のぞく液晶にはついさっきから同じ名前と携帯ナンバーが表示されたままだ。何人もの女の子達を喜ばせただろうパーソナルデータに、ため息をつくのは僕ぐらいなのかもしれない。
 双葉さんの書とともに偶然の出会いもまた思い出されるのは、二度とはない冒険のおまけみたいなもの。時々胸の奥で一人こっそり楽しむだけの記憶は、登録されたきり鳴らないナンバーとともにいつか消えてしまうもののはずで、だからまさかその存在を主張することがあるだなんて考えもしていなかった。
 開放感と同じ軽さの鞄の底でくぐもって届いた電子音。ナンバーを知っているのは限られた身内がほとんど。暑さが厳しくなった最近は大抵が帰り道のお遣いを言いつける母からで、まれに離れて暮らす姉の万莉か敦兄あたりだったりすることもある。どちらにしても自宅まですぐそこのこの位置なのだから、後で確認すればいいかと放っておいたら、随分と辛抱強く呼ばれ続けて無視出来なくなった。面倒な気分のまましぶしぶ探り当てた携帯のディスプレイ。そこにあるのは母でも姉でも従兄弟でもない『H』の記号。
『待ちくたびれたよ。でも出るまで鳴らすつもりだったけどさ』
 しばらく固まったまま、その次はもうあと数回で切れるかも、なんて三度深呼吸を繰り返した挙句ようやく出た僕にいきなりの先制パンチ。
『とりあえず、着信拒否にはされてなかったみたいで良かったよ』
 そんなことしても無駄だと思わせたことなどまるで憶えていないかのような台詞も、渇いた笑いでかわしながら、頭の中ではもうどうやって断るかそれだけだった。行かないことは考えるでもない決定事項。もっともらしい言い訳をあちこち手繰り寄せながら、場所の説明と時間を聞いているふりでそのタイミングを計っていたのに。
『なんなら迎えにいくけど?』
 からかうように耳元で揺れて落ちた甘い低音の思わぬ威力に、準備したはずの言葉がどの引き出しにあったのか忘れてしまい、さらにはそのまま携帯を取り落とした。運良く鞄を下敷きに落下したせいでそれは無事だったけれど、物慣れなさがあからさまになったようなそれに、思考能力は一気にゼロになる。
『もう一回言うから、今度は上の空でいないように』
 喉を鳴らして笑われて、全てを見透かしたようにもう一度同じことを繰り返された。
『あ、あ、あのっ』
『待ってるよ』
 慌ててうろたえるばかりの僕に、それはひどく優しく深く響いて。気付けば無音の携帯をただ握り締めていた。
 なんでもない、たった一言。けれどそれはその存在を強く主張して、なかったはずの選択肢を目の前に差し示していた。そして今、ここにこうしている。使い捨てのソフトレンズを買い、着て行く洋服を選ぶのに悪戦苦闘して。
「帰りたい」
 連絡された場所の最寄り駅で降りたものの、そこから一歩が踏み出せないまま動けなくて。エアコンで冷えていたはずの身体は、知らないうちに背中を汗が伝っている。ここまで来ていながら、残り歩数分を埋めるまでには何かが足りなかったらしい。
「決めた」
 ここまでが僕の精一杯。違う名前で呼ばれてひやりとさせられるより、ノリの悪いつまらないヤツだったと思われる方が楽だ。勢いにまかせて反転し一歩踏み出すと、ずっと押せなかった通話ボタンを勢いに任せて指先を押し付ける。呼び出し音は一度だけ、唾を飲み込む間もなかった。
「え、あっと」
『ドタキャンする気?』
 流れ込む声は周囲の雑踏の音に紛れて聞き取りにくく、笑っているのか、気分を害しているのか分かりづらい。
「というか、あの、やっぱり」
『ここまで来て、気が変わった?』
「そうじゃなくて、いや、ちょっと調子が悪いっていうか」
 なんとか正当な理由を並べようとして整理しかけた頭の中で、電車の発車案内アナウンスとチャイムが向こう側と重なって聞こえることに気付く。
「あれ?」
「なら俺と一緒に一抜けね」
 その声は機械越しではなくすぐ傍で届いた。抱き込まれた背中の熱と一緒に。

 

 

 

 

 平日とはいえ夏休みに入った学生御用達の居酒屋チェーン店らしく、薄い間仕切りひとつ挟んで同じような飲み会が進行しているのだろう。店内に入った時にはかろうじて聞こえた有線も、今は何がかかっているのか全く分からない。それどころかあちこちであがる大声や笑い声さえ意味をもって伝わってくるものさえない。
 一クラス分ぐらいいるだろうか。そのほとんどの女性の目当ては間違いなくあの人だろう。こちらとは反対。ちょうど端と端。到着するなりあっという間に女の人に取り囲まれた人は乾杯から少しも変わらない位置で、まるで時間制のように変わっていく両隣にそれでも結構楽しそうにグラスを傾けている。
 脱いでいた上着をすぐに羽織らせるほどに冷やされた部屋は、多分アルコールで上がる体温を計算されているのだろう。けれど未成年の僕にそれが当てはまるわけもなく冷たいウーロン茶に身体を縮こまらせながら、目の前のフライドポテトを放り込んだものの冷え切っていて油が回ってしまっているそれでは満たされない。
「も、いっかな」 
 元々こういう場所は苦手で、正直どこが楽しいのか分からない。それでもこの騒々しさが、抜け出すには絶好のタイミングも生む。残り三十分あるかないか。しかも出入り口はすぐそこだ。そっとショルダーバッグを掴んでたてた片膝を、けれど押し留めるように軽く叩かれる。
「葛井の読み通り」
 すぐ真横、湯気の立つ湯飲みを手にした人はそのまま隣に腰を下ろした。
「そろそろ抜け駆けして出て行くつもりだって言ってたけど、ビンゴ?」
 目線を向けられるまま横目に上座を見ると、僅かに口元を緩めた人と視線が絡む。
「引き止めておかないと餌の役目をすぐに放棄するって脅されてるんで、もう少し協力してください。あ、これアイツから」
 持っていた湯飲みを差し出されるまま受け取ると、手の平に温もりが広がる。そっと口をつけると濃い目の緑茶。
「ところで、伊川さんって学部は? 何回生かもぜひ」
「え?」
「葛井に聞いたけど、何聞いても教えないの一点張りでさ。珍しくガード固いんだよね」
 それは、教えないというよりそれ以上を知らないからだろうけれど。興味からというよりはただ名前をきくのと同じ、他意はないと分かるだけに誤魔化すことも難しい。
「しかも今日、あいつわざわざ駅まで迎えに行ったんだよね? そんなの多分女のコ相手にもしたことないしさ」
 迎えに、というよりは捕獲されたというべきじゃないだろうか。もちろん正直に口にすることなど出来ない僕は、黙って時間稼ぎのように湯飲みを口へ運ぶ。
「超VIP待遇の伊川さんって、もしかしてあいつの本命だったりする?」
 かろうじて噴出しそうになったお茶は飲み込んだけれど、僅かに気管に入ったらしく息苦しさに咳き込む。
「うわ、大丈夫?」
 聞かれても声にはならない。喉に詰まった音はそのまま圧迫され、宥めるように胸を撫でてしばらく。整った息を確かめるように吐き出すのを促すように、大きな手が背中に触れた。
「三木、お前何してんの」
「え、俺のせい?」
 いつの間に来たのか。見当違いな台詞を向けた人はそのまま僕の背中をそっと摩る。その手がひどく優しくて、うっかりもたれかかりそうになったけれど、それを押し留めたのは痛いぐらいに浴びせられる視線だった。
「ごめん、も、大丈夫」
 咳き込んだせいで裏返った声で、それでもそっとその腕から逃れる。
「ちょっと風邪気味だって言ってたじゃん。もう帰る? 俺、送るし」
 席二つも向こうの会話は意味を成さなかったはずのそこはどこにいってしまったのか。その人の声は間違いなくその部屋中に行き届いたはずだ。
「えー、葛井君二次会行くんだよね」
「幹事、三木君でしょ?そういうのって幹事責任で送ってあげなきゃ」
「体調悪いならタクシーつかまえてあげる」
 アピールするにはまだ時間が足りないと言わんばかりに阻止しにかかる女の子達の声に、もちろん僕だって異存のあるはずもない。送られたって本気で困るし。
「いや、僕は一人で」
「エーイチ!」
 帰るから。続けたはずの台詞を、その人の名前が上書きした。隠しきれない苛立ちは、綺麗なその女性の表情にも十分に見て取れる。開け放した障子の向こう。ここにはあまりそぐわない高そうな物で身を包んだその人は、ぐるりと周囲を見回すとこちらを見つめる大勢の女の子に眉をひそめた。
「ねぇ。何度もメールしたのに見てないの? この間のことなら許してあげるって言ったでしょう? そのお詫びに私に付き合ってって。ね、今からでいいわ」
 取り澄ました表情で我侭に振る舞いながら、それはどこか懇願にも聞こえる。
「行きましょう?」
 甘えるように綺麗に彩られたネイルがその人の腕に伸ばされた。けれど。
「別に許してくれなんて言ってないし」
 薄く笑ったその人がとったのは、その細くて綺麗な指先ではなく。
「そもそもそんな関係じゃないだろ? 俺達」
 別れ話ですらない、切り捨てるようなそれに震えたのは僕。
「伊川さん、寒い? やっぱり調子悪そうだね。行こう」
 あまりに手酷いそれに駄目だと視線を送るのに、その人はびっくりするほど柔らかな眼差しで僕を見るから、それ以上何をどうやって伝えればいいのか分からなくなる。
「ちょっと待ってよ。ねぇ、エーイチ!」
「あぁ、それも止めてくれよな。親しくもないヤツに名前呼ばせるつもりねぇから」
 追いすがる人をたじろがせるには十分な威力があったに違いない。
「じゃ、お先」
「エーイチっ!」
 何をもってしても引き止めることは出来ない。そう思わざるを得ないほどその位置づけは明確だった。
「待ちなさいよ!」
 肩を押された、と感じたのは一瞬。反動で僅かに振り返った僕の目の前に、浴びせられた甘い匂い。
「え、あっ!」
 制服代わりなんだろうTシャツを着た女の子が、真っ青な表情をしている。一瞬、何が起こったのか分からなくて、目を瞬かせその香りを辿るように胸元を見た。
「申し訳ありません!」
「いいから、悪いけどおしぼり貰える?」
 僕より先、状況を把握した人の静かな声に、頭を下げた女の子は慌てて奥へと走っていく。その場に置き去りにされたグラスの底に、綺麗なオレンジ色が僅かに残っている。どうやら濡れた原因はそれらしい。
「本当に申し訳ありません」
 おしぼりとタオルを抱えすぐさま取って返してきた女の子と、その後ろから神妙な顔つきをした年上の男性に駆け寄ってくるなり揃って後頭部まで見えるほどに身体を折られてしまった。単純に事故みたいなものでそんなふうにされてしまうと、逆に申し訳なくて落ち着かない。
「大丈夫ですから、もう」
 まずは泣き出さんばかりの女の子を安心させるべく出来るだけ柔らかい声で言葉をかけて。とりあえず借りようとしたおしぼりは、けれど別の手に奪い取られてしまった。
「美味しそうな匂いがする」
 胸元のシャツを拭うように引き寄せられ、近づけられた鼻先。ふわりと香った別の匂いに、胸が煽られたように鳴った。意味深な眼差しに一瞬引き込まれそうになるけれど、その奥はどこか冷静で。
「そんな表情しない」
 覗き込むように真っ直ぐに向けられるそれを、誰かに見せ付けるようだと思ったのはきっと勘違いなんかじゃない。
「三木。こーいうワケだから、後は任せた」
 感じる強い視線。溢れる感情にまみれたそれは痛いぐらいで、気付かないでいられるはずがないのに、その存在ごとまるで消してしまったかのように、その人は背中を向けた。
「最低、だな」
 ただ一言、誰に向けられたのかこぼれたそれには何の感情も見えない。思わず強張る僕の肩に、かけられた上着は温かいのに。
「行こう」
 押し殺したような誰かの声が聞こえたような気がしたけれど、まるで守るように背中を包まれた僕がそこを振り返ることはもう出来なかった。

 

 

 

 

「あのっ」
「それ、早く洗わないと染みになるよ」
 背中にあった手はもう離れている。二歩分前を行く人に、それじゃあと口にして終わりにするには丁度いい距離。けれど。
「あの、上着」
 この上着を返さずにそうするわけにはいかなくて、何度もそう言いかけるのにちっとも取り合ってはくれない。
「葛井さん!」
「お、やっと名前呼んだ」
 どんな切り返しだと思うけど、それでもようやく振り返った人にすかさず上着を差し出す。
「ありがとうございました」
「で、その濡れた格好のまま電車に乗るつもり?」
 すぐに拭いたとはいえ、柑橘系に染まった色はそう簡単に抜けたりしないものらしい。トラブルを証明するようなものなんだろうけれど、それで別段誰かに迷惑をかけるものでもない。
「そんなに遠くないし、別に」
「気付いてないかもしれないけど、アルコールの匂いもしてるよ?」
 問題ないと突っぱねかけて固まる。姉のところに行ってくるからと夕飯の支度を確認され、友達と出かけると言った僕に嬉しげにお小遣いまでくれて見送ってくれた母だけれど、さすがに場所が居酒屋だったなんて知ればお小言だけではすまないだろう。
「別に、へーき」
「そう? でも、さすがに今日は学生証なんて持ってないんじゃない?」
 持ってないどころか、もう手元にすらない。あの日のうちに敦兄に返しに行った全ての元凶。
「この辺さ、最近中高校生がよくフラフラしてるってあちこち警官がいるんだよ。職質とかかけられちゃったりして」
 そんなことあるわけない。面白がってるだけだと分かっているのに、僅かばかりの不安がそれを邪魔する。
「証明するには骨が折れるだろうなぁ」
 自分だって未成年のくせに、とは間違っても口に出来ない。どう考えたって分が悪いのは僕なのだ。実際、もしそんなことになれば骨が折れるどころか、本気でまずい。間違いなく補導ものだ。
「というわけで」
 目の前で片手を挙げた人は、一気に距離を詰める。
「解決策は一つ」
 不意に掴まれた手首に、抵抗する間もなかった。そのまま押し込められるように乗せられたそこがタクシーの座席だと気付いたのは、その人が行き先を告げてから。
「え、ちょっと待って」
「その匂いは落とすべきだって、伊川さんも思うでしょ」
 企てが成功した子供のような表情をしてみせた人に、拒む言葉が出てこない。走り出した車の中、窓から差し込む賑やかな街の光に照らされて浮かぶ横顔を、僕はただぼんやりと追いかけるしかなかった。

 

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