―叶―

 

 せっかく買った缶コーヒーは予想通り苦くて。一口飲んだきり冷たくなっていくのを手の中でぼんやり感じていた。
「どこが美味しいのかやっぱりわかんない」
 飲めもしないブラックを、それでもつい買ってしまったのは仁科がいつも飲んでいるのと同じものだったから。そんな自分がちょっと気恥ずかしくて逃げ出したくなる。
「帰ろっかな」
 騒々しいばかりだったはずの場所は、今はもう数組のカップルを残すばかりで居心地が悪い。
『ちょっとだけ待ってて』
 そう言って三村が出ていってからどのぐらいたったのか。
「もう帰っちゃうぞ、ホントに」
 こぼれたため息が、缶コーヒーに落ちるより先。俺の手から奪い取られたそれは
「めずらしいな。コーヒーなんて」
 弾かれたように顔を上げた俺の目の前で、仁科の視線にさらされていた。
「隣のカフェオレと間違えたんだろ」
「ど、したの? こんなとこで」
 変な風に言葉がはねる。予期しなかった遭遇は心臓をばたつかせるけど、仁科は自販機を覗きこんでいてこっちを向いてもくれなくて。逢えて嬉しい

のに、その分だけ不安になる。
「に、しな?」
 そっと呼ぶと、それでもいつものままの笑顔が見えた。
「三村から練習試合と引き換えに、叶と一緒に帰る権利をゲットしてきた」
 だけど。どうしてだろう。微妙に違う何かが俺の不安を払拭させてはくれない。
「帰るんだろ? 送るよ」
 椅子に座ることなく、先を促されて。それはさらに強くなった。
 きっと少し前なら、もうちょっとだけと一緒にいることを選んでくれたんじゃないか。その飲み残した缶コーヒーもきっと何か言いたげに飲んだんじゃないか。なんて考え始めたら止まらなくなった。
 飲み残しを手洗い場に手早く流してしまった仁科の手は、重そうな鞄とスポーツバッグですぐに塞がれて。たったそれだけのことが、まるで俺と繋が

る場所を塞がれたみたいに見える。
「叶?」
 そこにいるのに。手を伸ばせば届くのに。なんでなんだろう。
「あ、うん」
 笑っているはずの仁科が、まるで沈黙を恐れるように必死で話し続けているように見えるのはどうしてなんだろう。
 空回りしているようなぎこちなさはずっと居座ったまま、帰り道の終点まで消えることはなかった。
「じゃな。また風邪ひくなよ」
「あ、仁科!」
 あっさり背中を向けられて、考えるより先、掴んでいたコートの肘。だけど押しとどめたまま、それきり言葉は胸につかえたみたいにでてこない。どう言えば伝わるのか。次の約束も、抱きしめてもくれない仁科に、どうしようもなく苦しくなるこの気持ちを。
「どした?」
 優しい声。だけどその距離は縮まない。目に見えるそれだけじゃなくて。
「あ、あの。ほら、前に言ってたCDこの前買ったんだ。だから、だからね」
 僅かに落ちた空白に掴んだコートをぎゅっと握り締めた。
「あの、ね」
「じゃ、借りてっていい?」
 待っていたはずの答えに頷きながら、躊躇うように揺れた間にどうしても手を離せない。
「叶?」
 そっと呼ばれたそれは、どこか困惑しているようにも聞こえた。
「それだけじゃなくて、他にも買ったんだ。それも結構よくて。だから」
 いつも上手に気持ちを先回りしてくれるはずの仁科は、だけど何も言ってくれなくて
「見てから、決めたら?」
 煽られるように早口になった。
 一緒にいる時間をどうしても引き延ばしたくて思いついた言い訳。あまりに陳腐な口実だってことが仁科に分からないわけがない。だから、俯いたま

まじっと待った。
 わけの分からないこの不安が、ただの気のせいだと確信させて欲しくて。

 

 

 


―仁科―

 

 大して意味のない話を、面白おかしく誇張して続ける。元々口の重い叶といると、自然俺の方が話す割合は多いけど、いつもはもっと、例えば喋らな

くてもごく自然にいられる空気があったのに。
 一ヶ月ぶりに会う叶の背中を、あのフードコートで見つけたとき。退屈そうに小さく丸まっている背中を抱きしめたくて仕方がなかった。駆け出して今にもそうしてしまいそうで。だからしばらくそこでずっと見ていた。
『泣かせんなよ』
 止めの台詞で切れた携帯。わざわざ言われなくたって分かってる。だから俺だって必死なんだ。無理しまくってる自覚も無視して、それを重ね続けて

る。
 好きだから、全部を確かめたくなる。
 その熱を暴きたくなる。
 だけど、今はまだ温もりを伝える優しいだけの腕がいいなら。
 好きだから、生まれる衝動に
 繋がってしまいそうになるから、触れることすら躊躇う。
 踏みとどまっているのはただ、好きだから。
 笑っていて欲しい。望むままの俺でいたい。そう思うけど。そのたびどこかぎこちなくなっていく俺自身をいつまで誤魔化せるか自信がない。それでも、そんな不安に巻き込まれてしまうわけにはいかないから。
 自信がなくたってやるしかない。近付いたとたん伸びた手を、コーヒー缶へと摩り替えて。会わなかったブランクなんて微塵も感じさせないように笑えただろうか。
 何か言いたげな叶の視線を感じていながら、俺はただ気付かないふりをする。そうしなければ、そばにいる、ただそれだけで今にも先走りそうになる

自分がいることを俺は知っていた。
「じゃな。また風邪ひくなよ」
 だから。その台詞に一番ほっとしたのは俺だった。とりあえず大丈夫だったと、不自然にならないほどの素早さで背中を向けたのに。
「あ、仁科!」
 不安げなその声に引き戻された。コートを掴んだのは、多分無意識だったんだろう。自分の指先をしばらく見つめていた叶は、だけどそれを離そうと

はしなかった。分厚いコートに阻まれて、体温なんて感じるわけがないのに俺は急速に拡がる熱を感じていて、衝動的に抱きしめそうになる腕で鞄を握り締め、ただ深呼吸を繰り返した。
 そんな自分を自覚していたんだから、どんなにコートを掴む手が強く握りこまれても、伏せられた睫毛が縋るように揺れても、俺は頷くべきじゃなか

った。それなのに。
「ちょっとだけ待ってて。お茶ぐらい飲んでくよね?」
 結局こうして叶の部屋にいる。やっぱりもう少しだけ。そんな気持ちに負けてしまった俺だけど。
「やばいよなぁ」
 親父さんはまだ帰ってきていない。二人きりのこのシチュエーション。視界に映るベッドに俺の決心を試されている気がして、視線を引き剥がす。せ

めてもと廊下へ続くドアを開けてはみたものの、それがどのぐらいの抑止力になるかなんて見当もつかない。
「どーするよ、俺」
 そんな今にもぐらつきそうな自分を持て余しながら、近付いてくる足音にCDラックを覗き込む。ただひたすら平静さを装って。

 

 

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