路地裏の生垣に見え隠れしていたダンボール。
押し込まれるようにそいつはいた。
包まれたタオルから耳と顔半分をのぞかせていた小さなかたまりは、葉を伝い落ちる水滴に濡れ始めているようだった。
傘を叩く音が強まっている。
このままだと駄目かもしれない。
そう思った。
だけど、拾い上げることの出来ない自分は、一時の感情だけで触れてはいけないことも分かっていた。
どうすることも出来ないまま動けないでいる俺を、鳴くこともせず身を竦ませて震えるそいつは見ることはなかった。
差し出せなかった手の代わり、せめてもと差し掛けた濃紺の傘。
無意味な、ただの自己満足のそれは、ダンボールの主とともに、翌日にはもう消えていて。
結末の分からないままの日常は、いつまでも胸の中にとどまっていた。
だから。
傘の波間。濃紺の縁に並ぶ星座を見つけたとき、思わずその背中を追いかけていた。
それがオレのものだと分かったとき、確かめずにはいられなかった。
巻き戻される時間の前で。
『君の助けたアオは元気だよ』
穏やかで柔らかな笑顔にあの日が動き出す。
優しい現実にほっとしたオレの頭上で、また雨足が強くなる。
でももう、あの日を苦く思い出してしまうことはないのだ。
『よかった』
ついたはずのエンドマーク。
だけど遅れてきた結末は、その先へと繋がっていた。
優しい大人の人と過ごす時間は何もかもが目新しくて、特別で。
だから。
それが恋だと、思っていた。思っていたのだ。

 

 

 


「相変わらず、進んでないのな」
「大きなお世話です」
 机に広げたピースをとっかえひっかえしながら、遅々として進んでいないそれを入ってくるなり揶揄されて。強気で言い返しながら、その語尾はどこか甘えているような響きにも似て聞こえる。
「コレはここだろう」
「違いますってば。もう館脇先輩、邪魔」
 いずれは月球儀になるはずの、今はまだ形にもなっていないそれを挟んで頭を突き合わせたまま続く軽口の応酬。ただそうしているだけの二人に、どうしてだか声をかけられないでいる自分に躊躇う。派手な赤いジャージ姿のそいつより、部外者はオレのような気さえしてくるのはなぜだろう。
「邪魔とはなんだ、邪魔とは」
 口先でそう言いながら、その眼差しは誰に向けるものより柔らかい。元々社交的でやたら友人知人の多い館脇だけれど、こと倉茂に関しては最初から違っていた。
『天文部で預かってほしいヤツがいるんだ』
 元気だったかでもなく、久しぶりでもない。始業式で会うなりの一言がそれで。弱小部としては有難いはずの申し出だったにも関わらずなぜだか素直に頷くことが出来なかった。
『なんでウチ? テニス部でお前が面倒みればいいんじゃないの』
 半分は本気で。残りの半分は天邪鬼な気分のままそう口にしたものの、どうせ真っ当に答えるつもりなどありはしないのだと決め付けていたのに。
『そうしたいとこだけどな』
 いつものおふざけも、調子いい台詞でもない。
『お前にしか頼めないんだ』
 僅かに口元を歪めたまま一年の集団を見ている館脇は、オレの知らない表情をしていて。どこか落ち着かなくて思わず目を逸らした。
「ほら見ろ。合ってんじゃん」
「マグレってあるんだね、館脇先輩」
 館脇のお気に。噂はすでにかなりの範囲に浸透している。倉茂の入部以来、近寄りもしなかった天文部の部室へ足繁く通う館脇に、ある意味それは生まれるべくして生まれた噂だろうけれど、当人はそれを歯牙にもかけずに構い倒していてそれをさらに増長させている。そしてその倉茂も口では邪険にしながら、その実どこか安心したような笑顔を館脇にだけ向けていることにオレは気付いていた。
「館脇、倉茂の邪魔するな」
 たった一つのピースがはまったと嬉しそうな館脇に、月球儀は誰も手も借りず作成するのがルールだと天体写真から目を放さないまま釘を刺す。
「はい、はい。相変わらずカタイねぇ。倉茂、一生懸命になれるものがあるのはいいことだけど、津永みたいな天文オタクまでにはならなくていいからな」
「館脇」
 嗜めるべく視線を上げた先、大きな手で倉茂の髪をくしゃりと撫でる館脇が見えた。
「んじゃ、またな」
 その目にオレは映ってはいない。
「もーこなくていいです」
 憎まれ口をきく倉茂に笑って背中を向けたそいつは、ひらひらと手を振ってドアの向こう側へと消えた。一度もまともにオレをみないままで。

 

 

 


 不意に視界が明るくなって、思わず瞬きを繰り返す。そこそこ埋まっていたはずの座席はもうそのほとんどが空いていて、ようやく自分がどこにいたかを思い出す。

そして。
「さて。少し早いけど夕飯にしようか?」
 まるで間合いを計ったようにかけられた声。そっと見上げた隣、いつもと変わらずやわらかに微笑む人がそこにいた。
 あの雨の日交差した時間。実は出かけに自分の傘と間違えたのだと笑った人は、無断借用の代価だと駅ビルの中のカフェでミルクティーをご馳走してくれた。思いがけず星好きという共通項のせいか、二杯目が注ぎ足されたぐらいに話は弾んだけれど。それじゃあとそのままそこで背中を向けてしまえば、それはただ楽しい時間を共有したというだけで。まさか一ヶ月もたたないうちに、出かけた先で館脇の兄貴として改めて再会する偶然があるだなんて思いもしなかった。
「和食の美味い店見つけたからそこでいいかな?」
「え、あ、でも」
 十も年上の人が行きつけているのは、どこも学生には敷居の高い店ばかり。もちろんただの一度も支払をさせてもらえるはずもなく。
「一人で行くには微妙なところだから」
 長くいたいと思う気持ちと遠慮がごちゃ混ぜになって臆するオレを、浩一さんはいつだってこんなふうに簡単に篭絡してしまう。
「普通のにしてくださいね」
 蟹とかフグとかじゃなくて。なんとかそう付け加えてようやく頷くと、その瞳がいっそうやさしくなった。
「じゃ、行こうか」
 年の離れた友達と言うには収まりきらない。何もかも包みこんでしまうような人に憧れと尊敬で胸の中は満たされて、大事にされてなお優しい気持ちが降り積もる。

 会うたび繰り返されて、確かなのは特別な人だということ。仕事が忙しい人だからゆっくりこうして会えるのは一ヶ月に一度が精一杯。そんな貴重な時間。以前にプレゼントされてからお気に入りの一枚になっているドキュメンタリー映画のDVDが、一週間だけ映画館で上映されることを知ってわざわざ車で連れてきてくれた。オレだってそれを聞いてから半月、大きなスクリーンでみるそれをずっと楽しみにしていた。それなのに。
「尚君?」
 待ち望んだはずの時間、どこより安心をくれる場所で。何度も繰り返し見たDVDでなければ、感想を聞かれても答えられなかったに違いない自分がそこにいた。
「あ、ごめんなさい。余韻に浸ってました」
「そう?」
 本当にそう思っているのか、それとも心ここにあらずのオレを知っていながらのそれなのか。その表情からは少しもうかがい知ることは出来ない。それでもいつもと少しも変わらない人に安堵しながら、隣へと早足で駆け寄る。
「連れてきてくれてありがとうございました」
 最初に館脇と名前を聞いても、まさかあいつの兄貴だなんて思いもよらなかった。知らずに出会って、分かってからも一度も似てるなんて思ったことなんてない。どちらかといえば違うところばかり目に付いていた。それなのに今、オレはこの人の背中に、声に、あいつと似ているところを探している。
『俺が、勝ってやろうか』
 たった一言。たった一瞬見せられた表情に、どうしようもなく引きずられている。真っ直ぐな眼差し。ただそれだけを振り払えない自分が信じられない。取り繕うように笑いながら、浮かぶのはあいつだなんて。

 

 

 


 渡り廊下の片隅。返信を押したきり開いたままの携帯は、自分の体温で温もっている。言葉に迷うでもなく、けれど固まってしまったかのように少しも動かない指先に、結局液晶画面をそのままにフラップを閉じた。
「何、ため息なんかついて」
 不意打ち、けれどまるで待っていたかのようなそのタイミングに、手の中の携帯を取り落としそうになったけれど。
「別に」
 背後から覗き込むように寄せられた仁木の顔面に言い訳を得て、遠慮なくその横っ面を携帯で押しやってそのままポケットへ押し込んだ。
「創立祭準備中だろ。こんなとこでさぼってる暇なんかないと思うけど」
「マジ痛ぇって。津永、美人なくせに口よりまず手ってのはどーよ」
 その後にちゃんと口もついてくるしさ。大げさに頬を撫でながら、けれどオレの素っ気無さもどこ吹く風とばかり隣の手すりに背中を預けたその表情は愉しげで、少しも堪えていない様子についた頬杖で視線を遮断する。
「ま。でもこーでなきゃ二期連続で星詠みやって無事でいられねぇか」
 前年度、星詠み願い権を満面の笑みで行使させなかったオレを思い出したらしい仁木に、あれは一種の脅しだったと笑ったヤツが重なった。
「しかし、同じ星詠みで倉茂とこうも違うかね」
 どうということのない、多分それほど意味のない台詞。だけど無意識に触れた指先は、唇が引き攣るように歪んでいることを教えていて、宥めるようにそっと辿る。
「そういや仁木、ちゃんと倉茂には星詠みの説明してくれたんだろうな」
「あ? もちろん。ありゃ強制して成立するもんじゃねぇんだし、メリットもデメリットも懇切丁寧に伝えて納得ずみで引き受けていただきました」
 くだけた口調は僅かに硬くなり、語尾に不機嫌さが滲んだ。
「なにかご不満でも?」
 上乗せされた感情は、いつもなら見逃さないだろう微かな揺れを捉え損ねたらしいことに安堵する。
「いや。ならいいけど。倉茂、あんまりよく分かってなかったみたいだぞ」
 後輩を労わるような台詞を口にしながら、それはどこか苦い。
「あぁ。最初あんまりってか全然乗り気じゃなかったからなぁ。興味もなさそうだったし、正直断られるの覚悟したんだけど」
 うろ覚えだったのはそのせいなんだろう。元々あまり暁星に馴染もうという意識が見えない倉茂だ。引き受けるつもりもなかったのかもしれない。それなら、一体どうして引き受けたりしたのか。
「それもみな館脇様様、ってとこかな」
「……へぇ」
 胸の中にあるものに応えるかのような意味深なそれに、何かが喉につかえたみたいに上手く言葉を紡げない。
「お、噂をすれば」
 肩越し投げ出されたそれに促されるまま視線を落とした先。
「なんかさー、ひやかしてやんのもバカらしいっつー感じ?」
 見えたのは部室に向かっていたのだろう倉茂と、テニスラケットを片手にしたままの館脇。
「倉茂ってさ、館脇相手だとあんな表情するんだよな」
 普段取り澄ました顔しか見せないという倉茂をオレは知らない。部活の先輩で多少は気を許しているのか、気遣っているのかは定かではないが言われているほどのギャップを感じたことはなかった。だけどそれは、オレのすぐそばで館脇といる倉茂を見慣れているせいなのだと気付いたのはつい最近。
 笑ったり、拗ねたり、ムッとしたり。くるくると変わる倉茂を見せられるのは他の誰でもない館脇で、館脇もまた誰といる時より優しい眼差しをしている。
「それでもさ、まさか館脇が本気で個人戦にエントリーしてくるとはな」
「なんで?」
 何を見ているのか、頭を寄せるように近付いて、笑った倉茂の髪を大きな手がくしゃりとかきまぜた。もう見慣れてしまったそれ。
「だってなぁ。今まで出なかったんだぞ? なんで今さら」
「何言ってんの」
 どうして分からないのか、オレにはその方が理解できない。あいつは本気なのだ。一日デート権なんて男子校ならでのおふざけだよなと一昨年のオレを笑って見送ったようには出来ないほど。
「勝つよ。あいつ」
 そう。揺らがない瞳で、あいつはそう言ったのだから。

 

 

 


 どことなく霞んで見える春の星を、目を凝らして見上げるのが好きだ。そう言ったオレに『それじゃ次の春に一緒に見に行こうか』なんて口約束を、律儀な人はきちんと憶えていた。市街地の明かりに邪魔されず見上げる空はきっとどんなにか綺麗だろう。そう思うのに。
「別に、創立祭だからってオレ関係ないし」
 その日のうちに返信できないなんてなかったから、きっと心配させているに違いない。今日中に送信しなきゃと点呼終了後抜け出した寮の屋上。それなのに液晶に綴られたのは『遅くなってごめんなさい』それだけで。
「なんで迷ってんのかな、オレは」
 引っ掛けてきた薄手のパーカーのフードが時折風に煽られるように揺れて視界を遮る。どうやらこれ一枚ではコンクリートを背中にするには不十分だったらしい。伝わる冷たさに身を竦めながら、広がる闇の中にある光を目にしてしまうとその身を起こす気にもなれなくて、そのままぼんやりと星を探す。春の一等星は3つ。レグルスにスピカ。そしてアークトゥルス。レグルスは一等星の中で一番暗い星だけど、青白く光るスピカは真珠星なんて呼ばれるほど綺麗で、アークトゥルスはそれに対比するみたいな赤。比較的見つけやすいと思うのだけれど。
「アイツは結局わかんなかったっけ」
 子供みたいに教えろとせがんだくせに。

 

 

 


『あ? だからどれ』
『だからさ、まずは順序ってもんがあんの』
 高等部にあがって、そう。星詠みに選ばれた頃だからちょうど今の時期だ。
『星の好きなコなんだよ』
 だから協力しろ。そんな下心満載の館脇に強引に手を取られ、あの日初めて消灯後に連れ出されたこの場所。
『初心者なんだからいきなりは無理』
『うーん。目印自体が全然分かんねぇ』
『だから言っただろ? ちゃんと星座の形と場所を調べてからじゃないと分からないって』
 手すりに掴まったまま身体を逸らすようにして見えない、分からないと繰り返してどのぐらいいただろう。すぐに飽きるだろうと思っていたオレを裏切るぐらいには長かったと思う。
『あーもう首痛ぇ』
『ホントは寝転んで見るのが楽なんだけど、さすがにな』
 汚れたコンクリートの上、直に寝転んだ服でベッドに入るってのはナシだろう。もちろん今さら何か取りに帰るっていう選択もナシだ。
『なんだ、そういうことは早く言えって』
 何も言わずに急かしたお前の責任だと唇を尖らせたオレに、そいつは着ていたジャージの上着を脱ぐとオレの手首を掴んだ。
『う、わっ!』
 いきなり引っ張られ、ぶつかるように抱き込まれたのは一瞬。
『危ねぇ。ナイスキャッチね、俺』
 そのまま敷物となった上着の上に転がされた。
『首が痛くなるまで見上げても探せないのはオレじゃありません』
『だな。だからそっから指差して』
『はぁ?』
『最初からこーすりゃよかった』
 肩に押し付けられるように触れた髪は、そのまま動かなくなる。たった上着一枚のスペース。それ以外はほとんどコンクリートの上だろうそいつは、けれどお構いなしにその手を宙へ伸ばした。
『ほら、どこだよ』
 半袖のTシャツ。薄いそれは背中も冷たいに違いない。それでもなぜだか楽しげな声音に押され、オレはもう一度同じことを繰り返した。背中に残っている温もりが、まるで胸の奥を撫でるようにくすぐったくて落ち着かない気分は、だけど悪くはなかった。

 

 

 


 レグルスもスピカもアークトゥルスも、あの日と少しも変わらない光で瞬いている。
「こんなに簡単なのに、なんで分かんなかったんだか」
 あんな調子であの後何度も付き合わされたわりにちっとも憶える気配もないまま、そのうちあいつがここに来ることもなくなった。
「そういや結局どうなったのか、あの時の結果聞いてなかったな」
 星の好きな相手。告白したのか、付き合ったのかなんて。そんな二年も前の話。それに。
「今は」
 非常灯の明かりの下、いきなりドアが開いてあいつが顔をのぞかせることももうないんだろう。
「もし来るとしても、その相手はオレじゃないって」
 身体が震えたのは、あの日の背中の温もりを思い出したせい。星がぼやけて見えるのは、きっと春の空だからだ。
「二人とも、一等星すら探せないままかもしれないけど」
 それでもきっと楽しげに並んで見上げるんだろう。この同じ星を。

 

 

 


『ありがとうございます。楽しみにしています。晴れるといいですね』
 躊躇いを無理やり押し込めて、なんとか送ったメール。丸一日遅れたそれをあの人はどう思っただろう。
「楽しみにしています、か」
 実家のベランダで、帰り道で。口惜しかったり、悲しかったりするたび、口をつぐんだまま夜空を見上げる子供だった。もしかするともうずっと昔に消えてなくなっているかもしれない星の瞬きは、ただそこにあるだけで癒してくれた。
 だからきっと降るような星空を見られれば、この理由の分からない重く圧し掛かるような息苦しさだって消えてしまうに違いない。だから。だからそれは嘘じゃない。
「え……」
 手の中の携帯が軽やかなメロディを奏で始めた。まるで自分に言い聞かせているように響いたそれに呼応したみたいに、表示されたのは『館脇浩一』
 生活時間帯が違うからと気遣われ、連絡はほとんどがメール。滅多にない着信を知らせるそれに、弾むはずの心はどこか鈍い。けれど僅かに迷ったオレを見透かしているかのようにそれは鳴り続けた。

 

 

 


 腕時計の針は待ち合わせより少し遅れている。それなのに。目の前のそれを押し開くことがどうしてだか出来ないでいる。
 暁星のテリトリーから少しばかり離れたそこはカフェにしては珍しく地下にある。駅の近くにありながら、ちょっと隠れ家的な感じがするのはそのせいかもしれない。
 自動ドアではない重厚な木のドアの向こう。並ぶアンティーク調の椅子やテーブルも、その奥まった場所にピアノがあることもオレは知っていたけれど。
『研修会が近くであるから、会えないかな』
 平日の誘いなんて初めてで、しかも次の約束までそう遠くはない。
『そのまま出張だから、あんまり時間はないんだけど』
 スケジュールの僅かな時間に無理やり詰め込まれたようなそれに、嬉しいと思うより戸惑いの方が強くて。だけどゆうにコール十回分以上出られなかった後ろめたさが頷かせた。
『それじゃ』
 そう感じてしまうこと自体なぜだか分からないまま混乱するオレを、指定された場所がさらに揺らがせた。
『尚君?』
 言い淀むオレを呼ぶ声は変わらない。けれどいつも胸のうちを読んだみたいに先を待ってくれる人は、研修が始まるからと慌てたように時間を言い残して通話を終わらせてしまった。
 例えば待ってくれていたとしても、きっと何も言えなかっただろう。別の場所にして欲しいといえるだけの理由はどこを探しても見当たらなかったし、第一自分でもよく分からないこの気持ちを、うまく説明できるとも思えなかった。それでも。仕事の合間の電話だからと納得している一方で、まるで言葉の先を阻まれたような感覚を今もまだ拭えない。
「どうかしましたか?」
 不意にかけられたそれに反射的に振り返ると、ギャルソンエプロン姿の人が大きな紙袋を抱えて立っていて。すれ違うのがやっとの場所を塞いでいることに思い至る。
「あ、すみません。ドア、開けますね」
「申し訳ありません。助かります」
 ぱっと目を惹く男前な人は、人懐こい笑み一つでさらにその印象を変える。警戒心を取っ払ってしまうそれにつられて口元が緩んだものの、身体はやっぱり強張ったように固まってドアを閉めることが出来ない。
「さて」
 カウンターへ荷物を置いた人はそんなオレを気に留める様子もなく、すぐ傍に置かれていた背の高い観葉植物を引っ張り出すとその場で綺麗に手入れされているように見える葉を丁寧に拭き始めた。いきなり目の前に現れた目隠しにオレの姿は隠れてしまっているだろう。まるで時間を差し出してくれるような広い背中は、ゆっくりとオレを落ち着かせてくれる。
 オレンジがかった暖かみのある照明。漂うように流れる静かな音楽。フロアのレイアウトは変わっていても雰囲気はそのままで。探している人を見誤りそうな気がしてそっと息を吐き出すと、するりと強張りがほどけていく。
 後ろで重いドアが音もなく静かに外を遮断すると、僅かばかりの圧力に押し出されるように一歩。二歩目を踏み出すと、その人はようやくオレを振り返り、いらっしゃいませと穏やかな瞳で迎え入れた。

 

 

 


 ピアノにほど近いテーブル席。すぐにそうと分からなかったのは煙草の煙のせいかもしれない。知り合って一年以上たつけど、一度も喫煙しているところを見たことがなかったから吸わないんだとずっと思ってた。
「お待たせしまし……た」
 まるで最初に声をかけたときみたいに緊張していた。だから待ち合わせをしているはずの人の目の前にオレではない人が座っていたことに気付いたのは、そう声をかけてからだった。
「ほら、嘘じゃないだろ?」
 灰皿に煙草を押し付けて首を竦めた浩一さんに、その人の視線はすぐにオレから離れる。
「うーん。館脇先輩があんまりそわそわしてるから、てっきり彼女だと思ったのになぁ」
「で? 納得したか」
「なんだ、残念。口止め料代わりにもっといいもの奢ってもらおうと思ってたのに」
 艶っぽい唇を尖らせて、ふわりと笑ったその人は、けれどつまらなさ気な台詞とは裏腹にどこかほっとしたように見えた。
「仕方ない。今日はコーヒーで勘弁してあげます。その代わり出張のお土産、期待してますね」
 イエスともノーとも取れる曖昧な表情をする浩一さんに冗談めかして伝票を押しやりながら、目の前にいる人の感情を取りこぼさないように全部で追いかけているのが分かる。請うような熱がそこにはあった。
「悪かったね。研修会で一緒だったんだけど、ついてくるってきかなくて」
 入れ替わり座ったそこには彼女の残した甘い香りと僅かに混じる煙草の匂い。
「あんな可愛い人の頼みなら男としては断れないでしょう?」
 バツの悪そうな表情をしている人に、オレは当然ですよと笑ったのだけれど。浩一さんはますます複雑そうな表情になった。
「可愛い人、か」
 呟かれたそれは自嘲めいていて、かける言葉を失う。何もかもが浩一さんらしくなくて、オレはただ待つばかりで。頼んでいないはずのコーヒーが差し出されても、確認することさえ出来ないまま。意味もなくカップの底をスプーンでかき混ぜていた。
「あのさ」
 一緒にいて、こんなにぎこちない空気なんて初めてで。ようやく紡がれたそれに慌てて視線を上げると、そこにあったのはひどく真剣な眼差しだった。
「来週末の天体観測だけど、泊まりでいいよね?」
「え……」
 スプーンが、カップの縁に当たって小さな音をたてた。
「せっかくだしちょっと遠くにしようと思って。門限までに帰るのはかなり厳しそうだから。週末だし、大丈夫だよね?」
 泊まり。考えてもいなかった提案に、とっさに返事が出来ない。逸らしてしまいそうな視線を、捕らえられるように覗き込まれた。
「本当はね、こういうこと言うのは卒業するまで待つつもりでいたんだけど。あんまり悠長に構えてもいられない気がしてね」
 自信なさげに薄く笑って、だけどその瞳は真っ直ぐに向けられた。
「ずっと好きだった。これからはちゃんと恋人として君を大事にしたい」
 特別な人。大事な人。間違いなく嬉しい言葉。それなのに。どうしてなんだろう。オレの身体のどこを探しても何の熱も感じない。
 例えばさっきいた彼女のような。
 例えば、あのときの館脇のような。

 

 

 


「俺と新しい関係で付き合っていく気持ちがあるなら、来週この時間にここに来て」
 まともな返事どころか言葉一つ浮かばない。かろうじてオレをとどめていたのは絡まったままの視線。
「ごめん。時間だ」
 それさえ緩んでしまえば、もう顔を上げてもいられなくなる。それでもなんとか口を開いたものの、声にはならなかった。
「待ってるから」
 優しい声が静かに落ちてくる。手を伸ばせば、きっともっと別の温もりがそこにある。すぐ目の前にある確約された未来。幸せになれるだろうはずのそれに、躊躇った。
 迷い揺れるままつい探してしまったカウンター席の端、ちょうど二人揃って立ち上がったところだった。何を話しているのかその声までは届かないけれど、とても楽しげなそれがあの日を呼び覚ます。ただ一度、あいつと二人で過ごした誕生日を。

 

 

 


 誕生日は基本、寮の連中に騒ぐ口実を与えるもの。そんな認識の中迎えたその日も代わり映えなく過ごしていた。
『お前ら、そろそろお開きにしろよ』
 いつもなら先頭きって騒ぐ館脇がようやく顔を見せたのは撤収のそれで。トモダチがいのないヤツに、オレはちょっとばかりムカついていた。
『なに、まだ早いだろ』
 バカ騒ぎもそろそろお開きだなと時計を何度も見ていたくせに、素直に立ち上がれなくて手近にあったコーラをがぶ飲みする。そんなオレの腕を有無を言わさず掴んだのも館脇だった。
『んじゃ、お前ら後片付けしとけよ』
『って、お前なに? 痛ぇってば』
 引きずられるようにして寮監室の目の前を堂々と通り過ぎる。
『え、お前ちょっと、もうすぐ門限だって』
『あぁ。そのあたりは安心してろって』
『はあっ?!』
 玄関口に開いたまま置かれていた傘はまだ濡れていた。それを拾い上げるとそのままその下へとオレを引っ張り込む。それきり何を聞いても『あとで』の一点張り。何一つ説明のないまま、さすがに電車に乗る頃には強引な手は離されたものの、オレはもう黙ってついて行くしかなかった。そうやって連れてこられた場所がここD.C.だったのだ。
 地下への階段を降りてすぐ携帯で誰かと話始めたヤツはオレを見ることも無く待たせたままで、いっそこのまま帰ってやろうかと思ったのだけれど。
『おい、ぼーっとしてんな』
 背中を向けたオレの襟元を掴んだそいつは、そのまま扉の向こうへ押し込んだ。その勢いにむせ込んで、一言言ってやると意気込んだオレの目の前。
『どうよ? ん?』
 真っ暗なそこに、夜空があった。
『こういうチープなのもたまにはいいだろ』
 今日本当はあるはずの、見えないそれ。
『ちょっとだけ年上のヒト、だな』
 見入ってしまったままのオレの髪を、あいつは乱暴にかき混ぜた。
 照れくさくて『ありがとう』なんて口に出来ない、頷いただけのオレにあいつが笑ったのが分かる。
『今日ってホントはこんな空、してるんだなぁ』
 映し出されたのは今日の星空。家庭用にしては性能がよさそうなそれは、もちろん天文台や本物のプラネタリウムに敵うはずはない。けれどどこか温かみのある光は胸を和ませた。さらに天体の動きに合わせたナレーションまで続いて、オレはここがカフェだということを忘れた。
 差し出されたカップの中身を飲み干した頃、解説の声は綺麗なピアノ曲へと変わったけれどフットライトが点けられたフロアから星空は消えなくて。どのぐらいぼんやりしていたのか。満たされた優しい空気にそっと触れるように笑う気配に、オレはようやく視線をその先へ向けた。
『美味かった?』
 カウンターに肘をついたまま、星空への感想ではなくそう問われて、薄暗いそこに中身の減っていないミルクピッチャーが置かれたままなのを知る。
『ブラックだってことも分かんなかったんだろ?』
 子供じみた悪戯のつもりだったのか満足げに笑うそいつは、見慣れているはずなのにどこか違っていた。いつもなら返せる軽口の代わり、あやふやな感情が溢れそうになって。向けられた柔らかいそれから、不意に逃れたくなる。
『俺さ』
 それだけを考えていて、
『お前に、言いたいことあったんだよな』
『うん?』
 もう一度顔を見ることさえしなかった。
『でも、ま、いいか』
『いいか、ってなにそれ』
 あっけらかんとした口調は、それほど意味があるようにも感じなくて。何を言いかけたのかと思ったものの、そいつは笑うばかりでそれ以上口にしなかったから、気に留めることもないまま忘れていた。今の今まで。

 

 

 


 どんな場所で夜空を見上げても、いつも胸の奥にはあの日の作り物の星空があった。そしてあの日逃げ出したあの眼差しも。
「な、館脇。お前あの時、何言おうとしてたんだよ」
 そう。まあいいか、なんて言葉で本当に完結してしまったのか。館脇はその後それらしいことに触れたことなどない。それでもいつだってあいつは傍にいたから。いると思っていたから、オレにとってそんなことを気にする必要なんてなかった。
 冷めてしまったコーヒーは苦味をましていて、それきり口をつける気にならなかった。あの日あんなに優しく感じたのが嘘のように。


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