高い天井は、目の前の空間が一気に拡がったような開放感を生む。僕の家がすっぽり納まりそうなエントランス。磨かれた真っ白な床に先を誘導するように敷かれた濃紺のカーペット。正面に数点並んで飾られている風景画の手前には二組のソファーセットがゆったりと並べられ、そこから反対側にはガラス越しに中庭らしきものが見える。薄明かりに混ざる緑がさし色のようにこぼれて、それは目を引く光景だった。
 固く閉じられた自動ドアを目の前で解除されていなければ、ホテルだと信じて疑わなかっただろう。非日常を感じさせる高級感に現状も忘れ見入っていた僕をさらに驚かせたのは、しつらえられていたカウンターに現れたダークスーツ姿の男性だった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。上主さん」
 綺麗に伸びた背筋は凛として、どこかプロフェッショナルな雰囲気をまとっている。その物腰は打ち消したはずのホテルのフロントを呼び起こさせて、違うと分かっていながら無意識にまた辺りを窺ってしまう。
「伊川さん?」
 気後れして視線の置き場すら見当たらない。そんな僕を幾つかの封書を手に振り返った人は、どこか不思議そうに眺めていた。
「まさかアルコールの匂いで酔ったとか?」
 からかうような台詞も半ば本気が混じっているような気がする。圧倒されている、とは思いもつかないらしい。曖昧に笑ってはみたものの、何もかもあまりに違いすぎる人に気を抜けばそれはため息に変わってしまいそうで。意識的に上げた口角に、けれどその人は気付きもしなかっただろう。
 一歩で詰められた距離。身長に見合ったリーチの長い手は、その僅かな間に上着を握っていた。
「え、あの……」
「上主さん、これ三十分前ぐらいに酒かけられちゃったんですけど、いけます?」
 僕の背中から抜き取られたそれは、その手を通過点にして、また別の人の手の中へ渡る。
「どのようなものかお分かりですか?」
「柑橘系だからファジー・ネーブルかオレンジ・ブロッサム。その辺りじゃないかと思うけど」
 注意深く生地を確認するそれが真摯なだけに、着心地より財布の中身を優先した代物だということが急に気になり始める。
「承知しました。お急ぎでしたら二時間ほどで仕上がりますがどうされますか?」
 持ち主の僕ではなく目の前にいる人に問いかけながら、それでも窺うような視線が向けられた。どうやらクリーニングについてらしいことは分かっても、どうして今ここでそんな話になっているのかは謎だ。とはいえ今はまずその件の上着を取り戻すことが先に違いない。
「いえっ、クリーニングなんてするほどのものじゃないんで」
 押し切られるようにしてここまでついては来たものの、長居するつもりも、ましてこんなところに連れてこられるなんて思ってもいなかった。今でさえどうしようかと思っているのにさらに二時間延長だなんてありえない。第一、下手をすると上着代より高くつきそうなクリーニング代を払うぐらいなら、ついこの間諦めた新しい筆を一本買う方を選ぶ。
「というわけで、超特急であげてください」
 取り返そうと伸ばした手に、けれど触れたのは広い背中。
「でなきゃ今すぐこの人、回れ右して帰っちまいそうだから」
「え、いや、あの」
「これ以上そんなカオしてっと、今ここでそのシャツも脱がせちまうけど?」
 尻込みする僕のシャツが長い指先に引っ張られ、慌てて胸元を押さえたときにはもうその人は歩き出してしまっていた。
「そちらのシャツはすぐに取りにお伺いいたします」
 往生際悪く迷う僕を、恭しくお辞儀をした人は穏やかに笑んだままその場から動かない。その手の中にある上着に大きく息をつくと、僕は押し出されるようにゆっくりと一歩を踏み出す。広い背中の後をついて。

 

 

 

 

 ドアが開けられると同時、壁に取り付けられた間接照明が点いて、奥の扉へ続くゆったりとした廊下を照らす。帰宅したばかりなのに空調は完全にコントロールされているらしく暑さを感じないどころか、どこかひやりとさえしていた。
「あがって」
 上がり框の前、手入れされた革靴の隣でくたくたになっているスニーカーを脱ぐのに躊躇うけれど、廊下の先から感じる視線に諦めた。行儀が悪いとは思いながら、紐は解かずに脱ぎ落とす。
「お邪魔します」
 友達の家に行ったのがいつだったのかすら思い出せない僕が、どう言い表せばいいのかよく分からない人の部屋へ招き入れられていることは駄目押しの非日常。心許なさはそのまま進まない足に現れていた。
「あ、そこでストップ」
 廊下を半分あたりまできたところ。かけられた声は、つい忍び足になっていたことに気付いたのだろうか。喉の奥で小さく笑う気配がした。多分、この人の知る中で一番みっともない部類に入るんだろう。当然だと思いながら、知らず後ずさりした目の前。
「それ、脱いで」
 俯いたままの僕を覗き込んだのは柔らかな眼差しで、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「代わりのシャツと、あとタオル。ついでだからシャワー浴びればいいよ」
 差し出されたそれらに、我に返る。
「上主さんがそろそろそのシャツ取りに来るから」
 シャツ。そういえばそんなことを言われてたんだった。だけど促されたスライドドアの向こうにのぞくバスルームは、今の僕にとっていっきに上がったハードルでしかない。
「や、シャツは大丈夫。多分、引っ掛かった程度だし。うん、シャワーなんて全然」
 思いきり首を振って、無意識に胸元を握るけど。
「そんなコドモみたいな。それとも」
 意味深に区切られた間を埋めるように、不意に距離がつめられた。
「マジで俺に脱がせて欲しい?」
 囁くように落ちた甘い低音と同時、無防備だった首筋を撫でられて、奇声を上げて仰け反るように飛び退いたはずが、勢い余ってバランスを失った。
「うわっ!」
 踏みとどまるには無理な体勢に、反射的に身構えた僕を、けれど受け止めたのは後方の固いフローリングの床ではなく。
「あぶねーって」
 勢いよくぶつかったのは額。視界が塞がれて目を瞬かせること三度。ふわりと香る匂いに満たされてそっと息をつくと、無意識に触れていた頬に伝わる僅かな振動。
「なんていうか」
 恐る恐る顔を上げると、堪えきれないとばかりに肩を震わせている人。
「ホント、反応面白すぎだよね」
 片手で掬いあげられるように支えられたまま、包み込むような温もりに気付いて慌てて離れようとするけれど、その腕は緩むどころかますます強くなる。
「嫌がられると固執するってこういう気分なんだなぁ」
 ちょっと新鮮かも。なんて暢気な呟きは本音かもしれないけれど、僕にとっては素直に相槌をうてる状態なんかじゃない。
「ちょっ、離して」
「離したら逃げ出しそうだから駄目」
 吐息に耳元をくすぐられ、全力疾走の後みたいに心拍数が跳ね上がる。逃れるように首を竦めても何のことはない、やすやすと抵抗を封じられてしまう。
「ほら、逃げてるし?」
「や、そんなこと」
「ない?」
「ない、ない、ないです」
「じゃ、シャツ」
 ノーと言えば本気で脱がせられそうで、今度はちゃんと首を縦に振って脱衣所に逃げ込んだ。
「分かってるだろうけど、シャワーもね」
 ドア越しかけられたそれを背に何度も頷いた僕がまるで見えてるかのように、その人はまた笑っていた。

 

 

 

 

「なんか貧相さが際立つなぁ」
 用意されたシャツは当然といえば当然だけど、肩口も袖も裾も大きく余り、動くたびシャツの中で身体が泳いで体型の違いを実感させられる。
 同世代の男なら妬ましくも羨ましい広い胸と強い腕は、女の子を惹きつけてやまないだろう。ましてモデルばりのルックスなら尚更。
『離したら逃げ出しそうだから駄目』
 そんな軽口。手馴れたゲームのような台詞に深い意味はないと分かっていても、うっかりその心地よさに触れてしまえばその甘さに絡め取られそうになる。
「うん。あれはやばい」
 だけど。
『そもそもそんな関係じゃないだろ? 俺達』
 だからこそ一度でも与えられたその温もりを、追いかけることも縋りつくことも許されないまま、切り捨てられてしまう冷ややかさをまたその腕の中で感じ取るとしたら、それはあまりに悲しく苦しいだろう。
 僕でさえ知っている。葛井英一という名前を彩る派手な噂は誠実さとは程遠い。求めているのはただの遊び相手。割り切って傍にいられなければ、傷つくばかりの恋愛ゲーム。それと知りながらそれでもその人を追う気持ちが分からなかった。別に見栄えがいいだけの人なら他にだってたくさんいる。もっと優しくて一緒の歩幅で歩ける人もいるのに、どうしてその人なのか。事欠かない噂を耳にするたびそう思っていた。だけど。
 軽薄だと叩かれるその人の腕は思いがけないほど温かくて。触れてしまえばそれを優しさだと思いたくなるのかもしれない。瞳の奥底にある冷ややかさを掃きだしてしまうように柔らかな眼差しを向けられれば、それがその先までも続いているように感じさせられるのかもしれない。
 自分だけは違うのかもしれないと、ただ一瞬で思わせてしまう人。
 無意識に掴んだシャツの胸元から香った匂いにつられるように浮かんだのは何だったのか、分からないままそれは消えてしまった。残されたのはただ不安げで今にも泣き出しそうな表情をした僕で。
「景気の悪いカオ」
 鏡に向かって笑顔をつくってみるのに少しもそうは映らない。それはきっと限界に近付いているコンタクトのせいだ。そうに違いないから僕はそのままそっと目蓋を閉じた。

 

 

 

 

 おずおずと開けたドアの向こう。薄暗いそこに飛び込んできたのは見事な夜景。壁一面がガラス張りになっているそこに散らばる光はまるでプラネタリウムみたいだった。ふらふらと吸い寄せられるようにして、どのぐらいそうしていたのか。
 不意に後ろから柔らかな明かりが差し込んだ。何度か目を瞬かせてみれば、僕とカウンターの向こうにいる人の姿が目の前の暗闇に重なるように映し出されていた。
「お茶、淹れたけど?」
 楽しげに口元を緩めた人の手には、促すように掲げられたマグカップ。
「すみません」
 少し前までの緊張感を夜景ひとつで手放すなんて、子供じみたそれが今さら恥ずかしくて視線が上げられない。足早にスツールの隣まで近付いたもののタイミングが掴めず、俯いたままそっと深呼吸した鼻先。届いたのは想像とは違っていた。
「まきぞい食らわせたお詫びですからね。ちゃんと茶葉から淹れさせていただきました」
 なんとなく紅茶より珈琲のイメージだったとその紅い色をぼんやり眺めていた僕は、何気に続けられ聞き流しそうになったそれを手繰り巻き戻して。
「やっとこっち向いた」
 思わず反射的に顔を向けた先、いやに楽しそうな瞳に出くわした。
「あの酒、わざとかけられたってこと。もしかしなくても全然気付いてない?」
 けれど続いたそれと、確認したかったはずの事柄がすれ違う。
「あれ、店員のコの不注意なんかじゃないんだよ。あの直前、グラスを持ってるコが近付いてくるのを見計らってあいつがあなたを押したの。意趣返しのつもりだったのかなんてどうでもいいけど、確信犯ってヤツ」
 確かに、肩は押されたような覚えがある。だけど張り詰めた空気におろおろしていたせいで、誰かがぶつかったんだろうとしか思わなかった。故意だなんて想像すらしていなくて。
「だから店員のコにも、もちろん伊川さんにも落ち度はないってこと」
『最低、だな』
 感情をそぎ落としたようなそれを向けられたのが誰だったのか今さら知る。
「ま、そういうつまんねぇことするオンナを相手にしてた俺の責任もゼロじゃないか」
 茶化して笑う人の、けれどそれがどこか自嘲めいて聞こえる不思議。なんでだろう。随分な台詞だと思うのに。たったそれだけで、目の前にあるはずの全てが曖昧になる。
「というわけで、どうぞ」
 形にならないものにかき混ぜられ、不確かであやふやなものが僕を満たしてしまいそうで。
「いただきます」
 現実の代わりにスツールを引き寄せ浅く腰掛ける。手の中のマグカップはちょっと大きめで、戸惑いこぼれたため息を隠すのに丁度良かった。フレーバーの違いなのか僕の知るものとは少し違う、やわらかな香りと甘さがゆっくりとしみこむ。
「美味しい」
 味なんか分かるわけないと思っていたけど、そこまで神経は細くなかったらしい。無意識にこぼれた呟きに、だけど答えはなかった。目の前の人が黙ってしまうと、とたんに静けさばかりが耳につく。けれど間を埋める為だけに会話の糸口を拾うなんてこともできそうもなくて、倣うように口元を結んだ。吐息ひとつ漏らしたくなくて、呼吸することさえ意識した。手放せずにいたマグカップの水面が、無機質な電子音に揺れるまで。
「ちょっとゴメン」
 音源は白い革張りのソファの上、無造作に投げ出されたままだった携帯。思わず追いかけた先に見えたのは、逡巡することなく応えた人の背中だった。

 

 

 

 

 広いリビングだからなのか、意図的なのか。切れ切れに届く会話の中身は全く分からない。ただ、時折漏れる笑い声がやわらかくて随分と近しい人なんだろうと知る。
「だよね」
 目を細めて頬を緩ませる穏やかさも、辛辣で傲慢な冷ややかさも同居させて。利己的で排他的だと思わせながら、その一方で無遠慮に近付いたりする。本当のこの人を知っている人なんているんだろうかなんて、思い上がりもいいところだ。僕の背中の向こうに、その正解は差し出されている。
「何様だって」
 僕はただ、この人の前をほんの一瞬すれ違っただけ。偶然についてきたおまけの時間ももう終わるのに、埒もないことをつらつらと考えてた自分が可笑しい。
「あぶないとこだった」
 零れ落ちた独り言は、だけど自分自身にさえ意味をもって届かない。何もかもがぼんやりとまとまらなくて、どうしてだろう。どこかふわふわとした気分で視界までもがつられるようにぼやけていた。それでもその痕跡を残すカップの底に、片付けなきゃと無性に思ったことは憶えている。今なら洗えば落とせる。そう思ったことも。だけどそれきり、僕の意識は途切れてしまった。何かに引き込まれるように。

 

 

 

 

 無意識に探し当てた温もりに首を埋めると、くすぐるように香ったそれに何かが僅かに引っかかる。頬に触れるシーツの肌触り、枕の高さ。まだどこか浅い眠りの中、憶えた違和感は少しずつ増していく。薄く差し込むはずのカーテン越しの光もなく、およそ馴染んだものとは一致しない。
 いや、するわけがなかった。
 眠気が一気に引いた。慎重にベッドを降り、手探りで探し当てた厚い布地をひとつ息を吐き出して指先でそっと引っ張る。遮光カーテンだったらしいそれは、昇り始めたばかりらしいまだあけきらない光で細く長い筋をつくり部屋の輪郭を浮かび上がらせた。どうやらコンタクトをしたまま眠ってしまった少しばかり酸欠な僕の視界は、それでもあるはずのない昨日の続きにいることを認識しないわけにはいかなくなる。ついさっきまで無意識に触れていた温もりがそうさせてはくれなかった。
 カーテンを元に戻せばまた時間がさかのぼるように光は消えてしまうけれど、現実はそう上手くいかない。焦る胸のうちを押さえ、深い寝息を妨げないように、暗闇の中、覚えたドアの方向へとそろそろと足を進めた。

 

 

 

 

 どうやらやっぱり人感センサーだったらしく廊下に出れば照明はすぐに点いたものの、便利さを喜ぶよりその明かりが寝室に差し込まないかの方が心配で。細心の注意を払ってドアノブを締め終えると知らず息を吐き出していた。けれどほっとしている暇はない。
 開いたままだったリビングへのドア。足音を忍ばせたまま向かったそのソファの上に探し物はあった。ショルダーバッグも、預けていた上着とシャツも綺麗にパックされている。染みなんてどこにあったのかわからない出来栄えで。クリーニング代が一体幾らなのか検討もつかないけれど、とりあえず帰りの電車代を残し財布にあった紙幣を三枚抜いた。
「あとは」
 俯いた先に見えるのは夕べ借りたシャツ。もちろん僕のものではない。さすがにこの皺だらけのシャツをこのまま置いて帰ってしまえるほど非常識にはなれないし、かといってもう一度連絡する勇気もない。どうするべきかは分かっていて、そうすることが出来ない自分に選び取るものがあるわけがなかった。いくら迷っても向かい合えないなら意味はない。全てを後回しに、僕はそれら全部を抱えた。何もかもここを出てから。そう玄関を振り返ったはずの視線の隙間に映りこんだのは、昨日と同じ場所で置き去りにされたままのカップだった。
「洗っておかないと」
 覗いた底に張り付いた昨日の名残りに連なるように気持ちまでもが蘇ると、見ないふりをすることは出来なくなった。急かされるように立ったキッチンスペースで、たった二つのコップを洗うだけだったのに。シンクの上に置いたそれから目が離せなくなる。カウンターテーブルの上でシンプルな白にしか見えなかったそれは、なんとも可愛らしいクマのキャラクターがその反対側で存在を主張していた。白地に青で縁取られただけの片方とは違いすぎるそれは、この部屋にも、あの人にもそぐわない。
「だから、なに」
 イメージと違うと笑えるところだ。なのに固まってしまったかのように全部が強張ったまま、握り締めたスポンジからシンクの上に泡が滴り落ちていく。なんでだろう。どうしてだろう。ここに第三者を感じただけで、こんなに息苦しい。

 

 

 

 

 どうやって部屋を出たのか。気がつけばエレベーターの箱の中にいた。全ての記憶は頼りなく、あのマグカップもちゃんと洗ったかどうかさえ自信はない。かろうじて荷物が手の中にあることに僅かに安堵しながら、握り込んだ指先はけれど震えている。まるで渦巻き溢れそうなこの胸の中と連動しているみたいに。
 痛くて重い、切ないぐらいに苦しいそれを何と呼ぶのか。知っているような気もするけれど、それは多分似て異なるもの。だってこんなに苦いものが同じものであるはずがないのだ。だから僕は目を瞑って、勘違いしそうになる想いを止めてしまわなければ。
 まだ眠っている人は、何も言わず何も残さずいなくなった僕を礼儀知らずだと呆れ、腹立たしく思うかもしれない。だけどそれも僅かの間で、それきり忘れてしまう存在でしかないだろう。だから。それでよかった。
 例え、どうしようもなく心が乱れざわめいても、そう、こう思えばいい。
 これはどこにも存在しない伊川敦之の感情。小早川千尋のものではないのだと。
 振動もなく音もしない空間で、足元が揺れる。背中をぶつけた拍子に回数表示が目に入り、皺だらけのシャツを隠すように上着を羽織った。始発はもう出ているだろうか。何もかもを捻じ曲げるように冷静さを引き寄せ、僕は一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 閑散とした車内。だけどその背中をどこにも預けられず、掴んだポールに額をのせたまま、各駅停車のアナウンスをもう幾つ聞いただろう。そのたび開閉するドアに押されるように届く風にのって僅かに感じる香りに誘われるように浮かぶのは、優しい温もり。そして。
『千尋?』
 やわらかい、けれどどこか訝しむようなそれに重なるように髪の毛をすく指先。そして包み込まれるように漂ったこの香り。
「なんて夢なんだろう」
 響いた低音はあの人のものにとても似ていたけれど、あんなふうにそっと、まるで壊れ物のように触れられるだなんて身の程を知らないただの妄想だし、第一僕の名前を知らないあの人がそんなふうに呼ぶなんてありえないことだった。分かっているのに、そのどこかでどうせ夢ならもう一度出てきて、もう一回だけ僕の名前を呼んで欲しかっただなんて。
 何もかも押し込めてしまおうとしているはずが、もう片方でそんなことを考える。裏腹な自分を戒めるように唇を噛んだ。
 戻るべき場所へ。いつもの入り口へと向かっているはずのそれは、だけど全てを封じ込めたものを簡単に忘れさせてはくれないらしい。結ばれた一本の路線図に見つけた事実の皮肉さから逃れるように、僕は小さく笑った。耳慣れた最寄り駅まであと二つ。

 

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