗な姿勢で並ぶ人の中、どこがそんなに違うのか具体的に説明できないけれど、その立ち姿がすぐに生島さんだと分かる。
 僕が予定より遅れて到着したときには、すでに近的の団体競技予選がすでに始まっていた。
 遠的ではないので得点ではなく、中った数の総数で勝ち負けが決まるのだけれど、団体戦で唯一と聞いていた一年生だろう。緊張しているのかなかなか中らない。基本的に弓道は自分との戦いだ。平常心を意識するほど定まらなくなるなんてよくあることで、勝敗の行方を危ぶんでいたのだけれど。
「中った!」
 一立ち目最後の四本目は、的の中央を射抜いて見せられて。さすがだと納得させられたのは中てた本人ではなく、生島さんにだった。
「だから、大前なんだ」
 競り合えばプレッシャーの重い最後ではなく、一番手にいる生島さん。数多の視線をものともしない、その不動心を体現しているような凛とした背中。それだけで安心させてしまう人。すごい。素直にそう思うのに。
「すっげぇ、七射連続的心」
 漏れるため息も賞賛も。
「すごい、けどさ」
 どこかで面白くない、なんて考えてしまう自分が分からない。
 ただ、何も映していないようなその瞳が遠くに見えてしまう、ただそれだけで。
「生島さ、ん」
 呟いたそれが届いたわけもないけれど、不意にその眼差しの先に捕らえられたようなそんな錯覚のすぐ後。
 最後の一射。外れた矢をただ静かに目に収めた生島さんの表情は、いつもと少しだけ違って見えた。

 

 

 


「本当にすみませんでした」
 ボードに貼られた予選通過に校名を見つけて安堵するのと同時、耳に届いたよく通るその張りのある声に振り返るとあの一年生がきっかり九十度で頭を下げているのが見えた。プレッシャーの中、一年生で八本中、五本。つまり最初の三本を外した後は全て中てているのだ。上出来な結果だと思うけど、そこで満足しないからレギュラーなんだろう。周囲もそれを認めているのか穏やかな空気が見て取れる。
 誰かの手が、下げたままの頭にのせられ、髪の毛をくしゃりと撫でると、感極まったようにそのまま頭を預けてしまった。微笑ましい光景。だけどそれが誰か気付いた瞬間に、僕の胸の中はびっくりするほど反対の感情に引きずられた。
 仕方ないなぁと、そういう代わりのように背中を叩く生島さんのその手から、その胸元から、そんな一年生を引き剥がしたくなるなんて。
「なん、で」
 視線を逸らすことすらできないまま、なんだか取り残されたような気分に唇を噛む。
 どこか厭わしいそれに誘われたわけではないだろうけれど、じわりと足首が痛み始める。昔、事故にあって痛めたそれは、冷えたり、季節の変わり目だったり、無理をしたりするとこうなる。
 それはもう慣れたことのはずだったのに、すぐそこに生島さんのいるこの場所で、一人この痛みに向き合うことが、なぜか無性に痛みを倍増させているような気がした。

 

 

 


 左手にある紙袋が少しだけ重く感じる。あちこちで昼休憩中の胴着姿の集団を遠巻きにしながら、ついたため息。バカ正直に作ってきたものの、やっぱりちゃんとしたものを買ってきた方が良かった。午後からの本選説明に行ったままの生島さんが戻ってくるまで、もう少し時間はあるだろうか。
「コンビニしかないけど……」
 それでも僕のよりマシ。そんなふうに思い始めると、どうにもいたたまれなくて。痛む足を堪えてそのまま反転した僕は、だけど笑い混じりの言葉ひとつで、あっさり足止めされてしまう。
「オレの昼ごはん持って、どこに行くの?」
「え、あの」
「オレに腹ペコのまま弓引かせる気じゃないだろうな」
 今、目の前にいる人が、僕を見ている。それだけで跳ねる鼓動。
「それオレの、だよね?」
 ここで自信満々で差し出せるような中身なら、コンビニに行こうとは思わなかったんだけれど。
「あの、ですね。やっぱり大事な試合前にお腹壊してもまずいかなぁ、とか」
 後ろ手にした紙袋を、だけど生島さんはひょいと反対側から取り上げた。
「あっ」
「さて。何が入ってるのかなー」
 引き寄せるように肩を抱きこまれると、痛みが和らぐ気さえして。伝わるその体温に、一瞬だけ思い出した。ついさっき別のところにあった手のひら。
 今、僕のすぐ傍にあるそれは、同じ温もりを伝えているのだろうけれど。少しだけ違うのかもしれないと思いたいのは、ただの優越感だけではないような気がしていた。

 

 

 


 鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌ぶりで、長い指先が包みを解いていく。外で食べるには少し日差しがキツいけれど、日陰になっているこのベンチは絶好のポジション。争奪戦が激しかっただろうこの場所で、ついさっきまで寛いでいた他校の人は、生島さんの視線が二往復もしないうちに譲り渡してくれたのだ。
「いいね、やっぱり」
 まだ蓋も開けていないのに、口元を綻ばせて呟く。
「何が入ってるか分からないところが」
 開けるまで分からない。確かにそれは手製のお弁当の醍醐味だけど。大抵それも子供のうちだけで、母親のお弁当のレパートリーなんて数が知れててそんな感慨もなくなる。そういう意味ではインパクトはあるのかもしれない。
「あぁ、そうですよね。さすがにお母さんの作るお弁当みたいには予想つかないでしょうけど」
 その分味の保証ができないと冗談半分本気半分で笑うつもりだったのに。
「あぁ、オレはそういうの縁がないから」
 いただきますの声に、軽い口ぶりで続いた笑顔に戸惑う。だけど。
「おー、うまそう。あ、志信くんこれなに?」
 器用に歯で割った割り箸で、それを掴まれた瞬間、躊躇した自分を忘れた。
「う、あの、お弁当といえばコレだって、母にさっさと切り込み入れられちゃって」
 割り箸の先、楊枝で留められているうずら卵とウインナー。生島さんには全然似合わない、子供仕様の四本足。いわゆるタコさんウインナーというヤツで。
「へぇ。こうなってんだ」
 ためつすがめつそれを眺めた人は。
「なんか食っちまうのが勿体無いね」
 そう言って、まるで子供のようにそう笑った。
 かぼちゃのサラダも、人参とアスパラを薄い牛肉で包んだのも、その一品ごとに美味しいと言ってくれて、照れくさくて俯いていた目の前。形の崩れた、ちょっと焦げた玉子焼きに箸がつけられた。不恰好な一切れが口に運ばれたのをつい追ってしまった僕を生島さんは何を思いついたのか、その半分をそのまま差し出す。
「すーごく心配そうだから。ほらあーん」
「えっ、いや、それはちょっと」
「あれ、それどーいうの?さては何か盛ってるとか」
 そんなあるはずもないことをネタにされ、じゃあ何も問題ないじゃないと、結局、雛鳥よろしくあけさせられた僕の口に納まった少し甘いはずの玉子焼き。
「ほら、美味しい」
 だけど味なんか分からなかった。どうしようもなくきっともう耳まで赤いに違いない僕は、満足気な表情に返す言葉が見つけられない。ただみんなの知らない表情を見せてくれる人にドキドキするばかりで。

 

 

 


 もっとたくさんのカオをそばで見ていたい。そう思うこれは。
 向けられる眼差しに、差し出される手のひらに。他の人とは違うものを感じたいと無意識に願うこれは、生島さんと同じなんだろうか。

 

 

 


「生島部長、あの、そろそろ時間ですが」
「あぁ、ごめん。探させたかな」
 後輩の一人だろう。おずおずと近付いて、昼休憩の終わりを知らされると、生島さんはすぐに行くからと静かに立ち上がった。見れば、周囲にいたはずの他校生がかなり減っていることにようやく気付く。
「ご馳走様。これで午後からも頑張れそうな気がしてきたな」
「おだてても、もうこれ以上は何もでませんよ?」
「なんだ、残念」
 冗談とも本気ともつかない子供じみたそれが、だけどなぜか嬉しい。
「あ、そうだ。志信くん」
「はい?」
 声の先、その続きを追うように視線を向けかけたそのとき。
「シノ!」
 遮るように呼ばれて、反射的に振り返る。
「兄さん!」
 なぜここにいるのか、全く分からない。だけど、すぐそこにいるのは間違いなく兄で。
「なにしに来たの」
 まさか後をつけてきたのかと、問い質したくなる気持ちを押さえつけて睨みつけるのに。
「別に。俺は自分の母校の様子を見に来ただけだぞ」
 悪びれもせずに偶然を強調されて笑うその瞳に、嘘だと確信する。兄の母校も出場していたはずだけど、卒業して以降そんな話を一度たりとも聞いたことすらないのに、直接関わった後輩がすでに全員卒業しているはずの今になってそんなことはありえない。
 出かけるまでしつこくどこに行くのか、誰に会うのかと紙袋の中身を恨めしそうに見ながら何度も聞かれ、過保護すぎる兄の携帯が鳴ったのをこれ幸いと飛び出してきたのだけれど。
「シノこそなんだよ。応援?」
「そうだよ」
 何か言いたげに投げられた視線が、ちらりと僅かに下がるのが分かる。だけどそれはすぐに隣へとスライドした。
 声をかけるわけでもなく、まるで値踏みするかのように斜に構えたまま動かない。そんな不躾さに、だけど生島さんは気分を害した様子も見せず、軽く頭を下げてあっさり受け流す。
「生島です。吉野篤志さん、ですよね」
 一度も話したことのない兄の名前を、生島さんが知っていた。それは思いもよらないこと。
「何度か射形を拝見させていただいたことがあります」
「あぁ、そ」
 弓道ではそこそこ有名らしい兄のことを知っていてもおかしくはないけれど。なぜだかひどく違和感がある。
「申し訳ありませんが急ぎますので、失礼します」
「あ、生島さん」
 迷うことなくそのまま背中を向けられて、気付けば名前を呼んでいた。ついさっきまであんなに近くに感じたそれが、たったそれだけでまるで錯覚でしかないような気にさせられて。
「ホントうまかった。ご馳走様」
 確かめたくて引き止めた僕に向けられた、柔らかな笑み。そう。優しいそれに距離を感じるなんて、どうかしている。
「頑張ってくださいね」
 指先でつくったOKサインで応えてくれた人は、いつもと少しも変わらないのだから。

 

 

 


「くえねぇヤツ」
 小馬鹿にするように吐き捨てられて、僕は兄の真正面で足元に力をいれた。
「何だよさっきの。失礼だろ」
「は? なんで。ちょっと観察してただけだろうが」
 観察と不遜にも言い放つ兄に、あいた口が塞がらない。
「アレは要注意だ。シノ、お前あんまり不用意に近付くなよ」
「何それ」
 どこを見て言っているのか。過ぎる言葉に睨みつける。
「アイツはどこか嘘くせぇって言ってるんだ」
「生島さんのこと、何も知らないくせに」
「シノ!」
 昔から、いや。兄の前で事故にあってから、僕が傷つくことに関して過剰な心配をするようになった兄を、今まではすんなりと受け入れてきた。だけど。
「イヤだ」
 考えるより前に答えた。それが今の自分の正直な気持ち。口にしてからそう思う。
「生島さんのこと、悪くいうのやめて」
 いつの間にか、大きくなっていた存在。
 誰よりも、特別になっていた人を
 好きに、なっていた。

 

 

 


 喜んでくれるだろうか。手の中の重みを渡すことを考えると、くすぐったくなるような気持ちになる。
 弓道部は優勝して次の大会への出場権を獲得し、また翌日にあった個人戦では生島さん自身も優勝した。僕の予定では同じ時間を共有して、一緒に喜んでいるはずだったのに。
「わからずや」
 あの日、本選を見るつもりだった僕は、そのまま口もきかなくなった兄さんに足の痛みをあっさり見抜かれ自宅に強制連行された挙句にベッドに押し込められ、翌日はどうやって両親をその気にさせたのか、家族揃ってのバーベキューに連れ出された。意図的なそれを知らず素直に楽しむ両親を横目に、僕は何かと機嫌をとろうと話しかけてくる兄を完全に無視した。
 結局、僕がその結果を知ることができたのは翌日の新聞で。顔を見て『おめでとう』というのは僕で何人目になるのかと思うと、なんだかへこんで。だから。
 お祝い代わりというには貧相なものだと知りながら、あの時見た、多分僕しか知らない子供のようなそれがもう一度見たくて包丁を握った。

 

 

 


 以前、昼休みに召集された会議に来ない生島さんを、徳永会長は迷うことなく後輩に道場に呼びに行かせたことがあった。
 昼休みは大抵部室か道場、というのが生島さんの日常らしく、それから五分後に謝罪とともに姿を見せた。
 だからきっと今日もそこにいるはずだと、そっと部室のドアを開ける。上がり口には靴が二足あった。
「生島さん?」
 ロッカーが並ぶ向こう側のテーブルには、ペットボトルのお茶が飲みかけで置かれたままで、食べ物の痕跡はない。誰かの気配に、僕は手にした包みを解くと、それを手に道場に近付いた。
「……いって、楽しそうじゃん」
「勝手に言ってろ」
「マジで。なぁ、もしかして本気になったんじゃねぇの、オミ」
 射場に立つシャツの真っ直ぐな背中に踏み出しかけた足が、その隣に行儀悪く胡坐をかく人を見てためらう。
 これを見られれば、からかわれるのは必至。そんな相手に弱腰になる。
「吉野ちゃん、かーいいもんな」
「さっきから、何が言いたいんだ」
 一歩進むか、置いて帰るか。逡巡していた僕の耳に思いがけず飛び込んできた自分の名前に、そのどちらもを選択できなくなっている自分に気付く。立ち聞きなんてホントはいけないんだろうけど。ちょっとだけ聞いてみたくて。
「いやー、さすがのオミも、そろそろ」
「ありえない」
 悪戯心はだけど、簡単に立ち消えた。届いたのは、切り捨てるような一言。感情の欠片もそこにはない。
「言ったはずだ。オレは誰も好きにならない」
 こだましたそれは、僕を混乱させる。
「オミ」
「なんだ、しかけたのはお前だぞ」
 静かな言葉が、冷たく胸の奥に落ちる。
「違うだろう」
「何が。今までと何も違わないさ」
 単調にすべるような声音に混ざるのは何だろう。ただ笑った、ような気がしたのは確か。
「違うんだろう? そんなこと、もう分かってるんだろう?」
「あぁ、分かってるさ」
 聞いてしまえば全てが終わる。そう思うのに、足がすくんで動かない。
「ただのゲームの相手。それだけだ」
 静かな場所。だから、取り落としたそれが床に散らばった音はよく響いた。
「ゲーム……?」
「……吉野ちゃん」
「ゲームって、なに?」
 僕が好きだと言ったら終わるゲーム?
「生島さん。ねぇ、なに?」
 崩れ落ちそうになる自分を、必死で支える。悪い冗談だと、笑って欲しくて。どうしても表情が見たくて。ただそれだけで堪えた。だけど。
「吉野ちゃん、あのね」
「エーイチ」
 その人が呼んだのは僕じゃなくて。
「ゲームオーバー、だな」
 そう言ったきり、振り向くことすらないまま、全てを払うように手の中の弓を引き寄せ、矢を手にした。綺麗に伸びた背中も、引く右手にも乱れはない。
 歪む視界の隅。転がったウサギの林檎の折れた耳が、まるで今の自分みたいで。僕は全てに背中を向けた。


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