「ヒガシ! ヒガシ! いねぇのかよっ!」
 静寂を引きちぎるような勢いで響く足音と名前に、引き戻されるようにして気付いた。薄暗い室内。触れる外気はもう随分と下がっているようだ。どうやらかなりの時間を過ごしていたらしい。
「松末か」
 応えるか否か。一旦は無視してやり過ごす方に傾いたものの、途切れず続くそれは絶叫に近い。かなり切羽詰っているらしく、このまま放っておくと、特別教室棟の教室全部を片っ端から開けてしまいそうな勢いだ。
「仕方ない」
 窓とカーテンを閉めてしまえば俺がいた痕跡は消える。まだ少し距離があると見込んでそっと引いたドアから、案の定一番端の教室のドアに首を突っ込んだ制服が見えた。俺はゆっくりと歩き始める。
「何か用か?」
 間延びした声で声をかけると、その背中は大げさなぐらいに反応した。
「ヒガシっ。お前なぁ、こっちはさっきから必死で」
 走り寄ってきた松末の額には汗がにじみ、息が上がっている。
「部活にも出てねぇし、寮にも帰ってねぇ。校内放送したって現われないし! お前、どこでなにやってたんだよ!」
 その語尾の強さに押されて、つい悪い、と謝ってしまう。約束していたわけでもないのに。
「ちょっと出てた。帰ってくるなりお前がすごい剣幕で探してるって何人ものヤツに言われたんで、俺がお前をこうやって見つけたんだけど?」
「なんだよ、なら動かず俺を待てっての」
 悪びれずにことさら笑顔を強調してみせれば、情けない声で悪態をつく。そんな松末も、放送にすら気付かなかった自分をも誤魔化してしまう。
「も、マジお前みたいなヤツがケータイ持ってないってありえん。持て、今すぐ持て」
「無茶言うなよ。大体あんなもん持った日には鈴つけられたのと同じだろうが。絶対イヤだね」
「イヤ、ってお前、こうやってつかまんねぇだろうが」
「で? なにかあったのか?」
 平然と先を促すと、松末はひどく苦い表情をしてみせた。
「あったどころか、さっきから大騒ぎなんだよっ」
「大騒ぎって、何が?」
 要領を得ない説明に、ことさら冷静に続きを促す。
「今度の生徒会選。お前、悠長に構えてられないかもしれないぞ」
 状況を掴めないまま、けれどそんな松末の言葉に感じる、これはなんだろう。
「重本の陣営が、応援演説の依頼をした」
 不安とか、当惑とか。思いつくのは、余りに縁遠い言葉。
「応援って」
 ぼんやりしている。そんな自分に慌てて、無意識に開いた口元を繕った。
「坂上にか?」
「宮はこういうの絶対禁止だろうがっ!」
 松末は苛立たしげに髪を掻きまぜる。当然分かったはずだと、そんな目をして。
「分かったんだろ? 気付いたんだろ? 宮以外で俺達が相手方につかれたら大騒ぎしそうな人っていえば、一人しかいねぇだろ!」
 そう。口走りそうになった名前を、封じ込めようとした。
「油断してたよ。重本側が本気で氷姫に依頼しちまうなんて、思ってもみなかった。形勢逆転を狙うには無謀すぎる策だけど、むこうもウケ狙いじゃねぇってことだよ」
 三大イベントでさえ、一睨みして退けた人だ。重本の勇気は賞賛するに値するかもしれない。
「で?」
 狼狽える視線に、挑戦的な笑顔で応える。成り行きを面白がっている、そんなふうにしか聞こえない口調で。
「返事は?」
 言葉より、ため息が先だった。吊り上がっていた眉が同時に下がる。そんな呆れ顔。
「面白がってる場合かよ」
 けれどその台詞に、さっきまでの緊張感はもうない。
「負けるなんて、本当に全然考えてもねぇんだろ」
 そう。負けるとは思わない。いや例え相手が誰でも、負けるわけにはいかない。
「確かにお前の支持率は力強いけどな。今回ばかりは少し状況が違うんだって」
「要領を得ねぇぞ。何が違うって?」
「いつもなら為す術もなく門前払いの人の返事が漏れてこねぇんだよ。いつも通り拒否ったにしろ、何一つその肝心なところが聞こえてこねぇ。こんなこと初めてだろ? だから、信憑性が増してる」
 ノーしかないはずの返事。
「ありえないとは思うけど、さ」
 そんなもの、本当は誰にも分からない。そう言い切るだけ、きっと誰もあの人を知らない。
「中嶋にでも、探ってもらわねぇと」
 もしイエスと答えたとしても、俺は負けない。それだけのことだ。それなのに自分でも持て余しそうな支離滅裂な感情に追われそうになる。
 思い出す。小さな窓から切り取られた一人きりの残像。けれど。その見えない向こうには、本当はもう誰かがいるのかもしれない。
 だから何だ。俺はざわめく全てを振り払い、浮かんでいるはずの笑みを深めた。

 

 

 

 

 ボールの跳ねる音が、廊下を突然襲った大音響にかき消されそうに、それでも小さく聞こえた。
「ヒガシっ!」
「先輩っ!腕っ!」
 瞬間の静寂、そして津波のように押し寄せた声。かろうじて反射的に頭をかばっていた腕をどけると、床に散らばったガラスの破片の中へ滑るようにそれが混ざり落ちた。つい五分前に着ていたブルゾンがその向こう側に見える。
「なんで脱いじまったかなぁ」
 あれを着ていたら随分とマシだったろうに。振り払うように放り投げた自分には目を瞑り、注意深く身体をはたきかけた手のひらに、俺はぼんやり眺めていた赤いそれを拾い上げた。ちょうどその時。
「すみませんっ!大丈夫でしたかっ!」
 人垣を掻き分けるように飛び込んできた泥だらけの体操着姿の連中は、俺を見るなりそのまま絶句した。
「いや、そんな表情されるほどたいしたことないって」
 意識をこちらへ向けるように左手を握っては開くを繰り返してみたものの、こっちが気の毒になるほど項垂れたまま動かない。
「ちょっと通してくれ。誰も怪我してなかったか?」
 動けない奴らを背中にかばうようにして、前に出たのは同じクラスの尾関だった。どうやらサッカー部の一年だったらしい。その尾関もまた俺を見て渋い顔になる。
「まいったな、ヒガシか。すまん。秋季大会前だって時期にこんな……」
「掠り傷だって。すぐに治るさ」
 痛覚が人より鈍いのか、元来痛みに強いそれは本音だったのだが、尾関は頭を下げたままだ。
「お前等も、気にすんなよ。これはただの部活中の事故なんだからな」
「……でも」
「俺を狙ったとでもいうなら、教育的指導も考えるけど? まぁそんなコントロールが身についたら教えてくれ。そん時には県大会ぐらい楽勝だろーから応援に行ってやるし」
「東倉先輩」
 蒼白だった顔色が少し戻って、俺は笑う。
「あ、お前等土足じゃねぇか。罰としてうちの連中と一緒に、ここ片付けろ。それでチャラ。それでいいな、尾関」
「ほんと悪かった」
「いいって。これでまたしばらく女の子達から慰めてもらえてラッキーだ」
「ふざけたこと言ってねぇで、手当てが先」
 呆れ顔で差し出されたタオル。もうそこについさっきまでの緊迫感はない。
「サンキュ」
「保健室行ったら今日はもう帰れよ」
 ガラスを割った当人達と一年が雑巾だ、モップだ、箒だと慌しく動き始めた床は、すぐに元通りになるだろう。後はただ。
「フォロー、よろしく」
 右手に掴んだままのブルゾンが、僅かに濡れた感触を伝えている。
「ざまぁねぇ」
 不意をつかれた事故。だけど。
「何やってんだか」
 けしてそれだけではないことを俺だけが知っていた。

 

 

 

 

 人影もまばらな放課後の校舎で心配そうな視線を向けられて、そのたびに受けた付き添いの申し出を断りつつ辿り着いた保健室。けれど。開けようとした旧式のドアノブを目前に、今さら躊躇う。
 ブルゾンの赤を少し変色させて紛れている染みと、手のひらを横にはしる傷口。近付いている秋季大会を前に動揺させたくなくて隠したその傷は、カットバンなんかで隠しきることは出来そうにない。
「まずいよな」
 圧迫していたのが良かったのか、出血は止りかけていた。今なら誰も気付いていない。上手い言い訳が見当らないうちに、他の誰かに見られてしまえば意味がなくなる。病院へ直行して、寮に帰るまでに何だかの理由を考えた方が得策だろう。そうきびすを返したのに。
「何してる」
 見咎めるようなそれが、足を止めさせた。突然開かれドアの傍らに立つのは、温厚な保健医ではないことに気付きながら俺は振り返るしかない。
 鬱陶しげに髪をかきあげる華奢な指。冷たく射抜くその瞳。不意打ちに現れた人に、けれど不自然でない台詞を搾り出す。
「水口先生、は?」
「帰られたよ。用事があるとかで、つい先程ね」
 何の興味もないのだろう。相も変らず抑揚のない声で、僅かばかりの視線を投げかけはしたもののまるで目に入らなかったみたいに奥へと取って返す。
「しばらくここにいるなら、忘れずに鍵はかけておいて。後はよろしく」
 手には鞄と上着。帰り支度万全の台詞は、この人なら納得で。保健医不在という有り難い理由も提供された今、素直に病院に行けばいい。そう思ったはずだったのに。
「さすがに気の毒だとか思ったりしませんか?」
 隠していたはずの傷を晒し、吐き出していた。
「フツーは手当てぐらいしてやろうとか思ったりすんじゃないんですかね」
 言いながら、自分でも馬鹿馬鹿しいと呆れる。ありえない。分かっていて、止められなかった。
「あぁ、その怪我」
 無表情のまま、視線が右手に投げられる。それでも。
「俺が?」
 本気か、と聞こえた。自分を取り戻すには十分の一言に。
「ですね」
 つまらない冗談だったと口元が歪む。
「お引き止めして申し訳ありません。どうぞ。お帰りはあちらです」
 深いお辞儀をひとつ見せる間に、隠れるようにそっと息をつく。
「あぁ先輩。何があっても先輩のこと恨んだりしませんから、安心して下さいね」
 たいした怪我ではないことは一目瞭然の、脅しにもならない捨て台詞。汚れたブルゾンを手洗い場に投げ込むと、乱暴なそれに止まりかけていたはずの血が滲んだ。構わず手近にあった洗面器に水を張る。
 利き手の手当てをするのは少々難があるが、もう病院に行く気は失せていた。きっとそのうち血なんか止まる。そうすればどうにでもなる。都合がいいことに、俺は痛みをあまり感じない。
「恐喝なんて、どこで覚えてきた」
 器から溢れてシンクに流れ落ちる水音に紛れ込んだ声が、だから瞬間理解出来なくて。冷静に回り始めたはずの思考が乱れる。
「何のことですか」
 平然と聞こえるようにするには、少しばかり努力が必要だった。まさか。そう思う分だけ、出来るだけゆっくりと追いかけたそこに、上着も鞄も手にしたまま、立ち位置も、強情なまでの瞳もそのままに、その人はいた。
「手」
 静かすぎる部屋に、音が揺れる。一歩を踏み出された先に、予想外の一音に、先を読むことは出来ない。
「いつまでそうしてる」
 読み切れなかった答えが与えられても、それは同じだった。何を言われたのか理解しても先にあるものは見えない。
「言われなくてもさっさと洗え」
 脇机の上に手にしていたものを置いて薬棚に向かいかけたその人は、突っ立ったままの俺を、言うが早いか勢いよく流れる蛇口の水へ追いやる。
「ってぇ!」
「大げさな」
 少しも痛いと思わなかった傷口に触れられて反射的に上げた声は、あっさり切り捨てられる。実にらしい台詞を吐きながら、けれどその左手にはひどく不似合いな消毒液。
「洗ったのなら傷口を高く上げて動かさない。水は止める。ぐずぐずしない」
 こちらを見もしないで薬棚を覗き込んだままの人に、どうして諾々と従う気になったのか分からない。けれど、すぐに後悔した。水音の途切れた空間はひどく静けさを意識させ、その分だけその人の存在を色濃く写して、どうしようもなく落ち着かない。
「右手」
 ピンセットで脱脂綿を摘み上げ、随分と難しい表情で消毒液を傾ける。まるで化学の実験だと緩んだ口元が、その独特の匂いに強張る。
「思ったよりは深くないな」
 注意深く傷口を見ながら呟くそれは実験結果を伝えるようだ。細くて白い指先が、ぼんやりと映る。
「病院は?」
 かけられたそれに驚いて、わずかに反応が遅れた。
「平気ですよ。別に」
「ガラスの破片が残ってたら化膿するって、知らないのか」
 諌めるというよりは無知に対する警告のような一言は、見えない表情と俺の腕と消毒液を何度も往復するピンセットに奇妙にそぐわない。想定外の状況に胸の内がざわざわと騒がしくて。
「運動部の怪我と言えば打ち身か捻挫と相場は決まってるものだけど、切傷とはまた」
 予感させるいつもに、そんな全部を鎮めて欲しくて待った続き。
「何か別なことでも考えてたんだろ」
 用意していた幾通りもの言葉は、けれど消えてなくなっていた。笑って、否定でも肯定でもいい。軽口ひとつで終わらせるつもりでいたのに。目を瞑ったはずの自分を突きつけられる。

 

 

 

 

『楽しみだな、当日が』
 重本の口元に浮かんだ得意げな笑みは、噂の領域でしかないそれをまた一つ肯定側へと押しやったのだろう。居合わせた何人かが、耳をそばだててこちらを窺っていた。
『ホントにな』
 だからすんなりかわしてみせた。それが本当だとして、そんなもの俺には何も関係ない。そう口にするよりも雄弁に見えるように真っ直ぐに瞳を向けて。
『食えねぇヤツ』
 目の前で面白くなさそうに笑ったそいつも、周囲の連中も、きっと全員それを信じた。だけど。胸のうち、何度そう繰り返してもどこかでそれを嗤う自分がいる。
 もしも。そんな仮定一つ。その隣にいる『誰か』を想像して、信じられないほどに囚われる。そんなことを認めるわけにはいかないのに。自分だけ、騙しきれない。

 

 

 

 

 見透かされたような気にさせられても、目の前の人が分かるはずも、まして気に留めるわけもない。黙り込んだままの俺にそれきりかけられる言葉もなく、ありがたいはずのそれを苛立たしく感じている自分を信じたくなかった。
 ガーゼの上から巻かれた包帯はどこかいびつで。だけど。僅かに触れた指先は思ったよりも温かかった。冷たい台詞で拒んだくせに、どんな気まぐれなのかこの手をとった。そんな綺麗なだけの人形だと思っていた人を、知らず知らずに追いかけてしまうのを止められない。けれど。
 駄目だ。
『どうしてあのこがいるの』
 消してしまうと決めた、全て。
『どうして正人なの』
 消したはずの、俺の何もかも。
『どうしてあのこじゃないの』
 許されるはずのないこの名状しがたい気持ちを、消してしまうのに何が必要だろう。
 いらないと、幾度繰り返せばいいのだろう。
 見失いそうになる。手を伸ばしたくなる。
 そんな俺に。
 この場所を立てずにさえいる今の俺に、
「斗真!」
 何年ぶりかに耳にしたそれは、だからこれ以上ない慈悲だったのだろう。レールの上だけを歩くための、自分を取り戻すために。

 

 

 

 

 開け放されたドア。夕日に照らされて伸びた俺の影の向こう。真っ直ぐに向けられたその瞳が柔らかく笑んだ。
「手当て、すんだの?」
 呟くようなそこに含まれる、どこか甘い色。
「ガラスを被ったって聞いて、慌てちゃった。傷は? 見せて」
 優しい声音は、囁くように響いて。
「よかった。これだけだね、酷いのは」
 安堵するように息をついて、包帯の上からそっと撫でられる。その一つ一つが思わせぶりで、無意識にそこに潜むものを見極めようとして何度か目を瞬かせたけれど。
「氷見先輩に手当てしてもらったんだね。斗真。ちゃんと先輩にお礼言った?」
「え、あ」
「言ってないの? ダメだよ、もう。いつだってこうなんだから。世話のやける」
 作り出される親密な空気が意図的なのは分かっても理由までは分からないまま、困惑する俺に坂上は更に極上の笑顔を向けた。
「ほら、斗真」
 促されるまま口を開けたものの、まともな言葉にはならない。それどころかすぐそこにいる人の、きっと無表情のままだろうその顔さえ見ることができないでいた。そんな俺の隣、坂上が丁寧に頭を下げる。
「すみません、先輩。ありがとうございました」
「あ、おい」
 代弁するようなそれに、思わずその背中に触れた。けれど逆に俺の手を取られて、何もかも飲み込むしか出来なくなる。
「病院、今から行こう? 後で色々あっても困るだろ? それにちゃんと診てもらった方が治りだって早いんだよ」
 投げ出されたままのブルゾンにその痕を見て取ったのか、物言いたげに覗き込まれた。
「分かってる。みんなにはその右手の怪我は知られたくないんだよね? ちゃんと協力してあげるから」
 触れていた手がそっと離れても。
「僕を安心させて、ね?」
 吐息も触れるほど、体温さえ捕えられそうな穏やかな温もりが今ここにあってなお。
 気を抜いたが最後、甘い台詞も笑顔もすっ飛ばして、その向こう側へ飛びそうになる。
『いらない』
 もう幾度繰り返したか分からないそれをまた一つ重ねながら、目の前の存在に縋りつく。繋ぎ止めてくれとただ祈る。
「荷物は部室?」
 まるでそんな俺を試すように、その温もりはすり抜ける。
「ちょっと待ってて。帰り支度してくるから」
「あ? いいよ。自分で取りにいくって」
 反射的に捕まえかけた手は、だけどもう届かない。
「大人しくここで待ってるように」
 ドアをくぐり抜けざま言い渡され、向けられた全開の笑顔に抗うことも出来ず閉じられるドアをぼんやりと見送って。取り残されたような気分のまま、ぎこちない空気から少しでも逃れるように俺は片手で顔を覆った。

 

 

 

 

 珍しくもない沈黙が今さらどうにも苦しい。やり過ごせばいいのだと締め出したつもりが、小さな物音を拾い上げてはその行方を追いかけてしまう。陶器に何かがかすかに触れる。ノートが閉じられるような軽いものが続いて、椅子を引く音がその次。立ち上がりわずかに遠ざかる気配。
 用済みの消毒液や器具を薬棚に戻す背中はいつも通り。真っ直ぐに伸びたそこは、何もかもを拒むように冷たい。そんなふうにぼんやり考えて。無意識の内に覆ったはずの片手が外れていたことを知る。嗤い出したくなる衝動を押さえ込むことを放棄した俺は、投げやりな気分に身を任せた。
 まるで自分の痕跡を残すことが我慢ならないとばかりに片付けられたその場所で、何事もなかったかのように鞄を手にした人は一度もこちらを見なかった。いつもと変わらないそれに、俺もまたいつもと同じように顔を背ける。それで終わりにするつもりだった。白い包帯ひとつ。たったそれだけが俺自身を裏切ってしまうまで。
「さっき」
 喉が乾いて、言葉が張りつく。何を言おうとしているのかまとまらないまま、それでも唇は動く。
「さっきの、ことだけど」
「さっき?」
 けれど無理やり押し出した聞き苦しいほどかすれた声は、微妙なニュアンスを含ませた一言に立ち消えた。
「口止めなら必要ない。君と、坂上の関係なんて今さらだろう」
 つまらなさそうに一つ息を吐き出され。
「知ったところで、納得こそすれ取り立てて驚かないさ」
 淡々と根深く残る噂を示唆する。
「特別でも、別格でも」
 いつもと同じ。トーンの変わらない声音がどうして今こんなに寒々しいんだろう。
「君達がどうだろうと、関係ない。俺には」
 受け入れがたい感情だった。まるで切り捨てられたみたいな気がしている。そんな俺に気付きもしないで一歩を踏み出した横顔はもう見えない。
「へぇ。でも俺は関係なくても興味はありますよ」
 無駄だと知りながら仕掛けたそれはだから
「例えば重本とあなた、とか」
 出来損ないの意趣返し。
「いろんな噂を耳にしたけど、まさかあなたと誰かの、なんて聞く日が来るとはね。いつだって誰にだってノーの札しか持たない人が、どうやら今回ばかりは違うらしいじゃないですか」
 茶化すように笑って、楽しんでいる自分を強調する。
「で、ホントのところどうなんです?」
 華奢な背中は微動だにしない。強い、強い人。
「もちろん、俺には関係ないですけど」
 先回りして身構える俺とは違う人。
「あぁ、でも反対陣営につくってならまるっきり無関係ってことはないか」
「答える必要はない」
 出て行けばいいのに。応えなければいいのに。そう思いながら、どこまでも冷静で抑揚のない返答に俺の内に潜む熱がぶり返す。
「だから言ってるじゃないですか。ただの興味だって」
 見えない表情に一息で距離を詰め、手をかけるのを止められなかった。
「それ以上のモンが、あるわけないでしょう?」
 掠めるように触れたのは薄い肩。振り払うように一歩後退さった人のその瞳は、けれど逃げも迷いも見えない。
「お前の低俗な好奇心を満たしてやるつもりはない」
「つまんない人だなぁ。近付くもの全部凍らせるはずのそこで、凍りつかずに残るものがある。そう聞けば知りたくなるのも道理じゃないですか」
「道理?」
 傾いでいく何かを必死で押しとどめ弛んだ力を手繰り寄せて笑った俺に、僅かにその口元が皮肉げに歪んだような気がした。
「そうだな。明るくて楽しいのが代名詞みたいなヤツが、実は何もかも拒絶するような瞳を持ってる。そんなことに気付かない連中なら、知りたくなるものなのかもしれないな」
 不意打ち、意味深に踏み込まれて、喉が鳴った。
「誰にでも優しいふりで、誰にでもいい顔をしてみせて。そうやって人の中には入り込むくせに、自分のものは欠片も明け渡さない」
 硬い声に混じる刺。
「傍にいるなんて思ってるのは相手だけで、本当は誰からも一線を引いてる。本音ひとつ吐かない、嘘で塗り固めたそこで、平然と笑っていられる」
 棘は、抜けない。
「傲慢だと思わないか?」
 抜けないまま、隠し続けていたはずの小さな塊に触れて。
「本当は誰もいらないくせに」
 固く閉じていた殻に刺さった小さな棘は、するりと俺の上っ面を引き剥いだ。言葉も、表情も、自分の中を素通りして引き止められない。
「闇雲になんでも欲しがる」
 何もかもすり抜けていく。
「だろう?」
 問いかけは、けれど確信。突きつけられたそれに、失くすわけにいかないものまで剥がれ落ちていきそうで、考えるより先に身体が動いた。
「随分と観察してるじゃないですか」
 重い音がして、足元に何かが落ちた。けれどそれが何なのか追うだけの余裕はない。
「誰のことかは知りませんけど」
 奪い取るように掴んだ細い手首。
「最低ですね、そいつ」
 うまくコントロール出来なくて緩められない力に、目の前の人の顔をしかめられる。
「もしあなたの分析を聞いたとしても、そういう相手はきっと何も感じませんよ」
 囁くように、喉の奥で笑ってやるのに。
「そうやって、目を逸らすんだな」
 静かなそれに、どんな表情をすればいいのかさえ分からなくなる。繕おうとするたびに、あちこちの隙間からしまい込んでいたはずの何もかもが零れ落ちていく。
『どうして』そう。なぜ、今、あなたなのか。
「凍ってるのは俺じゃない。お前だ」
 負けてしまう。そんな予感に、俺は震えた。

 

 

 

 

「何も、言わないんだ?」
 保健室に戻って来た時も、病院までの道程も。あの数分の親密なそれを消したまま、ただ黙って隣に並んでいた肩が、近くなった駅を前に不意に俺を追い越し立ち止まった。
 アスファルトの上、照らす外灯がまだ遠い薄暗さ。よく通る涼やかな声が、見えない表情を代弁するように響いた。
 それが俺一人残っていたことについてなのか、それともあの時意図的に作り出された特別な空気のことなのか。疑問というより確認に近い問い掛けは、けれど答えを期待してもいないようにも聞こえて。躊躇い迷う視線から、その足は泳ぐようにまた数歩遠ざかる。
「なーんかさ。ちょっと自己嫌悪」
「何で」
 淡々とした語尾に含まれた笑みに影を追いかけて。薄明りの真下、強い光を湛えた眼差しに出会う。
「意地悪だったなぁと反省してんの。あの状況で、あんなふうに焦ってる東倉がいくら面白くなかったっていってもさ」
「なんだよ、それ」
「でも、そうさせたのは東倉だから、もし謝るなら氷見先輩にかなぁ」
「意味分かんねぇって」
 挑むように見つめられて、初めて気付く。今にも泣きだしそうな瞳。
「分からない? 違うよね? 分かってるから知らないふりしてるんだろ」
「坂上」
「ほら。僕の名前を、もう呼べもしないのに」
「ちょっと待て、それは」
「もう、いい加減で自分に嘘をつくのはやめようよ」
 その場に縫い止められたように動けない俺を嗤うように、灯りが瞬き影が揺れる。それに紛れるように坂上は歩き出す。俺を振り返ることも待つこともなく。
「嘘……なんかじゃ、ない」
 誰にも届かない呟き。応えるように、痛まなかったはずの傷が、なぜだか疼いた気がした。

 

NEXT