大げさに耳を塞ぎ、平然とことさらのんびりを装う。気付きもしなかったなんて、おくびにも出さない。
「そんなに大声出さなくても聞こえてる」
「あーもう、ようやく返事したと思ったらそれかよ」
「今井が声を張り上げて何度も呼ぶなんて、ろくでもない話に決まってるからな」
「ひでぇ。聞こえてんのならリアクションぐらいしろって」
 日頃、合コンの数合わせだのノートを貸せだの声をかけるイコールお願い事だという自覚が多少はあるらしい。あからさまにがっくりと項垂れるそいつは意図的に返事をしなかったと疑いもしない。
「あんまりうるさくて返事する気力が萎えた」
 駄目押しの台詞に、ふてくされたように横を向いた。
「そーすか、すみませんね。んじゃ迷惑かけついでにウチの部長にとっとと帰還するように言っといて」
 跳ねるように揺れた鼓動を、小さく震える指先を強く握り締めて押さえつける。
「またか。うちの部員よりよっぽど出席率いいな」
「こっちに顔は出したものの、堂々と行き先宣言して出ていったきり帰ってきやがらねぇんだよ。もうミーティングの時間だっつーのに」
「一応伝えとくけど、どうするかまでは責任もてないから」
 平然としているつもりだけれど、本当はもうどんな表情をしているのか分からない。ただ必死で口角を上げ続けた。
「そりゃそうだ。ま、とりあえず、よろしく」
 本当に時間が迫っているんだろう。駆け出した背中でひらりとジャージがはためいた。呼び止める声にも気付かなかったオレの意識を、一瞬で引き戻した赤が遠ざかる。
 重ねたそれが、すぐそこに待っているなんて思いもしないで。

 

 

 


 見えたのは広い背中。かすかに漏れ聞こえる嗚咽ごと何物からも守るようなそれに、埋められた距離に息を呑んだ。
「たまにはまともな状態で口説かせてくれ」
 慈しむような優しいそれは、思いもかけない痛みを生んだ。
「プラネタリウム、また行くか」
 オレの知らない積み上げられた時間に思い知らされる、特別。知っていたつもりで、だけど本当は何も分かってなんかいなかった。オレ一人弾き出されたような感覚に、知らず後ずさりする。
「決めた。やっぱりマジで、勝ってやるよ」
 揺らがないそれは本気だと教えて。
 オレは逃げるように背中を向けた。

 

 

 


 誰が特別になったって、あいつとオレは変わらない。誰より近いところにいるだなんて、それはなんて脆い思い込みだったんだろう。喉に絡まった感情は声にならないまま、途切れ落ちるようなため息になる。
 どうして気付かなかったんだろう。
 オレではない別の人間を、慈しむように抱きしめる腕に。
 オレではない名前を優しく呼ぶ声音に。
 息が止まった。
 先にその手を離したのはオレで
 どうして、だなんて思う資格すらないのに。
 気がつけばいつもそこにいたから
 それが当たり前で、失うことなんて考えたことすらなかった。
 その手が、オレではない誰かを掴むまで。
「見つけたんだな、お前は」
 今なら、今だから分かる。誰より近いと思うからこそ、それを踏み越えて壊してしまうことが怖くて、無意識に逃げていた。
 何より失いたくないと思うほど大事だった自分に目隠しをして。それでそばにいられると、その距離は変わらないと思っていた傲慢さに嗤いが込み上げる。
 あいつとは違う、大人な寛容さで。ただ優しい眼差しをくれる人の傍は居心地がよかった。そんなの当然だ。だってそこでオレは傷つかない。
『ずっと好きだった。これからはちゃんと恋人として君を大事にしたい』
 罰が当たったのだ。あんなに大事にしてくれている人を無意識にだとしても利用した狡い自分に。
「こんなオレじゃ、駄目に決まってる」
 失いたくなくてオレを見えなくしていたものは、失くしたことで何もかもが解けた。
 遅すぎた、間に合わなかった全てなら
 どうして気付いてしまったのか。
「指定席は友達のシート」
 今さら、こんな気持ちに気付いたところで行き場のない想いは出口のないまま閉じ込めるしかないのに。
「今までと同じだろ」
 表面上は何も変わらない。だけど、もうオレは二人を平気で見ることは出来ないだろう。
「それで、いい」
 それでもこの想いからもう逃げることは出来そうもないから。それならそばにいて、笑っていよう。他の誰かに向けるその眼差しがどんなに耐え難くても。いつかこの心が優しく凪ぐまで。
「好きだなんて、言わなくてよかった」
 言わなかったから、まだそばにいられる。零れ落ちたそれは、波打つように乱れた。噛み締めた唇の代わり、目の前が滲んで何も見えなくなる。それでもオレは何度もそう繰り返した。
 この先きっと誰にも言うことはない言葉を封じ込めてしまうように。

 

 

 


 浮ついた空気の中、あちこちで入れ替わる歓声と野次。その熱気は、去年も一昨年も関係者の一人だったオレには馴染みのものだったけれど、その時の方がよほど他

人事でいられた気がする。
「今頃はもう、射場だろうな」
 あの日から、あいつが部室に現れることはなかった。代わりに弓道部へ日参していたという熱心さに、目的は予算獲得ではなく星詠み願い権だろうと噂はさらに煽ら

れた。それでも変わらず否定も肯定もしないままのあいつに、それはもう仮定で語られることはなくなっていた。
「約束通り、誰の手からも守ってやるに決まってる」
 本気のあいつに、勝てるヤツなんていないだろう。
「なあ、館脇」
 倉茂の隣で笑うあいつ。それはただ辛いだけの現実。それでもそれを受け止めなければ、きっと今度こそ全てを失くしてしまうに違いないから。
「勝てよな」
 呟くオレの胸にあるのは二人で何度か見た屋上からの夜空ではなく、あいつのくれた作り物の空。
「勝って、幸せになっちまえ」
 奥底で疼く痛みは消えなくても、そう口に出来るのはあの星空があるから。ただの強がり。でもそれが今のオレには必要だった。あいつの前で、いつものオレでいるために。
 目を閉じれば、すぐそばにあるそれにそっと触れかけた瞬間。
「先代星詠み、発見」
 踏み込まれて立ち消えた残像。騒々しい館内の中にあって、人気のない二階席。間違いなく余所見をする暇さえないはずの仁木が、一体どこでオレを見つけたのか。
「佐宗先輩も柳先輩も張り付いて離れなかったけど。星詠みのガードはどうした?」
「岡安と田邊のダブルガードだ。これ以上ない人選だろ」
 早く仕事に戻れと言ったつもりが、柔道部の副部長でもある岡安とその後輩の名前を出されて口をつぐむ。
「個人戦の奴らに最終説明してきたとこなんだ。そんな邪険にしなくてもちょっと休憩したら行くって」
 個人戦は午後からでも、エントリー者はそれまで細かいルール説明に打ち合わせ、準備に直前練習と、分刻みでのスケジュールが課せられる。それが星詠みと接触しないための配慮だということは意外に知られてはいない。
「なんかもう館脇VS挑戦者って感じだぜ? ありゃ二年ぶりに星詠み願い権行使もありだな」
「だろうな」
「どっかの誰かさんみたく、笑顔で威圧してみせるなんて芸当は倉茂には無理だろうし」
 そりゃそうだ。それにそれは去年の話で、さすがのオレでも一年のときには三年の先輩相手に拒否出来なかった。
「当たり前だろ。去年はなったこと自体イレギュラーだってのに、そこまで付き合えるか。大体、一年のときはちゃんと呑んだんだし」
 忘れさせてなるものか、と過去の事実を引っ張りだす。
「あんなの一度で充分だ」
「充分ったってさ。あん時、蜂谷先輩との一日デートって完全遂行されてないじゃん」
 聞き流しかけて、慌てて反芻する。それはオレと蜂谷先輩しか知らないはずの事実だった。
「それ、お前一体どこから」
 一日デート権を受諾したオレは、映画を観る前にランチにしようと誘われるまま入ったカフェで、長い一日を覚悟した。けれどそれは喧嘩別れしたままだった蜂谷先輩の彼女が偶然そこに居合わせたことであっさり終わってしまったのだ。どちらも気持ちが残っていて後悔しているのは丸分かりで、この先は相手が違いますねとオレと先輩はそこで別れた。もちろんデート完遂と見せかけるために、ちゃんと帰りに待ち合わせて一緒に帰ったのだけれど。
「だってあれ、偶然じゃないし」
 別に今となってはどうでもいい話だけれど、その事実を知っていただけでなく、どうやらオレの知らないことまで把握しているらしい仁木は唇の端、意味深な笑みをのせた。
「でなきゃあんな漫画チックに再会なんてない、ない。ま、そのせいでやっぱり運命だとか赤い糸だとか、先輩の彼女はすっかり思い込んで盛り上がったみたいだから、それはそれでいいことしたんじゃねぇの?」
 なんて一人納得されても、こっちはそうはいかない。
「なに、どういうことだよ」
「あのカフェを蜂谷先輩に勧めたの、館脇だから」
 思わぬ名前に、息がうまく出来なくなる。
「あいつ、知ってたんだよな。蜂谷先輩の彼女があのカフェでバイトしてるの」
 震えそうになる唇を押し殺すように小さく浅い呼吸を繰り返す。
「どこでどう詳しい話を聞いたのかまでは知らねぇけどさ。売り言葉に買い言葉の挙句別れるなんて言っちまって、ただもう意地で会わないなんてことになってたらしいからな。きっかけさえありゃ、収まるところに収まるカップルだったっつーことだ」
『一日デート権なんて男子校ならでのおふざけだよな』
 オレを笑って見送ったあいつ。その言葉の向こうにあったものをこのタイミングで知る皮肉。
 根底にある想いは違っていたとしても、守られていたのだ。あの時、確かにオレも。
「そ、か。それじゃ今度はあいつが勝てるように祈っててやらなきゃな」
 口にしたそれはどこか上滑りしていたけれど。それだけがオレに出来ることのような気もしていた。
「厚き友情に免じて」
 そう線引きして。

 

 

 


 遠目にする館脇はまるで気負いを感じさせることなく、それどころかどこか淡々として見えた。いつもとまるで違うその静かな眼差しに、全てが引き込まれていくようだった。
 息を呑むその音さえ聞こえそうな張り詰めた空気。独特の緊張感にさらされながら平然と射続けるあいつにとっては、そこに立ったのが誰でも関係なかっただろう。そう思わせるほどの集中力で、近寄での勝負の一本を真ん中の円からすこし外れた辺りに決めた。それでもその視線は少しも乱れないあいつに、最後の相手は一年にしてすでに次期生徒会長の呼び声も高い出来すぎなあいつの後輩だったはずだが、はなから勝負はついているような気がした。そしてそれは放たれた一矢が大きく的を外れて現実となり、個人戦は終了した。
「おめでと」
 本部席。歓声の消えない中、立ち上がる華奢な背中は射場を振り返ることはなかったけれど。それはきっと信じていたからなんだろう。引き攣れるような痛みにそっと胸元のシャツを掴む。
「あいつもきっとデート権のクチだな」
 倉茂は賞品を選ぶと思ってるかもしれないけど、期待を違えるヤツではない。そしてもちろんそれがあいつの望み。
『一日デート権なんて男子校ならでのおふざけだよな』
 二人が出かけるときには、同じ言葉で見送ってやろうか。舌を出して、しかめっ面をしたオレと違って、きっとあいつは満面な笑顔で応えるだろうから。オレだってきっと笑える。
 掴んだままのシャツのそばで、携帯が震えた。約束までの時間を知らせるように。

 

 

 


「では、引き続き個人戦の表彰に移ります。優勝、三A、館脇壮介」
 大歓声の中、ゆったりとした足取りで壇上に上るこいつをこんなに近くで見るとは思わなかった。
『生徒会誌に写真を載せるから』
 講堂に入るなり、待ち伏せられていたかのように腕をとられ引っ張り込まれた舞台袖。だいたい今年は部外者のオレの写真を一体どこに使うつもりなのか。説明ひとつしないままその当人はすぐそこで倉茂とともに館脇を迎えている。
「では、優勝者に確認します。星詠み願い権を行使しますか」
「ここでしない、なんて選択はないって。だろ?」
 お決まりの台詞に、予想通りの返答。沸く場内に、オレはそっと身体を背けた。
「星詠みには生徒会救済権が与えられます。それを念頭に願い事をひとつだけ、どうぞ」
 その続きを少しでも遠ざけたくて、メールを確認する振りで取り出した携帯だったけれど。
「それなんだけどさ。公表なしでいいだろ、仁木。断られれば素直に引くし」
「おい、お前どんな願い事する気だよ」
「デリケートなんだよ俺は。ご褒美ならそのぐらい配慮しろってコト」
 なんとか開いたフラップもそのままに指先は動かなくなる。
「ご了解いただいたところで、倉茂」
 途切れた声。遮断された続きを知るのは倉茂だけ。けれど囃し立てる声は煽るような口笛を添えてそれを受け入れる。ひどく耳障りだったそれが、何をしたのかさらにその音量を上げた。
「静かに、静かにお願いします。では星詠み、あなたはその願いを受諾しますか」
「受諾します」
 逡巡することはなかった。まるで当然のことのように受け入れられた答えに、握り締めた手の中で携帯が元に戻る。思っていたままのはずだった現実は想像以上に苦い。それでもその全部を呑み込んで笑っていられるつもりだった。抱き寄せる腕が急速に距離を埋めてしまいそうになるまでは。
「何やってんだ! このバカ」
 表彰式の真っ最中だとか、全校生の前だとか。そんなことはその瞬間吹き飛んでいた。見えなかった。目の前の館脇以外。
「何って、ねぇ。ちょっと親愛の情を表してみたんだけど」
「親愛の情? そんなんであんなこと誰にでもするってか?」
 誰にでもなんてわけがないことぐらい知っている。まして倉茂が了承済みだったかもしれないことに、否を唱える立場にはいない。そんなこと分かっているのに。
「そーだよ。もちろん津永にだって出来ちゃうし」
「いらんわっ!」
 ついさっきまで微妙な緊張感に色めき立っていた場所はその気配を消し、何もかもを混ぜ返すような館脇の独壇場だった。おまけのように名前を出され、オレもまたそれに一役買わされていることを知りながら今さら引けない。
「冷たいなぁ。もうちょっと優しくしてくれないと、傷ついちゃうじゃん」
「ふざけろ」
 傷ついてるのはオレだ。お前が優しくして欲しいのはオレじゃないくせに。
「あ、マジだっつーのに。ほら、津永にも親愛のシルシを」
 手を伸ばされて本気で振り払う。でなきゃ何もかも忘れてしがみつきそうな気がした。
「もうお前、半径1メートル以内に近付くな」
 そう答えるのが分かっているからこその台詞に。
「えぇー! そりゃねぇって」
 沸き上がる歓声も大げさにへこんで見せるそいつも笑っている。もちろんオレだっていつも通り。お前が思うオレのまま。
 どんなに心が冷えていても。

 

 

 


 なんとも締まらない創立祭だった。部外者のオレが壇上を陣取っておきながら言う台詞ではないけれど、肝心の星詠みがいつの間にか消えていて星詠み願い権の行使もあやふやなまま。結局星詠みの代打で三度目の終了宣言をさせられたオレの隣にいた館脇は、今まだこうやってそばにいる。
「なに。機嫌悪ぃな」
「別に」
 いなくなった倉茂を探しに行く素振りも見せないのは、待ち合わせてでもいるのかもしれない。それまでの暇潰しかと思うとつい素っ気無くなる。
「別に? そんなわけないだろ? なんかずっとピリピリしてるくせに」
 お前にだけは知られたくないのに、今にも見透かされそうで。
「そう思うならそうなのかもな」
 ただ、もう苦しい。溺れそうになりながら投げやりに口にしたそれに、いきなり腕を掴まれた。
「なんだよ、それ」
 抑揚もなく響いた低いそれに、ようやく気付く。どうやらこいつの機嫌こそ底辺を這っているらしいことに。
「こっち向けよ」
「痛いって」
「ようやく俺の顔見たと思ったら、もうそんなかよ」
 嘲るように吐き出されたそれに呼応するように、掴まれた腕の痛みが増す。
「痛ぇって! 離せよ!」
 このままいると、感情に任せて何もかもぶちまけてしまいそうで怖くて。ただもうここから逃れることしか考えられなかった。それなのに掴まれたままの両手を闇雲に振り回してもそれは敵わない。
「も、離せよっ」
 圧倒的な力の差に、目の前が滲む。
「離して、くれ」
 もう少し一緒にいたい。ただそれだけの望み。
「駄目だ」
 そいつは払いのけるように拒絶した。
「今日はもう離さない」
 静かな、けれど確かな激情を浴びせて。

 

 

 


 不審気な視線に躊躇することなく無言で突っ切る館脇に腕を掴まれたままのオレ。けれどいつもなら好奇心旺盛さに身を乗り出すはずの連中は、まるで気圧されるように道は空けても声をかける素振りさえ見せなかった。
 何の邪魔も入らないまま易々と部屋へ押し込められると同時、背後で施錠される音が妙に大きく聞こえた。
「も、いいだろ。離せよ」
 そこが自分のテリトリーだからだろうか。ようやく館脇はオレの腕を解放した。
「お前、何がしたいの。ちょっと頭冷やせ」
 突き放すように言い置いて、扉の前、行き先を塞ぐようにいるそいつを押しのけようとしたものの、そいつは一歩たりとも引く気はないらしい。
「館脇」
「何がしたいって? 言ったらさせてくれんの。お前は」
 喉を鳴らして嗤われて、その異質さにひやりとする。
「なぁ。なんであそこで飛び出した?」
 背中が震えた。
「どうしてあんな真似した」
 尖ったそれが、オレを貫く。
「……悪かったよ。せっかくのチャンスを邪魔して」
 息継ぎの仕方が急に分からなくなって、声がひしゃげる。
「もう二度としない。ちゃんと分かったから、安心してもう行けよ。ま、一応言っとくけど、とりあえず公衆の面前では控えろよな」
 そう。誰の前でどうしようと構わないけど、オレの前では止めてくれ。呆れたふうを装いながら、それでも顔を見ることはやっぱり出来なくてそっと背中を向けた。
「ほら、とっとと行けって」
 ヒラヒラと手を振って促すのに。
「で。俺が出て行ったらお前はどうすんの」
 強い口調は、オレを捉えたままで。なんとか言葉を押し出そうとしたものの、声にならない。
「外泊届まで出しやがって」
「なに、それ」
 縋る先を求めて強張った指先が探し当てたポケットの中の携帯を、けれど引き出したのはオレじゃなかった。
「行かせるかよ」
 背後から掴まれたその携帯は、目の前で放り投げられる。
「なにすん……」
 引き戻されるように掴まれた肩。射抜くような強い眼差しが見えたのは一瞬で、すぐに何も映らなくなった。
「たて……」
 呼吸を飲み込むように奪われる。それでもその息苦しさがオレをのぼせ上がらせなかった。
「っつ」
 乾いた音に一瞬緩んだその腕は、けれどその先を変え今度は顎を掴まれる。噛み付くようなそれは、身体ごと扉に押し付けられてオレは今度こそ抵抗する術を失っていた。

 

 

 


 何もかもを暴き立てるような、執拗で容赦のない口付け。崩れ落ちそうになったオレを支えたのもまたそうさせた張本人だった。
「血の味がする。さっき噛んだろ」
 さっきまでの強引さが嘘のように、その指はそっとオレの唇を撫でたけれど、痺れたように感覚がない。そんな物慣れないオレと違ってその指先は余裕を感じさせて。それがただ腹立たしかった。
「お前、なに、やってんの」
 詰ってやりたいのに、うまく回らない舌が口惜しい。
「なんの、つもりで」
 自分のもののはずの唇は少しも意のままにならない。
「オレは、倉茂じゃ、ない」
 喘ぐように息をついたオレを覗き込んだのは、熱をはらんだ瞳だった。
「なんだ、それ」
「倉茂のこと、本気で」
「本気で、何」
 本当は全部伝わっているに違いないのに、継いではくれないそいつに、零れ落ちたのは言葉ではなかった。みっともない。そう思うのに止められない。
「本気で倉茂を好きだとか思ってた? ならどうしてそんな大事なヤツをほっぽって俺がここにいるんだよ」
 そんなの知るか。胸の中を埋め尽くす勢いのそれは、だけど喉に絡まったままで。オレはただ揺れてぼんやりしか見えないそいつを睨みつける。
「大体お前こそ、兄貴と付き合ってたんじゃねぇのかよ」
 噛み締めた唇を、濡れた目元をそっと撫でて、その指先は頬で止まる。
「人の気も知らねぇで、懐きやがって」
「な、に」
 絞り出した声は、まるで今の気持ちのままの聞き苦しさ。それでもそいつはちょっと困ったように笑って。
「なぁ。なんであんな真似した?」
 同じ問いかけを繰り返した。
「倉茂を守るため? 先輩としての使命感? それともただの余興?」
 違うと、そう言ってもいいのか。この気持ちをもう隠さなくてもいいのだろうか。
「もし今さらそんなことでしたなんて言われたって、もう遅いから」
 焼け付くような視線に、囚われる。
「引き金を引かせたのはお前だからな。よく憶えとけよ」
 触れた唇は切なく惑わせる。
「次にお前を捕まえたら、もう離せない」
 頬に触れていた指先が離れていく。
「だから、ちゃんと答えろ」
 揺らがない強い視線。だけど僅かに歪んでみえる唇。
「尚」
 呼ばれたそれに、何もかもが消し飛んだ。しまいこんでいたはずの想いは、たったそれだけで開いてしまった。
「尚、好きだ」
 誘うように先に目を閉じたのはオレ。もう何も考えられなくて。何もかもどうでもいい。ただ、この腕を離したくなくて、その背中に縋りつく。
「もう、誰にもやらねぇ」
 吐息のような告白に、身体が震える。聞き慣れた着信音がそれを阻むように流れても、オレはもう目の前の温もりを手放せない。拘束するようにさらに強くなる腕の中、背中を辿る指先でオレはそれに応えた

 

 

 


「だからまずは北斗七星を探すんだって」
「あ?」
「だからさ、聞いてる?」
 数時間前の熱に浮かされたようなそれが妙に照れくさくて就寝時間までずるずると談話室にいたオレを、あっさり捕まえたヤツはそのまま部屋ではなく屋上へと向かった。
 こうやって館脇と星を見上げるのも随分久しぶりで、甘い雰囲気を躱すようにひたすら星の話をしていたのだけれど。
「お前よくそれで昔好きなコに説明できたね」
 連れてきたくせに全く気乗りしない様子につい口をついて出たそれ。二年も前のことなのに、ちくりと胸の端が痛んだのは自分でもどうだろうかと思うけど。
「何言ってんのかと思ったら。マジでお前ニブいにもほどがあるよ」
 けれどそんなオレに、そいつはあからさまに大きなため息をついてみせた。
「あのな。好きなコなんて、あん時からお前に決まってるだろ? あぁ言えば夜にお前と二人きりになる口実になるじゃん? でもなきゃ大体星なんて悪ぃけどあんま興味ねぇし、俺」
「ば……っかじゃねぇ、の」
 星好きのオレとしては最後の一言はかなりの問題発言なんだけれど、口ごもりつつ絞り出したそれは完全に迫力不足。
「分かってねぇと思うけど、今ここにいるのも似たよーな理由だぜ」
 手すりにもたれかかったまま、そいつはオレを真っ直ぐに見た。
「星見て嬉しそうな顔してるお前が見たいだけだもん」
 ここまで甘ったるい台詞を吐くヤツだったなんて知らなかった。多分オレの耳は真っ赤になってるに違いない。
「も、黙れ」
 どこか言い足りなさそうなそいつの口を手の平で塞いだら、あろうことかそれを舐められた。
「ばっか……!」
「逃げ回ったお返し」
 しれっと言ってのけて意味深に笑ったそいつから一歩飛び退る前にその腕に捕まる。
「今度外泊届出すときは俺と一緒な」
「勝手に言ってろ」
「あ、そ。それなら勝手にする」
 近付くそいつに視界を塞がれる直前、赤く光るアークトゥルスが見えた。
『青白く光るスピカが選ぶのは、アークトゥルスしかないってことか』
 浩一さんは電話の向こうでそう呟いて、ただ謝るオレに小さく笑った。
『本当はね、君の傘の下にいたアオを拾ったのって壮介なんだよ』
 そう暴露して。
「余裕だな。何考えてる」
 気もそぞろなオレにどうやら気付いたらしい。
「俺以外のコト、考えてんじゃねぇよ」
 眉をしかめて不満げなそいつに、オレは笑って唇を重ねた。お子様みたいなそれ。
「そんなんで足りるかよ、バカ」
 追い立てるような激しさに呑み込まれて、オレの胸は甘く疼いた。

 

 

 


 あのさ。オレ、本当にお前のことが好きらしいよ。

 自分でも、ちょっとどうかというぐらい気がつけばいつもお前はオレのどこかに必ずいた。
 だから。口惜しいからもう少し内緒にしておくよ。

 あの日の外泊届はお前と倉茂から離れたくて、一人で星を見に行くつもりだったなんて。
 だからお前もいつか教えて。 なんで拾った子犬に『アオ』ってつけたのか。
 『多分本名は尚だと思うんだよね、俺は』
 あの人の言葉が本当かどうか、いつかちゃんと俺に聞かせて。

 

HOME     NOVEL