―叶―

 

繰り返される甘い睦言も
想いを伝えるような優しいキスも
引き寄せられる温かな腕の中も
たった一人の人がくれるもの全部があんまり幸せで。
だから。だからなのかな。
幸せすぎて、時々怖くなる。
あんまり好きすぎて、怖くなる。
どこまで好きになってしまうのか。
溺れてしまいそうで、苦しくて。
これ以上好きになってしまったらどうにかなりそうだなんて。
そんなこと思ってしまうのは俺だけなのかな。

 

 

 


―仁科―

 

何度想いを言葉にしても、初めて聞くみたいに俯くけど。
そっと見上げる目元が朱に染まって、まるで唆されるみたいに唇を奪いたくなる。
だけど。
心の中で一度ブレーキを踏むのが習慣になった。
壊さないように、そっと、そっと触れる。
それでも気がつけば強い力で抱きこんでいて
身動ぎ出来ないあいつは、そんなとき決まって俺のシャツの裾を握るから。
そんな可愛いことされると、今にも踏み越えそうになる。
心のまま抱きしめたくなる。
だけど。
お前に触れられると、優しいだけじゃいられなくなりそうだから。
もし、もしも俺が引き返せなくなったとき。
その指先をお前は預けてくれるだろうか。

 

 

 


―叶―

 

「俺は大丈夫。ごめんね」
 ベッドに持ち込んだコードレス電話から聞こえる心配そうな声。本当なら受話器越しなんてものに遮られないで、今頃はその温もりのそばにいたはず

だった。
 年末年始は家族で旅行。何があってもこの時期だけは必ず揃って過ごす。恒例になっていたそれに初めて抗った俺に、父さんは目をみはり、母さんは受話器の向こうで非難するように声を上げたけど。
「約束があるんだ」
 先回りするように盾にしたそれに、結局、旅行は母さんと望兄さんの帰省へと修正された。『これも成長なのよねぇ』と笑ってくれた母さんと違い、噛み付かんばかりに大騒ぎしたのは望兄さんだった。
『誰と約束してるんだ? 彼女じゃねぇかってオフクロは言ってるけど、そうなのかっ!』
 やたらと誰と過ごすのか追求されて、彼女なんかじゃないと言えば家族より友達が大事なのかとさらに喚かれて。
「ね。それって望兄さんが嫌いな『私と仕事どっちが大事なの』って言うわからずやな女の人の台詞と同じだって分かってる?」
 ため息をついた後ろで父さんは大笑いし、望兄さんは情けない声で俺の名前を呼んだけど、それじゃあねと受話器を置いた。
 クリスマスもお正月も、こんなに待ち遠しいなんて初めてで、どこかふわふわした気分でいた頃。仁科のウインターカップ出場が決まった。全国の切

符に俺まで興奮して、弾む声でおめでとうと言ったのに、仁科は拗ねるように唇をとがらせた。
「会えなくなったな、クリスマス」
 つまらなさそうに視線を逸らされて、ようやく大会がクリスマス直前から始まることに気付いた。そうか、会えないんだ。そう思う半分で、目の前の仁科のこんな表情が見られたことが嬉しいとも思った。だから。
「クリスマスは駄目でも、初詣があるよ」
 そう慰めた。仁科じゃなくて、俺自身を。それなのに。家族旅行を蹴って、望兄さんの愚痴を放り出し、我儘を通した代価はそれだけでは足りなかっ

たのか。仁科の試合を三村達とケーブルテレビで見て、休みをいいことに夜中中その録画DVDを見ていたせいなのか。大風邪をひくというこの体たら

く。
「行けるってば」
「そうか。なら今すぐオレの目の前で体温計で熱はかりな」
 下がりきらない熱を無視して出かける用意をしていた俺は、問答無用で望兄さんによってベッドに押し込められ、目の前で断りの電話を入れさせられたのだ。心配してくれているのは分かっているけど、やっぱり階下にいるはずの望兄さんを恨みがましく思う。
『熱下がっても大人しくしてろよ』
 一年に一度。大手を振って一緒に日付を超えられるこの日を楽しみにしてたのに。
「うん、分かってる」
『あ、あのさ』
 肝心なときに弱い身体が恨めしくて、語尾に混じるように零れたため息。だけど、きっとそれは届かなかったに違いない。
『おーっ! 仁科! 久しぶりー!』
『何、どこに電話してんの』
『もしかしてカノジョか』
 突然漏れ聞こえてきた大勢の声。待ち合わせていたのだろうか。もちろん、約束を反故にしたのは俺だからそんなの仕方がないことだけど。まるで今、仁科のそばにいるのは俺じゃないことを思い知らせるようなそれは、ちょっとだけ寂しい。
『うっせえっ! お前らあっち行けよ』
 邪険に追い払う仁科の声が響くけど、もちろんその程度でみんなが仁科のそばを離れるわけがなくて。楽しげなそれは続いている。きっと今たくさん

の人の視線を集めながら、その中心に仁科はいるのだ。昔からそうだったし、きっと高校でも同じ。それが俺の好きになった人。
「仁科、楽しいのは分かるけど羽目を外しすぎちゃ駄目だよ」
 だから笑った。そこにいられないのは自分のせいだってちゃんと分かってるから。重たくなる気持ちを見ない振りして続きを待つのに。喧騒の中で、

不意に落ちた沈黙に戸惑う。
「仁科?」
『あぁ』
 おずおずと呼びかけると、ようやく応えは返ってきたものの、それはなんだかひどく素っ気無く聞こえて。
「あ、の。そろそろ切るね。やっぱりちょっとだるいから」
 たったそれだけで怖気づいて口にした、電話を終わらせる為の言い訳。
「そっか。悪かったな、こんな時間に」
 あっさり受け入れられて知る、本当は引き止めて欲しかった我儘な自分。きっと正直になれば笑ってくれる。そう思うのに、それを上手く伝えられな

い。このまま切りたくない。そう思うばかりで。
「あ、あのね」
 そう言ったきり続かない俺を、どう思ったのだろう。
『あけましておめでとう』
 ため息ひとつの後に落ちたそれ。
『それだけ、言いたかっただけだから』
 オヤスミ。そう言って返事を待たずあっけなく切れた電話を握り締めたまま、俺は目覚まし時計の秒針が0時を回っていたのをぼんやりと見ていた。

 

 

 


―仁科―

 

 引きずられるように取り込まれた周囲の中、ため息を隠す気にもならなかった。騒々しさに紛れて消えたそれは、けれど誰にも気付かれることもなく

、さらに次のため息を誘う。
 一年前。年末年始を一緒に過ごそうと密かに立てていた計画は、冬休みに入るなり叶が家族旅行に連れ出されてあっさり消えた。さらに年明け一番に会ったのは、帰ってきた翌日に部活に参加したせいで三村達より後だったというおまけつきで。新年早々不景気なツラをさげて部活に出た俺は、河合にかなり長い間からかわれるネタを提供したのだ。普段離れて暮らしている叶だから、家族優先になるのも仕方がないと、今年は最初からあまり期待をしてはいなかったのだけれど。
『どこにもいかないよ?』
 ダメージを最小にするために、この冬はどこに行くのかと聞いた俺に、そう小さく首を傾げて。
『初めて、だね。クリスマスも初詣も』
 口元を綻ばせて無邪気に笑う叶は、往来の激しい通りで思わず抱きしめたくなるほど俺を舞い上がらせた。それなのに今度は俺の所属する港南バスケ部が県大会を勝ちあがり、ウインターカップに出場することが決まったのだ。いや、もちろんそれは嬉しいことで仲間とともに大騒ぎしたのも間違いない。ただ冬休み期間中に開催されるそれに合わせ急遽合宿が組まれ、当然クリスマスを一緒になんて目論見が外れてしまうなんておまけさえなければもっと喜べたのに。
『クリスマスは駄目でも、初詣があるよ』
 念願の全国だというのに嬉しさ半減の俺に、素直なおめでとうの言葉と一緒に叶がくれた約束。多分、叶は分かってはいないんだろうけど。新しい年

の始まりを、家族でも三村達でもなく、俺と一緒にいたいと望んでくれた。去年とは違うそれが、何より特別を感じさせてくれた。
 二人の距離はあの日からずっとそばにあるけど、また少し近付いた。そんな気さえしていた。
『あの、ね。今日、なんだけど』
 そんな待ち焦がれた、特別な日になるはずの待ち合わせ一時間前。耳元に届いたいつもと違う掠れた声に、ちらついた不安。
『風邪、ひいちゃって』
 ちょっと無理そうなんだ。小さく告げられたドタキャンに部屋を出ようと掴んだままだったダウンをベッドに放り投げ、そのまま身体をも投げ出す。
「そ、か。大丈夫か?」
 なんとか気遣う言葉を口にするけど、楽しみにしていた分だけ落胆も大きくて続きが上手く出てこない。
『ん。ごめんね。今日までには、治ると思ったんだけどな』
 けれど少し聞き取りにくい途切れるようなそれがまるで拗ねるように語尾を揺れると、それは想像以上に俺を慰めた。
「無理して連れ出したら絶対三村達が乗り込んできそうだしな。とりあえず俺のために大人しくしといてくれ」
 中学の頃も風邪をこじらせては長引かせていた叶だから。冗談混じりのそれにこぼれた笑い声に安堵して手短に切ったものの、考えるのは叶のことばかりで。携帯を持たない叶のパソコンへ『もう一度電話する』とだけメールを残した。見てくれるかどうかは分からないけど、もし電話に出てくれたら年明け一番のおめでとうは俺のものだなんて、誰に張り合ってるのかと、叶が知ったらきっと笑うんだろうけど。叶の一番を独占したい俺は、やっぱり

窓越しでもいいから顔ぐらいみれないかなんて考え始めて。結局、諦め悪いと知りつつ、ごった返す神社に来ていた。
『もしもし、仁科?』
 年越し五分前。コールは一度だけと決めていたから、応えてくれた叶に緩む口元を押さえられない。腕時計を気にしながら、ポケットの奥を探る。
 指先に触れた小さなりんご飴。二人一緒に、はまた来年。そんな約束のシルシにするつもりで買ったそれ。
『会いに行ってもいいか』
 声を聞けばやっぱり顔が見たくなる。きっと窓越しに会えたら、触れたくなるんだろうけど。それはさすがに無理だよなと僅かに逡巡したその隙間。
「おーっ! 仁科! 久しぶりー!」
 滑り込んだそれに、言いたかった言葉は声にならず胸の内とどまった。唐突にかけられたそれはあっという間に大きくなる。言いたい放題騒がしいそ

いつらに思わず眉をひそめたものの、中学時代の友人に囲まれていたことにも気付かないまま、周囲なんて見えていなかった自分がなんとも照れくさくもあって。誤魔化すように声を上げる。
「うっせえっ! お前らあっち行けよ」
 冷やかすような類のそれを蹴散らそうにも徒党を組んだやつらの前では、軽くかわされてしまう。それならいっそ、それを肯定してやろうか。一番大

事なヤツだから、邪魔するな。そう言ったら言ったでさらに騒々しくなるには違いないけど。どこか甘い気分でもう一度、言えなかった言葉を胸の中で

繰り返したそのとき。
『仁科、楽しいのは分かるけど羽目を外しすぎちゃ駄目だよ』
 浮かれていた自覚はあった。だから、そう感じさせたのかもしれない。そう思うのに。
「余裕、だよな」
 呟きは、届かなかったんだろう。訝るように名前を呼ばれても、意味をなす言葉にならない。
『あ、の。そろそろ切るね。やっぱりちょっとだるいから』
 そばにいて優しいだけの場所でいることを、お前が望む時間だけそうしたいと思ってるのもホントだけど。
「そっか。悪かったな、こんな時間に」
 時々こんなふうに思い知らされる。もうひとつのホント。
『あ、あのね』
 いつもは待てる叶の言葉も、今はそれすら出来なくて。みっともないぐらい一杯一杯。自分を押さえつけるのに必死になる。
「あけましておめでとう」
 あちこちで交わされ始めたそれに促されるように告げたそれは。
「それだけ、言いたかっただけだから」
 どこか苦く響いて。横たわる温度差から逃げだすように俺は携帯を切った。
「好きなんだけど、なぁ」
 同じ気持ちだと思ってるし、叶の気持ちを疑ってるわけじゃない。だけど。抱きしめて、その熱に触れたい。キスして、その全部を奪いたいだなんて

思ってるのはきっと俺だけ。それはどこか片想いにも似ている。
 指先に触れたポケットの底のりんご飴がやけに重くて、俺は真っ暗な夜空を仰いだ。

 

 

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