「美味い珈琲、煎れてやれよ。結城」
 突然切り替わる、まるでエンドロールのように。
 ひどく他人行儀なイントネーションが「さよなら」と告げていた。
 大きな塊を飲み込んだみたいに塞がった喉は、引き留めるための名前さえ呼べなくて。
 それでも縋るように追いかけた視線さえ拒むように、向けられた背中はただの一度も振り返らなかった。
 僕の未練を振り払うように。

 

 

 

 

 本当はもうずっと感じていた。
 突然のキャンセル、それを埋めるはずの電話に増える沈黙。
 少しずつ、少しずつ、離れていく距離。
 だけど。
「は?」
 置かれたグラスの中で跳ねたアルコールがコースターの縁に水滴の欠片を作る。
「マジで?」
 零れ落ちた純然とした驚きに頷いた瞬間。少しは落ち着いたと思っていたはずの自分はどこにいったのか、急に手元のカップが滲んだ。慌てて誤魔化すように引き寄せたものの、西村さんに手ずからいれてもらったそれは香りも味も曖昧なまま通り過ぎてしまう。
「僕じゃ、駄目だったみたいです」
「まさか」
 無様に波打ちそうになる声を押し隠し告げた事実に、返ってきたのは疑わしげに響いたそれだった。
「いや。悪い。別にユーキの言ってることが嘘だと思ってるわけじゃないぜ」
 思わず唇を噛んだ僕にそう言いながらどこか釈然としなさそうに渋面を作って、その人はやっぱり信じられないと呟いた。
「あいつがユーキをどれだけ大事にしてたか知ってるこっちとしてはありえない話だってこと。だろ?」
 問いかけられて、だけど答えられない。
 だって結局それは過去でしかない。
「大体ついこの間だぞ? ユーキに家族旅行を優先されたってかなり萎れてたの」
 考え込むように唸る野木さんを前にしながら、その過剰表現ぶりに思わず哂いだしたくなった。萎れていた。本当にそうだったなら、そう感じとれるものが一つでもあれば、僕はまだ自分に自信をもてたかもしれない。だけど。
 あの人と僕では違っていたのだ。きっと、その温度が。
 家族旅行の話が出た時、五月の連休にと言われた途端考えるまでもなく僕の中で優先されたのは久我さんだった。けれど、来年の春に理恵姉さんの結婚が本決まりになって少しばかり感傷的になったらしい父さんを拒むにはどんな画策も結局うまく運ばないまま『温泉でゆっくり』というリクエストを長期出張直前に言い置かれてしまえば、成人したとはいえまだまだ扶養家族でしかない自分にはどうしようもない。腹立ち紛れにショッピングモール内で目についたパンフレットを片っ端から抜き取って、遅れて父さんに同行する笹山さんに押し付けたのだけれど。
「一帆君。時間があれば今からもう一度行って貰っていいですか」
 渡したんだからそれで終わり。そう思っていたところに呼び止められ、僕は振り返るなりまじまじとその手に分厚い封筒を持つ笹山さんを見た。
「あの、それじゃ足りませんか?」
 まさかだろう。それともどこか具体的な場所でも出ているのだろうか。どちらにしてもこれ以上この件で時間をとられるつもりはないのだと投げやりな気分で口にしたのだが。
「足りないと思いますよ」
「え?」
 あっさり肯定すると、渡したはずのそれをなぜだか楽しげに差し出された。
 そして。
 その数十分後に僕がいたのは行き先や目的にカテゴライズされた色鮮やかなそれらの前。紙面に踊るキャッチコピーを追いかけていた。
「ファミリー向け、温泉、でと」
 確かに半ば自棄気味に引き抜いたパンフの中身を確認することはなかった。久我さんと過ごすはずの旅行しか頭になかったせいで、家族旅行で温泉と言われても正直どこでもよくて。ただ適当に詰め込んだのは否定しない。それでも。
「恥ずかしすぎる」
 僕の目の前を通り過ぎる仲良さげなカップルの手にあるものに、知らず赤面した僕の後。
「いいですねぇ。羨ましい」
 耳に届いたのは笹山さんのからかうような声音だった。
『恋するお泊りデート』『大切な人と大切な時間を』そんな煽り文句のそれと同じものが僕の机の中にもあることを知っている人相手に体温が上がるのを隠しきれない。まして自己都合のキャンセルだということを棚に上げ、別の日を提案してくれないかなんて諦めの悪さが透けて見えたような気恥ずかしさの中、笹山さんだって状況が同じなら一緒だろうと随分薄くなった封筒を押し付けて開き直ってみせるのがせいぜいだった。
 けれど。
『そっか。仕方ないな』
 拍子抜けするほどにあっさりと久我さんはただそう笑った。
 仕方ないって、たったそれだけで。のぼらない次の約束に現実を認めてしまえば、小さな願いを口にすることも、まして久我さんの表情さえ見られなくなった。
 冷めた眼差しをそこに見つけるのが怖くて。
 忍ばせていた鞄の中のパンフレットはそのままゴミ箱へ捨ててしまった。
「否定は却下。前にも言ったろ? 寝ちまえばそれでサヨナラ、面倒はゴメンって最低な男が自分から追いかけた相手だぞ」
 抱きしめられた温もりは、確かにあの時までは僕のもののはずだった。それは多分間違いじゃない。それでも。
「あいつのことだからユーキの前では相当無理してカッコつけてんだろうさ」
 それが今も同じ温度のままだなんて自信はどこにもない。
「あのバカ、一体なに考えてんだか」
「お前もな。まだ閉店時間前だってのに何やってんの」
 舌打ちした野木さんがカウンターへと差し出したグラスはするりと横から伸びてきた手で取り上げられた。その底で氷が溶ける音が響く。
「西村。エスプレッソ、こいつのと二人分ね」
「あ、おい」
 するりとスツールにその身を預けた人は一瞥でその先を奪ってしまうと、その視線を僕へと投げかけた。
「ま、よくもった方じゃないの」
「泉」
「所詮はただの気まぐれだったんだろ。元々あいつにマジな恋愛なんてできっこないって思ってたよ」
 一度ここで居合わせた時に紹介された、野木さんと同じ、久我さんとは学生の頃からの付き合いだという真中さんはそう眉根を寄せる。
「信じられない相手となんて、どうせいつかは破綻する。別れるなら早い方がいいさ」
「ちょっと待て。そうやってユーキを煽るなって。久我の本音もわかんねぇってのに」
「本音? そんなものが本当にあるのか?」
 甘く柔らかな印象を裏切る怜悧な眼差しで言い放ち、カウンターへ突っ伏す野木さんを尻目に素知らぬ顔のまま。
「人間、そんな簡単に変わらないものだ」
 目の前に置かれた小さなカップからのぼる湯気が、呆れた様な吐息に揺れる。
「友達にはいいけど、恋人には向かない男」
 振り回される方はたまらないよな。そう笑って。
「あいつは、きっと何かが欠けてる」
 そう切り捨てた。
「昔からそうだった。何でも持ってる分、大事な何かが足りない」 
「そんなことありません!」
 僕よりもきっと間違いなく久我さんのことを知っているのだろう。そうと知っていてなお、たまらず遮っていた。まとまらない感情を必死でかき集める。
「久我さんの過去は、褒められたものじゃないかもしれないけど。でもそれは足りないんじゃなくて」
 欠けてる、なんて聞きたくなくて、どこか疑わしげに向けられた視線に言い募る。
「多分、人との付き合い方が、ある意味用心深い人なんだと僕は思います」
「あいつが?」
「人の気持ちを先読みしてしまうみたいなところがあるから」
 そう。久我さんが着替えるように彼女を取り換えたというなら、その彼女達もまた久我さんのことをどこかで自分のステイタスを上げるアクセサリーのように思っていたのかもしれない。大事なものは条件や外見。そんな現実を冷ややかに眺めていたのかもしれない。だって、意外に久我さんは。
「そうしなきゃいられなかったってこともあるんじゃないでしょうか」
 不意に思い出した。『俺にしとかない?』なんて久我さんの告白を。
「真っ直ぐに向き合えば、きちんと見てくれる人だか、ら」
 大人で遊びなれたクールな印象は外見から与えられるものでしかないのだと知った一年半前。傲慢さなんてそのどこにもなかった。本当はもっと、ずっと。ずっと?
「へぇ」
 僅かな迷いを見透かしたような楽しげな口調は、僕の声を奪う。
「お前相手には?」
 からかうような響きに、突き付けられた現状を揶揄され俯く。けれど。
「なんだ、ちゃんと分かってるんじゃないか」
 思わぬ同調に、消されていた表情はあっさりとその色を変えていた。
「あいつの恋愛遍歴なんてのは、オトナの付き合いなんて洒落たもんじゃない。ただのシミュレーションゲームだ。予定調和なシナリオに合わせて動いてただけだからな。どうせ考えすぎて一人でバカみたいに空回りしてるに違いないさ」
 手加減なく繰り出される言葉はどこか温かくて、故意に煽られたことを教える。
「案外、色恋ざたなんてのは自分自身が複雑にしてるものなんだよ。他人からは簡単に見えるものを、己で目を塞いでるだけで」
 受け入れるだけでいっぱいいっぱいだった。そんな僕の胸の奥を。
「今のあいつがそうなんじゃないのか。何考えてるのか口を割らないけど、お前はその目を開けてやれるんだろう?」
 それが欠けてたものを埋めたお前の責任だと揺さぶる。
 そして目の前に置かれたのは陶器のコーヒーカップ。
「なぁ、ユーキ。あいつもさ、ただの男だよ。お前には絶対そう思われたくないんだろうけどな」
 久我さんがオープン時に持ち込んだというそれから香るのは、けれどいつものものではない。中身を満たすのはカフェオレ。その意図に、知らず噛んでいた唇が解ける。
 こんなふうにあの人の気持ちを一杯にすることがまだ僕に出来るのだろうか。
 まだ、届くのだろうか。

 

 

 

 

 終わりを告げられた相手に、どんな言葉なら伝わるのか。
 考えるほど怖気づき、生まれる躊躇いは後ろ向きにさせて迷わせる。
 それでも最後の最後で踏みとどまったのは、どちらにしてもこのままならずっと一歩も進めないだろうという動かしがたい現実で。
 そんな自分自身の背中を押す為に選んだのは、久我さんと僕を結んだあの香り。
「どうしてもそれじゃなきゃ駄目なんです」
 ラルゴでブレンドしか飲まないのは、自分好みにしてあるからだと聞いたことがあった。でもさすがに全てをというわけにはいかなかったとも。そんな久我さんが珈琲豆を買うのは僕が知っている限りここだけ。あの日、突き放されたこの場所だけだった。
「教えていただけませんか?」
 初めて出会った時のように、久我さんのお気に入りの珈琲を淹れたい。それだけで苦い思い出に蓋をして足を向けたものの、K-Originalというラベルはだてではなかった。久我さん専用ラベルで非売品であることはもちろんブレンドしている豆もその配合もたった一人しか知らない徹底ぶりに、美味しく淹れるどころか買うことも、飲むことさえできないままなおこうして通い続けている。
「意外に諦め悪いね。君も」
 滅多に接客に出てこない人だが、メニュー順で頼んできたそれが二周目を過ぎたことを知っているらしい。呆れたような視線を投げられるけれど、僕もまたそれ以上の懇願はやめて昨日を追うようにトラジャの下にあるマンデリンをオーダーする。
「かしこまりました」
 お決まりのそれはおざなりで接客業の店員としてはどうだろうというものだったけれど、それもまた仕方のないことだろう。ルールを無視している自覚も十分にあるし、その返答こそが正しい。
 そんな無理を承知の上での願いは、野田さんや西村さんの口添えがあれば聞き入れられるのかもしれないけれど、それじゃ意味がない。何の根拠もなくそう思った。
 もう一度久我さんを真っ直ぐ見る為に。
「お待たせしました」
 どのぐらいぼんやりしていたのだろう。ふわりと香った薫りに意識が引き戻される。
 ブラックがよく映えるシンプルな白いカップの内側に縁取りされた鮮やかな青。すっかり見慣れたそれを手にしても、その人は伝票を持ったまま動かない。
「どうぞ」
 窺うように視線を上げても返ってきたのは気にするなと言わんばかりにそらぞらしい笑顔。それで気まずさが和らぐでもなく会話が続くわけもない。問い質すことを諦め、そのままカップを口に運んですぐ。
「あ、れ」
 知らず零れた違和感に手が止まる。
「何か?」
「あ、いえ。あの」
 勘違いだろうか。迷ったのは僅か。
「オーダーしたの、マンデリンでしたよね?」
 おずおずと切り出す。酸味は控えめで独特の苦みが強い、ちょっと個性的なそれは実はあまり得意ではない。けれど、このすっきりした酸味は覚えたと思っていたはずのものとは違っている。もちろん焙煎によって味が変わったりもするけど、これはそういう類のものではないような気がした。
「ですね」
「でも、これって多分」
「多分?」
 何でもない事のように聞き返されてそれが故意なのだと知るものの、どういうことなのか説明をされるわけでもなくその先を促され、答えられないと思われるのも癪に障ると必死で考えを巡らせて不意に思った。久我さんが好きな感じに似てるなと。
「キリマンジャロ、かな。多分、何かとブレンドされてると思いますけど」
「へぇ。なるほどね」
 途端にくだけた口調。
「たんに向う見ずってわけでもないんだな」
 微妙なイントネーションに引っかかる。一体何が言いたいのか。
「ま、そのぐらいは分かってもらわないと」
 手にしていたはずの伝票はいつもの場所に差し込まれず、カフェエプロンのポケットの中に落とされた。
「K-Original」
 素っ気ない声音で、けれど聞こえたそれに耳を疑う。
「え、あの」
「ブレンドしてるのは4種類。全て当てたら比率を教えてやる」
「4種類」
「言っとくけど、これが最初で最後だからな。分からなかったら諦めろ」
 これが最大の譲歩だと言い置いて、その人は俺に背中を向けた。

 

 

 

 

 西村さんなら嬉々として4種類全部を当ててしまうのだろうけれど、キリマンジャロひとつですでに出し尽くした感のある僕にとってその条件はかなり厳しいものだった。それでも。
「そろそろ閉店時間なんだけどね」
 ひとつ答えるごとに注がれた3杯目。けれどそれはまだカップに半分を残している。
「キリマンジャロ、ブラジル、コロンビア。あと一つは?」
 僕の引き出しの中にある知識だけでは歯が立たないことは今さらで、それならと思いついたのが数えきれないほどに飲んだラルゴのブレンドだった。どちらも久我さんの好みが基準になっているというのだから似ているところを照らし合わせるというのもありだろう。ちょっと反則なやり方かもしれないけれど事実そうやって3種類までなんとか辿り着いた。
「時間制限があるなんて、言われてないです」
 そんなふうだからある意味当然な結果というべきだろう。あと一つがどうしても分からない。思いつく端から違うような気がしてまとまらないくせに、降参したくないというだけで強がってみせてもそんなことが通用する相手でないことも承知していた。
「あとどれだけあったら答えられるって?」
 元々答えられないと踏んでの質問だったんだろう。状況を完全に見抜かれて、返す言葉があるはずもない。
「約束だ。教えてやるわけにはいかない」
 はっきりと言い渡されてしまえば自分にどうすることも出来はしないのだ。
「分かりました。今まで無理なお願いをしてすみません」
 珈琲そのものより出会った頃の空気を引き寄せる道具みたいに欲しがったせいかもしれない。もうきっと飲めないだろう冷めた珈琲を飲み干すと今の自分の中を映し出すように苦く舌に残った。
「ごちそうさまでした。あの、伝票」
 自己都合ばかりの子供じみた我儘から逃げ出すように立ち上がりかけた僕の頭上。軽い衝撃で何かがぶつかった。
「教えてやるにはいかないけど、ま、こんぐらいの価値はあるんじゃねぇの」
 差し出された袋に透けて見えるのはこの店のパッケージ。そして見えたラベルにその人を見る。
「持ってけ」
「え、でも」 
「正直焙煎しちまったから返品されても困るんだ。我儘なヤツのせいで売りもんにはできないし」
 口実なのは丸わかりで、それでも手のひらに乗せられた重みを抱きしめる。密封されているそこからはけして漏れることのないはずの香りを感じて、込み上げる感情を押さえつける様に唇を噛んだ。
「あぁ、それから。こっちのオーダーミスの珈琲代を払ってもらう謂れはないんで」
 握り潰された伝票は僕の手に渡されることはなかった。
「それでも気になるってなら次は美味いカフェラテ淹れてやるから売上貢献しに来いよ」
 無愛想に、けれどどこか楽しげにその人は目元を和らげた。

 

 

 

 

「ここ、なんだ」
 駅から歩いて十分ほどだったろうか。携帯に入力して確認した久我さんの個人事務所は、一度も大通りから外れることなく真っ直ぐで迷いようがなかった。ただ、夕焼けに染まるそこは高速エレベータこそ必要ではないだろうけれど、見上げるとちょっと首が痛くなるオフィスビルで、からかう時限定で野木さんが口にする「先生」という呼称が違和感なく思える。
「いる、かな」
 目指すフロアは五階。学生には少々敷居が高いテリトリーの中で、あえてエレベータではなく階段へ向かう。顔を見てしまえば頭の回らなくなるだろう自分を少しでも落ち着かせるように選んだはずだったのだけれど、実際目的のフロアに足を踏み入れた時にはさらに気持ちは乱れているような気がして。そっと息をついたその瞬間すぐ近くでドアが開く気配がした。
「それでは照明の方は確認して明日にでもご連絡させていただきます」
「よろしくお願いいたします」
 思わず身を隠した僕を簡単に震わせた声は、けれどすぐにエレベータホールへと近付く訪問者だったらしい人のそれへと切り替わるように聞こえなくなって、全身をそばだてていた自分を知る。
「戻ったら即、門倉さんに電話いれてくれ。多分あそこなら久我さんの言う照明器具が手配できるはずだ」
「分かりました。しかし久我さんも相変わらず妥協なしですけど、今回のクライアントの彼女もさらに細かいですねぇ。あんなに美人なのに突っ込み鋭いし」
「オーナーなら当然だろう」
「え、でもすぐに共同経営者に譲るんじゃないんですか? 彼女でしょう? 久我さんの婚約者って」
「さあな。どちらにしても仕事には関係ない」
「ま、あんなにお似合いだとそれ以上の詮索もいまさらってカンジですけど」
 まるで僕の気持ちを試されているかのようなタイミング。知らず抱き込んでいた袋が音を立てた。漏れ聞こえてきたあの日の会話の後押しをするかのような噂話は、手の中の重みがなければ逃げ出していたかもしれない。だけど。
「美味しい珈琲が淹れられますように」
 袋越しに薄く見えるパッケージをそっと撫で、僕は顔を上げた。
今度こそすべてを自分で確かめる。強い決意ひとつ。ただそれだけで。

 

 

 

 

 そこに待つものがどんなものでもいい。事実を知りたい。
 本当に、そう思っていた。
 だからきっと、それは叶ったのだ。 
『そういうとこ、好きですよ』
 向けられる言葉に混ざる熱が、その笑みが、僕の決意を哂う。
『してみる? 結婚』
 涼やかな声が滑るように軽やかに、大事な人を攫っていく。
 覚悟に潜んでいた甘い期待を打ち砕く残酷さで。

 

 

 

 

 週末のラルゴはいつもと変わらず混んでいて、会話を邪魔しない程度のBGMも少しばかり音量が上げられている。それに合わせるように大きくなるのか、さざめくような話し声に時折混じる笑い声もまた同じようにフロアに響いていた。楽しげでどこか弾んだ空気は馴染んだもののはずなのにひどく遠い。こんなにたくさんの人の中にいるのに一人でいる、そんな錯覚に慣れるまでどのぐらい必要だろう。
 似たような後ろ姿に、声。不意に流れる音楽や珈琲の香り。出会った頃によく見た煙草の銘柄。何気なく飛び込む小さなものが久我さんへと繋がって、幾たびも僕は試される。
「ユーキ、もう上がりの時間過ぎてるだろう? もういいぞ」
「あ、はい」
 不意にかけられたチーフの声で引き戻され見た手の中のグラスはすっかり磨きこまれていた。
 何も考えたくなくてバイトのシフトを詰め込んでいるのに、不意にエアポケットに飲み込まれるみたいに深いところに落ちている。そのせいでこんなふうに同じグラスをいつまでも磨いていたり、グラスや食器を間違えるなんてバイトを始めた頃のような小さなミスを重ねていて。
「すみません。それじゃお先に失礼します」
 裏方だから人の目に触れることは少ないとはいえ募るのはただ自己嫌悪ばかり。
「お疲れさん」
 労わるような声音は変わらないのに、どこかで過剰に反応して僅かに身体が強張った。注意力散漫さを注意や叱責されても当然だと受け入れられても、痛ましげな眼差しを向けられてしまうのは堪らなくてことさら元気に笑顔をつくる。僕は大丈夫。そうあの日から何度も言い聞かせた言葉を心の中で繰り返し、いつもの自分なのだと必死でアピールしてみせる。それでも。
「もう、夏なんだなあ」
 纏わりつくような生温かな空気の重さに吐き出したため息はますます重くなったような気がした。
 確実に過ぎていく季節のように、この頼りなげな気持ちはいつかゆっくりと穏やかに凪いでいくだろうか。乱れそうな感情を逃がすように、僕は抜けるような青空を恨めし気に見上げた。

 

 

 

 

「結城、今日飲み会だぞ」
 校舎を出てすぐ。かけられた声に振り返ると一階の教室の窓から身を乗り出すようにしている友人の後ろで『焼肉、焼肉』と騒いでいる声が聞こえてくる。
「ごめん。先約あり」
「なんだよ、彼女か?」
「残念ながら姉貴だよ」
「じゃあ、次は絶対な」
 促された次回の約束を曖昧に誤魔化しながら、そっと息をついた。誘われるままにいれていた予定のせいで随分と声をかけられるようになったのだけれど、そんなスケジュールのように空虚さを埋めることはできないまま、どこにいても誰といてもただ一人の人に囚われている自分を思い知らされただけで。それならしばらくはそんな自分とゆっくり向き合えばいいと思えるようになったのは小さくとも大きな一歩だ。
「さてと」
 姉と食事の約束をしているのは本当だけれど、約束までにはまだかなり時間がある。こんな時、以前ならリサーチしておいたカフェへと足を向けただろうけれど、珈琲の香りはリハビリ中の僕にはまだ少し苦くて。かといって友人達とよく行くファミレスで、様々な匂いの中価格が売りのドリンクバーでティーバッグの紅茶を飲む気分でもない。
「映画1本分、には足りないか」
 何をするにも中途半端な時間。思いついた場所といえば二駅向こうに出来たという大型の本屋ぐらいだというあたりが現役大学生としてはいいのか悪いのか。それでもとりあえず浮かんだ行き場に安堵しながら、俯きそうになる気持ちを切り替えるように歩くスピードを上げた、その時。
「うわっ、イケメン」
「ホントだ」
 構内の雑多なざわめきは特別ではないけれど、正門に近付くにつれ囁くような声に混ざる密やかな歓声はどこか違っていた。見るともなく視線をやれば、いつもなら話に夢中で周囲に頓着しない女の子達が様子を窺うように歩調を緩めているのが分かる。
「誰かの彼氏かなぁ」
 羨望の眼差しを浴びせながらも近寄りがたいのか、声をかけるでもなく通り過ぎざまにただ見つめる幾つもの視線に曝されて居心地も悪いだろうに、そんなものに構わず待っている人がいる誰かが少しだけ羨ましい。
 僅かに開きかけた想いの引き出しに慌てて蓋をして、足早に彼女達を追い越すために探した隙間。映った人に縫いとめられたように僕は動けなくなった。
 大人で、誰より恰好よくて、何をしても様になる。精悍な顔立ちに見える自信と落ち着きは、その人の魅力が容姿だけではないことを知らしめる。いるだけで惹きつけられる人は、別れてなお変わらない。何の遜色もない人のまま、携帯越し誰かに笑った。
「あの人、かな」
 どうして、でもなぜでもなく零れ落ちた呟き。分かりきった現実に、空っぽだった胸の奥がきりきりと痛む。けれど。
「よかった」
 軋む心を無視して絞り出す。だって不幸になってほしいわけじゃない。
 だから、真っ直ぐに見つめた。一人できちんと立っていられるのだと言う代わり崩れそうな自分を奮い立たせて、背中を向けるのではなく僕を見つけるその瞬間を待つ。
 まだこんなにも好きだ。そう思い知らされながら。

 

 

 

 

「久しぶり」
 立ち位置の変わった二人を繋ぐ当たり障りのない他愛のないそれが、今の自分たちには相応しい。分かっているのに、線引きされた途端にぐらついた。そんな自分を隠すように頭を下げることで視線から逃れながら、今すぐここから駆け出してしまいたい衝動に駆られる。
 それなのに。
「少しだけ、時間ないか」
 待っていたのは僕だったのだと知らされて、居たたまれなくてたてかけた逃げ出す算段が霧散してしまった。必死で忘れようとしている鼻先でのこの台詞に、狼狽える自分を誤魔化すように奥歯を噛みしめる。何気ないふりをどのぐらい続けていられるのか分からない。どんな話なのか見当もつかないけれど、それが改めての別れや謝罪ならさらに傷は広がり苦しさは増すだろう。それでも躊躇いを押しのけ頷いてしまったのはどうしてだったのか。自分で自分が分からない。そして何よりどこか安堵したように見える人のことはもっと分からない。
「それじゃ、とりあえず場所を移そう」
 促されてようやく、あんなにも感じていたはずの視線を思い出す。視線はさらに強く、そしてどこか訝るものに変わっていた。
 たくさんの好奇心の矢から逃れたくていったんは受け入れたマセラティの助手席。けれどそこに彼女の痕跡を探してしまいそうになって僅かに躊躇した瞬間、不意に触れられた背中が乱れる胸の中に呼応するように震えた。もちろんそれは一瞬で、ただ促されただけの手に過剰に反応してしまった自分に苦笑いする。まだこんなに求めているだなんて知られたくはなくて、髪をかきあげるふりで視線を遮るとそのまま俯いた。足元のスニーカー以外、もう何も見ないでいられるように。

 

 

 

 

 少しだけ。そう言ったはずの人は、僕でも知っている料亭の名前を口にした。時間外だろうと目的外だろうと都合してもらえるらしいことに感心するより、今さら立場の違いに追い打ちをかけられるようでどうしても頷けなかった。
「そっか。じゃあどうするかな」
 ただ首を振って拒む僕に、軽やかにハンドルを切りながら鷹揚に構えている人の声はどこまでもやわらかく優しい。いっそ車の中で話し終えてくれないだろうか。そう思う一方で、この狭い空間では息苦しさに耐えられそうもないとも思う。
「事務所」
「ん?」
 喉につかえたように掠れた言葉は、車内で静かに響く女性シンガーの高温に消されて届かなかったらしい。もう一度、と促されて唇を僅かに湿らせる。
「事務所は、駄目ですか?」
 深く考えたわけではない。口を突いて出たというのが本当のところだったのだけれど、思えばそれは最も相応しい場所のような気がした。あの日、結局足を踏み入れることが叶わなかったそこが一番。
「事務所って、俺の?」
 ちょっと意外そうな声に言葉ではなく頷く。なぜと問われても返答に困るからそれきりまた黙り込んだ。
「わかった。じゃ、ちょっと戻るよ」
 どこまでも穏やかな声は、そのどこにも熱をはらんでいない。感情の起伏のなさが今の久我さんの心情を表している気がして、僕はそっと目を閉じた。これ以上、何も聞きたくなくて。

 

 

 

 

「片付いてないけど、そこは勘弁な」
 パーテーションの向こう、手早く片付ける気配がする。けれど僕は、僕の為に開かれたはずのドアを一歩踏み越えたきり、前に進めないでいた。すぐそこにいたあの日の二人が透けて見えるようで。
「どうかした?」
 訝るようにかけられたそれに、だから僕は応えないまま問いかけた。
「お話、って何ですか」
 みっともないことだけはしない。それだけを心の中で繰り返すことで自分を保ち続けようとしていた。
「あぁ。そうだな。ただ聞いてくれるだけでいいから、その間だけそこにいてくれるか」
 頑なに動かない僕をその人がそれ以上無理強いすることはなかった。同じ場所にいるのに手の届かない距離で、僕はただ特別という肩書を外される瞬間をただ待つしかない。
「最後に会ったあの日。いや違うな。もっとずっと前からか」
 ふっと、零れたのは溜息か、笑みか。見えない分だけ過敏になる。それでも全部を曝け出してくれるなら、きっと前に進めるはずだ。そう信じてなんとかこうして立っているのに。
「俺はどこかで、君があいつを選ぶ瞬間がくるかもしれないと思ってた」
 変わらない落ち着いた声の中に自嘲めいた響きを感じながら、聞こえたそれを理解することが出来なかった。問い返したいのに困惑が僕から言葉を取り上げてしまったように声にならない。
「例え始まりが遊びでもいい。君の心の中に誰がいたとしても本気にさせてやる。そう言ったくせに、時間が経つほど根拠のない自信はぐらついて」
 静かな声で淡々と、ぐらつくだなんて言われても。
「曖昧な距離の中で考えれば考えるほど深みに嵌って、そのうち不安だけが強くなっていった」
 何もかも想像もつかない。実感も伴わない。現実味のなさに取り込まれそうになったとき。
「だから、あいつと旅行代理店から出てきた君を見かけた後で卒業旅行をキャンセルされた時、俺は正直やっぱりなって納得したんだ」
 思いがけない告白が、現在もまだ過去の嘘に引きずられたままだったことを教えた。
 遊びでもいい。そう、確かに始まりはあまりに子供すぎて自分の気持ちさえ読み間違えた安易な台詞。初めての恋に狼狽えるあまりについた僕の嘘。そしてこの人がさらに深読みして生まれた勘違い。
 二人で積み上げた時間が払拭したと思っていたものに足元を掬われていたことに今さら気付かされる。
「その一方で離れていく君を見たくなくて無理やり仕事を詰め込んだ。会わないでいれば決定的な言葉を聞かないですむ。そんな馬鹿馬鹿しい理由で全部を先延ばしにした」
 この人は僕がまだ笹山さんを好きだと勘違いしたままだった。
 僕がこの人しか見ていないことなど他の人から見たら丸わかりだったというのに、この人だけが知らなかった。そんなことがあるのだろうか。
「だけど。あの日彼女を誤解しただろう君が俺の目の前で笑った時、俺と君との温度差に愕然としたんだ。現実を突き付けられて、見ない振りが出来なくなって、ようやく踏ん切りがついた。ここで手を放そう。終わらせようってね」
 掛け違ったボタン一つで、こうまでこじれてしまうなんて。
 不意に、真中さんの言葉がよぎった。
『案外、色恋ざたなんてのは自分自身が複雑にしてるものなんだよ。他人からは簡単に見えるものを、己で目を塞いでる』
 本当に、そうなのかもしれない。だけど。
「誤解、ですか」
 僕の目に焼き付いて離れない、彼女の背中に回されていた手。一対のような二人が僕を躊躇わせる。
「大学時代の先輩で、友人で、クライアント。押し付けられた見合い相手だったのは事実だけど、お互い今も昔も恋愛感情をもったことはないよ」
 真摯に響いたそこに嘘は見つけられなかった。それでも、二度のさよならにつけられた傷は猜疑心を簡単に打ち払ってはくれない。
「さすがに俺も彼女以外ならもっと違う方法を選んだだろうけど、ただあのタイミングを逃してまた中途半端なまま俺に縛り付けるのはもうやめたかった。他人を巻き込みでもしなきゃ君の手を放せない。情けないことこの上ないけど、それが君の負担にならず傷つけない最良の方法だと割り切ってしまうつもりだった」
 本当に、本当だろうか。信じて、もしもう一度振り払われたら、僕は今度こそ立っていられない。
「だけど実際そんなに簡単じゃなかったよ。どんなに仕事で時間を埋めても、ふとした隙間にあの別れを思い出す。寝ても覚めても、とはこういうことかと初めて知ったよ」
 それは僕の台詞だ。何をしても、誰といても、この人でなければ埋められない場所がある。
 どんな言葉でなら伝えられるのか。感情に連れ去られて冷静になれない頭で考えようとする。それなのに。
「だから。今さらで身勝手な話だけど、嘘に塗れた最後をやり直させてほしい」
 最後をやり直す。目の前で、この人はそう言った。
「傍にいたくて、抱きしめたくて。優しくしてやりたいのに、時々衝動的な熱に任せたくなる。触れたいと思うたび、拒まれることに臆病になるのも。他の誰かへ向ける笑顔にどうしようもなく苛立つのも。そんな何もかもが初めてで」
 並べられるのは終わりへ向かうための真実。
「好きだっていうのは、こういう気持ちなんだって君が教えてくれたんだ」
 てらいのない真っ直ぐな想いで、このうえなく優しいさよならを告げようとする。だから僕は焦がれるようにその人の姿を追いかけた。
 何かを堪えるように伏せた瞼。握り込まれた指先もまた同じ。冷めているだなんてどうして思えたのか。覗き込めばこんなにもひたむきに包んでくれていたのに。
 僕が想うほど想われていないだなんて傲慢さで、僕はずっとこの人を傷つけていたのかもしれない。ずっとこの人の本気をどこかで疑ったまま、自分の気持ちを曝すこともなく。
「ありがとう」
 真っ直ぐな言葉が胸の奥に沁みこみ、ゆっくりと僕を満たす。何より一方的なさよならではないそれに、迷いが消えた。
「久我さん」
「なぁ。最後に一度だけ笑ってくれないか」
 僕のことをまるで僕以上に知っていると思い込んでいる久我さんのそれが最後の望みだということに、僕は泣き出しそうになる。
 どう言えばいい? どうすれば伝わる? 好きだと言葉を重ねても、上滑りしそうで怖い。
「そうだ。対価にあのブレンドの比率ってのはどう?」
 対価。そんなものがなくたって、あなたの望みなら何でも叶えてしまうだろう僕に、それはなんて寂しい言葉なんだろう。だけど言わせたのも僕なのだ。そんな久我さんだから、 あの日ここに置き去りにしたブレンドを手に入れた経緯は知っていても、どうしてそれが知りたかったのかまでは思い至らない。どんな理由をつけてみたところで、久我さんの好きなものを知りたいって、本当はただそれだけなのに。
「三つまで当てたってだけでもすごいけどな、さすがに最後のひとつは」
「欲しいもの」
「え?」
「対価って言いましたよね?」
 ただの男。そうだ。そしてもちろん僕も同じ。
「欲しいもの、言ったらくれますか?」
 ただ一人の人の前では。
「もちろん俺にかなえられるなら。といっても何だろうな。何がなんでも応えたいところだけど」
 強すぎる想いの前に怖気付き、傷つくことを恐れて。だけど、僕は。
「くれるって、約束してください」
 約束を手に入れる。
「望むがままに」
 あなたを、手に入れる。
「……べつ」
 この想いを刻み付けたいのに、先走りそうになる感情のまま声が震える。
「ん?」
 優しく、包み込むように促され、あの日の彼女の影を踏み越えた。そしてひとつ息を吐き出す。そしてただ真っ直ぐに、僕を見ないその人を視線で射抜く。
「あなたの隣に、当然のように座る権利が欲しい」
 他の誰でもない。久我さんが欲しいのだと告げる。
「他の誰でもない、あなたが好きだから」
 弾かれたように絡まる視線。捉まる前に、僕が胸を掴む。
「あなたの特別が欲しい」
 躊躇うように揺れる眼差しに、唇が震える。だけどもうこの人の全てから目を逸らさない。嘘なんかじゃない。他の人なんて知らない。ただ、あなただけが。
「一帆って、呼んで」
 息が、止まるかと思った。背中が軋むほどに強く抱き込まれ、その熱に攫われるけど。
「くれるん、でしょう?」
 縋りつく背中になお求める。
「返事」
 子供のように言葉を欲しがる僕に
「久我さ……」
 久我さんがくれたのは噛みつくような唇。 抱きすくめられたまま吐息を奪われ目が眩む。息苦しいほどの強さで、何より雄弁に答えをくれた。
「一帆」
 僕の名前が、この日特別になった。

 

 

 

 

 熱に煽られるように喘がされ、狂おしいほどに求められ乱される。僕だって欲しかった。それは否定しない。だけど。
 深く絡まる口づけと、身体中をざわめかせてしまうその指先にどろどろにとけてしまいそうになりながら、上手く力の入らない左手でようやくその人の肩を掴んだ。
「く、が、さんっ」
「駄目。逃がさないよ?」
「そ、じゃなく、て」
 僕だってこのまま身を任せてしまいたい。だけどそんな誘惑に僅かに残った理性が抵抗していた。
「それなら邪魔しないの」
「ここ、仕事、場」
「あぁ。だね」
 押し倒されたソファの上、久我さんは何が問題なのか分からないと言わんばかりに受け流し、そのまま胸元に唇を寄せる。
「だね、って」
 公的な場所だろう空間というのももちろんだけれど、何よりドアからここまで仕切られているのはパーテーション一枚というのもどうにも落ち着かない。
「誰か来たら」
「来ないよ」
 快楽に溺れきれない僕を引きずりこむように、その人は耳朶を噛む。
「だめってば」
 触れられるたび甘く震える身体を止める手立ては僕にない。だからお願いと潤む瞳でその人を見るのに。
「駄目じゃない」
「ね、ここじゃなくって」
「何?」
「くがさんの、部屋とかっ」
 反論を咎めるように、唇を指先でゆっくりと撫でられる。
「待てない」
 情欲に濡れた瞳が僕を射抜く。
「誰が来たってかまうものか」
 今、目の前の僕しか頭にない。だから一緒に堕ちてきて、俺だけだって証明して。そう請われるように告げられて。
「く、がさんっ」
「大丈夫。最後まではしない」
 ここではね。そうどこか意地悪に囁かれて、僕はついに理性を手放した。

 

 

 

 

 ひやりと感じた肩口に、すぐ傍にあったはずの温もりを気怠さを押して手を伸ばす。
「ん……?」
 全てを預け、明け渡したそこに、けれど幾らシーツを波立たせても目当てのものは見つけられなくて、途端に心細くなる。寝返りを打つのも億劫になるほどの倦怠感を纏っていながら、それでも目を開ければ昨日の記憶全部が夢だったなんてことがあるんじゃないかと、今を確かめることが出来ない。満ち足りた時間が今にも消えてなくなりそうで、慌ててブランケットを掴んで子供みたいに丸くなった瞬間。
「一帆?」
 ふわりと包み込まれたその香りが、その人を連れてきた。そして昨日の記憶も。
 昨夜、何度も何度も耳元に落とされた甘い声は、少しだけ昼間の匂いをさせている。
「まだ寝てる?」
 まだベッドの中で昨日の余韻の中にいる僕を置いて、どうやら久我さんはすっかり身支度を整えてしまっているようだ。気遣うようにそっと近づいてくる気配に、無防備な自分がどうにも気恥ずかしくて寝たふりを決め込む。
「あっ、と」
 ブランケットから頭だけのぞかせた状態でいる僕の頭上で舌打ちが聞こえた。キー操作音とともに止まった空調に、どうやら寒くて埋もれていると思ったらしい。
「一帆」
 囁くように呼ばれたそれに孕む熱を感じ、その幸せに知らず口元が緩んだ。すくい上げられるように触れられた髪にキスされ、そのままこめかみにも落とされて、あやされるままに微睡みかけたけれど。
「かーずほ」
 いたずらっぽくつむじにも唇が触れたと思ったら、僕の頬はシーツから大きな広い胸に抱きとめられていた。
「早く起きろよ」
 触れられているところ全てから熱が伝わる。降り注ぐキスの雨に、体温は上がり睫毛が震えているのが分かる。きっと、久我さんは僕が本当はもう起きていることを知っているのだ。
でも、だからまだ知らないふり。
「旅行に行こうか」
 もう少しだけこのまま甘い腕に包まれて。
「山ほどあるパンフを一緒に見よう」
 気が済むまでこの腕を独り占めして。
「二人きり、どこに行こうか」

 

 

 

 

 指先に流れ込む睦言に蕩けてしまったら。
 あなただけ。昼間の日差しの中で、もう一度そう伝えて、あなたのキスを盗むから。
 もう少しだけ、このままで。
 抱きしめていて。

 

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