―叶―

 

「で。何があったの、仁科と」
 駅ビルの中にあるフードコート。ココアの入った紙コップを差し出されると同時、それはさっきまで話していた冬休みに見たDVDの続きを口にするみたいな何気なさで。そのまま三村は自分のコーヒーをすすった。
「え、なんで?」
「あれ? それ本気で言ってる?」
 自信たっぷりな笑顔は真っ直ぐに俺を捕らえ、額を指先で突付かれる。
「さて問題です。さっきまで俺が熱く語っていたDVDはなんでしょう」
「え、あ、えっとね」
 言いかけて、だけど何も思い浮かばない。聞いていたはずなのに、何も覚えていなかった。目が泳ぐ俺の前、三村は面白くなさそうにため息をつく。
「叶ちゃんがそんなカオすんのって、いっつもアイツ絡みなんだよな」
「そんなカオって……」
 どんなカオだと笑うのに。
「笑ってるけど、心ここにあらずって。そのカオ」
 言い訳を封じられ、強張るのが分かる。
「で、何があったの」
「何って、別に」
 往生際悪くココアで口を塞ぐ手段にでた俺に、三村もまた背もたれを軋ませて伸びをするけど、そのどこか緩慢な動きとは裏腹に視線はぴたりと向けられたままなのを感じて。どことなく落ち着かない気分のまま、手の中の温もりを何度も握り直す。
「別に、何もないよ。本当に」
 そう。本当に何もない。いつもと何も変わってなんかない。
「じゃあ、なんでそんなカオしてんの」
 納得できないと口元を歪められても、俺にだってうまく説明できない。あの、年明けの電話から少しだけ感じる微妙な距離感を。
「よく、分かんないよ。俺にも」
 本当は俺が一番知りたい。電話も、メールもちゃんとくれる。優しい声だって変わらない。だけど会ったのはクリスマスより前で、それきり今まで一

度も顔を見ていなかった。付き合うようになってから、こんなに長い間会わないでいるなんて初めてで。
 キャプテンになって全国に出て、いっそう部活がハードになったとぼやきながら。なかなか会えねぇなと気落ちしたトーンを響かせてくれる。だけど。
『仕方ないよな。落ち着くまでの我慢だ』
 いつ会える? とは続かない。会いたい、とも言ってくれない仁科に胸が騒ぐ。忙しい。時間がない。他校生というすれ違いを埋めるための電話もメールも、俺の中では埋めきれないまま不安だけが募る。何がどう不安なのかさえ分からないままだから、どうしていいかも分からない。ただ何かが違うという違和感だけが俺を焦らせる。まるで物分りのいいオトナみたいな仁科に、会いたいとさえ言いそびれ揺れるばかりで。
「贅沢なんだよね、きっと」
 いつの間にこんなふうになっちゃったんだろう。好きという気持ちが抱えきれなくなりそうに大きくなっていくことが怖くて。ずっとこのままがいいと思っていた。優しくて、穏やかな時間がそばにあったらそれでよかったのに。なんでだろう。それはちゃんとそばにあるのに、どうにも寂しがってる自分がいる。
「俺って我儘だなぁと思ってるだけ」
 そう笑って口をつけたココアはすっかり冷めてしまっていて、どこか苦く感じた。だから思わず眉をしかめてしまったのは、ココアのせいに決まって

いる。だって何もなくしてなんかないんだから、胸がきしむだなんてことあるわけがない。

 


―仁科―

 

 紅白戦のビデオを見ながらのミーティングを終えると、もうかなりの時間になっていた。教室に収容人数以上がいたせいで、それほど寒さを感じなか

ったものの、それもドアを開けるまで。廊下から流れ込む冷気に、思わず首を竦めて手早くコートを羽織る。
「さぴーっ! 仁科、ラーメン食ってこーぜ」
「お、賛成! オレものった!」
 同様に着込む上着の上から大げさに腕をさすりながらでかい身体を縮こまらせた奴等は、あっという間にそう声を揃えた。
「今からかよ」
「飯台にしよーぜ。腹へったし」
「いいねぇ」
 返事も待たず足早に先を行く騒がしい集団を、一ヶ月前の俺なら振り切っただろう。
「しゃーねぇなぁ」
 呆れるように眉をしかめてみせても、逡巡したのは僅かだった。仕方なさげに、だけど少し遅れて追いかけながら、出来た理由にほっとしていた。そ

のくせいざ予定で先を塞いでしまえば、考えるのはやっぱり叶のことだなんて俺も大概やられている。
 ただ好きで、会いたいとそればかりだった頃。そばにいて、笑ってくれれば嬉しかった。もちろんそれは今だって変わらないけど。
「いつまでもつかな」
 好きだと言って、笑ってくれる叶を大事にしたくて、ゆっくり待つつもりでいた。待てるはずだと思っていた。だけど。奥底に押し込めたはずの衝動

は、コントロールが難しくて。いつか追い詰められるまま全部を壊してしまいそうな気がしている。だからこれは緊急避難。俺にとって、ではなく叶に

とっての。
「俺のこと、ホントに好きかなんて。聞いたら泣くよな」
 すれ違いそうになったあの夏の日。俺を捉えた濡れた瞳を今見せられてしまえば、きっと付け込んでしまうに違いない。好きだという気持ちを振りか

ざして、強引に手に入れたいわけじゃないなんて言い訳も簡単に吹き飛ばして。
「まだ当分、会えそうもねぇな」
 会えない理由を積み上げている間に、焦れている熱を冷ましてしまわなければ。予感はきっと本当になってしまう。
「少しは俺に会いたいとか思ってくれてんのかな」
 そのぐらいは願ったって許されるだろう。口に出しては言ってくれないけれど。
「仁科! 河合から電話!」
 随分と開いてしまった距離の向こうで豊島が携帯をかざす。慌ててコートの底の携帯を見ても、別に電源が落ちているわけでも着信の痕跡もない。
「なんだよ、わざわざ」
 廊下を足早に駆け抜けて、踊り場前の豊島からそれを受け取る。
「河合? お前どこにいんの。これから飯台に行くって盛り上がってっけど」
「とりあえず、久しぶり」
 耳元に落ちたそれは、河合の声ではなく。
「全国行ったチームはやっぱ練習熱心になんのな」
「三村」
 階段を降りかけた足が止まる。
「良かったよ、ホントで」
 そう言いながら、言葉通りには聞こえない。
「なに。今頃偵察に来てもさすがに遅いぞ」
「偵察ねぇ。ま、それもあっかな」
 相変わらずどこか飄々と、だけどどこか意味深に笑われて。
「仁科、飯台には行けないって断れよ」
 息をつく前に切り込まれた。
「はあぁ?」
「それで、俺の代わりに叶ちゃん、家まで送ってけ」
 冷ややかに告げられたそれに、躊躇った僅かの間。
「久しぶりだろ? 嬉しいよなぁ? 俺って結構いいヤツだろ?」
 まるで予想していたかのように踏み込まれる。
「なぁ、仁科」
 突きつけるような厳しさに、携帯を強く握り締めた。人の気も知らないで。口にしかけたそれを必死で押しとどめるように。

 

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