翌日。いつもと変わらない様子で、三村は紙袋を寄越した。紙袋にはバスケットボールマガジン六月号。本屋へ戻った俺は三村に言った。それが売切れだったのだと。だから良かったら売ってくれないかと。手にしていたはずの紙袋がなくなっていたことに三村が気付かないはずはないのに。どうしてそんな嘘をとっさについてしまったのか。仁科に譲ってしまったと、どうして笑って言えなかったのか。俺にもよく分からない。
「高いぞ、この貸しは」
「七百八十円、だよ」
「叶ちゃんてば、そういうこと言う? この俺が叶ちゃんの頼みだから泣く泣く」
「分かった。アイスぐらいならおごる」
「んじゃ、放課後デートだ」
 前の席、笑う三村。いつもと同じ。いつもの軽口。だけど。俺はどうしてもそんな三村の笑みの向うに、昨日のあの瞳が張りついたまま剥がせない。俺を捕らえて離さない、一番苦手で、だからとても弱い。どこか遠い、淋しい、せつないあの瞳。
「どした?」
 一度はくれた紙袋を玩びながら、俺の顔を覗き込む。優しい声音。
「取り消しは不可能だぞ、放課後デートは。ドタキャンなしな」
 優しい約束。それでも。
「それ、デートとは言わないってば」
 目の前の三村は、確かにちゃんと笑っているのに、なぜだかどこかが違うと思った。それでもそれがどこかなんて、ましてどうしてだなんて分からないから。だから黙ってやり過ごすことに決めた。気のせいだと、まるで自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返して。

 

 

 


 最寄りの駅から歩いて五分の我が家まで、残り約十メートルの辺り。いつだって俺を安心させる明かりが見えた。
「ただいま!」
 勢いよく玄関のドアを開け放つと、のんびり出てきたのはワイシャツの袖をまくりあげ右手には菜箸、胸元にはエプロンの父さん。見慣れてるはずのその格好は、でもやっぱり似合うとは言い難い。息子の身贔屓を引いてもこの顔でエプロンに料理だなんて。
『晴繁が一番ハンサムだったの、私のボーイフレンドの中で。仕事中は、普段とは別人だし。そんなとこにも参っちゃったのよね』
 とは、今はそのお互いの仕事のおかげで別居中の母さんの台詞。別居とはいえ離婚とは程遠いこんな両親に、俺も、母さんの所にいる望兄さんも納得してるけどね。
「おかえり、叶」
 玄関口までのお出迎えには、ついつい笑顔全開になってしまう。玄関先で靴も脱がず、マジマジと父さんの顔を見ていると、不意に頭を撫でられる。
「どした」
「昨日まで午前様が続いてたから。今日もなのかと思ってた」
「可愛いなぁ、叶は。淋しいんだ?」
「別に。今日もご飯を自分で作らなきゃなんないかと思っただけだよ」
 なおも頭の上にある手を払い、舌を出す。
「この格好は似合わないけど、料理の腕はいいもんな。ご飯、ご飯」
「叶、お前は父さんを誉めてんのか、それともけなしてんのか?」
「両方」
「せっかく叶の好きなビーフストロガノフを作ったってのに、この言われようは」
 菜箸もったままガックリうなだれる姿は、笑えるほど似合わない。だから。
「俺、忘れてないんだからね」
 笑いで下がりそうになる眉を必死で吊り上げて、意地悪く決め台詞。入学式の日を忘れてたなんて保護者失格と、声音に含ませる。
「分かった、分かった。悪かったよ」
 な、なんて苦笑されて続かないのもいつものことで。しかも今日は、ダイニングからいい匂いが誘ってる。部屋に向かう階段を昇る足音は自然早まった。その途中で玄関口の電話が鳴り始めたけれど、入学式の恨みよりご飯を取った俺は、それを階下の父さんに任せてしまうことに決め、ドアを閉めた。

 

 

 


「そうなの?いや、叶もあれで中々バスケには詳しくてね。得意とは意味が違うけど」
 手早く着替えを済ませた俺は聞こえてくる声に階下をひょいと覗き込むと、受話器を手に笑っている父さんが見える。
「誰だろ……」
 母さんではありえないし、父さんの友達というには話し方が妙だ。思わずその場に立ち止まる。と、その気配を察知したのか父さんの瞳が俺を捕らえた。
「あ、ちょっと待って。降りてきたから」
 言いながら手招いたその手で受話器を保留にした。
「俺?」
「そ。礼儀正しくていい友達だな」
 中学時代、親しい友人という存在には縁がなかったせいで、電話一つでも父さんには嬉しいらしい。ちょっとばかり乱暴に背中を叩かれて、視線で、言葉で問い掛ける。
「誰?」
 それはたんに形ばかりの問いかけだった。携帯を持たない俺に、実際、三村以外のヤツから電話なんてきた試しがない。だからその返答を待つこともせず、受話器を握ると同時に保留ボタンを解除したのだ。けれど待てばよかった。
「仁科君って」
 律儀に一拍遅れで届いた答えに、話しかける一呼吸前で全てはとまった。今、何て言われたんだろう。ありえない人の名前を聞いた気がした。もう一度聞く勇気もなくて、縋るように見た先。
「ご飯は気にするなよ」
 黙ったままの俺に自分がいると話しづらいと思ったのか、そう耳打ちすると父さんはリビングへ消えた。気を使ったつもりなんだろう、きっちり扉は閉められて。今更もう一度保留にするわけにもいかず、しんとした空気にさらされる。息も出来ないぐらいの緊迫感が、胸の中を圧倒してる。唇も同様で、言葉なんて一つも出てきやしない。どうしよう、どうしよう。ただそれだけが渦巻いて。耳に届いた声は、ますます酸欠状態を悪化させた。
「もしもし? 聞こえてる? 本山」
 そうだ。とにかく何とか言わなくちゃ絶対に変だ。早鐘のように鳴り響く左胸を何とかしようと、拳でそれを押さえ付ける。
「……ごめん。ちゃんと聞こえてる」
「ごめんな、突然電話なんかして」
「そんな」
 やっとの思いでそう言ったけど、もうすでに限界。仁科が目の前にいるわけでもないのに、声にまで揺さ振られてしまう自分は、もうどうしようもない。
「あのさ、俺、ほら、この間のお礼言いそこねてたから気になって。港南と暁星じゃ偶然会える確率も低いし、電話した方が早いなって思ったからそうしたんだけど。ごめん。何か驚かせちまったな」
 電話を替わって絶句する俺に、仁科はそんなふうに言った。突然の電話。もちろんそれもあるけれど、最たる原因はただ一つ。仁科の声が、例え受話器ごしとはいえ、耳元で聞こえるという事実。それはどこか甘い驚き。
「すごく有り難かったんだけど、やっぱあっさり受け取るのはどうもな。本山、あれ買ったばかりで読んでもないだろ?」
「あ、うん。でも」
 俺のじゃないし、そっちは何とかなったから。なんて軽い言葉も出てこない。とにかく気にしなくていいということだけは、言わなくちゃと思うのに。
「それをあっさり譲ってもらった上に、俺、このままじゃ代金踏み倒してるのと同じだし」
 思わず受話器を握ったまま首を振る。そんなことをしたって仁科には伝わらないけど、言葉は喉に絡まったままだから。
「あれ、本山も読むんだろ? 貸すよ。もとは本山のなんだから変な言い方だけど、その時に支払いもするということで、いい?」
「え、そんなこと」
「何にもしないでいい、なんてことは言うなよ? 俺がそうしたいだけなんだから」
 気にしないでと言葉にするより、仁科の言葉の方が早かった。
「それでいい?」
 先を越されて、勢いのまま頷く。言葉にしないと分からないのだと思った時には、仁科の笑う声が聞こえて。
「それじゃ、今度の日曜に時間とれる?」
 日曜日? 平日じゃなくて? 素直に返事をしかけて、言葉を押し戻す。五分もからない用事なのだ。てっきり
『じゃ、この間の駅前の本屋に何時』
 なんてことになると思ったのに。
「都合悪いなら、別の日にするけど」
「そんなことは。でも」
 聞こえた声が僅かに小さくなったような気がして、慌てて否定する。何の感情もなくて当然の俺だけど、嫌われることだけは阻止しておきたくて。
「でも?」
 問い掛ける声は優しく耳元をくすぐる。そんな優しい波に飲み込まれそうになる。
「練習、あるんじゃないの?」
 気になるのは仁科のこと。日曜日とはいえ運動部。練習は休みではないだろう。それはもちろん俺も同じだけど、マネージャーと期待の新人と、立場は大きく違っている。
「それは本山も同じだろ。部活やってるって言ってたよな。本山の方の予定分かる? 俺んとこは、午前中で終わると思うんだけど」
 そんな仁科に、俺が何の理由も無しに断れるわけはない。
「それじゃ駅前の噴水前に、午後二時」
 それが仁科との初めての約束になった。

 

 

 


「知らなかった」
 駅前の噴水前。誰に言うともなく呟く。さすがに日曜の昼間。辺りを埋め尽くさんばかりの人の波。それは予想通り。だけど。
「見事にカップルばっかり、だな」
 視線の先に見えるのは、随分と楽しそうな姿ばかり。右も左も、どこを向いても同じなそれにあてられそうで、とうとう俯く。待ち合わせの時刻には、まだ二十分以上もある。何だかそわそわして落ち着かない。
『叶ちゃん、それってすごく大事な用事?』
 練習が始まる前、三村に映画に誘われた。それは俺がついこの間見たいと言ったヤツで、選択肢は一つしかないはずだった。いつもならきっと今頃は目の前に三村がいて、昼ご飯でも食べながら笑っている。そんな日曜日になったはずだったのだ。だけど。
 用事があるんだと。誰と、でも、何のでもない。ただそれだけを口にした俺に、三村は言ったのだ。どこかせつない眼差しで。
「時間ずらせば、行けたんだ」
 仁科は本を貸してくれて、その支払いを済ませてしまえば帰ってしまうのに、そうしなかったのはどうしてなんだろう。三村にあんな表情をさせてまで。
「ごめん! 悪い、遅れた?」
 気軽く叩かれた肩と、その声に、ぼんやりしていた意識は直ぐ様覚醒を促される。引き戻されるように顔を上げた目の前には、夢でも幻でもない本物の仁科。意識したとたんに上がる心拍数、体温の急速上昇。仁科の側にいるだけで、俺の弱い身体が粉々に砕けそうになる。
「これでも部活終わって必死で走ってきたんだけどな。おかげで新記録更新」
 語尾には自慢するような口振りが現われていて、思わず笑ってしまった。俺なんかよりも、ずっと大人に見えていた仁科が、ちょっとだけ身近に感じた。
「ま、待たせたことに変わりはないし。お茶でもおごるよ」
「え?」
「ほら、こっち」
 いきなり手首を掴まれて、そのまま硬直。仁科の左手が、俺の右手首を掴んでる。たったそれだけで。

 

 

 


 投げ掛けられている視線を感じて、気になるのは俺だけらしい。ジーンズにTシャツ、お気に入りの白いニットのパーカーの俺。真っ黒のハイネックのTシャツの上にチェックのシャツの重ね着。ジーンズは多分リーバイスという仁科。どっちもどこにでもいる普通の高校生の格好のはずなのに、仁科だけはその他大勢の中に決して混ざらない。悠々とコーヒーを飲んでいるその姿に、俺も視線をいつのまにか忘れて見惚れてた。
「ん?」
 仁科が、不意に顔を上げた。当然視線がぶつかるのは目の前にいる俺。今までで最高の至近距離、約一メートル。
「どうかした?」
「え、ううん。別に」
「そう?」
 まるで確認するようにまっすぐな眼差しを投げた仁科は、苦笑いしてるみたいに見えて少し辛い。顔中が強ばっている。笑顔はさぞ引きつって見えているに違いない。だからとても『別に』なんて表情ではないのだろうけど。どんな表情をしていいのか見当もつかなくて、どうにもならない。ついこの間も思ったけど呆れるほど俺と仁科って会話にならない。困らせてるんだろうな、と思ったら辛さの度合いが一層増した気がする。
「そうだ。あのさ」
 言い掛けて、手にしていたカップを受皿に戻すと、仁科は大きめのドラムバッグの中を何やら探し始めた。それが何なのか。簡単すぎる答えに自覚する。ほんのわずかでも、目先の幸せに酔っていたことに。
 何の理由もなく会えるポジションにいるはずのない自分。友達でもない俺と仁科。そんな分かり切っている事実を思い知らされる。理由があって、結果がある。俺と仁科の関係は、だからもうすぐ終わる時間。
「これ、なんだけど」
「え……」
 だけど目の前に差し出すように揺れていたのは、指に挟まれた二枚の紙切れ。
「こういうの、本山嫌い?」
 前売券をヒラヒラさせ聞かれたのは、三村に誘われた映画だった。もちろん見にいくつもりだ。誘いを断ったから、一人で見にいくことになる可能性が高いけど。
「俺はさ、こういうの好きなんだよね。大抵はレンタルでいいやって思うんだけど、こういうのがあると、やっぱりスクリーンで見なきゃなんてさ」
「仁科君も? 俺もそれ、予告見て絶対見にいこうと思ってたんだ」
 自分でも現金だと呆れたけど、初めて見付けたたった一つの共通点に、素直に言葉が出てきた。何もかもかけ離れてると思ってばかりいたけど、こんなふうに一つぐらいはあるものなんだ。それが嬉しくて。それなのに。
「それ、やめよ」
「え?」
 ドキリとする。否定的なそれに、仁科は頬杖をついて口元を緩めた。
「それ。仁科君って、ちょっと落ち着かないから」
「あ、でも」
「呼び捨ててくれていいって。あ、それとも俊嗣って呼んでくれる?」
 至近距離でそんなこと、反則だと思う。間違いなく冗談だろうけど、それでも絶対呼べない。心臓、壊れる。絶対に。
「じゃ、あの、に、仁科、も好きなんだね」
 微妙につかえながら何とか言えた。そんな俺にまた仁科は笑った。ちょっとだけ嬉しそうに見えて、それが嬉しい。
「てことは、まだ見に行ってないんだ?」
「あ、そう。まだ。そのうちとは思ってるんだけど」
 ようやく会話らしきものになってきたような気がする、なんて。さっきまで好きなミルクティーの味すらよく分からなかった自分も忘れて、手元のカップを引き寄せる。
「お、ラッキー。河合と行くはずだったんだけど、あいつ都合悪いって言いやがんの。人に前売り買わせといて、だぜ? 最低だろ?だからさ、暇だったら、一緒に見ない? もちろん俺のおごりで」
 続く台詞を考えていた俺は、ミルクティーを味わう事に再び失敗した。突然の時間延長にただ目を丸くして。

 

 

 


『一人で行くのが可哀相だと思うなら、付き合ってくれないかな』
 ただ仁科の顔を凝視したままの俺に、頭を掻きながら笑ってた仁科。なんだか照れ臭そうに見えたのは見間違いだろうけど、膝を組んでいる隣の長い足は錯覚ではない。
『先約、あり? この映画』
 三村のことを忘れたわけじゃない。約束という形ではなかったけれど、あの表情は忘れられるものではない。それなのに、俺は首を振ってしまった。先約なんてないと応えてしまった。例えそれが誰の代わりでも、仁科の隣にいる時間をくれるというなら、俺はしがみ付いていたかった。短くて、でもはっきりとした意思表示で手に入れた場所。込みあった映画館の箱の中、隣に仁科がいるという現実。それを嬉しがってる自分がいる。ただ一度のことだから。そうやって三村のことを押しやったまま、今のことしか考えられない自分がそこにはいて。
「映画が始まる直前って、何だかワクワクすんの、俺」
 言葉通り、楽しそうに笑う仁科に頷いた。
「うん。俺も」
 だけど俺は知ってる。このワクワクとドキドキは、映画のせいなんかじゃない。仁科が隣にいるせいだ。開演のブサーとともに薄暗くなる館内で、初めて俺は仁科に気付かれないようにそっと仁科の顔を盗み見た。

 

 

  


 楽しくて嬉しくて、ただそれだけだった。背中を見送った時も、別れ間際に渡された紙袋に仁科の体温が残ってるような気がして、そんなふうに思う自分に赤面してしまったりした。だけど。声が聞きたい。今すぐ会いたい。すぐに思い出せる昨日のことなのに。間近にいられたのはつい昨日のことなのに、そんなふうに思ってしまうのはどうしてなんだろう。あんなことはもう二度とないなんて、ちゃんと自覚してるのに。
「叶ちゃん?」
「あ……」
 すぐそばでは大きな掛け声と、コートを跳ねるボール。押し寄せる音に、何度か瞳を瞬かせる。
「三村」
 額の汗をシャツの肩口で拭いながら、すぐ傍まで三村は来ていた。全然気付かなかったことに、心の中で驚く。
「なんかさっきからぼんやりしてない?らしくないな。休みボケ?」
「そんなことないと思うけど」
 心ここにあらずとはこういうことです、なんて見本のようだっただろう自分をよそに、取りあえず口にしたのは全く真実みに欠ける言い訳。そして出来るだけ何でもないふりで手元のボール篭を引き寄せた。居心地の良いこの場所で、ぼんやりしていたことが信じられなくて。思い出していたのは、仁科の優しい笑顔だったなんて。
「叶ちゃん」
 昨日の時間に引きずられそうになる自分を打ち消したくて、落ち着かない気分のままボールでも研こうとした時、三村は俺の両手ごとそれを奪った。
「一対一始まるよ。それは俺がみがくから」
 強引、というわけではないそれに、やんわりと抵抗する。何を突然思いついたのかと、そう思った。三村が何かを仕掛ける時、それはいつだって突然で不意打ち。だから笑みさえ滲ませて次を待った。子供みたいないつもの瞳を待っていた。だけど。
「み……むら?」
 優しい瞳を見ることは出来なかった。埋めるように与えられた、暖かい温もり。哀しいぐらい力強い抱擁。三村と出会ったときを思い出させるそれは、だけど俺を震わせる。
「離して、三村」
「……らない」
「三村」
 胸元に押さえ込まれたまま、逃げ出そうとする腕の中で、三村は低く呟いた。
「やらない、絶対。もう二度と離さない」

 

 

 


 気が付けば、電車に乗っていた。窓に映る姿にはため息しかない。鞄も、制服も置き去り。部活用のジャージ、館内用に下ろしたばかりのコンバース。唯一の救いは、ポケットの僅かな重み。入ってた財布。
「三村、どうしたかな」
 扉に頭をもたせかけ、逃げ出してきた場所を思う。
『……叶ちゃん』
 聞こえた、小さな声。抱き締められた力強い腕。まだ三村がそばにいるかのような温もり。
「三村」
 どうして、あんなに震えてしまったんだろう。初めて出会った時にも同じように抱き締められたのに、あんなふうに震えたりはしなかった。親密すぎるポジションは三村の定位置。そんな特別な場所にいた三村なのに。
「次は港南、港南です」
 帰るつもりで乗ったはずの電車。耳を素通りしていた車内アナウンスが、俯いていた俺にはっきりとした意味を以て届く。理由が、そこにあった。
 適度に混んでいた車内に、流れ込む大量の濃紺のブレザー。気をとられそうになって、押さえ付けるように背を向けた。自宅とは逆方向の電車。乗り換えは必然。それでも、港南で降りることは出来なかった。それは自分への躊躇い。借りてる雑誌を持ってさえいれば、まだ部活中だろう仁科を待つことも出来ないことではない、なんて。僅かでも二度目の偶然なんて考えたことに。
『次で降りよう』
 当たり前の結論。これ以上この電車に乗っている理由はない。アナウンスに、小銭だらけの財布をポケットに確かめた、その時。
「えーっ!」
 不意に後方から、何人かの声が折り重なるように聞こえた。適度に騒めいていたとはいえ、車内でそれはかなり響いた。斜め前に座って雑誌を捲っていた会社員らしい人や、立っていた主婦らしい人の視線が動く。
「まったく近頃の高校生は」
 聞こえた台詞。非難めいた眼差し。それはきっと俺の周りだけではなかったのだろう。その一団は空気の変化を察知してか、声のトーンをピタリと落とした。だけど。
「……ったよな。でもよりによって」
 堪え性のない高校生の集団のそれが、元通りになることに大した時間はかからない。会話は徐々に車内での距離を伸ばして、俺にも届くようになる。誰かの噂らしいそれに一喜一憂する彼らの会話。日頃噂に遊ばれている意趣返しと拾い聞きして笑っていたけれど、突然『あいつ』から『仁科』になった噂の人の名前に思わず耳をそばだてる。
「何、じゃあ仁科のヤツ、あのミス港南の荻野ちゃんと付き合ってるワケ?」
「よく放課後とか昼休みとか会ってるしな。それに彼女『仁科君て、本当にカッコイイわよね』とか言ってたらしいぜ」
 噂の彼女の台詞を真似るかのように声音を変え、情報の仕入元だろう誰かが声を落とした。
「マジかよ。年下で良かったんなら、俺にもチャンスあったってことじゃんか」
「バーカ。お前じゃ役不足。相手が仁科だから、信憑性は高いってこと。分かるもんな、やっぱ」
 ミス港南、仁科。それだけなら同姓の誰かなんて可能性もあるのに、容易く読み取れる明確な賛辞が否定する。分からないでもないと彼らに言わせてしまうなら、それは俺の知ってる仁科に違いない。濃紺のブレザーが教えてくれた、仁科の『誰か』との初めて聞く噂。仁科の隣という場所を当たり前に手にする、顔も知らない彼女。今までいなかったことの方が不思議な存在を、当然だと思う奥底で何かが揺れた。どうしてこんなに動揺しているのか分からない。一度でいい、隣に並んで歩けたらいい。思っていたことがつい昨日叶ったばかりなのに。
「あーっ! あそこっ」
 何も考えられない。ただここを離れたくて次に目の前の扉が開いたら降りよう。そう決めていたのに。速度を落として停車する直前聞こえたその声に、踏み出せなくなってしまった。反対側で鈴なりになっている彼らは、駄目押しの現実を見せ付ける。
「ほら、やっぱそーじゃんか」
「いいたかないけど、似合ってるよな」
 振り返ってしまったのはどうしてなんだろう。胸の中はもう十分乱れているのに。
 反対側のホーム。仁科はいた。その隣には同じ港南の制服を着た綺麗な人がいる。二人とも楽しそうで、それがまた自然に見えた。俺とではありえないバランス。昨日近くにいた分、それがよく分かる。自覚しているそれが堪えるなんて、情けなくて思わず目を閉じた。
「あいつの家と反対方向じゃんか。これからデートかよ」
「デキるオトコは羨ましいねぇ」
 昨日、待ち合わせ場所で見た沢山のカップルを思い出す。お茶を飲んでも、映画を見ても、俺といるときとは違ってこうやって周囲の人を羨ましがらせてしまうんだろう。
「あ、そういや昨日も仁科見たよ」
「昨日って、何、女の子に囲まれてたとか」
「それじゃ別に話になんないだろーが。覚えてねぇかな、暁星にいった本山」
「えっ?」
 まとまらない頭の中、出された自分の名前に息を呑む。そこにいたのは中学の同級生だったらしいことにようやく気付いた。
「本山って」
「そ。あの本山と歩いてた。二人で」
「何、それ。一体どういう取り合せだよ」
「そんなことはこっちが聞きたいね」
 見える反発。そう。俺と仁科では何もかも違いすぎる。電車の揺れに任せたままの身体は、もう何度目かドアへと押しつけられる。
「あの二人って何か接点あったっけ?」
「接点どころか、仁科は本山のこと苦手だと思ってたんだけどな」
「あ、俺も」
「苦手って、それ仁科が言ったのか?」
 そこにあるのは、ただの噂。そんなこと知ってる。分かってる。でも。
「言ってるのを実際聞いた訳じゃないけど。仁科、友達が本山に近付くのも嫌がってたんだぜ。それを分かってて気にもしてなかったの、河合ぐらいじゃねぇの」
 何一つ見えない。ただ言葉だけが、胸の深い場所で泥のように溜まって濁る。その重さにバランスを失う。身体も、心も。
「偶然会ったとかじゃねぇの? どうせ」
「声かけられたらやっぱ、無視はできないでしょ。あいつも優しいからね」
「かーっ! だからモテるってかっ」
 遠くなっていく言葉の羅列。繰り返される明確な答えに、向けてくれた仁科の笑顔は、俺の中で最も痛い記憶になった。

 

 

 


 込み上げる気持ちのまま、思い切り部屋のドアを閉めると、全身が脱力感に苛まれる。
「分かってる、つもりだったんだけど、な」
 呟いた独り言に、血の味がした。気付かないまま噛み締めていた唇。何がこんなに悲しくて、どうしようもなく辛いのか。視線の端にあの日の紙袋が見える。鉛のような身体を崩れ落ちるに任せてベッドへ預け、気持ちが命じるまま目を閉じる。
『仁科は本山のこと、苦手だと思ってたんだけどな』
 苦手という意味くらい、今どき幼稚園児だって知ってる。好意とは全く別の所にあるそれ。
『優しいから』
 痛いくらいに胸に響いた。優しさという、甘い感情の裏にある残酷さ。
「分かってたじゃないか。最初から、違うところにいることぐらい、知ってただろ」
 気付かないうちに何かを期待していた自分が可笑しくて、顔を押しつけたまま笑った。笑いは止まらない。濡れていくシーツを感じながら。
「バカだな、俺」
 息苦しさに取り込まれ、縋るように腕を引き寄せる。偶然がくれた優しい記憶は、今はただ悲しい。こんなことなら、いっそ何も知らなければよかった。ただ遠くから憧れたまま何もかも、何一つ始まらないまま。
「バカだ、俺」
 思い知らされた。憧れなんて言葉で誤魔化しきれない。優しい声、暖かな手、見つめられると硬直させられる瞳。その全てを追っていた。そこにあるのは、好きという気持ち。
「……バカだ」
 いまさら、だけど。きっともうずっと前から、仁科は特別な存在だった。だけど俺は臆病で。仁科にとっての自分を知る事が怖くて目を逸らし続けてきた。憧れという言葉で覆い隠し、心のブレーキを踏んで。
『やらない、絶対。もう二度と離さない』
 それなのに。あの瞬間、それは緩んだ。せつない腕の中で知らされた。俺の中、誰かを重ねてる三村と、そんな三村に仁科を重ねていた自分。似ている人を傍に置いた優しい場所は、いくら似ていても、結局それを埋め尽くせない。無意識のうちそれでも願った。
「どうして、気付くんだよ……俺は」
 それでもいいと思ってたのに。違うと叫んでた。気持ちが、ただ違うと。
「知りたくなかったのに……」

 

 

 


 昨日の俺の忘れ物を持ってやってきた三村の手に、今は真っ赤な林檎と果物ナイフ。見舞いだと差し出したのも三村なら、それを先に手にしたのも三村だった。
「あの、ね」
「ちょっと黙ってて。気が散ると危ない」
 言葉を受付けない三村に、それが言葉通りの意味だと思う気かと、何かが意地悪く囁いた。昨日へのこだわりと、そこに生まれた後ろめたさは、それを俺に否定させてはくれない。
「ほら、お待たせ」
 ようやく一つを剥き終わった三村は、その不器用な跡の残る林檎をくれる。その顔はいたく満足気だったけれど、さらに取り出したもうひとつには、そのまま歯をたてた。美味しそうな音をたてる三村につられて、一口齧り付く。
「熱、まだ下がんねぇの?」
 唐突に、自然な質問を言葉にした仁科は、だから余りに簡単に気付かせる。ポーカーフェイスの向こう、見えるぎこちなさ。見えなかった昨日の名残。ベッドの上、半身だけ枕を背に起こしたまま、つくる笑顔。
「微熱だよ、ただの」
 そう。ただの微熱。昨日、散々泣いた軟弱な身体はメンタルな部分にまともに影響したらしい。それだけに引きずるかもしれないけど、俺以外誰もそれを知らなくていい。
「叶ちゃん」
「あ、昨日は、ごめん」
 言葉を横取りされて、三村は僅かに眉を上げた。だけど。その先を、俺は知っていた。三村の瞳が何より告げていたから、触れられるより先、それを遠ざける。
「駄目だよな。三村のああいうの今更なのに驚くなんて」
 卑怯かもしれない。だけど独りは今、たまらなく辛い。今までの時間を失いたくない。
「冗談だったって、言って欲しい?」
「みむ……ら」
 目尻を、そっと指先でなぞられた。まるで羽毛が触れたみたいなそれは、大きな手の平に似合わない繊細さで。
「そんなカオさせちまうんだな、俺は。でもな、それでも叶ちゃんの心の中にいる特別なヤツ、忘れさせたかったよ」
 タオルで冷やして隠した昨日の涙の名残に三村は気付いてた。嘘だって見破っていた。だけどその原因までは知らない。
「特別って、三村」
「いない、とは言わせない」
 真正面から瞳を受け止めきれず、顔を背けた。特別な人。思い出す人は一人。駄目だ、三村。俺をここに繋ぎ止めておいて。
「叶ちゃんに逃げられたの、あれで二度目。いや、三度だ。一度目、憶えてる?」
「三村」
 肯定も否定もないまま、名前を呼ぶ。初めて感じた三村との距離を埋めるように、引き止めるように。けれど見つめる三村は、笑っていた。瞳だけは、俺の苦手なせつなさを見せてはいたけれど。
「好きだよ、叶ちゃんが。だから俺だけを見て欲しかった。心の中に誰がいたって関係ない。時間も距離も俺の味方だって、そう思ってた。だけど叶ちゃん、俺を見るたびに、そいつを思い出してた」
 真実を人の言葉で突き付けられることに、奥歯を噛み締めて零れそうになる気持ちを耐える。仁科へ向けられていた想いの行き場をなくした今でも、この瞬間にも、三村の向うに仁科を見ているのか。
「無理やり抱きしめて手に入るなんて思ってなかったけど。それでも傍にいてほしかったんだ。他の誰でもない叶ちゃんに」
 机の上、置き去りになったままの紙袋を三村は開けた。
「あの日、誰と会ったの?」
「三村」
「そいつだよな」
 あの日の嘘が、リアルになる。同じだ。俺も、三村も。欲しかったのは、ただ。
「偽物でも、いいの?」
 知らず知らずのうち、声が震えた。
「三村、俺は三村の探してる人じゃないよ」
 震えを止められないまま、続ける。
「似てても、俺は違うよ」
「叶ちゃん」
「俺が誰か別の人を見てるって、三村言ったけど。三村は?三村は俺の向こうに、誰を見てるの?」
 ほんの一瞬、見えた動揺に微笑む。
「……どういう、意味?」
 いつもより低い、声はかすれてる。
「分かるよ、分からないわけないよ」
 だって俺も、そう三村。俺も同じだから。
「三村、俺のこと好きだって言ってくれたけど、それってちょっと違うよね?」
「叶ちゃん」
 打ち消すように、名前を呼ばれる。鋭利なナイフ。三村の瞳にそう思う。仁科と重ねていた三村は、こんな目をしていたのだと気付く。三村が三村であることの確かな証。瞳の奥にある激しい想いは、三村の心の中まできっとその刃で傷つける。だけど。
「入学式で、俺と誰か間違えたとき。本当は俺がその人じゃないって、すぐに分かったんじゃないの? だけど違うってことを認めるのが出来なかっただけじゃないの?」
 二度と離さない、そう言った三村。だからこそ分かる、深い想い。深ければ深いほど、ひどく重く感じるのかもしれない。逃げたくて逃げられなくて。だからそこから引き上げてくれる腕を、忘れさせてくれる時間を欲しがってしまう。
「似てるだけじゃ、どうにもなんないよ。それともそれでいいの? 似てるから、俺でもいいの?」
「そんなんじゃないよ。海至と叶ちゃんは違う」
「そうだよ。だから三村の本当を間違えちゃ駄目だ」
 ふわりと優しい腕に包まれる。それは口の中に残る甘酸っぱさのまま、胸の奥に僅かに残るせつなさと痛みを抱えていた。
「三村、忘れた? 二度と離さないって言ったんだよ。それは俺に、じゃないよね」
「叶ちゃん」
「興味あるな、俺」
 暖かな場所。三村はとても静かで。俺はゆっくりとその腕から抜け出す。
「三村が、二度と離したくないって思うほど大事な人に会ってみたい」
 どんな人だろう。知りたいと思う。だけどそれよりも会わせてあげたい。入学式、俺が彼だと思って抱きしめた三村は、どんな気持ちだったんだろう。
「ただの、幼なじみだよ」
 笑いそうで、泣きだしそうな表情で、三村は呟いた。
「何も言わずにいなくなっちまった、薄情なヤツだよ。最後の日も、普段と変わらず帰り道歩いて、週末には映画見に行くか、なんて呑気に言ってたのに」
 初めて聞く、三村の大事な人のこと。
「親友だって、思ってたのは俺だけだったんだよなぁ」
 本当はどうなのか、そんなこと俺は知らない。だけど三村にとって一番大事な人だというなら、それはきっと伝わっていたに違いない。だから三村には信じていて欲しい。わがままかもしれないけど。大事に思う気持ちごと粉々になってしまってなお忘れられない辛さを、俺はもう知ってしまったから。
「そんな思ってもないこと、言わないほうがいいよ」
「叶ちゃん」
「会えるよ。絶対。だから、そのときには俺に紹介してね」
 こんなに優しい場所は、どこにもない。だから大事にしたい。失くしたくないからと、嘘をついてもきっと何も手に入らない。誰も誰の代わりにもなれない。だから。三村も俺も、このせつなさと痛みから、逃れることはきっと出来ない。

 

 

 


 真っ青に晴れ渡った空と、久しぶりに触れる肌寒い早朝の外気に、背筋が伸びる感じがした。真っ白な自分になれる気さえした。そしてそれは、きっとこの場所でなら出来る。この扉の向こう。
「おはようございます」
「叶ちゃん!」
 重く軋んで、一週間ぶりの見慣れた体育館のコートが見えた。一度頭を下げる間に、周囲を取り囲まれる。
「大丈夫なのか、もう」
「叶ちゃんがいなくて、全然つまんねぇんだもん。何度サボろうと思ったか」
 かけられる声に笑う。ここを飛び出したあの日を思い出すと、ちょっと気恥ずかしい。だけど差し出される手に、声に、その分だけ安心できた。
「はいはい、叶ちゃんは病み上がりのため今朝はここまで」
 突然現われた視界を遮る大きな背中は、ボディーガードよろしく騒ぐ周囲を一歩引かせて、その場を仕切る。
「三村、お前は叶ちゃんのマネージャーか」
「先輩、せめてナイトと言って下さい」
 からかい混じりの声に三村は、俺を振り返りウインク。訳もわからず目で問い掛けられて次の瞬間にはその腕の中。
「叶ちゃんには危険地帯が多くて」
 大げさに洩れたため息が、滑り落ちていく首筋。突然のことに当事者の俺は、いきなりの酸欠状態。でも、
「三村!」
「一番の危険地帯が何を偉そうに。三村、てめぇ離れろ」
 見慣れた状況に、変わらない反応。それでも一つ違うのは、それを引き離す手が伸びたこと。俺と三村はあっという間に離される。
「三村、お前だけ良い思いしようっつうその根性が気にいらん。さぁて練習始めようか。相手してやるぞ」
「先輩、なんか目がマジですよ? 先輩、正気にかえってくださいよ」
「東倉がくる前に始めるぞ。俺が疲れたら、東倉と変わってやるからな」
「げげっ」
「いやぁ、実に有意義な朝だなぁ」
 コートに引き戻されていく三村は、周囲の笑いを誘う。あの日がだぶった。
『隣にいて、いいんだよね』
 心の中の定位置が変わっても。
『叶ちゃんの隣に、他の誰が立つの?』
 今までとは違う、でも優しくて暖かい空気が確かにそこにあることがただ嬉しかった。
「叶ちゃん、悪いんだけど東倉のヤツ呼んできてくれる? めずらしく朝練に出てきたのはいいんだけど、まだ部室にいるんだよ」
「あ、はい」
 声をかけられ、部室に行く前にコートに寄ったことを思い出した。制服のままなのは俺一人。失敗、失敗。
「それじゃ三村。二対一で、お前ディフェンスな」
「え、いや、とんでもない」
 コートに背を向けると、三村の必死なぐらいの拒否の台詞が届く。子供じみた言動に大声で笑いたくなる衝動を必死で押さえ、コートを出る足を早めた俺に、おまけの一言。
「やめろ、叶ちゃん。呼んでこなくていい! 俺はまだ死にたくないっ」
 半分本気で絶叫する三村の声が追い付いて俺はついに吹き出した。

 

後編