「そろそろ、潮時だよね」
 背中を向けたまま、シャツのボタンを留める手がわずかに震えた。だけどなんてことない、明日の天気の話をするみたいに上手く言えたと思う。振り返れば、すぐそこにしわくちゃのシーツがあって。まだ暖かいはずのそこに、ついさっきまでいた僕にしては上出来なほど。
「ね、別れようか」
 そう口にして、胸の奥が冷たくなった。だけど。
「そう。他に好きなヤツでもできた?」
 平然と返されたそれに、冷たさは痛みに変わった。今すぐ振り返って『嘘だよ』って言ったら、オトナなこの人はきっとこの関係を続けてくれるんだろうけれど。
「そうかもね」
 そんなことはもうできない。僕ばかりがどんどん好きになって、いつか鬱陶しがられてしまう前に終わらせると決めた。今ならまだ、まだきっと間に合う。
「じゃ」
 お互いアソビが暗黙のルール。もつれるほどのものがあるわけがない。ゲームオーバーを告げてしまえば、それが最後になる。リセットしてもう一度なんてことはないと分かっていて切り出したのだ。だけど。
 背中で、オートロックの閉まる音が響いた。静か過ぎる空気に晒されて、その場で立ち尽くす。引き止められなかった。それがあの人の気持ち。ちゃんと知っていたつもりでいたのに、どうしてこんなに傷ついているのだろう。
「さよなら、久我さん」
どんなに奥深く繋がっても、何度身体を重ねても、結局、僕とあの人の温度差は埋まることはなかった。あまりに薄っぺらな関係に、踏みつけた長い毛先が滲んだ。

 


 気がつけば、何度も見てしまう携帯。この一年の間についた癖とはいえ、未練がましいと苦笑いがこぼれた。もうそこにあの人のナンバーが表示されることも、メールを受信することもない。頭で分かっているのに、無意識の部分では納得していないらしい。
 お互い知っているのは携帯のナンバーと名前だけ。年がいくつなのか、どこに住んでいるのか、何をしているのかも分からない。聞かれたことさえなかった。だからあれからすぐに携帯を解約して別会社のものにしてしまった。あとは久我さんと出会ったバイト先をやめてしまえばそれで完全に終わってしまう。簡単だった。たったこれだけで、もう二度と連絡もとれない。
「わざわざ変える必要もなかったかもな」
 執着の欠片も見えなかった人。切り出したのは僕。でも切られたのも僕だ。それが耐えられなくて、理由が欲しかっただけかもしれない。半ば意地で登録しなかったナンバーは、だけど頭の片隅に居座っている。
「……キ、ユーキ!」
 ぼんやりしていたせいで、危うくシンクの中へ落としそうになった携帯を、慌てて長いエプロンのポケットに避難させて振り返る。
「ボーッとしてっと怪我すっぞ」
「すみません」
 姿はギャルソンでも、基本は皿洗いの僕は溜まったままのグラスをそっと拾い上げる。
「どした。ここ最近おかしいぞ。なんかあったか?」
 実はまだ高校生の僕を、『ま、いっか』の一言で採用した人は相変わらず飄々として見えるけど、やけに鋭い。
「いえ、別に」
 だから否定する。頷くより簡単なサイン。そう、だけど大丈夫だと。
「ならちゃんと給料分働け」
 ポケットの僅かなふくらみに目を向けられたものの、フロアからの呼び出しに足早にそのまま出て行く。この人もある意味、久我さんと同じ人種だ。一定の領域に踏み込まないし、踏み込ませない。それがオトナというヤツかもしれなくて、僕は確かにそこにひどく憧れていたのだけれど。
「わがまま、だ」
 それと言わなくても、行きたい場所や食べたい物、興味のあるものを僕の言葉の端から拾ってくれた人は、だけど僕が本当に欲しいものには最後まで気付かなかった。もちろん隠し続けていたのだから当然といえば当然で。
「一年もいられた。楽しかった」
 柔らかなスポンジの泡が、手の中で消えていく。それはまるで僕たちのようだと思う。
「それで、充分」
 一気に蛇口をひねって、その泡を洗い落とす。自分の気持ちも流れていってしまえばいい。そう本気で願いながら。

 


 そもそもバイトなんて始めようと思わなければよかったのだ。そうすれば出会うことさえなかった。世間知らずの坊ちゃんのまま、スキだキライだと軽く流していられる相手しか知らない方が、ずっと楽でいられた。
「お帰りなさい、一帆さん」
 玄関扉を開けると同時、見知った声に迎えられる。ぼんやりしていたせいで、気付かなかった。父さんの秘書であり理恵姉さんの婚約者でもある笹山さんが帰るところだったらしい。母さんだけでなく父さんまでが出てきていて、思わずその場で立ち止まる。
「遅かったな、一帆」
 最後までバイトに反対していた父さんは苦い表情をしたけれど、そんなことより僕は笹山さんの方が気になった。
「あんまり社長に心配かけちゃダメだよ」
 穏やかに微笑んだ笹山さんは、案の定僕を見るとちょっと微妙な顔をした。ボロボロになってる今のタイミングで顔をあわせるのは避けたい人だったのに。
「一帆くん?」
「笹山さんが来てるなら、もうちょっと早く帰ればよかった。また今度ゆっくりいらしてください」
 張り付けた笑顔でそれ以上を避けて、見送る側に回る。
「あぁ。ありがとう。それじゃ、失礼します」
 このタイミングで滅多なことはいえないだろう人は、いつもと変わらない様子のままで一礼し出て行く。離れがたいのだろう姉がその後を追いかけるのを目の端に、靴を揃える。
「もう十一時になるぞ。一帆、こんなに遅くなるなんて」
「忙しかったので。バイトとはいえ仕事ですから、僕だけ定時になんてあがれません」
 経営者側の父さんが文句を言えないだろう台詞でそれ以上を回避して部屋へ向かう。
「一帆さん、お風呂は?」
「すぐに入ります」
 素直に返事をしておけば過干渉から逃れられることを学んでいる僕は、いい子でいることに慣れていた。だから、そんな僕を知らないまま、心の中をよんでいるみたいに先回りして大事にしてくれる人が嬉しくて。近づきたいと思って。そう、それだけで満足していればよかったのに。
「なんで会っちゃったんだろ」
 出会った頃は、感謝さえしていた。特別扱いされることが嬉しくて、それだけだった。
「それ以上なんて望むから」
 隙間もなく触れてみたいと感じて。見えた可能性に、後先考えずに飛びついた。慣れたふりして誘って。そう、何もかも僕が望んだ。
 鞄からメールの着信音が聞こえる。多分、きっと笹山さんだ。勘のいい人だから、何かあったことに気付いたに違いない。そしてその何かが、どこへつながっているものかも。笹山さんは唯一、僕が久我さんと付き合っていたことを知る人だった。

 


 甘やかされっぱなしの自覚がある僕がバイトをしたいと言ったとき、反対する父さんを説き伏せてくれたのも、バイト先を紹介してくれたのは笹山さんだった。
「カフェダイニングだし、店長も昔馴染みなんだ。ただし表に出るのはマズイから裏方オンリー。大変だよ」
 聞いていたものの、洗い物と食材運びがメインの裏方は本当に大変だった。過保護すぎる親の元を少しでも離れたい。大人な気分を味わいたい。そんな半端な気持ちから始まった週末の金・土のバイトは、あっというまに辛くなった。自分から言い出しておいて今さらというプライドがなければ、とうに辞めていたと思う。そんな時だった。
「ユーキ、そろそろ酒類が届くから確認して伝票にサインしといて」
 厨房で話し込んでいたチーフが、カウンター越しひょいと顔をのぞかせた。すぐに返事をして、グラスを磨いていた手を止め裏階段へ向かう。『ラルゴ』は一階がカフェメイン、二階が食事メインのフロアになっている。コンクリートで覆われた外装に、一転して内装は温かみのある色が使われ、照明ひとつとっても照度や当て方に工夫があるのが分かる。穏やかでやさしい空間。椅子やテーブルは、一点ものなのではないかと思われるのだけど、それもまた丸みをおびた形ばかりで和らいでいて、ついつい長居を誘われそうになるに違いない。面接のときに座った僕も、名残惜しく思った一人だ。
「はい、もう少しで納品に伺えますので」
 クローズされているドアを内側から開けると、いつもの担当者が携帯片手に何事か揉めていた。どうやら次の納品先からの催促らしい。何度か同じような台詞をうんざりしたように繰り返していたけれど、僕の顔に気付いて一変し押し切るように携帯を切ってしまった。
「お世話様です。こちらご注文の品になります。伝票にサインをお願いします」
 バイトを始めて分かった仕事の大変さ。こうやって向けられる満面の笑顔に、だから素直にすごいと思う。そして今自分に出来るのは、手早く検品を済ませて次へ向かわせてあげること。サインをして伝票を渡してしまえばそれで終わり。
「それじゃ納品させていただきます」
「お願いします」
 あとはいつも通り二階へ運んでもらうだけになったところで、またその人の携帯がなり始めた。困り顔で、それでも笑ってそのままケースを持とうとしてくれた人を、だから僕は止めた。
「結構ですよ。あとはこちらで運びますから。すぐに次に行かれてください」
 性格なのか、それとも僕の細腕のせいなのか、その人は少しばかり躊躇したみたいだけれど、鳴り続ける携帯に結局何度も謝罪を口にして、入り口にケースを置いたまま背中を向けた。
「さてと」
 さっきの彼はケースを二段積み重ねて持ってきた。さすがにそれは無理なことぐらい承知している。それなら一つずつ運べばいい。そう思ったのだけれど。
「お、重い……」
 なんとか持ち上げてはみたものの割れ物という緊張感も手伝ってか思った以上にそれは重く、二階奥の食品庫までの道のりにちょっと気が遠くなる。
「失敗したかも」
 それでもここで根を上げるほどには、僕の男としてのプライドはなくなっていない。よろよろと足を進め始めた僕の背後で、ドアの開く音がした。
「あ、まだ開店前なんですが」
 裏口とはいえ稀に間違って入ってくる人がいる。鍵をかけ忘れたかと、振り返る余裕などない僕は必死でそう声をかけた。
「前、見えてる? 危ないな」
 穏やかさをまとった低いそれは、ちょっとドキリとするほどいい声。そしてそのまま僕の腕からケースが奪われた。
「え、あの」
 慌てた僕の目の前で、軽々とケースは積み上げられる。その声の印象を裏切らない、鋭角的な瞳に思わず息を呑んでしまう。間違いなく十は年上だろう。コロンとタバコの匂いがオトナを強く意識させる。威圧感に無意識のうちに身を引きながら、それでも目を奪われてしまうなんて初めてで、引き寄せられてしまう。
「悪いけど、そっち持ってきてくれる?」
 塞がってしまった両手の変わりに目線で示されたのはライムの入った紙袋ひとつ。
「野木、もう出勤してる?」
「あ、店長はまだ」
「そっか。邑久は?」
「チーフはご予約の方のコースメニューを打ち合わせ中なんですが」
 迷うことなく進む背中を一度も追い越すことがないまま、その人は慣れた様子でフロアを横切り食料庫の定位置へ荷物を並べ置いた。店長とチーフを呼び捨てにしたぐらいだから、そんなことも珍しくないぐらい親しいのだろうか。
「お手数をおかけして申し訳ありません」
「いつも入り口に置かれて誰かが中まで運んでるの?」
 ジーンズの埃を軽くはたきながら聞かれて、事の顛末を話すとその人はちょっと笑った。するとわずかに目元が優しく和んで、いっそう揺さぶられる。
「もし次にこんなことがあったら、無理せずに誰かを呼んだほうがいいね。怪我されちゃそれこそ野木達には痛手だ」
「あ、はい」
 素直に頷けた不思議。だけどそれを考える間もなく、抱いていた紙袋を厨房から出てきた人に覗き込まれた。
「あれ、このライム」
「チーフ」
「お……、持ってきてくれたんだ」
「持って来いっつったのはそっちだろうが」
 形のよい眉をしかめて見せたのも一瞬で、その人は表情をすぐに緩めた。
「駄賃代わりにコーヒーくらいはでてくるんだろうな」
「来たとたんにそれかよ。西村、ちょっと出てるんだけど」
 開店前の時間帯。要求が当然のようにのまれたことにもだけど、何よりコーヒーマイスターの西村さんの名前がでてちょっと驚く。お客様ではないだろう人に、わざわざ担当を呼び出して入れさせるなんて。親しいだけの人にそんなことをするものだろうか。
「あ、いいや。今日はこのコに淹れてもらおう。荷物運びの代価ということでブレンド、入れて欲しいな」
 お願い、と微笑まれたのはなぜだか僕らしく、思わず目をしばたかせる。
「え、あの、僕、ですか?」
「ちょっと待て。ユーキは裏方専門なんだ。しかもブレンドって、お前」
「ドリッパーぐらいは使えるでしょ」
「あのなぁ」
 チーフは呆れている。そりゃそうだ。わざわざ西村さんを呼び出そうとした相手に、素人の僕を指名されたのだから。
「悪い、ユーキ。こいつ言い出したらきかないから」
「ユーキ君っていうんだ。俺、久我。よろしく」
 コーヒーの香りは好きだけど苦味が苦手な僕はカフェオレ派だ。とはいえ自分で淹れるのは夜遅くにどうしても飲みたくなったときのインスタント。もちろん超アメリカンな、コーヒーとは呼べない代物。そんな具合で人に淹れるほど上手く出来るわけがない。
「あ、あの僕、あんまりというか、上手く淹れられないと思うんですけど」
 誰か違う人を。そうお願いすることもできた。だけど。
「それでも、いいですか?」
 どうしてだろう。譲りたくないと思ったのだ。

 


 西村さんのコーヒーを飲みつけている人にとって、間違いなく不出来なそれを久我さんは「ごちそうさま」と最後まで飲んでくれた。飲み終わるまでが僕の仕事だと目の前を指差されたおかげで、ゆっくり、というより多分やっとというのが正しい味だったに違いないことを十二分に認識させられたのだけれど、それでも転がってきた思わぬ時間は楽しかった。
「久我さんは、お取引先の方なんですか」
 ジーンズに薄手のニットというそれは、サラリーマン=スーツという認識でいた僕にとって判断を迷わせたけれど、土曜日だから休日出勤ということなら頷ける。
「どうして、って。あぁ、ライムか。そだな、そんなとこかな」
 体よく使われてばっかりだ、とぼやいてみせて。
「ユーキ君は、バイト? 大学生?」
「あ、そうです。一月前からお世話になってます」
 まさかここで高校生だなんていえない自分が、嘘をついてしまうことは仕方ないと思うのに。肯定しきれないのはなぜなんだろう。
「一月か。馴染んでるなぁ。邑久までが名前で呼んでるし」
 言われて気付く。久我さんは僕の苗字と名前を取り違えているのだ。
「ね、俺もユーキって呼んでいい?」
 訂正する間もなくそう請われて、違いますとは言えなくなった。

 


 頻繁というほどでもなく、ご無沙汰というでもない間隔で、久我さんがふらりと現れるのは決まって営業時間前だった。そのたび僕にコーヒーを淹れさせるので、久我さんが来ると呼ばれるようになった頃。僕もまた他愛のない話で笑わせてくれる彼が来るのを心待ちにするようになっていた。だから僕は空き時間は西村さんに張り付いて、ひたすらその手順を追い、指先を見ることに専念するようになった。ただ『美味しい』と言う声が聞きたくて。
「しかし熱心だねぇ。ユーキ、好きな女の子とか出来たらマメなんだろうなぁ」
 根負けした、とコツを幾つか教えてもらっていたとき、西村さんはそう笑ったのだ。
「久我さん相手にこれだもん」
 からかうような声音は、だけど自分のなか深く入り込んだ。他の誰にもこんな風に思ったことがない。喜んで欲しい、こっちを向いて欲しい、もっと笑ってほしい。そんな欲しがってばかりいる自分に気付く。そして、声に、まなざしに、向けられるどんな些細なものにも、僕の全部で応えたくなる自分がいることにも。
 行き当たった現状に、怯まない訳がない。間違いなく十は違う年齢と、恋愛慣れしてそうな人。普通に考えて相手にならないのはもちろん、何より僕は女の子ではない。それでもそういう意味で好きになったら、どうしたらいいのか。
どんなに考えても、結局弱気な僕には玉砕覚悟での告白なんてありえない選択だった。だから今以上を望まないと決めた。嫌われてしまうより、今のままがいい。それでいいんだと、思おうとしていた。

 


「そーいや久我のヤツ、最近きてねぇな」
 休憩時間。西村さんから借りた初心者向けのテキストを読んでいた僕からそれを取り上げると、店長は興味なさげに捲る。
「ユーキの腕も大分上がったのに」
「お仕事、お忙しそうですから」
 でなきゃカノジョとデートかもしれない。口にすると気持ちまで露呈しそうな気がして、続きは胸のうちだけにしまう。実際、そんな存在なんておくびにも出さない人だけど。いないわけがない、とも思う。
「ま、でもそろそろ来るな。特定のオンナもいない寂しいオトコだから」
「え、だってあんなに」
「モテそうなのに? そりゃモテるよ。あのルックスだろ? しかもそこそこフェミニストだしね。来るもの拒まず、みたいな? 好みなら大抵は食っちゃってんじゃねぇの」
 あぁ、やっぱり。納得しながら、唇を噛む。
「だけどさ、それきりなんだよ、あいつは。最初にきっちりクギさしとくみたいでさ。重いのはダメ。シュラバるのもゴメンだって。だから大抵一度でサヨナラ。特定のヤツは俺が知る限りいたことねぇな」
 ひでぇヤツだよなー、オンナの敵? いやオトコの敵か? そう笑われても相槌を打つのがやっとの僕に、テキストが戻ってきた。
「ユーキも気をつけろよ。まんま好みだから、あいつの」
 意味が分からなくて思わず見上げると、どこか愉しげに唇の端が上がった。
「マジでオンナなら口説かれてとっくに食われてるって。そうでなくても今だって十分お気に入りだし。大体ユーキに淹れさせるまでは、ここで西村以外のコーヒーなんて飲んだことないぜ、あいつ」
 そうだ。確かにチーフはあの時、西村さんを呼ぼうとしていた。
「不味いコーヒーなんか飲めるかって、外で飲むトコは決まってるんだ。そういうヤツがさ、満面の笑みでユーキの不味いコーヒー飲んでんの見ると、やっぱヤバイ感じがすんだよ。そのあたりのボーダー、あいつ低そうだから」
 からかい半分、冗談半分だろうそれは、僕の頭の中にしがみついて離れなかった。重いのがダメで、煩わせない相手。何より好みなら来るもの拒まず。久我さんのボーダーは僕でも崩せるだろうか。考えもしなかったことだけど、もしかしたら一度ぐらいは手に入るかもしれない。そう思ったら、もう止められなかった。

 


「ホント美味くなったな。なんでか西村が自慢してるけど」
 一口飲んで、誉められた。向けられる笑顔は嬉しい。だけど合格点がもらえたら終わりかもしれない。そんな不安が頭をもたげる。
「ま、でも確かに最初の一杯からこれは予想できなかった」
「だから最初に断っておいたでしょう?」
「確かに。俺が強引にお願いしたんだもんな。とはいえまだ頑張れるだろ?」
「西村さんを基準にされてます? レベル高すぎですよ、久我さん」
「いやいや。あぁ、でもそうだな。じゃ次の頑張りに期待して、ここまでの努力に何か御褒美をあげよう」
「何でも?」
「そうだな。とりあえず俺にできることなら、ってキャプションつきだけど」
 久我さんにしかできないこと。だけど願って与えられるものではないそれを欲しがるのは愚かしいことかもしれない。でも、それでもいい。チャンスの神様の前髪を、僕はうまく捕まえられるだろうか。
「付き合ってくれませんか?」
 慣れたふうにカウンター越し近づくと、そっと耳打ちする。軽く、遊びなれたふりで。
「そんなに重く考えないで」
 わずかに目を見張った人にこわばりそうになる表情をおして、つくる笑顔。
「そう。それでいいんだ?」
 もちろん、と頷けば、そっと頬にその手が伸びてきた。冷たい指先に撫でられる。
「了解」
 甘い言葉もなく、あっけなくそれは受け入れられた。取引と呼ぶにはあまりなそれを証明するように、その日のうちに僕は久我さんと寝た。初めてだと悟られることが怖くて、気持ちを明け渡せないまま身体だけが暴かれ揺さぶられた。痛くて、苦しくて、怖くて。知られたくないそれを、震えが強張り固まってしまった指先を、甘えるように引き寄せた胸に隠した。どうしても欲しかった。その腕の中の温かさを感じてみたかった。現実からちょっとだけ目を瞑って浸った、幸せに似た気分。
 それなのに。シャワーを浴びている久我さんを置き去りにホテルを出てしまえば、それは身体のあちこちにある痕跡のようには残ってくれなかった。それどころか、ひと時手に入れた温もりを知った分だけただ寒くて、寂しさばかりが腕の中にある気さえした。

 


 一度きりの関係。久我さん自身から釘を刺されたわけではないけれど、それは暗黙の了解なのだと納得していた。けれど意外にも、その久我さんが当然のように次の約束を口にして、僕の気持ちは大きく揺れた。訝しむ僕の携帯に、久我さんが自分の携帯ナンバーとアドレスを入力して初めて『付き合う』というそれに続きがあることに思い至り、少しだけ、今までの人と違うという優越感にひたった。
 ドライで、経験値も低くない、ボーダーレスな大学生。そんなユーキを、本当のところどう思っているのかは分からない。たんに都合のいい相手なのか、ただの気まぐれなのか。それでも一晩だけでいいと思った『オツキアイ』のおまけにしては考えも及ばなかったほどの時間を僕は手に入れた。もちろん誰にも秘密の関係には違いなくて、今までと変わらないことを意識するあまり人前では素っ気無くなってしまいがちになったけれど、会えば必ず身体を重ねた。それは久我さんが、というより僕の望みだった。
 抱き合うのは、いつもホテル。ラブホとかじゃない、ちゃんとしたそれで。最初は随分居心地が悪かった。だけどそれに抵抗する術も知らなかったし、下手に何かを口にして綻びを作ってしまうことのほうが怖かった。だから僕はフロントで鍵を受け取る人を、気を抜いたらひっくり返りそうなロビーのソファで待ち、振り返らないままエレベーターホールに向かう背中をゆっくり追いかけ、乗り合わせただけの二人のように見せかけることに集中していた。
 滑り込むように部屋に入れば緊張を押さえ込み、慣れた振りを装うので手一杯。あとはただ優しい手と唇に翻弄され、眼差しに晒されながら腕の中で陥落するだけ。けれどその間だけは、その温もりが自分だけのもののように思えた。それはただの錯覚で、どんなにその後が空しくなっても、その温度が欲しくて何度もねだった。

 


 豪勢なホテルには連れ込まれても、彼の住んでいる空間は知らない。車には乗せてもらっても、そこには彼の香りに混じり、いつも誰かの気配がする。イくときの表情もそのとき漏れる声も知っているのに、日常の中にいる彼は知らない。バランスの悪い僕たち。温度差は隠しようもなかった。<br>
 時間をいくら重ねても、積み上げられない彼自身のデータ。それはまるで勘違いするなと警告されている気もして、僕もまた自分のことについて話すこともなかった。メールも電話も自分からは一切しない。世の中のイベントというイベントは興味のない振りでやり過ごした。ただそのたびごとに「会いたい」「今誰といるの」「今日は誕生日だよ」なんて送信できないメールが、僕の携帯にとどまったままその数を増やし続けた。
 そう。結局無理なことは多分長続きしないように出来ているのだ。それを自分で悟るか、他人に示されるかの差はあっても。

 


 きらびやかな人たちは、みんな同じに見えていた。半ば強引に連れてこられた父さんの会社の設立記念パーティ。最初こそひな壇の横にいたけれど、愛想笑いに疲れるたびに後退し続け今はもう柱と壁に隠れるように張り付いていた。いつ抜け出そうか。手の中にあるノンアルコールのシャンパンを舐めながら、そればかり考えていたときだった。
 ぼんやりしていたせいで気付くのが遅れたのか、姿を見せたのが今なのか。一際にぎやかな集団に見つけた思わぬ人。ブランドもののスーツや色鮮やかなドレスの中、ピンと伸びた背中と見慣れた横顔。メタルフレームの眼鏡は初めてで一瞬違う人にも見えるけど、強い眼差しは同じ。思わぬ偶然に心臓が跳ねた。どうしてここにいるのか分からない。その程度のつながりに、駆け寄って声をかけられるわけもないけれど、次の約束を待たずに顔を見られた、それだけで自然に頬が緩む。もう少しだけ、となるべく見える位置を探るようにした数歩で、押しつぶされるなんて思いもしないで。<br>
 すぐ隣に、ひとつにまとめられた黒い髪と大きく背中の開いたダークブルーのドレスは見えていた。だけど、その人の手がその華奢な背中に回されたまま離れないことには気付かなかった。誰かに何か話しかけられるたび、その人を見ているのが分かる。会話はかなり弾んでいるらしく、聞きたくない笑い声や会話の一部がもれ聞こえてくる。日本語以外のものも混じるそれは、僕にはまったく分からない。見ている分だけどんどん遠くなっていく気がして、今すぐ逃げ出したいのに足が動かない。そして一段と歓声が上がった。
「指輪……」
 彼女が目の前の誰かに左手を取られて聞こえてきたそれ。ここからじゃ見えない。だけど一瞬光ったそれは、間違いなく薬指にあるのだろう。左手の薬指。どんなに鈍い人にだって分かる簡単なシルシ。
「いたんだ、やっぱり」
 沢山のなかの一人でもいい。トクベツな人がいないなら。そう思っていた。だからこれで終わり。決めていたから、平気だった。それきりその場所へ視線を向けなかったのは、ただ彼が気付いたらきっと困るだろうと思ったからだ。
 最初からオマケの時間で。終わりを意識していた。だから大丈夫。誰かに笑いかけながら、僕はこうして立っていられる。

 


 あの人の知るユーキならどういうだろう。そればかり考えながら、最後まで僕は僕でないままだと思うと可笑しかった。あの日、ホテルを出た瞬間零れ落ちたそれが、ユーキを剥ぎ取ってしまえば、残されたのはただ思いに一人きり取り残されたまま身動きできなくなっている、あの人の知らない結城一帆。初めてホンキで好きになった人に好きと言いたくて、一度くらいは部屋にあげてほしくて、誕生日やクリスマスは一緒にいたかった。嘘でもいいからスキと言って欲しかった。そんな僕をあの人は疎ましく思うだろうけど。それがほんとの僕だった。

 


 バイトに行く途中、駅前で笹山さんを見つけた。いや、多分見つかったというべきなんだろう。すでに早足に近づいて来る人にそっと息をつく。<br>
「一帆くん」
「どうしたんですか、笹山さん。お仕事中でしょう?」
 あのメールは予想通り笹山さんからで、僕はまだ読んではいなかった。どんな返事をすればいいのか分からなかったし、安心させようと嘘をついても見抜かれることは分かっていたから。
「社長は懇親会中で迎えまで時間があったからね。ここを通るだろうと思って待ってたんだ」
「僕、バイトにいかなきゃいけないんですけど」
「まだ間に合うよ。ちょっとお茶でも飲もうか」
 紹介したバイトの時間をこの人が忘れているはずもなく、それ以上の言い訳も思いつかないまま僕はそのまま後をついていくしかない。
 地下への階段を下り、重厚な木のドアを開けるとイージーリスニングが小さく流れてくる。アンティークな椅子やテーブル。奥にはピアノが見えた。
「不躾なことを聞いても?」
 ブレンドとカフェオレ。メニューも見ずにオーダーした人は、店内をぼんやり眺めていた僕をまっすぐ捉える。
「そんなカオをさせているのは、あの男ですか?」
肯定も否定もしないまましばらく。避けたと思われない程度に見返して、隅にある緑に気を取られたように手を伸ばす。小さな白い鉢からのぞくミント。
「そんなカオって、やだな。笹山さんこそどうしたの? 怖い顔して」
「一帆くん」
「これ、スイーツとかに使うのかな」
 思いつくまま口を開いて、ふと同じような表情で半年ぐらい前に問われたことを思い出す。
「あの時にもそんなカオ、してたね」
 嘘も言い訳もきかない人はただ真っ直ぐで、その既視感に思わず泣き出しそうになった。

 何度も唱える『まだ大丈夫』を覗かれた気がして。

 


「あれが何なのか、聞いても?」
 不意に現れた笹山さんに心配そうな表情でそう聞かれたのは、久我さんの車を見送った直後だった。バイトの後、珍しく現れた久我さんと遅い食事をして、そのまま別れようとした人ともう少しだけ一緒にいたくて。そうするには他の方法を思いつかなくて、だから僕が誘っていつもの夜を過ごした。
 近くの駅まで送ってもらい車を降りると、人通りもなく薄暗いということもあったのだろう。久我さんは別れ際、息も出来ないほど、まるで奪い尽くすようなキスをした。名残惜しげに唇を舐め上げられる。密室の空間以外でそんなことをされたのはこのときが初めてで、意図も分からず放心していた僕は、不意打ちの声に震えた。弁解する余地もないところを押さえられ、答えに迷う。冷静に考えれば多分セフレ、っていうのが妥当なんだろうと思いつつそれを口にしてしまうことに抵抗があった。
「こんなところで、こんな時間に。バイトはもう終わっていますよね」
 咎めるような眼差しに、思わず唇に触れる。まるでコイビトのキスみたいだったそれを思い出す。
「僕の、好きな人です」
 嘘ではない。本当のことを誰かに言いたかったのかもしれない。アソビなんかじゃなくて、ただ大好きな人と一緒にいたい自分を知って欲しかったのかもしれない。
「付き合ってるんですか」
 だからそう聞かれたとき、僕は曖昧に笑った。震える唇を、揺れる自分を押しやった。付き合う、というそれにどんな意味があるのか分からないけれど、そうとも違うとも言い切れないことは確かで。
「知らないふり、していてくださいね」
 目をそらさずに、僕は笑った。一緒にいられる時間を取り上げられないように。幸せに見える一番の笑顔で。

 


「ねぇ、笹山さん。気持ちは、不自由だね」
「一帆くん」
「大丈夫、だから」
 幸せだった。そう何度繰り返し言い聞かせただろう。でもまだ足りない。まだ胸の中は凍えたままだ。
「もう少しだけ、知らないふりしていてください」
 目の前には、カフェオレが置かれている。そしてその向こうにはコーヒー。その香りに、胸の奥が軋む。少しは上手くなったけれど、もう僕が淹れてあげることもない。それはあのカノジョの役目。

「言葉にしてしまえば楽になることもあるんですよ」
 苦笑いする人を前に、僕はただぬるくなったカフェオレに口をつけた。

 




 受験を理由に、バイトを辞めたいと言うと「そっか。なら仕方ないな」と予想通りあっさりと認められた。安堵していいはずなのに、どうしてだか重く感じるのはなぜなんだろう。
「悪いんだけど、その代わり次の日曜出てきてくれないかな?」
「日曜って、昼間ですか?」
「貸切が入ってんだ。手が足りなくてな」
 貸切。それならきっと久我さんも来ない。
「分かりました。大丈夫です」
 もう会わない人、会えない人。もう僕のことなんて忘れてしまっているだろう人。だけど僕は簡単に捨てられない。それでいいと思うことにした。今はまだ簡単に思い出せる温もりが辛い。だけど、それは嘘じゃないから。僕なりに必死でつかんだものだから。気持ちがゆっくり凪いでいくのをゆっくり待っていたい。やり方は間違ったかもしれないけれど、この気持ちは間違いなんかじゃないから。

 


 いつもは奥に引っ込んだまま表には出ない僕だけれど、最後になるこの日はウェイター役を仰せつかった。入り口に飾られたのはタキシードと白いドレスを着たテディベア。どうやら今日はウェディングパーティーらしい。珍しくチーフではなく店長がセッティングから料理まで一から仕切っている。僕はといえば、着飾ったゲストから離れた隅でぼんやりと立っているだけなのだけれど、始まるまではにっこり笑ってそこにいろとは店長命令なので仕方がない。
「そろそろ時間だな。ユーキ、グラス確認してくれ」
「はい」
 背後から声をかけられ、カウンターの中へ入る。クープ型のシャンパングラスがのせられたワゴンのひとつを覗き込んだとき、歓声が届いた。どうやら主賓が登場したようだ。
「店長、グラスOKです」
 声をかけたのに返事がなく姿もない。見るとゲストの中に混ざっている。挨拶でもしているのだろう。そう思ったとき、その相手が見えて愕然とする。
「……我さん」
 そこにいたのは紛れもない久我さんその人だった。そしてもちろんその隣にいるのは、あの日見た人。
「う、そ」
 立っていられないほどグラグラして、気が付けばその場に座り込んでいた。別れたのはついこの間なのに、もうこんなシーンに出くわすなんて。思いもよらない現状に、頭がついていかない。
「ユーキ、気分でも悪い? 大丈夫か?」
 バイト仲間から声をかけられても返事すら出来ない有様で、厨房の壁にもたれかかったまま何度も深呼吸する。みっともない姿を晒すわけにはいかない。剥ぎ取られて欠片も残ってもいないユーキを、もう一度引っ張りださなくてはならない。ユーキなら平気なふりで「おめでとう」が言える。ちょっと意味深に笑ってみせることができる。そう思うのに、どこにも力が入らない。
「やっぱり奥で休んだほうがいいよ。まだ最初はそんな忙しくないだろうし」
 ほんの少しでいい。時間が欲しかった。
「ごめん、すぐ戻るから」
 どんなに時間稼ぎをしても、無駄かもしれない。それでも最後の最後で煩わせたりして、あの人に嫌われることが怖かった。

 


 スタッフルームのソファに横になったまま、溢れ出しそうな想いを閉じ込めるように胸を押さえつける。重荷になったり煩わせたり、そんなことが今も怖いなんて。もう関係ない相手なのに、嫌われたとしても今更なのに。
「バカみたい」
 泣き笑いみたいに顔が歪むのが分かる。
「ユーキになんないと、だめなのに」
 パーティの喧騒がドア越しに聞こえ始めている。あの人と二人並んで、笑っているんだろう。最後の仕事なのに、頭も身体も心までも重い。
「行かないと」
 口に出しても指先ひとつ動かない。普通なカオをどんなふうにつくっていたのか思い出せない。
「あとちょっとだけ、なんだから」
 自分の手で視界を塞ぐ。見たくないものがそれで消えてなくなるわけもない。それでも抵抗にもならないそれを外せないでいると、温もりと重みが加わった。
「平気か」
 そっけなく聞こえるそれは、だけど手のぬくもりが裏切る。そんなところが、ちょっとだけ似ている人。
「店長、申し訳ありません。もう、大丈夫ですから」
「何が」
 普段ならそれ以上踏み込んでは来ない人に次を促され口ごもる。問い詰められているというわけでもないのに。塞がれている視界のせいだろうか。
「どこが大丈夫だっつうの。真っ青なツラしてまともに立てないんだろーが」
 耳元に落ちた、これみよがしのため息。
「どっちもどっちっつーか、なんだかなぁ。こういうの、俺の主義じゃねぇんだけどさ。ま、ちょっとは俺にも責任あるみたいだし」
 意味が分からなくて聞き返そうとしたら、突然視界を取り戻すと同時に声を塞がれた。
「ユーキはただ黙って聞いてればいい」
 何を? 声にならないそれを目の前の人に目で押さえられた。そんなとき漏れ聞こえていた音がわずかに大きくなって、ドアが開いたことに気付く。店長ごしに見えたのは大きな花束が二つ。豪勢なそれは、今日の二人のためのもの。焦げるような痛みは、だけどすぐに驚きに打ち消された。
「何やってんの、野木」
 聞きなれた低音。ぞくりとするそれは、いつも身体を震わせた。けれど。
「何やってんのかって、聞いてんだけど」
 今は別の意味で息を呑む。冷えた声音。尖った感情が流れ込む。
「無粋なコト聞くなよ、キョースケ」
 全身を強張らせる僕の頬をなだめるように触れる人は振り返りもせず、挑発するみたいにそう口にした。その目は穏やかで、とてもそんな言葉がでたことが信じられない。
「ココはスタッフオンリー。お前の方が出てけよ」
「……用事がすんだら出てってやるさ」
 初めて聞く乱暴な物言いに、思わず身体が震える。
「コレ、ボヌールから届いた。発注したの、野木だろ」
「おい、適当に置くなよ。加奈、ウルセーんだから」
「俺が知るかよ」
 それでもその花束が近づいて、ちらりと顔が見えた。すぐに視線をはずされたけれど、あからさまに機嫌の悪そうなそれは、会いたくなかったとでも言いたげで、思わず唇を噛む。
「いちゃつくのは仕事の後にしてもらえるとありがたいんだけどね」
 吐き捨てるような物言いはどちらへとも取れるものだったのだけれど、侮蔑に満ちたそれに晒されて、こみ上げる気持ちに言葉は追いつかない。声にならないそれは、形を変えて溢れた。
「なに、その言い方。らしくないぜ」
 目の奥が熱い。しゃくりあげそうになるのを必死でこらえても、零れ落ちる涙は止められない。優しい手で髪を撫でられても、それは同じだった。目の前の人は困り顔でそのまま立ち上がる。
「キョースケ、今どんなカオしてっか分かってるか?見苦しいぐらい、感情丸出し」
 庇うような背中の向こう。僕には見えないけれど、想像するのは容易い。舌打ちが聞こえて、ますます身を縮ませる。
「何に腹たててんの。今まで、いつもあっさりしたもんだったろ。オトモダチでいられる手合いも多かったじゃん。今回は相手がオレってことだけだよ。お前のお下がり……」
 凄い音がした。何がおこったのか瞬間分からなくなった。気が付けば店長がテーブルの横に倒れていて。さっきまで綺麗だったはずの花束もその辺りに散らばってどうやっても元に戻りそうもない。あまりの激昂ぶりに、涙も止まる。殴りつけた久我さんは、それでもまだ納まりきらないらしく拳を手近の壁に叩きつけた。
「そういう半端するつもりで、ユーキに近づくな」
 そこにどんな意味があるのか。考えることすら出来ない。ただ射竦められる視線に、捕らわれてしまう。
「来い」
 ソファから引っ張りあげられ、久我さんはそのまま歩き出す。抵抗することもできず、僕は引きずられるようについていくしかなくて。わずかに振り返った先、店長が右頬を押さえたまましたり顔で笑っていたのが見えた。だけど。
「なんで殴ったりなんか」
「黙ってろ」
 威圧的なそれに、つかまれた手がさらに強く握られる。そしてそのまま従業員通路をすりぬけ、来客用駐車場まで連れて行かれる。
「え、ちょっと久我さん」
 有無を言わさず押し込められたのは、今まで一度として見たことのない黒のマセラティ。何度か乗ったことのあるスープラも嫌味なぐらい似合っていたのに。逆玉。そんな単語で思い出す。今日がこの人の大事な日だということ。
「久我さん! なんで!」
 一度も僕を見ないまま、質問に一言も答えてくれるつもりもないらしく、黙ったきり車を加速させ店からどんどん離れていく。初めて間近で見る吊るしではないだろうスーツは、よく似合っている。だけど一切の表情をなくした横顔はまるで違う人のようだ。主賓が突然いなくなって、後はどうするつもりだろう。散り散りになった花束が、自分と重なる。どうしていいのか分からない。もう、ユーキでいられないだろう僕を、この人はいったいどうしたいのか。
「降りろ」
 どのぐらいたっていたのだろう。気付けば車は止まっていた。どうやら地下駐車場らしい。思わず身構えた僕をどう思ったのか、またも手をとられてそのままエレベーターに連れ込まれた。閉まるのを待たずに開閉ボタンを押して扉を閉めると、それはどこにも止まらずに最上階まで送られる。久我さんの右手の中で金属音がして、ようやく気付いた。ここはホテルなんかじゃない。
「く、がさん?」
 差し込まれた銀色の鍵。開かれたドアの向こうには人の住んでいる気配がする。一度でいいから来たかったと思っていたここは、久我さんの家だ。多分。

 


 オートロックらしいドアが音を立ててしまるのを後に聞きながら、靴を脱ぐのもそこそこに奥へと引っ張られる。もう逃げ場なんてないのに、掴まれたままの手はそのままだ。
「痛い……」
 息も詰まりそうな空気に耐えられなくて、だけど他の言葉も思いつかなくて呟いたそれに、ようやくその手が離される。ちょっと赤くなった手首。それでもそこにあるのは痛みから解放された安堵ではなく寂しさで。悲しいぐらいに好きな人を前にどうしていいのか分からない。あんなに来たいと思っていた場所で、感じるのはただ不安ばかりだ。
「あいつか」
 自分の部屋にいるはずなのに、久我さんはどこか居心地が悪そうだった。だけど僕にはその言葉の意味が分からなくて、ただ続きを待つ。
「次は野木かって聞いてんだけど」
「次」
 そうだ。この人はきっとあのときの僕の言葉をそのまま受け取っているのだ。好きな人ができただなんて。
「あいつならやめとけ」
「久我さんが、そんなコト言うんだ」
 別の人がいるのに。半端だなんて詰る立場にない人が。
「どうして?」
「アソビで恋愛できるお前じゃないだろ」
 それは一瞬で僕を冷やりとさせて、次の言葉に身構える。
「お前がホンキだって言い張るなら、なおさらやめとけ。野木にはちゃんと相手がいるんだ」
「どうして?」
「遊び相手にさせられるのを黙ってみてるつもりはない」
 力が抜けた。思わずこぼれたのは笑い声だった。久我さんは苦々しいカオをしたままねめつける。
「おかしいよ、久我さん。自分だってそうなのに。何言ってんの」
「遊び相手にするのとされるのでは違うって言ってる」
 苦々しく吐き出されたそれに、わずかに戸惑う。微妙に違うニュアンス。
「遊び相手にする、って」
 あなたが僕を、でしょう?言葉は喉の奥に絡まったまま声にならない。
「本気で好きなやつが出来たら、終わりにしてやらなきゃと思ってた。だからお前が気にしないでいられるようにきれいに手放した。だけどそれはユーキが幸せになれるって条件つきだ」
「なに、言ってるの。久我さん、今日が何の日かわかってるの?」
 いまさら、惑わせないで欲しい。諦めると決めたのに、中途半端に関わらないで。
「今日? なんだ、なんかあったのか」
「それ、ホンキで言ってる?」
 見られていないと思ってるのか、それとも不倫相手にでもする気なのか。
「ユーキ」
 そう呼ばれて抱きしめられる。ふわりと香るコロンに混じる煙草のにおい。だけどそこに混じる違う香りに、慣れた仕草で唇を寄せられて強く抵抗する。
「もう、そんなふうに呼ばないで」
 あなたの知ってるユーキはどこにもいない。だから。
「そう」
 ひやり、としたそれに背中がこわばる。
「それじゃ一帆君、とでも呼ばせてくれるのかな」
 わずかに硬くなった雰囲気。知らないはずの名前を呼ばれて目を見張る。
「野木なんかじゃないんだろ。お前の好きなヤツ」
 どうしてそんなに傷ついたような目をしているのか。滅茶苦茶にしたのは久我さんなのに。
「笹山だったか。お前の姉さんの婚約者」
 突然飛び出した名前にただ驚いた僕を、久我さんはなぜだか納得した顔で見ている。
「いくらホンキでも、相手が悪いよな」
久我さんの唇が皮肉げに歪む。
「なんで……」
「どうして、なんで。ホント今日は質問ばっかだな」
 何一つ応えてくれなかった人は、ようやく僕の目を見た。
「来たよ、そいつ。どういうつもりだって怒鳴り込まれた。可愛い義弟、これ以上泣かせるなっつって」
 力尽きたといわんばかりに手近のソファに身体を投げ出し、久我さんは哂った。
「泣かせてるのはてめーの方だって。フラれたのは俺の方だって言ってやりたかったけどな。そーすっと、キツイだろ後々」
 悪役もたまにはいいさ、なんてうそぶいて身じろぎひとつ出来ない僕に久我さんはため息を落とす。
「な、俺にしとけよ」
「そんなこと言うんだ」
 信じられない言葉に、ようやく気持ちが言葉に追いついた。
「どういうつもりで言ってるの? 本気にしたらどうするつもり? あの人と結婚するくせにっ!」
 いまさらだ。嫌われてもいい。もうどうせ二度と会わない。
「散々遊んできたんだから、特別な人ができたならその人大事にしてあげてよ」
 せっかく止まっていた涙があふれて慌ててうつむく。目の前の人が立ち上がるのは分かった。だけどそのまま僕の横を通り過ぎていく。遊び慣れていると思っていた相手が、存外に面倒なことに気付いて呆れているのか後悔しているのか。それでももう止められない。
「半端なんて、人のこと責めらんないくせ」
 不意に冷たいもので目を塞がれた。
「目、腫れるぞ」
 そしてそのまま唇も塞がれた。抵抗しようにも、無理やりこじ開けられた口の中で深く絡めとられて力を奪われた。痺れるような感覚が僕を麻痺させた頃、ようやく目の前の人の瞳が僕を捕らえる。
「ちょっと聞くけど、俺がいつ誰と結婚するって?」
 怒っているようにも呆れているにも見えるそれは、僕を混乱させた。
「だって、今日の貸切はっ」
「あ?」
「見たんだから。パーティで連れてただろ。べったり一緒にいて、あの人の左手の薬指に指輪があった。今日だって二人一緒に仲良く来てっ」
 詰られて、久我さんは片手で顔を覆った。だけど。
「ウエルカムボード、見なかったのか。加奈の相手は俺じゃない。邑久だ」
「え……」
 意外な名前に言葉が出ない。
「パーティで見た、っつうのはお前の親父さんのパーティだな。加奈とは仕事絡みの付き合いがあるんだ。邑久はああいう席は苦手だって毎回逃げ回ってる。あの時も結婚のこともあってどうしても一緒に行きたかったらしいけど、肝心のヤツはシフトを理由に断ったもんだから、怒った加奈が俺で憂さ晴らししてたってとこ」
 憂さ晴らしであんなに寄り添うもの?いまだに消せない疑いが見えたのか、久我さんは大きく息をついた。
「あの時は、お前の親父さんだって知らなかったから、お前がいると思ってもなかった。だからまあ、ムシ除けには丁度いいかと利用したのは認める」
 あんな美人をつかまえて、ムシ除けだなんて言ってしまう人は、なぜだか僕を見つめたまま動かない。
「大概いい加減な付き合いしかしてこなかったから、野木や邑久から色々言われてるんだろうし。かなり信用度は低いんだろうなとは思ってたけどな。そこまで不誠実に見えてたってのは、ちょっと厳しいか」
 もう一度、目が塞がれる。ちょっとぬるくなったタオル。
「オレにしとけば?」
 落ちてきたそれは信じられないほど真摯に響く。
「そんなに重く考えないでって、あの時言ったな。今度は俺がそう言っていいか?」
「それって、アソビってこと?」
 震えてしまいそうになる声を押し殺して呟くと、わずかに塞いでいる手が動く。
「それでも、いいよ。きっといつか本気にさせてみせるから」
 どこか苦さを含んだそれに僕は気持ちのまま腕にしがみついた。
「僕がアソビで恋愛できないって、言ったの久我さんだよ」
 だから気付いて。僕の欲しい言葉。僕からは言えない。僕が一番欲しいもの。
「口説くさ。そのぐらいのハンデで引けるほど俺の気持ちは軽くない。誘われて、腹立ち紛れに抱いて後悔した。大事にしたいと思ってたのに、全部を俺がぶち壊した気がした。だけど。それでも止めてやれなかった。抱いてるときだけは俺のモンだって、そればっかりで。そのくせお前が自分のこと何も話してくれないって苛立って、俺のことも意地になって話さなくて」
 ごめんなって、優しく髪を撫でられる。
「もう一度最初から、あの日あったときから始めてもいいか?」
 甘い声に混じる懇願。見えない分だけ過敏になる感覚。
「また不味いコーヒー飲むの? 僕、あれから全然淹れてないし、絶対」
「いいよ、何でも。淹れてくれるなら毎日でも通う」
 それなら。だったら言って。待ってるんだ。
「通って言い続けてやる。聞くのが嫌になるぐらい」
 お願いだから、確かめさせて。
「他の誰かのことなんて考える余地もないぐらい」
 他の誰か。この温もりを持つ人以外にそんな人はいないけれど。僕と同じ温度なのか、確かめさせて。
「俺の気持ちに降参させてやる。聞き飽きたって言われるぐらい好きだ、って」
 わずかに見えた切ない瞳は、抱き寄せられた胸の中で何度も瞬いた。顔を埋めたまま、抱きしめる力を強くする。それがどこにも行かないように。
「だから、覚悟してろ」
 僕はかなり臆病みたいだから、そんなに簡単に信じられないかもしれない。だから本当に嫌になるぐらい言ってくれないと、誤解だって教えてあげられないよ。だって散々泣かされたから。そのくらいの報復はいいよね。

 


「給料あがんだろうな、オーナー」
 僕の目の前には、いつもと同じシャツにチノパンといういたって普段着な格好で、久我さんがコーヒーを待っている。そしてその隣のスツールに座っているのはこれみよがしに頬に湿布を張り付けた人。
「手加減なしで殴りやがって」
「うっせぇ」
「このカオ見ろよ。散々詮索されながらも、黙って花束もう一度手配したんだぞ。昇給もんだろうが」
 辞めるはずだったバイトを「その必要がなくなっただろ?」と湿布ごし頬を押さえられれば、僕に否やの言葉があるわけもなく。またこうして久しぶりに淹れるコーヒーに真剣だったのだけれど、思わず会話に引き戻される。
「あの、オーナーって」
「はぁ?」
 店長は久我さんを見てしかめっ面をしてみせた。
「なに、なんで言ってないんだよ」
「べつに」
 久我さんはひどく素っ気無い。
「職権乱用したから具合悪いってか」
「お前しまいにクビにするぞ」
「それも職権乱用。労災請求すんぞ。というわけでユーキ、こいつがここのオーナー」
「オーナー、って、え、えぇーっ?!」
「こいつ、いきなり仕事を目茶目茶に詰め込んでさ。結婚前の加奈にありえないスケジュールだっつって愚痴られて、よくよく聞いたらユーキにフラれたっつうだろ?無茶すんなよなんて他人ごとでいたら、今度はいきなりこっちまで改装計画やら新メニュー企画やら押し付けられて、俺も邑久も振り回されて。そんなときにもう一軒あるこいつの店に、よりによって笹山がユーキ連れて行っただろ」
 思い出すのは、ピアノと優しい音楽。そして小さなミントの葉っぱ。
「決定打ってヤツ?もう完全メゲちまってさ。おかげでこっちは散々。いい加減携帯がつながらなくたって手段はあるんだし、そんなにへこむぐらいなら会って話せって言ったけど、こいつはきられたんだから諦めるって頑なに言い張ってたんだよ」
 ふてくされたカオでそっぽを向いたまま、久我さんは黙ったままだ。
「そのくせ笹山が先走ってこいつの事務所に乗り込んじゃったらキレちまったらしくてさ。コレ」
 目の前に差し出されたのは、警備報告書?
「非常対応26時40分って……」
「ちょっと待て。それ」
 真夜中に不法侵入? なんて物騒なと眉をしかめた僕の手の中から、その紙切れはすぐに久我さんに奪われてしまう。
「セキュリティロックかけてんのを解除連絡もせずに勝手に店に入って、警備からオーナーだって言ってるけど本当かって身分証明確認の連絡でたたき起こされてさ。そりゃもう大変だったんだよ」
「野木、そろそろ店開けろ」
 まだまだ続きそうなそれを一瞥でねじ伏せて、久我さんはなお手で追い払う。
「へーへー」
 意外すぎるそれらは本当のことなのか、とても信じられないのだけれど。
「コーヒー、まだ?」
 珍しく急かされて、少しだけ笑ってしまう。
「そんなに早く帰りたいですか?」
「家で待ってるのがお前ならな」
 やり込められて苦い顔をしていた人とはもう別人のようだ。
「どっちにしろ実際はもう一仕事だ。残念」
 店舗デザインが本業なのだとついこの間教えてくれた人は、店長の言っていた通り仕事を詰められるだけ詰込んだおかけで多忙を極めている。それでも以前と違うのは、こうやって僕がいるときには必ず店に顔を出してくれるようになったこと。コーヒーを飲んだら事務所に戻ってしまうことが大半なのだけれどいつ会えるのか、なんてことばかり考えてた頃からすればものすごい進歩だ。そう。本当にそう思っている。
「忙しいですね」
 それなのに相槌の代わりに口にしたそれは、裏腹にどこか不服げに聞こえて、差し出したソーサーの上でコーヒーが波立つ。
「ほったらかしかよ。またフラれるんじゃねぇの、キョースケ」
「盗み聞きとは趣味がいいよな、野木」
「履歴書勝手に盗み見たヤツに言われたくありませーん」
「盗み見っ、って俺はオーナーだっつうの」
「へぇぇ、個人情報を私的に見るのっていつからOKになったのかなー。しかも夜中にわざわざ忍び込んでまで」
「忍び……だからここは俺の店だ!」
 欲張りになっていく自分。近づいた距離をもっと埋めたい。本音を見せてくれるようになった久我さんの近くにいたい。そんな気持ちに気付かれただろうか。そっと顔をあげると、目元がやわらかく緩むのが見えた。
「来週は休めそうなんだ。どこか行きたいところ、考えといて」
「え、でも」
 意外な提案にためらう。インテリアデザイナーだというチーフの結婚相手は、久我さんの巻き添えでまだ当分忙しいらしいと聞かされていた。新婚旅行も先延ばしで、彼女はかなりご機嫌が悪いって。
「なに? 先約でもある?」
「そういうわけじゃ」
「ま、あっても俺を優先してくれると嬉しいね。お前が平気でも、そろそろ俺は限界」
 そっと手を伸ばされ、意味深に唇をなぞられる。それだけで背中が震えた。
「あっ、とチクショウ」
 テーブルの上で震えるそれを、忌々しげにつかみ表示を確認するとそれでも無視することはしなかった。
「なんだよ。あ? あと三十分あんだろ?」
 随分な口のききように確信する。相手は多分加奈さんだ。
「はいはい、今行くって。切るぞ」
 音をたててフラップを閉じた人は、半分残っていたコーヒーを飲み終えた。
「お呼び出しですか」
「あぁ。居場所を押さえられてるっつうのはどうもな。逃げようがないのは困る」
 あからさまに不満げな様子で上着を手にする。
「また連絡するから。携帯、電源切るなよ」
 今はもう僕の携帯に、久我さんの名前がある。登録されていないことに気付いた久我さんが、自分の携帯からかけた着信で登録させたのだ。以前と同じように。だけど。
「じゃ、またな」
 そのとき偶然見えた久我さんの液晶画面にあったのは『一帆』の文字。まだ一度も呼ばれたことのないそれにドキリとした。あの日、ユーキと呼ばれることを否定してから、久我さんは僕の名前を呼ばない。
『一帆』
 だからそう呼ばれることを想像するだけで、ひどく照れくさくてくすぐったい。名残惜しそうに一度振り返った人を見送りながら、思わず笑顔がこぼれた。
「さて。ユーキ、そろそろ定位置で仕事しろよ」
「あ、はい」
「表に絶対出すなっつー、お達しなんでね。まったく独占欲が強いってか、嫉妬深いんだから。いいオトナが。なぁ」
 同調するように向けられたそれを濁して、言いつけどおり二階へと向かう。それさえも嬉しいだなんて、さすがにどこのバカップルかと思われる。
「呼んで欲しいような、欲しくないような」
 きっと久我さんに呼ばれたら、どんなに特別な気分がするだろう。でもだからこそ。
「ばれちゃいそうだし」
 どんなに好きなのか。きっと分かってしまうに違いないから。
「もうちょっと先、かな」
 想像するだけで心臓がバクバクいってるぐらいじゃまだまだだよね。
「楽しみだな、久我さん」
 ホントはもうちゃんと分かってる。気持ちの温度が重なってるってこと。だけどもうちょっとだけ甘やかされたいだなんて。
「つくづく僕もいっちゃってる」
 エプロンの底にある携帯が小さく震えた。相手はついさっきまで会っていた人。
『また明日。待ち遠しいのは俺だけかな?』
 もちろん僕も。そう白状されられるのは、もうそんなに遠くはない。そんな予感がする。

 

 

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