待ち合わせの時間よりバイトが早く終わって、迎えに行くことを思いついた。
 驚いた表情が見たくて、連絡も入れず。
 簡単に見つからないように、それでも早まる足は止められないまま歩いた反対側の歩道。けれど。
 煌々と眩しいぐらいの明かりに吸い寄せられた僕は、縫いとめられたように動けなくなった。
 その人以外のスタッフは誰もいない。だけど一人きりじゃないフロア。
 クローゼットから取り出された真っ白のコートが優しくかけられて、整えられた巻き髪がその肩口で揺れた。
 コートの下から覗く淡いピンクのワンピースはふんわりとした雰囲気の彼女によく映えて、知らず唇を噛む。
 一言、二言。
 艶やかなその唇が紡ぐ声は聞こえないけれど、やわらかな笑顔ひとつで胸のうちに小さな染みが落ちる。
 慌てて拭おうとして追ったその広い背中に、けれど僕ではない手が幾つものシワをシャツに作ってそれはさらに深く沁み込んだ。
 まるでドラマのワンシーン。一対の絵のような二人。
 気がつけばその場から逃げ出していた。
 萎んでしまった心を抱えて。

 

 

 

 

『あのなぁ、多岐』
 結婚前までと同じとはいかないけれど、今だって一ヶ月に一度ぐらいはかかっていた定期便。そのどれもが取るに足らない、だけど妙に和むものだったのだけど、その時だけはどこか様子が違っていた。言いかけて、けれどそのたびに違う言葉で無理やり繋ぎ止めているようなぎこちなさに、いい加減焦れた頃。
『アイツ、今付き合ってる彼女とかいる?』
 まるで見計らったかのようなそれに、携帯を取り落としそうになって慌てて握り締めた。
『え……、なんで?』
 柾也さんと付き合うようになってから、一度だけ弘兄に伝えるかどうかで揉めたことがある。きちんと説明するという柾也さんに僕が同意しなかったからだ。弘兄にとって考えも及ばないだろう事実を告げて、柾也さんと弘兄が険悪になってしまうのを避けたかったというのももちろんだけれど、僕自身が社会人になって柾也さんの立場を揺るがせたりしないでいられるようになってからにしたかったというのが本音だ。とはいえ全く知らせないと後々のこともあると柾也さんに強く説得されて、偶然知り合って仲良くしているとあながち間違いではない部分のみを伝えていた。だからこそ電話のたびに一緒に出かけた話なんかを小出しにしてはいたんだけれど。
『いやさ、ちょっと噂っつーか耳にしたんだけどさ。あいつ全然クチわらねぇし』
 そんなことを聞かれてしまうほど無意識に親しさを伝えてしまっていたのだろうか。過ぎる不安に、大きく深呼吸する。
『あのね、弘兄。柾也さんが弘兄にも言わないことを僕が知ってると思う?』
 ことさら平静を装う表情を見せてしまえばきっとさらに突っ込まれたに違いないけれど、幸い電波に乗るのは声だけで。
『あー。まぁそうか』
『でしょ?』
 納得したのかしてないのか分からない声音でそれきり黙り込んでしまった弘兄を向こうに、もうひと押しして。話題を変えようとしたものの、それもまたやはり弘兄に遮られた。
『そうだよな。どうせまたモデルだとかタレントだとかが相手なんだろうし。考えればそんな軽はずみに言えねぇか』
 違うとも、そうだねとも言えないまま。
『知ってるか?元カノが桜井ゆりあや、藤野春奈だぜ?職業柄だとは思うけどさ』
 胸元に突きつけられた過去。
『まぁ今度会ったら問い詰めてやるって言っといてくれ』
 耳元で響いた笑い声に習うように無理やり声を上げて、忍び込んできた小さな不安を押し込むように蓋をしたつもりだったのだけれど。

 

 

 

 

 たった数秒、切り取られたような一コマ。引き金はそれだけで十分。あっというまに胸を押しつぶすようなそれに侵食される。
 会話ひとつ聞こえていない。どんな表情だったのかさえ分からない。
 けれどそこはその人の仕事場。
 帰国してからずっと店以外での仕事が忙しくなってしまった人だから、当然時間外にという予約だって受け付けるだろう。
 ましてガラスに映った彼女はとても綺麗だったから、VIPの一人なのかもしれない。柾也さんが過去に付き合ったという有名モデルや女優さんのように。
 そう思うのに、どうしてだろう。胸の奥が冷やりと冷たく震えた。
 例え彼女の思惑がどうあれ、柾也さんにとってはお客様。
 そんなこと、ちゃんと分かっている。まして、心変わりだなんて疑ってもいない。
 ずっと、ずっと。再会してからはさらにこれ以上甘やかされたらどうにかなりそうだと思うほどに大事にされている自覚がある。
 忙しさを言い訳にされたことなんてない。僕に会う時間が何より一番だと公言して憚らない。
 砂糖にメープルシロップをかけてもまだ足りないほど、僕に甘い人。だから。
 だから、かもしれない。
 甘やかされてばかりが、もどかしい。
 信じているとか、信じていないとかそんなことじゃない。
 ただ誰かの手があの人へと伸ばされるだけで、こんなにも苦しくなる。
 嘘だとか真実だとか、そんなものじゃない。
 ただあの人が誰かの髪に触れるたび、こんなにも切なくなる。
 無茶で子供じみた嫉妬。いつの間にか芽生えた浅ましい独占欲。
 持て余すもどかしさが生む、不安。
 こんな子供の一体どこを好きになってくれたんだろう。
 こんな自分をいつまで好きでいてくれるんだろう。
 奇跡みたいだと感じた幸せだけ、どうしてだろう怖くなるのだ。
 たったワンシーンを目にしたぐらいで。
 あの人の隣にはもっとふさわしい女性がいるのだと、思い知らされるのだ。
「何かおつくりしましょうか?」
 自分の中に沈み込んだままの僕に届いた、差し出されるような静かな声。
 引き上げられるように戻る意識の先に見えた目の前のタンブラーで、溶けた氷で薄まったカンパリオレンジが飲んだはずの隙間を埋めていた。
「あ、申し訳ありません」
 最初に飲んだ一口ともう同じ味はしないだろう。かまいませんよとそっと取り上げられたそれに、せっかくのカクテルを無駄にしてしまったようで噛み損ねた唇からため息が落ちた。
「何か心配事でも?」
「いえ。そういうわけじゃ、ないんです」
 否定したところで見抜かれているのだろう。それでも、ひとつ頷いたきりそれ以上その人は踏み込まない。ほっとして、また吐き出しそうになったため息を慌てて飲み込むと、僕は無理やり笑顔をつくる。
「あの、チョコレートに合うものって何かありますか?」
 スツールの背中にかけたコートのポケットから包みを取り出しながら、そうリクエストした。

 

 

 

 

 去年のバレンタイン。
 チョコレート売り場の女の子達の視線が痛くてどうしても買えなくて。ハードルをぐっと下げたコンビニで大して欲しくもない袋菓子をカゴに放り込みつつ目的のものを探ったものの、カラフルなPOPで強調されたロゴを前に手に取ることすら出来ずにあえなく撃沈。残すところはネット通販だと特集サイトを巡っていた時、タイミングが良いのか悪いのか、肝心の柾也さんが一週間海外出張に行くことになり、気勢をそがれてしまった僕は結局そのまま戦線離脱した。気負っていた分だけがっかりしたような、ほっとしたような複雑さを抱えたまま、甘ったるい香りがあちこちから漂っているような2月14日を一人きりで過ごした。
 今年も、だから本当は何も考えてはいなかった。弘兄のあの電話が来るまでは。
「なにやってんだろ」
 手の中にある貧相な包みは、およそショーウィンドーやネットに並んでいたものとはかけ離れている。
『新名先輩が、ですか』
 卒業後に始まったらしい母校でのチョコレート販売の噂に、一も二にもなく連絡していた。だからとっさの言い訳など用意しているはずもなく。
『です』
 素直に答えた僕に、なんだかやたら男前に成長していた後輩は数年前とは違うどこか穏やかな表情で僅かに口角を上げた。釣り込まれるようにうっかり見入っている間に、アルバイトのピンチヒッターという対価を引き受けてしまうことになったのだけれど。
『なんだか、さ』
 同じ材料、同じ道具で作ったはずのマカロンがどうしてこんなにも違うのか。並べられた二つは比較にもならない。
『マカロンは初心者向きじゃないんですけどね』
 あまり勧められない。そうアドバイスされてなおどうしてもと言い張ったあの時の自分を、引き戻して従わせたくなる。
『とりあえず味見をどうぞ』
 見事な出来栄えのそれを差し出されるまま口にすると、売られているものと遜色ない美味しさで。
『おいしい、や』
 だけどちっともそんな風には聞こえなかっただろう。落ち込む僕の目の前で、けれどそいつは焦げついて歪な形のそれを放り込む。きっとさっきはしなかった硬そうな音に、さらにへこみそうになった。だけど。
『初めてにしては上出来だと思いますよ』
 いきなり俺と同じに作られちゃ、立つ瀬がないでしょう? だなんてそいつが合格点をくれたから。
『サンキュ』
 ちょっとだけ特別なものに思えたのだけれど。
 手の中の小さなそれに、躊躇ったのは一瞬。
 あちこちやり直した折れ痕を一度撫でると、軽い音を立てて綺麗なリボンもデコレーションもない簡素なそれはあっという間に剥がれた。
「やっぱり取り替えてって言えば良かった」
 ひび割れていたり、クリームがはみ出したり。まともに出来ているものを探す方が難しい。どうしてこんなものを渡そうだなんて考えたのか。
 表面はサクッとして中はしっとりした食感のはずが、つまんだそれはやっぱり硬い。味はさすがにそんなに悪くはないような気がするけど、だからといってあの人の周囲にいるどんな女性がこんなものを贈るだろう。全然釣り合わない。
 もう一つを口にした時、目の前に背の高いスリムなグラスが差し出された。
「シェリー酒です」
 ショットバーではそう出ないだろうカクテルではないそれは、あの人を諦めようとして一人過ごしたクリスマスの苦さを思い起こさせて、思わず伸ばしたはずの手が止まった。
「カクテルにしましょうか?」
「あ、いえっ」
 カウンターの向こうからその指先が届くより先、慌ててそのグラスを引き寄せる。
「シェリー酒なんて初めてで。でも、広江さんのオススメなら確かでしょう?」
 そう笑ったのに、目の前の人はどこか複雑そうな表情をするから僕はゆっくりとグラスを傾けた。
 甘口のそれがふわりと広がる。
「さすが。本当に美味しいです」
「それならいいんですが」
 そう言いながら、その人は表情を曇らせる。
「新名君。今日は柾也と待ち合わせでは?」
「えぇ。まだ三十分はありますけど」
 だからきっと一時間は来ないかなと笑いながら、浮かんだ背中を消すように噛み砕いた甘い欠片。
「ひとつ、お聞きしても?」
 飲み込むより先、そう問いかけられて思わず目の前の人を見た。職業柄だろうか。場を和ませることはあっても個人的に尋ねたりはしない人の常にないそれに、僕は戸惑いながらも頷いた。
「それは、どなたからか?」
 それ、というのは間違いなくこのマカロンもどき、だろう。
「どなたからっていうか」
 僕が作ったんですとは、やっぱり言えなくて。口ごもったまま剥がした包装紙を小さく折ってしまう。
「柾也さんには内緒にしておいてくださいね」
 ショルダーバッグに残骸を押し込みながら、小さな箱を持ち上げた。
「その代わり、にはならないと思いますけどコレどうぞ」
「新名君。あの……」
 口止め料にするにはあんまりな代物でも、これでとりあえず証拠隠滅。複雑な気分のまま僕は最後のひとつからそっと目を離した。けれど。
「何が俺に内緒なのかな?」
 耳慣れた低音。いつもよりさらに甘く響いたそれに、背中が震えた。
「なぁ?多岐」
 この状態を取り繕う上手い言い訳を考えることも出来ない。それどころかいつものように振り返って名前を呼ぶことも、ましてその瞳を追うことすら出来ないでいる僕を、落ちたため息がさらに塞ぐ。
「これ、なに」
 背中から伸びた指先は、固まってしまった僕の目の前にそれを差し出す。最後のひとつ。あの中で一番ましだったかもしれないと思ったそれ。だけど。その人の手の中ではあまりに不似合いで。
「こんなもの」
 つまらないことをしたと後悔していたはずの僕は、その言葉に思わず目の前にあった空箱を乱暴に握り締めた。
「そ、だね。こんなもの、だよね」
 そう。僕だってそう思って、だから隠そうとした。それでも。
「だけど。僕だって、一生懸命、色々……」
 誰より特別な人に、どんな綺麗な女性でも渡せない僕だけのものをあげたかった。特別な日に、してみたかった。
「多岐?」
 歪む視界に瞬きを堪えて、スツールを滑り降りる。
「帰る」
 このまま一緒にいたら子供みたいに喚き出してしまいそうだった。そんなことだけはしたくなくて無意識に逃げ出すことを選んだはずが、コートを掴みすり抜けたつもりで捕らわれた手首が痛む。
「帰る」
「駄目だよ」
 あやすような色が余計に痛い。
「離してっ!」
 振り払おうとして、さらに肩を掴まれて。反射的に見上げたその瞳にようやく気付く。
 笑っているのに、纏う空気はひどく冷ややかで。
「離して欲しい?」
 押し殺された感情がその瞳の中で揺れていた。
「柾也」
 カウンター越し、どこか責めるようなそれに促されるように痛みは緩んだけれど、その手が離れることはなかった。
「込み入った話があるなら奥を貸します。ただ」
「分かってる」
「本当に?」
「くどい」
 力任せに引っ張られるままの僕にその人は、優しく微笑んでいた。
「大丈夫ですよ」
 そう囁いて。

 

 

 

 

 押し込まれるようにして入ったそこはスタッフルームなんだろう。ローボードの上に出されたままの煙草は封を切ったところで放置され、ソファには綺麗なカクテルグラスが表紙を飾ってる雑誌。ついさっきまで誰かが寛いでいたはずの空間は、けれど少しも気を抜けない。二人きりが気詰まりで視線が定まらないくせ、背中を向けたまま探るようにその人の気配を追いかけるのを止められない。どのぐらいそうしていたのか。
「多岐」
 やわらかで優しいそれと同じ温もり。ふわりと包まれて、僅かに強張ったのが伝わったのか。長い嘆息が耳をかすめた。
「ごめん。自分でもびっくりしてる」
 さっきまであったはずの強引さをかき消して、壊れ物に触れるようにその長い腕は僕の胸元あたりで空に浮いている。
「内緒だなんて言われて、あんなの見ちまうとな」
 そう言ったきり続かないその間がまるで言葉を選んでいるみたいで、その先に身構えるように手のひらを握り締めた。だけど。
「そりゃ多岐だってチョコぐらい貰うよな」
 うん。そうだよ。不恰好で不出来なチョコくらい貰うって……。え?
「いかにも手作りってところからして本命チョコだろ、あれ」
 あまりに予測とは大きく外れたところに着地したそれにうろたえる僕に、ますます柾也さんは大きく息をつく。
「なんかムカついた」
「え、でも、手作りってだけであんまりな出来だったし。それに柾也さんだって言ったじゃん。『こんなもの』って」
「そりゃ言うだろ? 手作りチョコなんて簡単に受け取って、しかも待ち合わせしてる場所に持ち込まれて俺が面白いとでも?」
 不貞腐れた子供みたいに。
「さっきのマジで俺が食ってやろうかと思った」
 さすがに相手に悪いと思って止めてやったんだ、とそう告げられたから。
「食べればよかったのに」
 呟くようなそれは、届いただろうか。
 弛んだままの腕の中、触れてくれない指先が寂しくて、そっとその腕に触れる。
「柾也さんの、だったのに」
 釣り合うとか、釣り合わないとか。
 相応しいとか、相応しくないとか。
 そんなこと全部を柾也さんが消してしまった。
 あんなさえないチョコレートに、妬いてしまうことを隠さない人にあっけないほど。
 ただ今ここにあなたがいる、その幸せに包まれて。
「最後の1個、食べてくれますか?」
 浚われるように抱きしめられる。
「もちろん。でも」
 俺の分、多岐が食べちゃったんだろ? だったらその分は返してもらわないと。甘く囁かれて僕はそっと瞳を閉じた。

 

 

 

 

「包みを解くところからしたかったなぁ」
 へしゃげた箱に転がった最後の一つ。簡単に食べてしまうのが勿体無いとためつすがめつ見入る人を直視することはどうにも出来なくてそっぽを向いたままシェリー酒に口をつけて。
「ん、うまい」
 ようやく聞こえたその声に、耳まで赤くなるのが自分でも分かる。
「食感とかは全然駄目だけど、味はね一応合格点貰えたから」
 照れくささにもごもごとそれでもちょっとだけほっとしてついて出たそれ。上目遣いに見た先にいた人は、大げさに片眉を上げた。
「ふーん。合格点ね。で、誰に?」
「え、誰って」
 頬杖をついたまま視線を投げる柾也さんのご機嫌は瞬く間に急降下。
「うん?」
 つまらなさそうな表情に、ようやく僕は思い出した。
『あ、言っておきますけど相手の人には黙っててくださいね。味見とはいえ俺が先に食べたこと』
 言い渡されていた後輩の台詞を。
「あ、れ?」
『無用の敵意を買いたくはないですからね、俺は』
 理由も聞かずに頷いたけど、どうやらそのアドバイスは的確だったらしい。
「ゆーっくり後で聞かせてもらおう」
 意味深に口元を引き上げられて、僕はただ笑う。
 きっとそれも甘い時間。

 

 

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