携帯を切ると、俺はようやくベットから這い出した。カーテンからもれる日差しは、かなり高い。大きくひとつ伸びをすると、椅子にかけてあったシャツとジーンズを身につけて洗面所へ直行する。俺の部屋は玄関に近い場所にあって、リビング奥にある譲の部屋付近には近付かなくても何の支障もない。食事の時間さえ朝練と追加練習のおかげで一緒にとることはまずない。実際一緒に暮らしているといっても、住んでいる場所が同じというだけで時間を共有しているわけではなかった。
「不幸中の幸い、だよな。うん、きっとそうだ」
 それなのに、この天気のいい日曜日。監督は完全休養日にしてしまった。練習がないと喜ぶ連中を尻目に、深いため息をもらしたのは言うまでもない。一日中部屋に閉じこもっているわけにもいかない。また嘘を重ねて出かけるしかないかと寝返りを何度も打ちながら思案していた時、携帯が鳴って、俺は正直ホッとした。
「さてと」
 鏡の前でざっと身仕度を整えてそのまま玄関へ。スニーカーの靴ひもを結び、立ち上がる。約束にはまだ十分時間はあるのに、気持ちが急いていた。そうでなきゃ、俺はまた性懲りもなくあの人を傷つけるに違いない。そうドアに手をかけた時、パタパタとスリッパの音が聞こえ、リビングのドアが開いた。
「でかけるの?」
 硬直するのが自分でも分かった。見るまに表情がこわばる。
「朝ご飯も食べないで」
「メシは外で食うから」
 投げ遣りになってしまう声音に、俺自身嫌気がさす。心の中では何度も謝ってるのに。
「今日は練習、ないんじゃなかったの」
 どうして知っているのか。ま、ジーンズ姿の俺を見れば、練習じゃないことぐらい一目瞭然か。それでもかける言葉をそれ以外には思いつかないらしい。
 俺を呼ぶとき、譲は大抵いきなりこうやって声をかけるか街角で見知らぬ人を呼び止めるみたく「あの」なんてつける。そう。まるで出会ったときのように。ただ違うのは、あの時には知らなかった俺の名前を今は知っていて呼ばないことだけ。呼ぱせなかったのは俺なのにそれにひどい罪悪感を覚えながら、その一方でぶつけようのない怒りも感じていた。理不尽だと思いながら。
「ちょっと呼び出されたから。夕飯もいらない」
 なんの抑揚もない声は冷たさを増して聞こえる。一瞬目があった譲は、ほんの少し眉をひそめた。
「そんなに、遅くなるの」
「俺の帰宅時間が何か関係あんの? お互いガキじゃないんだからさ。それとも何? 兄貴ヅラでもするつもりかよ」
 傷つけた、と思ったときにはもう玄関を飛び出していた。いつもいつも、俺はどうしてこんなに傷つけるばかりなんだろう。

 

 

 

 

「どうせ嫌われてるんだし」
「はっ!?」
 呼び出されたカフェ。のんびり寛いだふうを装いながら、胸の中は今朝出かけのやり取りで傷つけたはずの人の姿がちらつきっぱなしで目の前の後輩の話もどこかぼんやりと聞いていて。
「せんぱーい。いったい何の話?」
「誰かに何か言われたんっすか?」
 いきなり捲くし立てられて、どうやら何度となく繰り返していたそれが無意識に零れ落ちていたことに気づく失態。
「え、まさか貴先輩のこと?」
「ありえないっすよ、それ。いったい何の冗談です?」
 まさか。冗談。確かに一年前の俺ならそんなこと考えもしないし、誰かにどう思われていたってかまわないとさえ思っていた。だけど今は違う。確実に一人。自業自得で状況は悪化し、それでも情けなくもうだうだと考えてしまう相手がいる。もちろんそれをここで口に出来るわけもないのだが。
「貴先輩?」
 声同様、まん丸な目にも、不安を色濃く落として俺を見つめる光樹。隣には、それに敏感に反応してそのキリリとした眉を上げる沢木司。そして
「まさか本気で煮詰まってます?」
 いつも冷静で、下手をすれば俺なんかより大人じゃないだろうかと思わずにはいられない真鍋慎一郎を目の前に、俺は笑う。言い当てられた驚きを年上の見栄とプライドでごまかして。
「電車の中で女子大生のお姉様方に『実物はイマイチ』だとか『暑苦しいお子様』だとかいわれて繊細な俺はへこんでるのさ」
「ええーっ! 何それ」
「自分が近づけないから言ってるだけっす。気にすることないっすよ」
「そっかなぁ」
 ちょっと気弱に呟いてみれば、強気で肯定して一生懸命で。誤魔化すための嘘に、フオローしようと必死な後輩を見ていると穏やかな時間が取り戻せそうな気がした。それはついこの間まで当たり前に手にしていたものなのに、ひどく懐かしい。
「そういや光樹、お前あの後無事に時間内に帰れたのか」
「もちろんですよ。崎のヤツがぽーっとしてるんで、用事は俺がすませたようなもので」
 え、なに、どーいうことだと司が光樹に説明させている。慎一郎は相変わらず穏やかなまま、窺うようにあちこちに視線をやっている。
「なんだよ、そういうときには俺も連れてけって。お前らだけじゃあぶねぇよ」
「なんだよ、どーいう意味だよっ」
 司にお子様扱いされたと光樹は食って掛かるが、どうにも司は煮え切らない。それでますます光樹のご機嫌は悪くなるんだが。で、何があぶねぇってやっぱ光樹もアイドルの端くれだってことなんだろうけど。自覚ないからなぁ、こいつも。
「わけわかんない。司、小姑みたいにうるさいよ、時々」
 小姑といなされて、ため息をついている司をよそに光樹は嬉々として俺を見た。
「貴先輩。今日は完全休養日なんですよね」
「あ、そうだけど」
「俺達、今日の練習二時からなんです。もし時間があればやりませんか?」
 時間なんて全然問題はない。こいつらと別れたら、一体どこでどうやって時間を潰そうかと、そればかり考えていたのだ。だけど、俺はうん? なんて視線を上げてみる。
「近況報告っつーより、実はそっちのほうが本題っていうか。貴先輩さえよければぜひ。新入部員も寄ると触ると先輩の話ばっかで。すごく喜びます、あいつらも」
 迷っているふうを装う俺に、光樹を後押しするように落ち込みから復活したらしい司が後を受ける。二人ともすでに半ば椅子から腰が浮いていた。
「そうだな。沼田先生にも会いたいし、久しぶりに一緒にやるのもいいかもな。俺をブロックできたら夕飯おごってやるか」
 どうだ? とばかりに片目を閉じる。答えは一つしかないことも、それを安心して見ている自分がいることも知っていたから。

 

 

 

 

 久しぶりの中等部のコートは沢山の声援と視線についつい本気にさせられて、光樹や司に『無情の貴先輩健在』と言われるほど、何もかもが面白いくらいに決まった。馴染みのコートの中で、ほんの少し前までの自分を追うと、その間だけは救われるような気がした。
「司、全然ブロックで止めらんないんだもんな」
「そんな簡単に言うなよ、光樹。相手は貴先輩だっつうの」
「だってさ。セッターは慎一郎じゃないんだもん。振り切られてるわけじゃないんだから一度ぐらい止めろよ」
「修業が足りん、修業が」
 休憩時間を与えられ、コートの中に座り込む後輩たちを尻目に光樹と司は実に楽しそうにコートの中を走り回っている。
「光樹、司。そんなに元気が有り余ってるんなら、まだまだ動けるな」
「貴先輩……」
 とたんに急停止した二人に、俺は思わず吹き出した。
「そんなに笑うことないでしょう」
「いやいや、別に笑ってなんか」
「それを笑ってるっていう以外になんていうんすか」
 こんな穏やかな気持ちでいられることが久しぶりで、俺は心の奥で安堵した。見誤りそうなほど一杯一杯な自分をほんの少し忘れていられた。まだ大丈夫かもしれない。そんな根拠のない気持ちにさせられる。
「貴先輩、タオルどうぞ」
「サンキュ」
 慎一郎の声に、差し出されたタオルを受け取ろうと右手を伸ばすと、その先にかたまる一年生の視線に戸惑う。これがなければ、もっと落ち着くよな。きっと。
「みんな貴先輩のこと、神聖視してるんですよね。何と言っても全日本ユースのエースですから」
 そんな思いを察知したのか慎一郎はそう耳うちした。言われて急に、向けられるそれを意識してしまう。純粋な瞳。
「神聖視ったってなぁ、別段俺は完璧なんかじゃないし」
「それはもちろん、俺達もよく知ってます」
「このやろ」
 慎一郎の言葉を余裕で切り返し、さりげなく体育館を抜け出す。素直すぎる羨望の眼差しは、いつだって照れ臭い。
「相変わらず、ああいうの苦手なんですね」
 後から真っ白のパーカーが差し出される。
「テレビカメラもフラッシュも、大勢の記者さんだって平気なのに」
 そいつは笑う。俺は目だけでそれを止め、その手にあるパーカーをさらう。何度か見たことのあるそれは、慎一郎のものだ。今さら見栄を張っても仕方のない相手ではある。いくら表情で余裕を繕ったところで、慎一郎だけは誤魔化せない。一つ年下の名セッターには何故か勝てないのだ。
「個人練習も苦手、でしたよね。確か」
 ギクリとさせられる。何も知らないはずの慎一郎の言葉ひとつに。
「最近の先輩の噂くらい、俺の耳にだって入ってるんですよ」
「俺の噂? 妙な新興宗教には関わってないつもりだけどな」
「貴先輩」
 冗談でうまくかわしたつもりの俺を、真顔で見つめてくる。こういう時の慎一郎は俺なんかよりも数倍大きく見えて、正直まずい。何だか全部を見透かされてる気にさせられるんだ、情けなくも。案の定慎一郎は、まるで子供を諭すような口調で言葉を続けた。
「どうせ嫌われてるって、誰にですか? まさかホントに見も知らないオンナなんかじゃないんでしょう?」
「おいおい」
「特別なヒト、できたんですね」

 

 

 

 

 家に近くなればなるほど歩調が遅くなるのが分かる。慎一郎の言葉は、俺を暫く動揺させたけれど、あいつは特別。あの人に気持ちが伝わることはない。
「冷たくて嫌な奴だって、思ってるもんな。きっと」
 そう思わせているのは自分なのに、どこかで俺の気持ちに気付いてくれないかな、なんて考えてる大バカヤロウ。
「我がままで陰険な最低野郎。お前の評価なんて、それで上等だろう?」
 知らずにもれるため息を追うように顔を上げた俺は、煌々と照らされているエントランスを前に足が止まった。カーテン越しの明かりに、思わず来た道を振り返る。真っ暗な道はポツリポツリ街灯に照らされている。暗闇の下、ぼんやりとともるその灯りが、あの人の微笑みと重なっていた。ギクシャクした同居生活は、暖かさとはかけ離れている。どんなに俺が悪言雑言を吐いても、あの人はこんなふうにさみしげに笑う。同じ家に住みながら、時間も、場所さえ共有しない二人。
「あの人にあんな表情しかさせられないなんて、な」
 戻りたくて、戻りたくない場所に、俺はようやく足を向けた。

 握り締めていたキーホルダーをようやく机に置くと、鍵と触れたそれは小さな金属音をたててわずかに息を飲む。帰宅を極力気づかれないように音に敏感になったのも、窓からの明かりを外から確認するのも日常になってしまった。玄関からリビングの明かりも見えたが、それもまたいつものことで。だから譲もいつもどおり部屋にいるんだろう。
「風呂はいって、寝よ」
 重い疲労感を振り払うようにリビングを抜けようとして、いつもと違う状況に立ち止まる。ダイニングテーブルに突っ伏すように、パジャマ姿の譲がいたからだ。テーブルの下には丸まったタオルが落ちていて、よく見ると風呂上りらしく半乾きの髪の毛が、上気した頬と首筋に張り付いている。正直な心臓は跳ね上がり、視線も釘付けになる。それでもいつも通り、無視してしまうつもりで一度は通り過ぎた。だけど。
「やっぱダメだ」
 ブランケットを引っ張り出し、薄い背中にそっとかける。濡れたままの髪は気になったけれど、迷った末に乾いたタオルでその頭を覆った。触れてしまえば何かが溢れて零れ落ちそうで。それが怖いと思いながらその手が自分を裏切り、そのまま伸ばす先を誤りそうで。行き先代わりに拾い上げたタオルは、ふわりと香った。それが自分と同じシャンプーの匂いだと気づいて、思わず取り落とす。と同時。
「あ、れ……」
 かけたタオルが肩へ滑り落ちる。立ち去る間もなく、その綺麗な瞳は俺を映した。久しぶりに見たそれに内心酷くうろたえながら、状況のつかめない譲より、間違いなく俺に分があると言い聞かせた。だけど。
「おかえりなさい」
 たった一言で、それもどこかあやふやなものになる。
「……これ」
 背中にあるブランケットと乾いたタオルに戸惑っている譲から視線を引き剥がし、俺は先を急ぐ。
「風邪なんかひかれちゃメーワクだからな」
 らしい台詞。だけどなぜだかどこか頼りなく言い訳じみて聞こえて、かえって追い込まれた気さえした。取り繕えば繕うほど、綻びは大きくなる。それなら残される手段はただひとつ。平然と譲の足元にあるタオルを手に退場するのみ。
「あ、あのっ」
 背中に届いたその声に、あの時の譲が重なった。おめでとうと続いた、あの時。見送った後姿を思い出してしまった。だから俺はそれに引きずられるように振り返ってしまったのかもしれない。
「ありがとう」
 大事そうにブランケットの端を抱き寄せてその人は笑っていた。まるであの日のあの人がそこにいるように見えた。何も始まっていなかった、名前も知らない人のそれが見たいと思ったはずの俺は、その笑顔を前に声もなく逃げ出していた。
 目の前には情けない表情をしたまま、どこか物言いたげな顔。うんざりする。たったあれだけのことで、陥落してしまいそうになる自分。笑顔ひとつで、なにもかも押しのけて抱きしめたいと思った自分。鏡に映る俺は、年相応に見えてなんだか笑えた。それが本当の自分のような気がして。

 どのぐらいそうやっていたのか。洗面台横の棚に置かれた携帯に気付いたのは、だから少しばかり遅れたかもしれない。細身の二つ折り。シルバーのシンプルなそれ。初めて見る、それは間違いなく譲のものだろう。
「とりあえず、いるよな」
 これがどのぐらい譲にとって必需品か、俺は知らない。小さな液晶部分には時間が表示されているだけ。それでも。
「さすがに俺がでるまで探しに来れないだろうし」
 リビングにでも置いておこう。そう決めて掴んだ携帯は、計ったようなタイミングで鳴り始めた。静かなイージーリスニングは、音量も絞ってあったものの、時間帯のせいなのか響いて聞こえてせかされる。部屋まで呼びに行くべきだろうかと思う間もなく、それは持ち主の手に戻っていた。
「見た?」
 触れた指先の感触もないほどの勢いで、鳴り続ける携帯もそのままに、俯いたままただそう聞かれた。主語のないそれが、携帯の中身を見たのかと聞いているのだと気付いて一気に冷える。
「何を」
 もしかして、なんてつまらない誤解をしてしまいそうな気がした。ありえない未来を考えてしまいそうな気がした。そんな全てが見事に砕け散った。
「興味ないヤツの何を見るって?」
「あ、ごめんっ! そんなつもりじゃ……」
 黙って人の携帯を勝手に覗き見るようなヤツだと思われていた。その程度か、俺は。
「うるせーから、早くでろよ」
 約束でもしているのか。いっこうに切れない電子音を俺は締め出した。
 初めて会った頃には戻れない。そう仕向け続けているのは俺。自業自得な状況にそれでも苛立つ。絡まってほどけなくなった糸みたいに自己嫌悪にがんじがらめになったまま。

 

 

 

 

「今日の日直は守だったな。昨日のプリントを集めて職員室まで持って来い」
 六限目終了のチャイムと同時に、既に鞄を手にしていた俺に向かって落ちた無情の声。現国の兼田に逆らうほどバカではないし、まして代わってやろうなんて奇特なヤツがいるわけもなく、俺は掴んだ鞄を机上に投げ出すと、教卓前で大声を張り上げる。
「おら、さっさと出しやがれ」
「守、早く部活にいきたいのは分かるんだがな。仮にも現国教師の目の前だ。もう少し美しい日本語を使うように」
 抱えた資料で頭に一発おみまいされ、兼田はドアの向こうへと消えていく。
「痛ぇなぁ。これ以上俺がバカになったら責任とってくれんのかよ」
「いや責任のとりようが無いといわれるのがオチだって、お前の場合」
 笑うクラス委員の中平に、俺は黙って拳をくれる。
「おらっ! 後から集めろよ。糸川! お前で止まってんだよ。とっとと出せ」
 手元に集まるプリントを、イライラと卓上で乱暴に揃える。
「急いでんねぇ、守君」
「何だよ。そう思うなら、少しは手伝おうかぐらい言えよな」
「いやいや先輩には遅れる理由を伝えなきゃな。いやぁ俺って友達思いの良い奴だ」
 自称友達思いの友人一同は、あっさり背中を見せる。俺は誰かに押しつけようとすることを諦めプリント枚数を確認。足早に職員室へと向かった。
 一年棟のある別館から、職員室や二、三年生のある本館は歩いて三分、走って一分。別にたいしたロスタイムというわけではないのだが。
 職員室の手前、約五メートル。それに気づいたとき俺は心の中で悪態をついた。どこか人待ち顔で職員室前の壁際にいる、あの人の親友。あの人のトクベツ。メタルフレームの眼鏡が、いっそう理知的にみせてムカつく。出来すぎな頭と穏やかな空気。あの人の傍にいるための必須アイテムを引っさげたヤツ。
「最悪」
 つい零れ落ちた呟きがまさか聞こえたわけではないだろうが、そいつはまるで何かに引かれたように視線をさまよわせ、俺を捕らえた。眉をひそめられて感じる非難にさらされて、苛立ちばかりが先行する。何かいいたげな眼差しが、まるで『ガキ』だとわらっているように見える。
 そんな全てを俺は無言で振り切ることに決め、ヤツを視界から意識的に外した。どうにもならなくなってしまった。何もかも。
「おい」
 インターホン越しに聞くより低い声。突き刺さるような視線に晒されながら、けれど背中をたたかれた別の手に難なく言い訳を手にしたことに気づく。
「守、こんなところでどうした。まさか呼び出しじゃないだろうな」
 将来はバレーで身を立てると公言している俺は、学生の本分では不出来な生徒だ。だから顔が広い分だけ教師連中から小言の一つや二つは挨拶代わり。いつもは閉口するこれもこんな状況で初めて役に立った。
「違いますよ。これ、見えませんか?」
 見知った教師に手の中のプリントを見せるようにして、完全にその姿に背を向ける。無視したわけではない。そうせざるをえない状況だと思い知らせるように。
「バレーもいいけど、ちゃんと勉強しろよ」
「善処します」
「努力します、だろうが。まったくお前は」
 そして両手のふさがっている俺の前で無事職員室のドアは開けられた。

「失礼します」
 入ると同時に兼田の席、というより山のように積み上げられた資料を探すと、すぐにくたびれた背広に行き当たった。机上の様子は噂通りだと躊躇なく近付こうとした俺は、その場で縫いとめられたように動けなくなってしまった。
 うずたかく資料に埋もれた向こう。さぞや迷惑しているに違いない見知らぬ教師を気の毒がったその前、俯いたまま立っているのは間違いようもない。
「おい、守。兼田先生はそこの席だぞ」
 ピタリと動きの止まってしまった俺は、肩をたたかれて取り落としそうになったプリントを握り締めた。まさかこんなところで会うなんて。不意打ちを襲われて硬直する自分を宥めながら、ぎこちない足取りで兼田の背中へ、譲の側へと近付いた。
「失礼します。先生、これ」
「お、枚数確認するから、ちょっと待て」
 プリントを差出した俺は必死で耳をそばだてる。ただその声を追い掛けた。
「しかしな。ここんとこ成績、落ちてるぞ。お前らしくないな、井澤。どした」
「……いえ、別に何も」
「何もなくてここまで落ちるか?お前この前の学力テスト五十番は落ちただろ」
 五十番……? 譲の顔色は見ることはできないけれど分かる。きっと可哀相なくらい、真っ青なこと。
「中等部の頃から守り通した二桁順位だろ?ここ最近は、集中力も散漫だしな」
「申し訳ありません」
「そうはいってもなぁ」
 二桁順位……それは感嘆のため息よりも先に俺自身を落ち込ませた。譲の成績不振は、紛れもなく俺の責任なのだろう。優しい譲の好意をことごとく冷たい台詞と態度で蹴散らして、必死で兄弟になろうと努力してる譲を完全に無視する俺。それでもなお、きっとその胸の中では、どうすればいい兄貴になれるのか考えているに違いない。
「……!守!」
 呼ばれて、俺は現状に引き戻された。目の前には呆れたような眼差しの兼田。
「何をボーッとしとる。帰っていいとさっきから言っているのに。早く待ち焦がれた部活に行ってこい」
「あ、すみません。それじゃ失礼します」
「ボーッとして怪我すんなよ」
 俺はほとんど九十度のお辞儀をして、クルリと反転。職員室を逃げ出した。そばに俺がいたという事実に気が付いてしまった譲の、今にも泣きだしそうな眼差しが痛くて。だけど。そんな表情をさせてまで、俺はやっぱり優しくなんて出来そうもないのだ。情けなさと、悲しさで俺は唇を咬んだ。

 

 

 

 

「明日の練習は朝九時から、遅れるなよ。それじゃ解散」
 顧問がいなくなると、とたんにコートは賑やかになる。俺は一人、かけられる言葉に笑いながら、けれど息が上がったふりで曖昧に応えた。
「だけどあそこ練習試合の申し込みがあまりに多いんで、完全順番制っていうじゃん。しかもレベルによっちゃ受けてももらえないっていうし」
「相手は選ぶだろ。全国大会常連だかんな。何のための練習試合かって」
「だけどそこからのお申し込みとはな。ちょっとすごいんじゃねぇの?」
「でもなぁ、正直なんでうちよ?」
 身体は動く。速攻もサーブも、ブロックだって決めた。それなのにどうしてこんなにぼんやりしているんだろう。盛り上がる周囲の声が遠い。
「桜華台かぁ……福原がいんだろ?」
 聞き慣れた、尊敬する人の名前。それもどこかあやふやな気がする。何もかもこの腕からすり抜けていきそうだ。
『練習試合、申し込んだよ。暁星に』
 突然の電話。
『お前が選んだものが正しいかどうか、俺達に見せてくれよ』
 携帯から聞こえた声は、ほんの少し意地悪くそう笑っていた。だけど。
『証明してくれるんだろ。でなけりゃ』
 正しかったかどうか、今の俺には分からない。
「お前、うちのエースだろ」
「え?」
 繋ぎ止められる何かが、飛びそうな意識を引き戻した。けれどそれが誰かの言葉だと気付くには、ひどく時間を要したらしい。いつまでたっても反応の無い俺の肩には、濃紺のブルゾンが投げられた。少々乱暴に。
「自覚が足りないぞ」
 振り返るよりも早いその声に、まるで遮られたように何一つ口に出来なくなる。外見には出していない自信があった。それなのにどうして分かったのか。素直な疑問と、ほんの少しの狼狽。温厚で、怒るという事には無縁の岡江キャプテンの静かな声が届く。
「俯くな。しっかり前向いてろ」
 流れ落ちる汗をシャツの袖口で拭く。厳しい口調だった。だけどブルゾンごしに背中を叩かれた、その手は暖かくて。
「守、関井の奴とモップかけてくれる?」
「あっ、はい」
 コートの真ん中で動けなくなった俺を押し出すように、マネージャーの沖さんはやわらかく微笑んだ。
「岡江の言ってること、分かるよな。あいつはお前に滅茶滅茶期待してるから、ついつい厳しいこというんだ」
 『しっかりな』沖さんの言葉は、そんなふうに聞こえて、何だかとても泣きたくなって困った。

 

 

 

 

 エレベーターの扉が閉まる重い音が、今の心境に重なる。何かがわずかに凪いだような気がして自主練習を早めに切り上げた俺は、自分ちのマンションから出てくる高森と鉢合わせしたのだ。
 先日の職員室前にいたのも譲を心配して待っていたに違いない。校内でこいつと楽しそうにしている譲を見るたび、何度唇を噛み締めただろう。上背のある俺に負けてはない。どこか自信ありげな風貌がいらつく。そんな負の感情は正比例すると何かで読んだことがある。それはどうやら正しいらしい。
「お前、何様のつもりだよ」
 睨み付けられて納得する。そうか。こいつには全部話せるんだ。俺との辛い同居生活の愚痴もこぼせるんだと思ったら、どうしてだか笑いがこみあげてきた。
「ちょっと有名だからって、図に乗ってるんじゃないのか」
 有名、か。あの人がしらない程度に、ね。そう考えると同時こぼれたそれに、高森はいきりたった。
「お前っ!」
「有名なの分かってるならやめてもらえますか。こんなとこで大声出すの。俺の外聞にかかわるんで」
「外聞、ね。他人の事のほうが大事か」
「お偉方は揃って自己管理に煩いんですよ。チーム編成に影響したら困るんで」
 一度たりともそんなことが気になった事はない。だけど今、こいつを追い払うには高慢で、底意地の悪い、多分あの人から聞いただろうはずの守貴広でいなければならない。
「言いたい事はそれだけですか。終わったなら帰ってくれます?」
「最低だな。お前みたいなヤツ、身内になるんでなきゃ譲だって」
 急所を心得てるヤツだ、と思う。それでも気取られるつもりはない。
「それゃ災難としかいえませんけど。ただそれも、お互い様なんで」
 露悪的に言い放ち、ことさらゆっくりドアの鍵を開ける。
「それじゃ高森先輩、さようなら」

 玄関に足を踏み入れたとき、違和感を憶えた。ヤツがいままでいたはずの玄関やリビングが真っ暗で物音一つしない。いつも通りそのまま自分の部屋に入ってしまおうかとも思ったのだが、何だかやっぱり気になって、真っ暗なリビングに足を踏み入れる。暗闇に目が慣れなくて、壁ぎわの電気のスイッチを指先で探した。
「帰ってるんだろ」
 半ば乱暴に言葉を投げた俺は、蛍光灯の灯りの下、放り出された制服の上着と鞄、そしてそのソファに身体を投げ出すように横たえている人を見た。
「う……ん」
「おい」
 俺の声に、かすかに反応するものの苦しそうに眉を寄せる。そのとたん、いろんなこと全てがどこかに消えてしまった。スポーツバックも鞄も放り投げ、そっと頬を両手で包み込むように触れる。その頬は体温の上がり具合をきちんと伝えた。
「熱がでてんな」
 意識が無いのを幸いに、この時とばかりにその顔に見とれる。
「壊れちまいそうだ」
 初めて触れるその人に、背中は震える。その熱にあてられて俺まで体温が上がる気がした。どうやら俺は、もうきっと誰にもどうにも出来ないくらいにこの人が好きらしい。どうしてなんだろう。
「兄さん、だなんて言ってあげられれば笑ってくれるのかな」
 きっともうどうにもならない。誰にも揺れない。こんなにせつなくはさせない。この人以外には。抱き締めている、今、この瞬間。もしも目を開ければ、どんな顔をして俺を見るのだろう。自虐的な考えだと思いつつ俺は眠るその人を見つめ、ほんの少しだけ抱く腕の力を強めた。

 

 

 

 

 氷枕だ、タオルだ、洗面器だと、部屋とキッチンとを何度か行ったり来たりした後は、すっかりベッドの隣に落ち着いてしまった。譲の引越し以来、初めて入ったブルーを基調にした部屋は、予想通り綺麗に片付けられていてあまりのらしさに笑ってしまった。その部屋の住人は、時折眉をしかめて寝返りをうち、額に置いてあるタオルをそのたびに落としたけれど、熱は少し下がっているようだ。
「とりあえずダウンする前に着替えててくれて助かったよ」
 病人をソファにおいたままにしてはおけないから、と誰に言い訳が必要なわけでもないのにそう繰り返し抱き上げて運んだ。それだけでいっぱいいっぱい。さらに制服のままだったら、着替えという作業手順のひとつが別の意味を持つ手になったかもしれない。上気する頬に、わずかに開いた唇に、汗ばむ首筋に、こんな気持ちにさせられるのなら。
 そっと辺りを見回すと最初に目に付くのが窓際にある机上の写真。母親と映っている。中等部の入学式のようだ。写真の向こうでもやっぱり笑ってる幼い譲は、高森といるときのそれと重なる。
 いつのまにか手の中のものを強く握り締めていた。そこには、譲の携帯がある。ソファから運ぶときに落ちたのか、電話をかけようとしてそのままになったのか。開いたまま床に転がっていたのだ。見るでもなく拾い上げて、俺はあの日何を譲が隠そうとしたのかを知った。
「待ち受けになんか、してんじゃねーよ」
 液晶の中で笑うヤツ。
『テツ……?』
 抱き上げたとき、不意に零れた名前。焦点の定まらないままの瞳が僅かに開いて。俺を見ながら俺ではない人を呼んだ痛みは忘れないだろう。
「高森の傍じゃ、こんなふうに綺麗に笑うんだよな、あんた。あいつが来たのも、きっとあんたが心配で送ってきたんだろ」
 想いを振り切るように、眠っていると知っていて話しかける。
「あいつといると、俺と違って安心できるんだろう?何もかも分かった顔して、出来損ないのオトート候補に本気で怒ってさ。あいつ、あんたが本気で好きなんだな」
 テーブルの上に並んだまま置かれていたマグカップ二つ。客用ではないそれが、苦かった。二人の距離の近さを見るようで。
「紅茶党だったんだ。いまさらだけど」
 カップの底に残っていたそれ。引っ越してきたあの日、俺が淹れたコーヒーをいつまでもスプーンでかき混ぜていたっけ。
「そんなことすら知らなかった」
 同じところに住んでいるだけの俺達。
「あんたも、あいつが好きなんだよな」
 口に出して後悔する。怖い、とただそう思った。自分が怖い。
「結構人気があるらしいもんな。英語部なんてすっげーカタイとこにいるくせ、雰囲気は体育会系だし。俺と違って頭もいいし、お似合いって言われんのも、当たり前か」
 俺は額のタオルをそっと取ると、ぬれた髪にそっと触れる。
「比べらんねぇよな。比較になるわけない」
 しんとした静けさの中、変則的な寝息だけがそれに触れていた。俺はただその息を、寝顔を、追い、見つめた。
「もう少しだけ眠ったままでいてくれよな。もう少しでいいから傍にいさせて。今だけあんたの特別なヤツになった気分を味あわせてくれよ」
 先輩でも友人でも、まして義兄なんかじゃない。いつだって特別になりたかった。
「もしも、なんて考えたことなかったけど。今はちょっとだけ考えるよ」
 身勝手すぎる自分に苦笑せずにはいられない。心を砕いてくれている人の、似て異なるその気持ちが耐えられなくて苦しめているなんて。
「兄弟なんてならなけりゃ」
 柔らかい髪を梳きながら、俺はただ繰り返した。
「もっと早く、会えてたら。俺達はどうなってたんだろうって」

 

 

 

 

「電車じゃ間に合わないな」
 日曜の朝。時計の針は午前八時二十五分。遅刻ギリギリのそれに、迷わずマウンテンバイクのキーを手にした。
 あのままうたた寝してしまっていたらしい俺は、眠りから醒めたとたんベッドの足元という状況に動揺させられながらも、そっとその額へ手を伸ばす。完全に下がってはいないが、昨日ほどではない。これなら大丈夫そうだと安心したその数秒後、時計を見た俺はそれに気づいた。大慌てで身支度しながらも、穏やかに眠っている人を起こしたくはなくて極力静かに手早く用意してリビングを出たのだが。
「原先生にでも頼んどくか」
 親父の長年の友人である原は、開業医だから日曜なら自宅にいるだろう。休みのところ申し訳ないが、往診に来てくれるぐらいには古い付き合いだ。俺は迷わず胸ポケットから携帯を取り出した。
「あ、原先生? 久しぶりです。貴広です」
 さすが医者。コール三回もしないうちに応えた相手に、玄関へ向かいながら手短に説明する。
「そう。申し訳ないけどお願いできますか? 多分風邪だとは思うんだけど。熱は大分下がってるから。え? いやお粥は作ってる。あ、じゃ悪いけどそれじゃ来るときに果物かなんか。うん。あぁさすが由紀さん」
 ブルゾンとドラムバックを片手に、行儀悪くスニーカーの踵を踏みつけたままドアの鍵を開けようとした。
「それじゃ由紀さんに」
「……の」
 まるで行き先を失ってしまったように、その手が伸ばせなくなる。いつもと違うかすれた声。声、というより音のようなそれ。思わず振り返った俺の目に、上着も着ないで部屋のドアを開けたままどこかぼんやりしたその人が飛び込んできた。
「どこ、いくの」
 熱のせいか、大きな瞳が潤んで見える。年上のはずのその人は、まるで小さな子供のように頼りなげで。その瞳は瞬きを何度か繰り返し、そして閉じられた。ドアに背中を押し付けるように崩れ落ちる身体と同時に。
「譲!」
 俺は忘れた。時間も、バレーも、今までのことも。その声に、その瞳に忘れた。抱き締めた譲は力の無いその手で、Tシャツの背中にしがみつく。
「ここにいて……」
 そう言ったきりそのまま、また意識をとばしてしまう。
「誰、呼んでんだよ。俺は高森じゃねぇぞ」
 どこにもいきたくはない。ここが俺の居場所だと言えれば、どんなにいいだろう。腕の中、無防備な表情で眠る人を、どんなに傍で見ていたいと思っただろう。けれど俺の想いと、この人の俺に対する想いは、どこまでいっても重なることはない。
 突き上げる衝動を押さえつけられなくなった瞬間。俺は触れていた。別の男の名前を呼んだその唇を塞ぐように。熱に浮かされていたのは俺の方だったのかもしれない。
 ぬくもりを抱いたまま、弾みで落とした携帯を床から拾い上げる。とりあえず心配しているだろう人を安心させるために。それ以上に少しでも早く第三者をここへ呼ぶために。

 

 

 

 

 色を変えたコンクリートの上で、それはさらに激しく跳ね上がっている。ささやかな屋根の下、マウンテンバイクを背中にしたまま見るともなく眺めながら、運の悪さを駄目押しされている気がした。
 一時間以上の遅刻は顧問の一喝と岡江さんの厳しい眼差しに迎えられ、調子も上がらず単調なミスを繰り返すというお粗末さで練習は終わり、その挙句が遅刻の罰と言い渡された後片付けが終わる頃のこれだ。
「頭冷やせってか」
 無理やり原先生を部屋に押し込んで、手にしていたままだった鍵で機械的にマウンテンバイクにまたがり、逃げ出すように飛び出した。曇天だったことに気づきもせずに。
「なんかもう、自信ねぇし」
 今までだって余裕があったわけじゃない。だけどもう言葉で傷つけるだけでは終わらなくなりそうで、あの人を見た自分がどのくらい冷静でいられるかが分からなくて怖い。いつまでもこうしているわけにはいかないけれど、ぐずぐずと雨脚に気をとられているふりで自分をごまかす。
「告ってチャラにしちまうか。ってその前に押し倒しそうだな、俺」
 冗談にもなりそうもない状態に、片手で顔を覆う。もしも好きだと言ってしまえば、あの優しい人は嫌悪するだろうか。もう一度意識のある状態でキスしたら、兄弟だなんて二度と思わず口もきかなくなるだろうか。いっそそうすればいいじゃないかと思うその半面で、軽蔑されるのも嫌だと主張する自分がたまらなく不快だ。
「まるでエゴの塊だ」
 あの人の前では少しもオトナになれない自分が情けなくて、はがゆい。考えてみれば、一度会っただけの人間を覚えてなくても当然で、所詮その程度の印象しか俺が与えられなかったということで。オトートだって、それはそれで特別だと、そう思おうと何度もしたのに。
「それが嫌だって、お前何様だよ」

 見たままの激しさの中、半ばやけになりながらマウンテンバイクに乗って、全身ずぶ濡れになりながらマンションまで帰ってきた。うちの駐車スペースにも来客用スペースにも原先生のシルビアはない。防水加工がうりの腕時計の水滴越しの盤面に納得しながら、エントランスを抜けようとしたとき、思わぬ声に引き止められた。
「なんて格好で帰ってくるかな、タカ。大事な肩、冷やすなよ。エース」
「福原さん……」
 全日本メンバーでもある人がそこにいた。薄いショルダーバッグ一つ。部活帰りの俺よりよほど身軽な格好で、長い足を持て余し気味にソファに座るその人は、ちょっとそこまで来たから、なんて言いたげに笑ったけど。そんなことはありえない話で。
「遅かったな。待ちくたびれたぜ」
「え、あ、それは申し訳ありません。って、どうして、こんなところに」
「こんなとこまでなんで来たか? ま、暁星の偵察でないことは間違いないな」
 あの日の電話を思い出す。
「とりあえず話は後にした方がよさそうだ」
 立ち尽くす俺の足元には小さく水溜りができていた。体調管理も一流選手の必須条件だと常に言っている人は、エレベーターホールを指差して、先を促す。
「ここで待ってるから。着替えて来い」
 突然の来訪。驚きはしたものの立ち直るのも早かった。そう。言われるでもなく話の見当はついている。だったらなおのこと、ここですべき話ではない。俺以上に露出が多い福原さんと連れ立って外出というのもいい手とは思えない。
「あがってください」
 家に戻ればあの人がいる。逡巡したのはわずかだった。
「中で、話を聞きます」

 頭を拭きながら部屋に戻りかけ、濡れた廊下に気づいた。慌ててスポーツドリンクのペットボトルを床に置き、手にしていたタオルで雨の跡を拭き取りながら玄関まで来て、ついさっきそこで立ち止まった福原さんを思い出した。そこにあった明らかに俺の靴より一回り小さな革靴を興味深そうに一瞥された時には、なぜだか胸の内を覗き込まれた気がした。
 回り始めていた洗濯機を一度止めタオルを投げ込むと、置き去りにしていたボトルを掴みリビングへの扉を堅く閉めた。いや、本当に締め出したのはその向こう側へ続く扉だったのかもしれない。
 今すぐ様子を見に行きたい。良くなっているだろうか。そうだといい。けれど、そうなればもう昨日みたいに穏やかではいられないのだ。こみ上げるのは自虐的な笑い。
 鍋にあったお粥も、ダイニングテーブルの上のタッパーも中身を減らしていたし、食器乾燥機には綺麗になった茶碗や皿があった。自分の作ったお粥を食べたひとは、どんな顔をしたのだろう。そんな少しばかりの満足感だけで俺は全てをやり過ごすことにした。
 

 

 


 興味深そうにあちこちを眺められたのは、そう長い時間ではなかった。
「タカらしいな。ポスターもなし、写真もなし。もちろん賞状もトロフィーもなし」
 フローリングの上、ベッドを背もたれにしながらペットボトルを受け取った福原さんは随分と寛いで見えた。
「必要なのは目標で、過去の実績じゃない。タカの口癖通りで、ちょっと笑える」
「福原さんも似たようなものでしょう」
「そうだな。俺もそうしようと努力してる」
「努力、ですか」
 天才肌で、およそその言葉が似合わない人からこぼれたそれ。
「努力だよ。実際、振り返らないでなんていられないさ。それが自分にとって大事になればなるほどな。だけどお前はいつでも気持ちいいぐらい前しか見ないヤツで、俺はそんなとこがすごいと思ってた。それがお前、最近どうよ」
 意味ありげに含みをもたされ、それでも肯定することはできない。ただ、否定してしまうこともさせてはくれないのだろうけれど。
「タカ。お前、俺に言ったよな。後悔したくないから高等部に行かなきゃならないって」
 そう。それがあの時の正直な気持ちだったから。
「福原さんには、逆だろうって怒鳴られましたっけね」
「そりゃあな。バレーやってるヤツの九割はそう言うだろう? ま、俺の場合は単に負け惜しみだったけどな。なんでうちより暁星なんだ、ちくしょうって」
 それだけ目の前の人しか見えてなかった。まさかこんな現実が待っているなんて思いもしないで。
「それでもタカがそうやって決めたなら、それはそれで最良の結果を生むんだろうと思ってもいたんだ。だけど」
 硬い声、消えた笑み。
「散々な噂しか聞こえてこないのは、なんでなんだろうな」
 俺はいったい何をやっているんだろう。思ったとおりにならないことに子供のように苛立って、何より大事な人を傷つけて。何もかも、無くしてしまいそうになってる。
「後悔しない選択だったんですよ、あの時の俺には。でも、それも今となっては正直、自信ありませんけど」
「タカ。電話でも言ったけど、証明してくれるんだと思ってたよ。今のお前のツラ見るまでは」
 滲むのは失望、だろうか。それでも仕方がない。憧れている人を目の前に、虚勢すら張れない。苦笑いひとつ浮かべるのがやっとの俺に、福原さんは思いもよらない台詞を口にした。
「実際、タカがどういう現状にいてこういう状態なのか俺には分からない。ただ、暁星にいることでこのままなんだとしたら、お前、やっぱりうちにこい」

 

 

 

 

『守貴広、桜華台へ中途編入』
 その記事が掲載されたのはいわゆるゴシップ紙と呼ばれるもので、らしいあおり文句とともに福原さんと俺がマンションのエントランスから出てくる写真を意味ありげに載せていた。まことしやかに書かれたそれに、当然周囲は騒がしくなり、正式な取材申し込みだけでなく、家や学校にまでマスコミに押しかけられた。福原さんは完全無視、学校側もよくある噂にすぎないと否定した中で、俺もまた何も応えなかった。応えられるわけがなかったのだ。事実、本当に今迷っているのだから。
「行く、べきなのかもな」
 せめてこれ以上あの人を傷つけないようにするために。今できる最良の道が、それなのかもしれない。
「もう、話しかけてもこなくなったんだもんな」
 あの日、福原さんとの写真を撮られた日から、あの人は俺を見なくなった。それは想像以上にキツい現実。
「お前がいなくなれば、またあの人は笑えるんだ。きっと」

 

 

 

 

「どういうことだ」
 呼び出された昼休みの部室。問いかけた岡江さんはいつもと少しも変わらない様子で、その隣には心配そうな沖さんがいた。
「本当なのかと聞いている」
 一枚のゲラを前にして肯定も否定もしない俺に、ただまっすぐなまなざしで答えを待っている人。暁星を選んだのは、たった一つの理由だったけど、当たり前のように勝つことだけを求められるのではなく、この人達と一緒にどこまで上れるのか試してみたいと、そう思ったのも事実だった。
『不協和音はレベル差にあり』
 先日の記事に続きまた出るらしいそれは、市立体育館の個人練習に触れていた。暁星では物足りないと言わんばかりの憶測まみれのそれは、桜華台へ編入することが決まったと締めくくられている。
「それ、一体どこで手に入れたんですか。まさか記者さんが持ってこないでしょう?」
「そんなことはどうでもいい。同様な記事が立て続けにでるんだ。正直に答えろ」
 一度は桜華台の進学を望んだ。高いレベルの中でどこまでいけるか試したいと思った。もう一度、そう思えばいい。あの人を俺の胸の中から引きずり出してしまえばいい。
 目の前の先輩は、とても強い人だから。きっとこんなことで傷つきはしない。万が一傷ついたとしても、もう俺に道はない。あの人だけ傷つかなければそれでいい。
「お前の口から聞いておきたい」
 それがけじめなんだろう。俺は心の中で深呼吸した。
「そのつもりです」
 引き返せない。その一言を口にした。
「桜華台との練習試合の話、俺、福原さんから直接聞いてたんです。お前が選んだものを見にいくからって。その時訊かれました。後悔してないのか。お前が選んだ方が本当に正しかったと今でも思ってるかって」
 それは事実だ。間違いの無い事実。
「聞かれて俺、返事が出来ませんでした。それが答えのような気がしました。そしたら福原さん、桜華台に来ないかって。まだ間に合うからって言ってくれたんです」
 考えて考えて、選んだ。憧れてたはずのもの全てを簡単に捨ててしまえるぐらい、あの人の存在は俺にとって大きかった。だから今度も、捨てる。
「先に記事となってしまったのは不本意でしたが、桜華台に編入しようと思っています。一度は蹴った話ですが、福原さんにそこまで言われたことも大きいですし、やっぱりどうせやるなら設備が整ってて、全国区のチームで自分を磨くのもいいかと」
 俺は実に巧く笑うことが出来たと思う。最低な後輩だと、そう言う代わりに笑って。
「考え直したんです。」
 沈黙がつらくのしかかる。罵声を浴びることも覚悟していたのに。どうして。
「全日本目指すには、暁星より桜華台の方が近道でしょう。暁星じゃどうも」
「分かった」
 ようやく。そう、ようやく岡江さんがのろのろと立ち上がり、早く止めてくれと願った俺の言葉を遮った。
「岡江」
 そしてたった一度、真っすぐな瞳で俺を見ると、それきり視線をそらして扉を開けた。
「岡江ってば」
 沖さんの声が、引き止めるようにかけられたけれど、そんな沖さんにも岡江さんは振り返ろうとはしなかった。そして
「もういい。お前の好きにしろ」
 呻くようにそう言った、俺自身が言わせた言葉は最後を予感させる。それが俺の望みのはずなのに。どうしてこんなに痛むのか。
「おい、岡江!」
 乱暴に扉は閉められ、その背中は一瞬で消えた。沖さんも、そんな岡江さんの後を追うように立ち上がったかに見えた。それで終わるはずだった。それなのに沖さんは俺を真っすぐに見つめているだけで、その場を動こうとはしない。その視線がつらくてうつ向く俺の顔を沖さんに覗きこまれて見えた、優しい表情。
「守、何があったのかは知らない。だけど自分を傷つけるような言い方も、自分を殺してしまうような嘘をつくことも止めろ」
「違っ、違います。沖先輩、嘘なんか」
 嘘なんてついていません、と言い張る俺に沖先輩は瞳をそっと落とした。
「守。岡江はさ、そういうのちゃんと見抜いてるよ。それが分かったからあんなふうに言ったんだ。そういう嘘までつかれて、お前が何を抱えてるのか言ってもらえなくて悔しいんだよ。もちろんそれは俺も同じだけどな」
「でも、俺は本当に」
「うちのバレー部が、全国区なんかじゃないってことぐらい、それこそ中学から知ってるんだ。最初から十分分かってただろう?」
 沖さんは、なおも反論しようとする俺にため息をつく。
「正直、本当に高等部にくるって分かったときにはこっちが驚いたぐらいだ。ふがいない成績しか残せず卒業した中等部が、あっというまに強くなって。去年はいっきに全国一だろ。もちろん団体競技だし後輩にも恵まれたからこその結果だけど、だからこそ実力差は歴然としてた。うちにいるのは勿体無いって俺達もわかってたし、桜華台進学の話も当然だと思ってた。高等部に来たら面白いだろうと思ったけど、ありえないってな」
 だから嬉しかった、と沖さんは笑った。
「ありえないことが現実になって。さあこれからお前はもの足りないはずのうちの高等部でどう楽しむつもりなんだろうって思ってたら、お前は全然楽しそうじゃなくて。それどころかどんどん辛くなってくように見えた。なんだかムキになってバレーをやってるみたいで、らしくないカンジがした。違和感ばかりがどんどん大きくなって、だけどどうしてやることもできなくて」
 たった二つしか違わない人は、俺よりずっと小柄なのにとても大きい。
「そして今、どういうわけかわざわざ俺達を怒らせようとしてまで桜華台に行くという。例えばお前がもし本当に行きたいってなら、みんなを納得させる理由をもってきてるはずだ。こんなふうに逃げるような真似はしないよ。俺も岡江も、だから何かがあるんだってそれだけは気付いてやれる。高校を変わることで解決する問題ならそれもいいさ。だけどな、守。本当にそれだけで全部片付いちまうのか?お前のこと行かせたくないだけかもしれないけど、本当に行っちまうなら、残念だよ」
 沖さんはいつもと同じように、俺の背中を軽く押した。
「あせるなよ。今からそんなでこの先どうするよ」
 ただそう言って、沖さんは微笑んだ。

 とりあえず練習は休んで考えろ、と沖さんに言われた時、俺は心のどこかでホッとしていた。そしてそんな自分にギクリとさせられた。離れようと決めたのに、俺はそのための嘘すらつけない。つきとおせない。そんな自分を持て余す。
「なにやってんだか、俺は」
 茶化してみても笑えない。壊れそうに折れそうな肩を、背を、熱い手のひらを、そして熱い吐息も。全てを憶えている今の俺には。

 

後編