走って、走って、そしてすぐに僕の左足はもつれるように転んで限界を訴えた。立ち上がろうとしても、すぐには言うことを聞かない足を歩道脇に蹲ったまま抱え込む。だけど、痛いのは足なんかじゃない。
「バカ、みたいだ。ホントに」
 好きになってしまったのに。
 みんなの知る憧れの人ではなく、
 子供のような顔をして笑う人を好きになったのに。
 それも全部、うそだった。
「あぁ、でも」
 行き着いた答えの前、みつけたホント。
「そ、いえば……あのとき、言われなかったんだ」
 付き合ってくれと言われたけれど、好きだとは言われていない事実に今さら気付く。
 僕が答えたら教えてあげるといった、僕の好きなところ。そんなもの、最初からなかった。
「僕が好きじゃないのは、嘘じゃなかったんだね」
 愚かしい自分が可笑しくて、痛い。何もかもが苦しい。こんなにも、どうしてこんなになった今。
「生島さん」
 もう何度呼んでも、その距離を埋められない人。それでも口をついて出るのはその名前だけだなんて。僕はそれ以上を阻むように震える唇を噛んだ。

 

 

 


 あの場所で蹲ったまま、時間を巻き戻したいと何度願っただろう。芽生えて育ってしまった想いを忘れてしまいたいと、何度繰り返しただろう。

 だけど、誰も助けてはくれない。誰の手も助けにはならない。
 こんなになってもまだ、あの人の笑顔を夢に見る。

 

 

 


 三日ぶりの教室は、何も変わらなかった。昼休みに突然消えた僕は、きちんと体調不良の連絡が担任にまで届いていて。荷物は一式その日のうちに自宅へと届けられた。もちろん、友達の手によって。
 大事なものをなくしても、心がどんなに乱れても、目に見えないそれは、だから僕もまたいつも通りに見せてしまえる。
「吉野、今日の放課後は機材チェックで講堂集合だぞ」
 連絡事項をもって現れたミキサー担当の曽我も、だからそのまま通り過ぎようとした。だけど。
「わかった」
「……って、なんだ、それ! お前、その声はどーしたっ!」
 答えた瞬間絶叫された。僕の声は、かすれてうまく届かなくなっていたからだ。
「……あの、さ」
「いや、いい。無理して負荷をかけるな! 風邪だったのかよ~。もうちょっと休んでた方がよかったんじゃねぇの?」
「あぁ、うん……」
「だからしゃべるなって」
 手のひらで口元を塞がれて、言葉はくぐもったまま収まる。
「でもそれじゃ、創立祭のアナウンスは無理かもなぁ」
 創立祭。そうだ。必然的にあうはずの人。一体どんな顔をしていればいいのか。
「泣くぞ、みんな。いや、それより生島先輩だな。心配してっだろ?」
 知らないのだ。だから、だけど。
「次、移動だ、から」
 ごめんと音にしないまま伝えて、僕はその場を逃れた。
『綺麗な声だね』
 そう言ったことすら、あの人はきっと覚えていないのに。
 縛られたように声が出なくなった自分から、逃げ出すように。

 

 

 


 第一声で放送部員全員に揃ってため息をつかれ、風邪がぶり返したんじゃないのかと騒がれた後は、とりあえず喉を使わないことを約束させられた。話さないでいられる、という都合のよさに、僕はそれを否定しないまま機材チェックにはいる。
「このジャックが悪いのか、延長コードがマズいのか。吉野、そっちの取って」
「お、コレか?」
 伸ばしかけた先、それは別の手に拾い上げられた。
「準備はどうだ?」
「徳永。なんだ、生徒会はオールOKなのか?」
 近付いてくる何人かの足音に、身体が強張るのが自分でも分かる。
「まぁな。立ち位置チェックがてら様子見に来た」
「余裕かよ、全く」
 けれどそこにあの人の声は聞こえない。
「あれ、生島は?」
「進行表コピーしてる。後で来るだろ」
 そう。生島さんならいつもと同じ表情をして来るだろう。僕を見ても、きっと何一つ変わらずにいられる。
 名前を聞くだけで震えてしまう僕とは違って。
「辻先輩、3曲目のラストがカットアウトになってますけど」
「ちょい待て。あそこはクロスフェードだろ。録り直しかよ」
 僕は思わず縋るように辻先輩のシャツを引っ張った。
「せんぱ、い。録り直し」
「え、おい。その声どーした?」
「吉野、無理して声出すな」
 徳永会長が心配そうに僕の顔を覗き込むのを押しのけ、辻先輩は僕の頭を撫でる。
「そうだな。ここは埃っぽいし、そっちを任せるか」
 かすれた声は、震えていることをうまく覆い隠してくれた。だけど。
「それが終わったらもう帰れ」
 付け加えられたそれに、誤魔化しきれなかったことを知る。
「無理して笑ってんな」

 

 

 


 昇降口まで来て、ようやく雨が降っていることに気付いた。大粒のそれは、地面を刻むように落ちている。窓を叩くそれも大きく聞こえていたに違いないのに。
『シノ! 傘、ちゃんと持ってけよ』
 今朝、兄にそう言われて無視したツケに思わず苦いものがこみ上げる。
「兄さんは、いつでも正しい、か」
 何もかも僕の先を読んで、親にまで過保護振りをからかわれる兄は、だけど常に見誤ったりしない。今回だって、結果として兄の心配が当たった。
 それでも今はまだ、それを本当だったと認めたくない。今の状況を兄が知れば、だから言っただろうと諌められるに違いないから、今はまだ何も見せたくはない。
 薄暗さの中でも雨脚が強まったのが分かる。止む気配のないそれに、僕はそのまま足を向けたのに。
「今度はホントに風邪ひくよ」
 背中ごし、どこか切なさを帯びた低音に動けなくなった。特別似ているわけでもないのに。
「吉野ちゃん」
 一瞬でも、もしかしたらなんて考えた自分がいたことに嗤いだしそうになった。
「声、でないんだって?」
 気遣うようなそれを、僕は振り払う。
「ごめん、な」
 それでも追いかけるように続いたその言葉は、あの日と同じ音を響かせていた。
『優しい?』
 そう聞かれてまごついた僕をからかいながら、
『おや、ノージャッジ?』
 笑った人こそ、まるで何かを願うようだった。
「今さら、だけど」
 だけど、そう本当に何もかも今さらだ。僕には何一つ関係ない。無関係にしたのは、僕じゃない。なのにこれ以上、何を聞かせるつもりなのか。僕は耳を塞ぎ、目を閉じて、首を振る。
 聞きたくない、知りたくない。もう何も。胸の中、そう何度も繰り返して。だけど。
「……ま、さん」
 逃れたいのに、消えてしまいたいのに。追いかけてしまうのはどうしてなんだろう。
 思い出すのは全部、あの人の笑顔だなんて。
 支えを失ったように膝をつく僕を、受け止める腕。
 いらない。何も。自分の身体を抱きしめて、全てを拒む。
「も、行って」
 どこにも縋りつけない。そうしたいと思う人の心が、僕にはないなら。僕は一人で立つしかない。
「なにも、聞きたくな、いっ」
 かすれた声のまま喉を押し広げたそれは、悲鳴のように細く響いて。僕は今度こそ雨の中へと飛び出した。

 

 

 


 雨の強さを証明するみたいに、あっという間にずぶ濡れになる。だけど今はもう何も考えたくない。
 鈍く重い感覚。這い上がる痛みの予兆に、無理やり強く蹴り上げたつもりの足は、耐えられないとばかりに傾いだ。とっさに手を伸ばしてそれを堪えようとして。
「バカやろうっ!」
 その手に触れたのは、泥だらけの地面ではなく。
「何やってんだ! おまえはっ」
 なぜだかひどく激昂している生島さんだった。

 

 

 


 引きずられるようにして昇降口まで引き戻されて、そのまま生島さんの教室まで連れて行かれた。
「そのままよりマシだろ」
 タオルを頭から被せられ、目の前の机に置かれたのはジャージ。手も足も余るに違いないそれは、生島さんのもの。
「ど、して」
 問いかけは、聞こえなかったのか。それともわざとなのか。応えがないままドアの向こうに消えた背中に、僕はただ途方にくれていた。
 ゲームオーバーを告げた人のシャツは、濡れて張り付いていた。だけど少し前、駆け出したはずの昇降口に見えたのは、まるで放り投げられたように置き去りにされた一本の黒い傘。
「こ、なの、ひどい」
 分かってるのに。知っているのに。ゲームなんてもので人の気持ちをメチャメチャにした人なのに。
「キライに、させ、てよ」
 これ以上の想いは痛いだけなのに。

 

 

 


 一つの傘、二人肩を並べて歩く。少し前なら舞い上がったに違いないそれは、あちこち不安定なものを抱えたままの今、ひどく重苦しい。大体、どうしてこういうことになってしまったのか。
 再び教室に戻ってきた生島さんは、一度も視線を合わせないまま僕の鞄を取り上げて、引き換えにどこかのショップのロゴの入った袋を置かれた。
「制服、これに入れて」
「え、あ」
 それ以上の言葉はなかった。だけど先を歩き始めたその歩調はまるで僕を待つかのようにゆっくりで。
 そこにある感情が何一つ見えないまま、ただ鞄という言い訳を手にした僕は、それに引きずられるように濡れたままの背中を追いかけてしまったのだけれど。
 沈黙を破ることもできず、その表情を追うことすらできず。ため息すらつけない。一緒にいることの理由すら分からないまま、逃げ出したくなるのに、それでもそうしない、出来ない自分がここにいる。
 隣を歩く、ただそれだけで。どこに向かっているのかさえ聞けなかった僕に、それが示されたのはどのくらいたってからだったのか。
 いきなり立ち止まった人は、傘を押し付けると大きな門扉をくぐりぬけた。
 見渡せば広い庭と綺麗な外観をした家が建ち並んでいる。そんな閑静な住宅街の中でもいっそう目を引く大きな家。外壁に貼りついている大きな表札には『生島』の文字。
 門の前で立ち止まったままの僕を、生島さんは振り返った。呼び寄せるわけでも、手招きするわけでもない。ただ僕を見た、それだけで、引き寄せられるように足を向けた。

 

 

 


「あぁ、いらっしゃったんですか」
 玄関ドア前、僅かにその手が止まったように見えたのは鍵が開いていたせいらしい。生島さんは意外だと言わんばかりにそう口にした。
 出くわしたのは品のいい淡いピンク色のツーピースでその身を包んだ女性と、それより少し若いだろうか、理知的な雰囲気のする男性。
「えぇ。今から出かけるところだったの。臣さん、お食事はいつも通りでお願いしてありますから」
 香水なのか化粧の匂いなのか。甘ったるい香りが漂う。バックに添えられた指先には、煌びやかなネイルアート。
「大丈夫ですよ。お気になさらずお出かけください」
「それじゃ、よろしくね」
 穏やかだけど、上滑りしているような会話。ハイヒールを履いた足元はその短い間も向きを変えることもなく、後ろにいたジャージ姿の僕のことも気にも留めてはいないように、男性に開けられたドアを優雅にすり抜けた。
「あぁ、橋口さん」
 軽く目線を下げて、そのままドアの向こう側へと踏み出した男性を、生島さんは不意に呼び止めた。
「口紅、ついてますよ」
 唇を親指でなぞり笑った生島さんの瞳は、冷ややかで。息を飲んだ僕の後ろで急いたようにそのドアは閉じられた。

 

 

 


 他に誰もいないのだろう静けさ。思いがけない第三者との意味深な会話は、踏み込んではいけない場所を意識させた。ここにどうしているのか分からないままの僕は、揺らぐ自分を感じている。一歩、どちらへ踏み出すべきなのか。玄関先で立ち尽くしていた僕にタオルが差し出された。
「そのまま帰りたいならそれでもいいけど、その格好じゃ言い訳も苦しいんじゃないの?」
 与えられた選択権は、どうでもいいように聞こえて僕をたじろがせる。だけど。ぐっしょりと濡れているその人の右半分が、僅かに僕を引き止めた。
「なん、で。こんなこと」
 そんなことに何の意味もないのに。
「ほっとけば、よかったのに」
 そこに何かを探してしまう。
「僕が、一喜一憂するの、そんなに楽しいですか」
 見つけたいと願う自分がまだいる。
「キライ、なら、もう」
 こみ上げるものを飲み込みながら、必死で吐き出した。
「もう……」
 欲しいのはただ、全てを思い切らせてくれる言葉。
「嫌い、ね」
 だから僕は、その響きに身構えた。だけど。
「それは志信くんがオレを、ってこと?」
 問いかけられたそれに、呆然とした。どこまで、この人は残酷になれるのか。たまらずに背中を向けた、僕の目の前にドアがある。
「だってそうだろ?嫌いだなんて、オレ一度でも言った?」
 まるで言葉遊びのようなそれに、怒りも悲しみもわかない。ただ唇を噛んだまま手を伸ばす。からかうだけの、体のいい遊び相手。そういうことなんだろう。もう、それでいい。
「なんて。もう、今さらだな」
 そう、もう全部。そう思うのに、なぜだかそれはひどく迷うように揺れて聞こえた。
「傘はそのまま持っていってくれればいい。意地を張ると、また足が痛むことになるぞ」
 ドアを開けて出て行けば終わる。断ち切るつもりで、だけど反射的に振り返っていた。
 事故にあったのは小学生の頃で、無理をしなければ誰にも分からないほどだ。身内以外知っている人は限られているそれを、どうして知っているのか。
 突き放しながら、不意に撫でられる。駆け引きのようなそれにもう振り回されたくはないのに。
「だから、そ、いうの」
 終わりさえも告げてはくれない人。
 引き止めてもくれない人。
 だけど。
 それでも。
「なんで、こんなひと」
 傷ついているのは僕の方なのに、目の前の瞳の空虚さに気付いてしまった。
「嫌いだって、言えばいいのに」
 切ない眼差しはどこか痛い。それでも笑っているその人は、
「バカだなぁ」
 震えるようにそう言って、左手で僕をそっと抱き寄せた。

 

 

 


「な。さっき会ったろ? アレ、オレのハハオヤ。一緒いたのは今の愛人」
 さらりと口にされて、一瞬意味が分からなかった。だけど、生島さんは何でもないことのように淡々としている。
「元々政略結婚ってヤツで、跡取りができればお互い自由ってのが条件だったらしいよ。だから親父にもそういう相手が何人かいる。まぁ、契約どおりってわけ」
「そんな」
 それでいて公式な場では完璧な夫婦を演じるんだ、と喉の奥で嗤った。
「そういう中にいたから、なのかな。オレはね、好きとか嫌いとか、そういうのよく分からないんだ。心の中が空っぽな欠陥品ってコト」
 こぼれるように耳元に落ちた、自嘲するかのような欠陥品というそれ。
「でもオレはそれを意識したこともなかった。人間関係も巧くやってたし、困ったこともなかった。あんな親にしては上出来な子供だと思ってたぐらいだ。だけど」
 僅かに言いよどむ人の胸が一度、大きく動くのが分かる。
「中等部でエーイチに見抜かれた。『お前、誰も嫌いじゃないけど、誰も好きじゃないだろう』ってさ。一匹狼みたいに一人きりのエーイチに、いつも誰かが周りにいるオレが、だぜ? でも、本当にその時気付いた。肯定も否定もない、考えればその通りで。でも別に不自由はないって言ってやったら、あいつも普通に『そう?』って」
 それで分かった。あの人といる生島さんは、他の誰といるより楽にいるように見えた。それは見えるものじゃない、自分の知らなかった内側に気付いてそれを丸ごと受け入れている人だから。
「あいつとオレは根本的なところが似ていて。相手の考えてることがよく分かった。だからオレは、面白がるように茶化しながらあいつがそのゲームを持ち出してきたとき、本当は何を考えてたかも分かってた。でもだからこそ頷いた。ゲームだと言い張るなら、あいつが飽きるまで付き合ってやろう、そう思った」
 ゲーム。その単語に連なり思い出すあの日に身体が震えて。だけど宥めるように、その手が僕の背中を撫でる。
「あいつの選んだヤツを、オレが好きになればオレの勝ち。出来なければあいつの勝ち。ゲームだということを相手に気付かれたら即ゲームオーバー。それがルール」
 予想していたそれとは、似ていて、だけど微妙に違うニュアンス。
「え、でも、それ……」
「ま、普通逆だよな。もちろんエーイチは最初にそう提案してきたけど、誰も好きになれないオレがそんな相手を手に入れられるなんて、ありえないと思ってたしな。やるならその条件って、オレが決めた」
 そんなことありえない。そう言い切ってしまう人。
「だけどさ、駄目ならエーイチの勝ちだってのに、話しかけろ、気にかけろ、ちゃんと向き合えってあいつうるさくて」
 チャラそうに見えて、意外だろう? ってその時を思い出したみたいにふっと笑った。
「言われるままそれなりに一応色々試してはみたけど、結局ただの一ミリも動いたためしがなくて。あぁ、オレはやっぱり欠けてるんだっていう自覚だけが強くなっただけだった」
 ゲームでしか始められなかった、気持ちの色づけ。
「収穫はあった。これ以上は無駄だということがね。不必要に人を揺さぶるのも後味のいいものじゃない。だから止めたんだ。ゲームには飽きた。そうエーイチに言ったら、あいつは何も言わずにただ笑ってたよ」
「で、も」
「オレも、そして多分エーイチも全部を諦めてた。そんな頃に志信くんが現れたんだ。最初はただ、涼やかで伸びやかな声が印象的だと思っただけだった。見かけるたびにいつも笑ってて、楽しそうで。生徒会絡みで一緒に仕事をすると、真っ正直で、真っ直ぐな気質もみえた。眩しいぐらいに生き生きしてる。オレとは間逆だと思ってた」
 いつもたくさんの人に囲まれて、羨望の眼差しの中にいる人は、ずっと眩しいのに。
「そんなオレに、エーイチが気付かないわけがない。あいつは最初から気付いてた。見かけてるんじゃない、無意識に探してるオレに。だからこれが最後だと、持ちかけてきたんだ。オレは正直迷ったよ」
 ゲームの相手。だけど今までとは少しは違った? 迷ったのはなぜ?
「もしかしたら、というより予感はあったのかもしれない。今までとは違うっていう、それはね」
 そっと身体を離される。
「志信くんはその真っ直ぐさのままオレの中に入り込んだ。優しくて、どこか甘ったるい時間は悪くなくて、まだ分からないこの感情に流されてしまいたくもなった」
 頬を包まれるようにその手が触れる。
「だけど。あの団体戦の予選で。八本目を外したとき、オレは初めて怖くなった」
 七本連続の的心後のそれ。
「放つ瞬間、見えたんだよ。志信くんがね。的以外に一瞬でも気を取られるなんて弓道を始めて一度もなかった。たったそれだけで外した自分も信じられなかった」
 外れた矢を、静かに見つめていた人。
「一緒にいると楽しくて、温かくて。その居心地のよさに身を任せたくなるけど、時々自分で自分の気持ちが自由にならなくなる。それに気付いたら、今まで空っぽだった分だけ怖くなったんだ」
 僕を見るその眼差しは、あの時と同じ。
「気持ちなんて不確かで見えないものを欲しがる自分も、それを信じきれない自分も最悪だと思った。結局オレはどこにも進めない。どんなに特別かもしれない相手でも」
 触れていた手が、離れる。
「人の気持ちが分からないオレは、このまま一緒にいると、それを試したくなる。多分何度だってまっさらで綺麗な志信くんを無意識に傷つける。だから」
「気持ちは」
 その人が進めないなら、その手を今度は僕が掴めばいい。
「気持ちは、変わらないものだなんてことは言えないけど。それなら今ここにある、この気持ちは信じちゃいけませんか?」
 お弁当の中身を楽しむことも、タコさんウインナーも知らなかった。子供みたいにそれを喜んでくれた人。
「こんなに、好きにさせておいて、自分だけ逃げないで」
 人の心がわからないという人は、いつだって優しかった。
「傷つくなんて、今さら。どうすんですか。もうあちこち傷だらけで」
 特別だという言葉を、僕は信じるから。
「傷つけても、いい。それごと、見ていてくれればそれで」
 それでもまだ足りない?
「欠陥品、なんて、も、絶対に……」
「バカだなぁ、やっぱり」
 強い力でその両腕に掬いあげられる。
「多分、違うヤツの方がずっとうまくお前を大事にしてくれるんだよ?」
 違う人、なんていらない。
「もしかしたら、結局何も感じないのかもしれないし」
 そんなこと、どうだっていい。
 喉につかえた気持ちは声にならないから。ただもう頭を振り続ける。
「もう、知らないぞ。離してやれなくても」
 告げられて、応えるようにその背中に両手を伸ばした。
「ホント、エーイチの言ったとおり」
 濡れたシャツに顔をうずめたままの僕に
「志信くん、趣味悪すぎ」
 生島さんはそう笑った。

 

 

 


「あぁ、吉野ちゃん。オミなら、もう来ると思うよ。で、それなに?」
 弓道部の部室。当たり前のような顔をしてそこにいた人は、軽い口調のまま僕の手の中のものに視線を向けた。
「え、あの」
 それはあの日、ここでばら撒いたお弁当と同じ中身。食べ損なったそれを食べたい。そう強請られて、忘れていた空のお弁当箱を渡されたのだ。
「なんてね。弁当だろ? 何気にオミが自慢してた。四本足のタコさんウインナー」
 恥ずかしくて、だけど、どこか嬉しいのも確かで。口元が緩むのを俯いて隠す。
「なぁ。あいつ、優しい?」
 そんな僕に、投げかけられた同じ質問。だから。
「過ぎるぐらいに」
 想いのまま答えた。
 分からないだけ臆病で、傷つけることに躊躇ってばかりいる人は、だけど、まっすぐに僕を見る。その瞳はとても柔らかで、優しい。
「そっか」
 呟くように落ちたそれは、深い安堵のため息にも似ていた。
「まぁな。自分から付き合ってくれって言った相手だもんな。最終的には予想通りか」
「え、だって」
 過去に何度か試したっていう相手は。
「言う必要なんてなかったからな。あいつが仕掛けると、大抵は先に相手がその気になる。告白するよりされて終わりが典型的なパターンだ」
 嬉しいような気もするけど、やっぱり誰にでも優しいところはちょっと複雑な気分がする。
「そろそろ、かなぁ」
「え? なにがですか」
 口元を上げて面白そうに笑う人は、たった一歩で距離を詰める。
「あのな」
 内緒話をするように耳元に近付かれたのとドアが開いたのは同時だった。
「エーイチ、オレの目の前でいい度胸だ」
「なに。オミが兼田の現国の時間に余所見して、用事なんか言いつけられてっから、こうしてお前の代わりに相手をしてたんだろうが」
 軽く肩を叩かれると、生島さんは足音も荒く近付くなり、その肩を奪うように手をかけられ。そして不機嫌さをそのままに、引き寄せられた。
「ならもうお役ゴメンだな」
「せっかくだから一緒に昼飯とか」
「言うか」
 即答した生島さんは、親指で後ろのドアを指し示す。
「余裕ないなぁ。あんまり邪険にすっと、マジで邪魔してやるぞ」
「エーイチ」
「はい、はい。そんなマジになんなくても出て行きますよ、お邪魔様」
 不承不承と従う人に生島さんは目もくれず、僕の髪を撫でて。
「さてと。お茶だけ買ってきたから一緒に食べよう」
 緑茶と烏龍茶、どっちがいい? なんて、嬉しそうに包みを解く。
 そんな生島さんに気付かれないように、ドアの前、その人は一度だけ振り返った。満面の笑みで、同意を促すように。
『四限、体育だったろ? オミの席、窓際なんだよね』
 見ていたい。近付きたい。知りたい。知って欲しい。そうやって始まるのなら。
『オレの負けもそう遠くないってこと』
 いつか、やってくる
 優しい人が、その気持ちを手にするとき。
 その時、目の前にいるのは、僕だといい。
 満たされた想いに笑う人を
 一番近い場所で見ていられる、僕でいたい。

 

 

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