手持無沙汰な間を埋めようと無意識に探した煙草は取り上げられたままだったことを思い出し、ボックスの代わりに手にしたのはサーバーとドリッパーだった。棚の奥で埃をかぶっていたそれに、ここ最近はずっとコーヒーメーカーばかりだったことに気付かされる。突きつけられた余裕のなさの証拠をひとしきり眺めて、洗い流すように熱湯をくぐらせた。ペーパーフィルターをセットし何の気なしに三人分を量り入れたところで余計だったかと思い直したもののすでに遅く、結局そのままケトルを傾けた。小さなキッチンはすぐにいつもの薫りで満たされていく。
「コロンビアの浅煎り、か」
 けれどそれに引き出されたのはあの日から幾度珈琲を飲んでもよぎることのなかった記憶。
「最後なんだから、俺の好きなヤツにすりゃよかったかな」
 一心に丁寧に淹れる姿も、最初の一口を不安げに窺う瞳も、もう見ることはないのに。
「ま、でも。一帆向きじゃないか」
 酸味と苦み。それはまさに一帆にとっての俺だったのかもしれない。
 独りよがりだった、この想いのように。
「久我センセ」
 不意打ち、かけられた声に焦点が定まる。見れば盛り上がっていた豆の表面は完全に落ちていて、蒸らしというには長すぎる時間、ぼんやりしていたらしい。
「納得したか?」
 とりあえず慣れた工程を再び追いかけ始めながら、素知らぬふりでこいつのよく知る俺のまま余裕ぶる。
「誤解させるようなことを言った俺も悪いけど、あぁも喧嘩腰で来られると嫌味の一つや二つ言いたくなるもんだ。とりあえず上手くいったんだからそれで免除な」
 一番大事なものを手に入れて、八つ当たり紛れの挑発ぐらいどうということもないだろう。口にしない代わり、そう言い置く。
「で? 帰るか?」
 回し注ぐケトルには半分も残っていないだろうが仕方がない。無駄になった珈琲をそのまま淹れ続けながら言い継ぐ。
「とりあえず彩加さんとは今後も会うけど、仕事上のお付き合いってヤツだからな。以後妙な誤解はしないように」
「俺は、分かりましたけど」
「何だよ、その『俺は』ってのは」
 お前が理解してるなら問題ない。そういう俺の背中から、小さな物音がした。
「言い訳しとかなきゃいけない人って、他にいるんじゃないんですか?」
「は? 言い訳もなにも、俺にそういうヤツは」
 ケトルを持ったまま振り返った俺の目の前。差し出されて見えた見慣れたロゴ。
「言っときますけど俺じゃないですよ」
 ま、そうだろうな。恋敵のところに来るからって手土産下げてくるヤツがどこにいるかって話で。
「来た時にはもうドアノブにかかってました」
 しかも透けている中身はつい今しがた思い出した、件の店のパッケージ。
 引き出されかけたその端にありえない文字を見つけて、テーブルに載せたケトルが耳障りな音をたてるのも構わずその袋を奪い取る。
『K-Original』
 明示されているそれは俺だけのオリジナル。ブレンドの配合は、担当の峰岸しか知らない。このぐらいオーナーの役得があってもいいだろうと冗談半分で作った俺専用のラベル。頼んでから豆をブレンドして挽くのだから在庫なんてものもあるわけがないし、当然非売品だ。
「ここのエレベーターで、降りてきたヤツとぶつかりそうになって、その拍子にそいつが持ってた袋からドリッパーが飛び出しそうになったんです。それがちょっと不思議だったんだけど、これをそいつが持ってきたってことなら納得できそうじゃないですか」
 珈琲豆とドリッパー。確かにこいつの言う通りそう考えるのが自然だろう。ただ、発注してもいないものを峰岸が勝手に焙煎して持ってくるわけがないし、第一うちの事務所にドリッパーを持ってくるなんて無駄なことはしない。けれどそれなら誰が。
「彩加さんに逆上せてる同類かとも思ったんだけど、俺よりまだ年下に見えたし。第一彩加さん目当てなら持ってくるにしても珈琲豆じゃなく紅茶の茶葉だろうから」
 わき上がるまさか、とそれをありえないと打ち消す自分がいる。
「今にも倒れるんじゃないかってほど真っ青な表情してたよ、そいつ」
 思い当たることがあるんじゃないのか。そう問われて、けれど確かめられない。
「とりあえず、センセがどうしようと勝手だけど。一応、伝えましたよ」
 ついさっきまでガキだと侮っていたそいつは、見事一歩階段を上ったようなカオでそう笑った。

 

 

 

 

「渡したよ」
 携帯の向こう。ひどくあっさりとそう認められて力が抜けた。
「久我オリジナルで非売品って教えたんだけど、どうしてもそのブレンドの比率が知りたいって通い詰められてさ。埒が明かないんで飲んで中身を当てられたら教えてやるってことにしたんだよ」
「なんでそんなこと」
「分からないだろうと踏んで持ちかけたつもりだったんだよ、俺だって」
 強調される想定外。
「それが4種類ってヒントで3種類まで当てられてさ」
 キリマンジャロ、ブラジル、コロンビア。そう続けられて正直驚く。確かに西村や野木から熱心に勉強してると聞いてはいたけれど。
「ただ最後の一つはやっぱり迷ってたな。で、そのまま閉店コース」
 それはそうだろう。そこまで分かったならほぼ正解なのだ。最後の1種類もまたコロンビア。深煎りか、中深煎りかだけの違いしかない。
「それでも綺麗な顔して、時間制限なんて聞いてないって譲らないから」
 どうして今さらそんなことをする? 何がしたかった?
「ニアピン賞ってことで1袋サービスするぐらいの値打ちはあんじゃない?」
 比率は教えてないし問題ない。しれっとした口ぶりに聞こえよがしにため息をついた。
「うちのコーヒーマイスターは想像以上に有能だったらしいな」
「西村仕込み? まぁ確かにあいつならそう言われて否定はしないだろうけど」
 どこか含みのあるニュアンスに、問いかけるより先。
「あれは単に、好みを熟知してるってことなんじゃないの?」
 意味不明な台詞が落ちてきた。
「あ、それからさっき野木から伝言預かったぜ? 『お一人様でいる間ラルゴへは出禁』だと」
「出禁って。あそこは俺の店だぞ」
「クレームは野木につけろよ。ちなみに真中からは『同伴で顔見せに来るまで注文は受け付けない』だったな」
 あいつはいつ花屋からキャバクラへ鞍替えしたんだ。
「ついでに、カッコつけて自分を誤魔化してるだけのヤツの珈琲を焙煎してやる気、俺にもないから」
「え、おい峰岸?」
 答えも待たず一方的に切られた通話に、回らない頭のままソファに深く身を投げ出す。
「どいつもこいつも」
 押し込めたはずの想いが膨らんでいくのを紛らわせるように飲んだ珈琲はいつもと同じものと思えないほどに不味い。
『今にも倒れるんじゃないかってほど真っ青な表情してたよ、そいつ』
 引き寄せられるように思い出したのは、出会った日に飲んだあの珈琲。
「一帆」
 せめぎ合う気持ちが無意識に紡いだ名前に大きく傾ぐ。
 淹れかけで放置したせいで渋くなった珈琲がサーバーの中で煮詰まっているその隣、見える真新しい同じパッケージにどうしようもなく胸が騒いだ。

 

 

 

 

 投げかけられる幾種類もの視線を遮断し、車に寄りかかったまま出てくる人影を探し始めて小一時間。過去の記憶を頼りにあたりを付け、約束もないくせに時計を気にする振りで待ち続けているだけなんて、昔の俺なら目を覆いたくなるだろうカッコ悪さだ。それでも、これ以外に捕まえる自信はなかった。携帯も自宅もバイト先も知っているくせに。
 手持無沙汰を埋めるようにポケットを探りかけ、何もかもを誤魔化すためのアイテムはカートンごと捨てたことを思い出す。
「何やってんだか」
 案外あっさり続いていたはずの禁煙が、ただこうやっているだけで破られそうな状態だという現実に自嘲するしかない。仕方なく指先に触れた携帯のスケジュールを確認するふりで取り出したそれは、俺の手の中でまるで呼応したかのように震え出した。違和感なく溶け込むには都合のいい小道具に違いないが、今ここで仕事の話をする気はない。留守番電話サービスへと切り替わるのを待つつもりで表示されたその名前を確認したのだけれど。
「なんだ。生きてたか」
 通話ボタンを押させたそいつの尖った声が応えも待たず届く。
「あぁ。おかげさまで」
「事務所も携帯もどういうわけか全く繋がらなくてさ。一応心配してやってたんだけど」
「悪いな。仕事に追われてて」
 意図的に留守電にせず散々無視しまくった事実を当てこすられていることを分かっていて、事実だけを強調して素知らぬふりで言いのける。
「へぇ。そう。で、そのお忙しいセンセーはどうやら一生ウチは出禁ってことでいいらしいな」
「出入禁止ってお前ね。そもそもオーナー締め出す店なんて聞いたことないんだけど」
「それじゃウチがその記念すべき一店舗目になんじゃねぇの」
「あのな、野木」
「撤回しねぇからな」
 いつもの調子いい軽い男はどこにいったのか。存外に厳しいそれに息をつく。
「どうしても傷口に塩を塗りたいってか」
「久我」
「分かってるさ」
 例えそこに待っているのが別れだとしても、誤魔化し続けて後悔を引きずるよりどれだけましか。今の俺はもう十二分に身に染みている。
「だから次に一人だったら、何も聞かずにお前の奢りで飲ませろよ」
「そんときゃ店が傾くまで飲ませてやるさ」
「だからそこは俺の店だっての」
 悪友らしい軽口に思わず口元が緩んだ。目を閉じると浮かぶあの日の一帆。別れ際感じた視線に込められていたものを今度こそ受け止めよう。
「じゃ近いうちに」
 知ってか知らずかダメ押しとばかりに背中を押したヤツには責任を取ってもらうつもりだ。自棄酒に付き合うぐらいの覚悟もないまま不用意な発言をする方が悪い。
「約束、忘れんなよ」
 笑いながら言い捨て、何気なく投げた視線の先。絡め取られたように動けなくなる。やわらかな風にふわりと揺れた前髪がその瞳に影を映して、なぜだか酷く頼りなげに見える。
一帆がそこにいた。

 

 

 

 

 周囲に友人がいれば、一人だとしても正門前という目立つ場所でなら無碍な真似は出来ないだろう。そんな姑息なことを考えての待ち伏せだった。けれど。
「久しぶり」
 不意打ちだったのは一帆だろうに、動揺しているのは俺の方だ。なんとか押し出せた陳腐な挨拶に、一帆はわずかに頭を下げた。他人行儀なそれに沈む自分を宥めながら、笑顔をつくることに躍起になる。
「少しだけ、時間ないか」
 シフトが変わっていないならバイトもない。もちろんそれでもここで断られる可能性もないではなかったのだが、律儀な一帆は戸惑ったように視線を彷徨わせたものの小さく頷いた。
「それじゃ、とりあえず場所を移そう」
 助手席のドアを開けその迷いを急かすことで振り払わせようと促すようにそっと触れた華奢な背中は、けれどそれとわかるほどに震えた。そしてそれは縋るように掴んでいた小さな「もし」という仮説を簡単に霧散させてしまう。
「閉めるよ」
 拒まれた手のひらを握りしめ、扉の向こうで俯いたままの横顔に大きく息を吐き出す。
「我儘な男でごめんな」
 最後は笑顔を見られればいい。そう繰り返して俺は営業用のポーカーフェイスを張り付けた。

 

 

 

 

 本当は懇意にしている料理屋の座敷を借りるつもりでいたのだけれど、一帆はそれに首を振った。大仰だとでも思ったか、長居は嫌だという意思表示かは読み切れないが、話の内容を考えるとそれならばと適当な場所はすぐには思い当たらない。行き先に迷う俺に、一帆が口にしたのは意外な場所だった。
「片付いてないけど、そこは勘弁な」
 仕事絡みの資料はさすがにキャビネットに押し込んではいたものの、ソファの上乱れたままの毛布や底に黒いコーヒーの縁をつくったマグカップはそのまま。昨日まで寝泊まりしていた痕跡を回収しながら、入口のパーテーションの向こうから動こうとしない一帆を振り返る。
「どうかした?」
「お話、って何ですか」
 いつでも出ていける位置。表情を追えないまま届くそれに感情は見えない。このまま話し始めることを僅かに迷いながら、拒まれた背中が浮かべば弾かれた手を伸ばすことは出来なかった。
「あぁ。そうだな。ただ聞いてくれるだけでいいから、その間だけそこにいてくれるか」
 居心地悪そうな素振りを見たくなくて俯き彷徨わせた視線は、けれど見えない姿を追い求めるように元へと戻る。意識する最後に、だけど胸の内はどこか静かだった。
「最後に会ったあの日。いや違うな。もっとずっと前からか」
 嫉妬も苛立ちも、その痛みも。
「俺はどこかで、君があいつを選ぶ瞬間がくるかもしれないと思ってた。例え始まりが遊びでもいい。君の心の中に誰がいたとしても本気にさせてやる。そう言ったくせに、時間が経つほど根拠のない自信はぐらついて。曖昧な距離の中で考えれば考えるほど深みに嵌って、そのうち不安だけが強くなっていった」
 情けない俺の全てを曝け出して。
「だから、あいつと旅行代理店から出てきた君を見かけた後で卒業旅行をキャンセルされた時、俺は正直やっぱりなって納得したんだ」
 敵わない、とたじろいだあの日を思い出す。
「その一方で離れていく君を見たくなくて無理やり仕事を詰め込んだ。会わないでいれば決定的な言葉を聞かないですむ。そんな馬鹿馬鹿しい理由で全部を先延ばしにした」
 事実を確認することもせず、ただ距離を置いて目の前の事実から目を逸らそうとした。
「だけど。あの日彼女を誤解しただろう君が俺の目の前で笑った時、俺と君の温度差に愕然としたんだ。現実を突き付けられて、見ない振りが出来なくなって、ようやく踏ん切りがついた。ここで手を放そう。終わらせようってね」
「誤解、ですか」
 届くか、届かないか。掠れたように途切れたそれは問いかけとも皮肉ともつかず感情を読ませない。それでも僅かな反応に息をつく。
「大学時代の先輩で、友人で、クライアント。押し付けられた見合い相手だったのは事実だけど、お互い今も昔も恋愛感情をもったことはないよ」
 そんな人だから利用した。そしてきっと彼女も同じ。
「さすがに俺も彼女以外ならもっと違う方法を選んだだろうけど、ただあのタイミングを逃してまた中途半端なまま俺に縛り付けるのはもうやめたかった。他人を巻き込みでもしなきゃ君の手を放せない。情けないことこの上ないけど、それが君の負担にならず傷つけない最良の方法だと割り切ってしまうつもりだった」
 傷つけたくない。それは半分正解で半分嘘。
「だけど実際そんなに簡単じゃなかったよ。どんなに仕事で時間を埋めても、ふとした隙間にあの別れを思い出す。寝ても覚めても、とはこういうことかと初めて知ったよ」
 傷付きたくなかったのは俺も同じ。俺はただ怖かったのだ。たださよならと告げられることが。
「だから。今さらで身勝手な話だけど、嘘に塗れた最後をやり直させてほしい」
 ひとつ長い息を吐き出して、高ぶりそうになる気持ちを宥めるように目を閉じた。
「傍にいたくて、抱きしめたくて。優しくしてやりたいのに、時々衝動的な熱に任せたくなる。触れたいと思うたび、拒まれることに臆病になるのも。他の誰かへ向ける笑顔にどうしようもなく苛立つのも。そんな何もかもが初めてで」
 感情に振り回される自分を隠そうとばかりしてきたけれど、受け入れてしまえば何のことはない。
「好きだっていうのは、こういう気持ちなんだって君が教えてくれたんだ」
 抱えていた閉塞感は消えてしまっていた。
「ありがとう」
 一帆がくれた本物の熱は、いつかきっとただ温かな優しいそれへと変わるだろう。
「久我さん」
「なぁ。最後に一度だけ笑ってくれないか」
 そう。出来るならあの時あいつに見せたような、甘くやわらかなそれがいい。自虐的かもしれないが、一帆の一番幸せそうなそれをその瞬間だけ俺へと向けてほしかった。仮初めでいいから。
「そうだ。対価にあのブレンドの比率ってのはどう?」
 どうしてそんなものが知りたいのかは知らない。それでも峰岸の話からするとそれは十分な埋め合わせになるような気がした。
「三つまで当てたってだけでもすごいけどな、さすがに最後のひとつは」
「欲しいもの」
「え?」
「対価って言いましたよね?」
 小さな声は、けれどどこか強い意志を感じさせ俺の続きを奪う。
「欲しいもの、言ったらくれますか?」
 過ごした時間の中で初めて聞くその意外さに、感じたのは戸惑いより喜びだった。
「もちろん俺にかなえられるなら。といっても何だろうな。何がなんでも応えたいところだけど」
 主義主張のなかった一帆からのそれが何なのか。例えどんな無理難題だとしても俺の答えは決まっている。
「くれるって、約束してください」
 それでもなお言質をとろうとする一帆に俺ははっきりとイエスと答えた。
「望むがままに」
 それもまた俺の望みなのだと伝わるように想いを乗せて。
「……べつ」
 溶けるように消えた語尾の代わり、そっと踏み出された足音が近づく。
「ん?」
 不用意に驚かさないようにただ声と気配だけを追う。そんな俺のすぐ傍で、ひとつ息を吐いたのが分かった。まるで心を落ちつかせるみたいなそれに俺までつられかけ、思わず口元が緩んだ。その瞬間。
「あなたの隣に、当然のように座る権利が欲しい」
 届いたのはまるで知らない言語のように、その言葉の意味を理解するまでに時間を要した。
「他の誰でもない、あなたが好きだから」
 理解してなお思いがけないそれに、意図を確かめるように上げた視線の先。捉えた一帆に胸を掴まれた。
「あなたの特別が欲しい」
 切なげに唇を歪め、今にも泣きだしそうなその瞳は、ただ真っ直ぐに俺へと向けられている。特別な存在。それはあいつじゃなかったのか。躊躇いが、それでも俺の手を迷わせる。
「一帆って、呼んで」
 そんな俺に、堪えきれないとばかりに長い睫毛が震えるように揺れて、抱えていたはずの何もかもが吹き飛ぶ。あるのはただ目の前にあるたった一人。
「くれるん、でしょう?」
 反射的に引き寄せ抱きしめた温もりに、背中に感じる縋るような両手に、ただ現実を探り確かめる。
「返事」
 無防備にその身を預けたまま、小さな声が腕の中でむずかるようになお言葉を求める。嘘じゃないと、全部がそう告げていた。だから。
「久我さ……」
 もうずっとそれは一帆だけのものなのだったのだと教えるように、俺は問いかけるその唇を塞いだ。
 過ぎるほどの熱で、特別なシルシをつけるように。何度も、何度も。

 

 

 


 シーツからのぞく肩口。刻みこんだ俺の痕跡を唇ではなく指先で辿る。溺れるように抱きあってなおまだ足りない。寝入っている一帆を前に今日は一日ここから出さずに過ごそうか、なんて不埒なことを考えていた人生でこの上ない幸せな時間。その途中を邪魔したのは、見合いを反故にしたことを今さら知ったらしい祖父だった。無視してもよかったのだが、自宅まで押しかけられるわけにはいかないと早々にケリをつけた。『相手がいる』とはっきり宣言した俺に、今度は喜色満面に問い質されたがもちろん完全黙秘。
「あぁ、全く。貴重な時間を無駄にしたっつうの」
 大騒ぎする祖父の声を背中に本家を出てきたのだが、当分の間は騒がしいに違いない。後悔はしていないが面倒なのは事実。実家に近寄るのはやめておくにしても、それで終わるわけがないことは過去が証明している。
「面倒だな」
 大体そんなつまらないことに関わっている時間なんて俺にはない。気が付けば思い出す。
 拉致るように連れ帰った俺の部屋のベッドで眠っているだろう温もり。俺の、特別。
「しばらく煩そうだし。旅行にでもいくか」
 行けなかった旅行にもう一度誘ってみようか。恋人の権利を行使して、ちょっとだけ強引に。
 脱出計画と拉致延長を素早く企てると、俺はその片棒を悪友に担がせるべく携帯を鳴らす。
「あぁ、野木か。ちょっと頼みがあんだけど」

 

 

 一帆。治まることのない熱を、君に教えよう。 

 

 

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