不意を衝かれとっさに返事が出来ないまま、僅かにひそめた眉を目の前のヤツはどうとらえたのか。張り詰めた緊張が伝わる。
「心当たりがないって誤魔化すのは止めてください。俺、知ってるんです」
「知ってる、ね」
 特別な存在がある今、例え一晩きりの誘いでも頷いたことはない。何をどう曲解しているのかは知らないが、ここ最近の清廉潔白さは誰にはばかることのない事実だ。とすれば悪意か口実かまでは分からないが、誰かに俺の名前をいいように使われたというところか。『あの人』というからにはこいつにとって年上の女なんだろうが、正直それだけでは想像もつかない。悪意だというならなおさら、過去のろくでもない付き合いに心当たりがありすぎる。降ってわいた厄介ごとに舌打ちしたくなるのを、とりあえず相手を確認すれば万事解決だと宥めつつ名前を問い質そうとして。
 ふと確かめたくなった。その強い眼差しへの既視感を。
「一体何を、かな」
 シャツの胸ポケットで昨日買ったばかりの潰れかけたボックスの中から一本引き抜いてくわえると、持っていないだろうライターを要求するように横目に映したそいつの口元は強く引き結ばれていて、俺は煽るように唇の隙間からこれ見よがしにため息をつく。
「どこまでも冷静ですよね。でもご自分でも分かってるんじゃないですか?」
 確かめるようにあちこち身体を探ってから、キャビネットの上、いつもの定位置にあるそれを掴み緩慢に火をつける。久しぶりに吸い込んだ煙で立て直そうとしている自分が平静に見えているだろうことが、目論見通りのはずなのにたまらなく滑稽だった。
「随分と遠回しな言い方だな。あぁ、そうか。確か文系が苦手だったって言ってたか」
 だから先を促すように子供扱いをして見せた。多分今一番突かれたくないところをつつかれて、そいつは持ちこたえていた感情の波を簡単に揺らがせる。
「ただの言いがかりなら、そろそろいいかな。生憎とこの後仕事が入っててね」
 腕時計へと視線を落とした俺に、硬く覆われていた空気が苛立ちへとすり替わったのが分かる。
「あの人、あなたのことなんか好きじゃないんです」
 傲慢に言い捨てられたそれは、こいつ自身を奮い立たせているのだろう。握りしめた拳に、強い決意が見えた。
「つきあってるって言ったって、どうせあなたが強引に仕掛けたんですよね。あの人はそれに流されてるだけだ。それともあの人の気持ちを確認したんですか?」
「……さあ、どうだったかな」
 けれどその全ては、俺ではない誰かへのもの。そのはずなのに。
「気持ちを無視して奪うなんて、本当に好きなら出来るはずがない」
 細く揺らぎながら立ち上る煙の向こう。謂れのない非難めいたそれが、抜けない刺のように苛む。
「あなたが掴んでいる手を離したら、あの人はあなたの隣にとどまったりしない」
 繋がっていると思っていたはずの手の先は、本当はどこへ伸ばされているのか。投げつけられて胸をかすめるただ一人の存在に、こみ上げる苦々しさ。
「だから」
「言いたいことはそれだけか」
 疎ましくも昏い感情を飲み込んだまま、俺は嗤った。
「なら、同じ言葉をそのまま返してやる」
 分かってる。そんなこと、今更言われるまでもなく。
「お前が手を離しても、そこに『あの人』ってのがいると思ってんなら黙って待ってればいい」
 悪足掻きだと知ってなお離してやれない。独占欲にまみれたエゴの塊でないなら。
「別れろだなんて他人に干渉する必要なんかないだろ」
 舌の上に残る苦みに衝動的押し付けた吸いさしの煙草は、灰皿の上であっという間に残骸へと変わる。
「それは」
「それに。例えばもし仮に俺が強引に奪い取ったとしても」
 どうしようもなく胸苦しい。あえぐように吸い込んだ息が喉で鳴った。
「人の気持ちなんて、無理やり縛り続けておけるものじゃない」
 痛むように眇められた眼差しに知る既視感の正体。
 大人なふりで覆い隠してきた、俺がそこにいた。

 

 

 

 

 大通りから路地をひとつ入ったところ。煉瓦造りのように見える外壁がレトロなその建物の一階に入口はない。地下にあるカフェから繋がっているのだが、その階段も小さな看板ひとつきりで常連客と一緒でなければ一度では辿り着けないと言われている。俺が作った初めての店。コンセプトは隠れ家。その通りに仕上がったと自負していたここで、まさかこの人に会うとは想像すらしていなかった。
「久我君」
 手元の携帯でスケジュールを確認しながらドアを押し開けて数歩。滅多に呼ばれない敬称に反応が遅れた。
「久しぶりだね。うちの創立パーティ以来になるかな」
 静かに流れる自動ピアノの演奏を邪魔しないトーン。カウンターから半身をこちらへ向けた人を認識したのと、そう続けられたのは同時だった。大手輸入会社の代表を務め仕事での辣腕ぶりは噂に名高いが、面識があるという程度の一介の建築デザイナーでしかない俺にもこうして会えば声をかけてくれる気取らない人でもある。スーツの上着をスツールの背中にかけたワイシャツ姿は、その雰囲気をさらに寛いだふうに見せてもいた。
「ご無沙汰しております。結城社長」
 それなのに、何でもないはずの会話に平常心をかき集めなければいけないのはこの人に対する後ろめたさのせいだろうか。
「お一人、ですか」
「あぁ、いや。急にスケジュールが一つ空いたんだが出直すほどの時間はなくてね。それならたまにはいつもと違う場所で美味い珈琲でも、って連れてこられたんだ」
「そうでしたか」
 予想通りの答えに、強張りそうになる口元を意識しながらそっと辺りを窺うものの、いつもならホテルのラウンジあたりで時間を潰すだろう人をここに誘導しただろうそいつの姿はない。
 明らかに何らかの意図を感じずにはいられない現実を前に、とにかくなんとか早く切り上げて立ち去るしかないと算段を巡らせようとするのに上手い言い訳ひとつ出てこない。
「君は珈琲より一服が先、かな」
 指摘されて、無意識にポケットを探っていた手を知る。
「あぁ。ダメですね、習慣で。ここは全席禁煙でした」
 あの日以来、悪癖は再発していた。それどころか以前よりずっと本数が増えている。代償行為みたいなそれは、さらに重いものを積み上げていくだけなのに止められないまま。
「そうだ。聞いたよ。君がデザインした店舗が建築賞に選出されたんだって? おめでとう」
「ありがとうございます」
 つい昨日、正式に発表になったばかりのそれをすでに耳にしているところはさすがだと思う一方で、ストレートな賞賛は落ち着かない。
「またこれで忙しくなるんだろうが、今はそれも楽しいといったところかな、君は」
「否定できませんね。正直、仕事に集中してしまうとそれで手一杯になって他に気が回らなくなるので」
 意味ありげに区切られたそれに何が続くかは経験上よく知っていた。
「器用な性質じゃないんですよ」
 だから例外のない決まり文句で先手をうった、つもりだったのだけれど。
「そうかね」
 返されたのはいつもと違う含みのある眼差しと微妙なイントネーションで。それを訝しむ間もなく、目の前の人の視線が俺から逸れる。
「そのわりに上手くやっているんじゃないのかな?」
「え?」
 まるで証がそこにあるとでも言いたげなそれにつられるように振り返ったそこにいたのは。
「申し訳ありません。お邪魔してしまいましたか?」
 かけられた声も、控えめな微笑みも、鼻先を掠めた甘い香りさえ、俺にはどこか不自然にしか感じない。何よりそんな彼女がどうしてここにいるのか。
「彩加さん」
 理由はどうあれこのタイミングではまるで待ち合わせていたかのように見えるだろう。
「いや。邪魔したのは私のようだ。つまらない話に付き合わせてしまった」
 案の定、至極納得とばかり頷かれて降ってわいた厄介事に心の中でため息をつく。
「いえ。あの、彼女は」
「はじめまして。近平彩加といいます。恭介、いえ久我君とは大学時代からの友人なんです」
 無難な紹介に安心したのもつかの間、唐突に腕をとられた。
「今のところ」
 誤解を招く仕草と付け足された言い回しに、面白がっていい状況でも相手でもないのだと咎める代わりに投げた視線は、掴まれた指先の思いがけない強さに戸惑いそれ以上の言葉を失う。
「それじゃそのうちにいい話が聞けるかな。久我君、仕事ももちろん大事だがあまりそればかりにかまけていると、もっと大事なものに逃げられてしまうよ」
 寄り添うように並ぶ彩加さんに目を細め、しかつめらしい顔でそう助言されてもなお肯定も否定も出来ないまま、ただどうにも収まらない気まりの悪さはもうすこしの辛抱だとひたすらに言い聞かせていた。
「社長、お車の用意が出来ました」
 だから、退席を促すそれは本当なら俺を落ち着かせるもののはずだった。それなのに、静かなくせによく通るその声は、俺をさらに追い込んだ。意識が背後に集中するのを止められないまま、意地だけで振り返らずにいたけれど。
「もう時間か。笹山君のおかげでゆっくりできたよ」
「そうですか。それならお勧めした甲斐がありました」
「ここの珈琲はなかなか美味かった」
「お気に召したならこちらではコーヒー豆も販売しているようですが、お土産にお持ちになられますか?」
 聞こえてくるのはどこかのんびりとした遣り取り。けれどその実この男が俺をこのまま見逃すはずもなかった。
「ちょうど一帆さんが珈琲を煎れられるのに凝っていらっしゃいますから喜ばれると思いますよ」
「そうか。そうだな。それじゃ何かお勧めのものを選んでもらっておいてくれるか」
 傍目からはきっとデキる秘書そのものだろう自然な成り行き。けれどごく自然に出されたはずの名前に作為的なものを感じる。当て擦りなのか、探りのつもりなのか。そのどちらもか。ただどんなつもりにしてもこの場所でこれ以上踏み込むことはないだろう。そんな俺の考えは存外甘いものだったらしいことを次の瞬間に知る。
「それなら、せっかくですから久我さんに選んでいただればと思うのですがいかがでしょう?」
「え?」
「久我さんはかなりの珈琲通とお伺いしています。お願いしてもよろしいでしょうか?」
 思わぬ申し出にとっさに振り返った俺に、涼しげな表情で男はそう口にしたが、その瞳の奥にある冷ややかさに息をのむ。
「きっと一帆さんも気に入ってくださるでしょう」
 口元にたたえている笑みが挑発だと気付いたのは俺だけだろう。分かっていて、だからこそ否定を上らせられるわけがなかった。

 

 

 

 

「ストレートなら定番はモカですね。酸味が強いものがお好みならグアテマラ、苦みをというのであればトラジャあたりをお勧めします。ただ、ここのオリジナルブレンドもコクがあって個人的にはこちらも試して頂きたいところですが」
 挽きたての豆の薫りに満ちた、本来最も落ち着くそこで、俺はただ矢継ぎ早に喋り続ける。
「焙煎は好みで浅煎りにも深煎りにもできます。ただ深煎りは苦みが強くなりますから、まずは中煎り、ハイローストあたりが無難なところじゃないでしょうか」
 常連客からの強い要望があって販売もするようになったコーヒー豆だが、店内のどこにもその表示はない。あくまでここで飲むのが一番美味いというスタンスから、注文があれば対応するのみで現在も一部の固定客のみが利用しているにすぎないはずだったのだが、どうしてこいつが知っていたのか。どこまでも無駄に優秀さをアピールするヤツを相手にあえて事務的にではなく、仕事モード全開の愛想良さで笑顔を向けてやる。
「まずは幾つかの種類を少しずつ試されてから」
「一帆さんとのことも、そういうつもりですか」
 声も、言葉も、視線もただ遠ざけたい。そんな子供じみた感情のまま一方的に繋いでいた言葉の隙間。落とされたそれは一瞬、何を問われたのか分からなくて。理解できた時には膨れ上がった色んな感情に俺自身が飲み込まれていた。
「他に親しいお付き合いをされている女性がいるということは、そういうことでしょう」
 ひそめられた眉に、どうやらついさっきのやり取りを見ていたらしいことを知る。
「以前にもお願いしたはずです。一帆さんは気まぐれに手を出していい人じゃない。生半可な気持ちなら引いてくださいと」
 あぁ、やっぱりこいつのことが嫌いだ。ただそう思う。抱きしめてもやれないくせに無神経に違う温もりは与えようとするこいつが。
「あなたはあの時『本気』だと言った。けれど、今のあなたのどこをどうやって信用していいのか、私には理解できない」
 何も知らないくせにこうやって手を差し出して、結局は一帆の一番の拠り所にいるこいつが。
「別に、あんたに何と言われようがどうでもいいんだけどさ」
 そう。誰にどう思われたって構わない。たった一人を除いては。
「ちょっと過干渉すぎない?」
 いい加減離れてくれと口にするには、プライドが勝ち過ぎた。それでも目の間のヤツがあからさまに顔色を変えたのに溜飲を下げる。
「あいつだってもう大学生だ。いつまでもあんたが首を突っ込む必要はないだろ」
 一帆自身で離れることは出来ないだろう。だから。
「それともまさか姉貴から弟にでも乗り換えるとでも?」
「久我!」
「そうじゃないなら黙ってろ。例えば本当にお試しの軽い付き合いだったとしても、あんたに文句を言われる筋合いはない」
 不必要に優しい温もりを特別なものにするつもりがないならこれ以上分け与えるのは止めろ。そう言う代わりに冷笑を浮かべて見せた。けれど。
 鬱屈をぶつけるように吐き出した刺だらけのそれは、ヤツへではなく俺へと突き刺さった。
「……さん」
 掠れた声が呼んだのはどちらなのか。
 そこに、一帆がいた。

 

 

 

 

 意図的に距離を取っていたことなど都合よく忘れ、反射的に踏み出した足を止めたのは、他でもない一帆の瞳だった。
「一帆さん」
「ごめんなさい。珈琲豆を頂きに来たんですけど。ちょっと早かったですか?」
 聞いていたはずだ。つまらない矜持にまみれた放言を。それなのに。
「何かお勧め聞かれました? たくさんあると色々迷ってしまって」
 感情の乱れなどどこにも見えない。平然と微笑むその姿は随分と大人びていて俺を苛立たせた。それはまるでルールをわきまえた付き合いでしかなかった過去の女たちのようで。
「でもまだ決まってないなら、僕が選んでみてもいいですか?」
 一度も目が合わない。俺なんか眼中にないとでもいうようなそれに、今さら打ちのめされる。
「いや、あぁ。それはいいんだけど。今はそれより」
「笹山さん」
 縋るように揺れる瞳に、息が止まる。
「あんまり困らせないでください」
 責められているのでも、呆れられているのでもない。まるで初めから知っているとでも言うように淡々としたそれは、だからこそひどく堪えた。
 気持ちより体を重ねるのが先だったから、出来る限り大事にしようとしてきたつもりだった。忙しいなりに作った一緒に過ごす時間、わき目も振らず真っ直ぐに見つめ続けてきた。心の奥底にまで届くようにと繰り返した『好きだ』は、過去気持ちのないまま囁いたそれらをきっと全部たしても足らない。それでも。
「信じられなかった、か」
 誰に言うでもなく零れ落ちたそれが、空しく俺自身の中で響いたとたん、どうにも可笑しくて喉が震えた。すぐそこにいるのに、手も足も出ない。元々付き合っているというには微妙な関係で、一帆の所有権を主張するほど情けなくも愚かしい真似が出来るはずもなかった。まして、相手がこいつなら。
「コロンビア、がいいんじゃない?」
 引っ張り出してきたポーカーフェイスで、ある意味ひどくこの場にそぐわない暢気さを装う。
「コロンビアの浅煎り」
 酸味とコク、苦みとのバランスがいいブレンドのベースとなることが多いそれは俺好みじゃないけれど。
「今の君へのお勧め」
 薄っぺらいプライドや見栄かもしれない。だけどこうやって俺の目の前でヤツを一心に見る一帆を目の当たりにして、これ以上踏み込めなくなった。結局こっちを振り向かせることができなかっただけ。そういうことならこれ以上はただ無様なだけだ。
「悪い。もう時間だ」
 同じ相手に二度もフラれながら、押し込めた想いはまだ当分扱いに困るだろうけれど。近づけなくなる足枷に、この誤解はちょうどいいじゃないか。どこか自棄っぱちな気分でそう思った。
「美味い珈琲、煎れてやれよ。結城」
 すれ違いざま落としたそれに一瞬、視線を感じた。あれから一度も呼ばなかった名前。ユーキではなく結城と呼んだイントネーションに気付いただろうか。
 結局、最後まで一度も一帆と呼べなかった。苦いものが胸を塞ぐ。それでも真っ黒に塗りつぶされたスケジュールが唯一の救いになるだろう。俺は足早に次の現場へと足を向けた。

 

 

 

 

 顔を合わせるなり眉をひそめた人は、それでも同行者が席を辞するまでちゃんとクライアントの顔で座っていた。けれど扉が閉ざされて数秒後、ライターを探る僅かな間に咥えたはずの煙草が作成途中の図面の上を転がっていくのと同時、箱に入ったままの栄養補助食品が突きつけられた。
「一か月前よりさらに状況が悪化してる気がするんだけど」
「賞一つでも影響は少なからずありましたからね。これでも受けられるものを絞ったんですよ」
 素直にパッケージを開けながら事実のみを告げて、一つ100キロカロリーだというそれを口にする。
「そういうこと言ってるんじゃないって分かってるんでしょ」
 これは没収、と封を切ったばかりのボックスを取り上げられ、ペットボトルの烏龍茶を傾けたまま未練がましく追いかけたその先。呆れるというよりどこか気遣わしげな眼差しに捕まって、否定するのを止めた。
「分かってますよ。彩加さんがこういう時、無神経に他人の中を踏み荒らしたりしない女性だってこともね」
「またそうやって」
 物言いたげに揺れた語尾はけれどやっぱりその先を紡がないまま、深く長い溜息に消えた。
「たまには年下らしく泣き言ぐらい吐き出してみれば可愛いのに」
「残念ながら生憎それだけは持ち合わせがありません」
 口角を上げて笑みを形作れば、その瞳は諦めたように伏せられた。
「つまらないわね。今時、ギャップがある男ってのもモテる要素の一つらしいわよ?」
「彩加さんも?」
「さぁ。で? とりあえず最も優先されるべきは睡眠欲? それとも食欲? 飲みに行くならつきあうし、寝るなら帰るけど?」
 スイッチを切り替えたように詮索するでもなく、無為に慰めるでもない、その距離に息をつく。
「そういうとこ、好きですよ」
「あぁ、そう。ありがと」
「あれ。本気にしてません?」
「よく言うわよ。信じたら困るくせに」
 つまらない軽口でも、沈黙より気が紛れる。たわいのない戯言がちょうどよかった。
「困るかどうか、試してみます?」
「今さらもう一度? それっぽく見せただけで慌ててたのは誰」
 突きつけられた指摘に、押し潰したはずの記憶が鮮やかに溢れ、喉の奥で絡まった。それでも。
「嫌だなぁ。そんなことありました?」
 素知らぬふりで俺は嗤える。乾ききった胸の奥は満たされないまま軋むけれど、痛みに飲み込まれることはない。コントロール出来ない熱に浮かされることはもうきっとないだろう。
 ただ代わりにどうしようもない喪失感が傍にあるだけだ。
「憶えてないんですけど」
 向き合うにはあまりに昏く深いそれが、いつか本当に消えてなくなるまで、ただ一人に繋がる記憶を切り離すと決めていた。
「そう」
 そんなあからさまな嘘に、僅かに、小さく笑った気配がした。ある意味予想通りのそれは、けれど何だろう。どこか違う気がして。
「それなら」
 言いかけて口ごもる。躓いたような不自然な間はさらに彼女らしくなくて、窺うように上げた視線の先、その揺れる瞳にようやく気付いた。
「してみる? 結婚」
 言葉遊びの延長のそれに続くものに効力なんてありはしない。それでも、呟くように落とされたその意外過ぎる単語にはそれまでとは全く違う色が混ざり込んでいて、軽々しく調子を合わせることが出来ない。
「悪くない選択だと思うけど」
 逸らされた視線はさまようように定まらない。それでいてその口調はどこか淡々として、不似合いなほどに冷静だった。
「それとも、思惑に乗せられるのは嫌?」
「思惑って」
「あら。本当に見てなかったのね」
「え?」
「谷地のお祖父さまから渡された釣書。相手、私よ?」
 あの日祖父に押し付けられそうになったそれを今の今まで忘れていた俺に、そんなことなど想像できたはずもない。
「仕事絡みとはいえ頻繁に会ってるでしょ。おかげでかなり期待されてるみたい」
 どうりで。つい先日かかってきた祖父からの電話に思い至る。用件というには内容のないそれを忙しさを理由に早々に切り上げたのだが、やたらと上機嫌だったのが引っかかっていたのだ。
「どう? 期待に応えてみる?」
 滑り込むように胸元にぶつかった温もり。押し付けられる額に困惑したまま、抱きしめることも、突き放すことも出来ない。逃げたはずのそれに完全に捉えられていて。
「嘘でもいいから『そうですね』ぐらい言いなさいよ」
 可笑しそうに笑いながら、どこか頼りなげに響く声。珍しく不安定さを露呈している彼女を気遣う余裕がない。
「昔の恭介ならきっとそうしたわ」
 そんな俺を小さく吐き出されたため息まじりの声が柔らかくなじる。
「すみません」
「そこで謝っちゃうのね」
 それもらしくないと揶揄するように囁かれて、それでも俺はただもう一度同じ言葉を繰り返した。
「ねぇ。あっさりフってくれたお詫びに一つだけ教えて」
 くぐもって聞こえるのは、俯いたままでいるせいなのか。
「どうやって諦めたの」
 促すように打った相槌に、縋るようにシャツの腕を掴まれた。
「あなたをこんなふうに変えたあのコを、どうやって忘れるの?」
 掠れた語尾が、静かに胸に迫る。
「忘れられる?」
 知っているのだ、と唐突に思う。彼女もまた同じ切なさの中にいるのだと。
「苦しいのよ」
 絞り出されたような呟き。向けられたのは俺になのか、自分になのか。垣間見えたのはいつだって率直に臆せず真っ直ぐでいた人の、きっと誰にも見せるつもりはなかったんだろう弱さ。
 気が付けば途方にくれた子供みたいな彼女の背中を引き寄せていた。

 

 その瞳も、その手も、その声も。
 忘れてしまうことはきっとない。
 この痛みがいつか凪ぐ様に消えたとしても
 想うその熱は、過ぎてなおいつまでも灯ったまま。
 刻み付けられた切なさを覚えている。

 

 目の前の手を掴めばもしかしたら、なんて。唆されるように引き寄せた瞬間に揺らいだ。だけど。終わらせられないまま違う手をとったとしても何も変えられはしないのだと、抱きしめて分かるどうにもならない味気無さに思い知る。
「俺もヤキが回ったな」
 もっとずっと上手くやり過ごせる。どこかでそんなふうに考えていた自分を嗤うように、ただ降り積もる想いを振り払うことさえ出来ない。
 最後ぐらい、正直に問い質せばよかった。いっそ恰好悪くフラれてしまえばよかった。身を引くだなんて綺麗ごとで言い訳をして、向き合おうとしなかった結果がこれだというなら。
「恭介?」
 無意識、指先の力が強まったせいだろう。訝しむように呼ばれて、腕の中の温もりに引き戻される。
「すみません。ついいつものクセで」
 何をどう思っても、今さらでしかない。あとどれだけこんなことを繰り返すのか。諦めの悪さを誤魔化すように、ことさら優しく背中を叩く。
「ちょっと本気モード入っちゃいました」
 ため息を笑い声に紛れ込ませた軽口。なお続けようとしたはずのそれは、唐突に視界に現れたその姿に曖昧になる。
 あの日と同じ位置。同じようにいきなり踏み込んで来ておきながら、突っ立ったままのそいつに、煩わしさより先に違和感を憶えたのは八つ当たりめいた感情で退けた真っ直ぐな眼差しがその色を僅かに変えていたせいだろう。
『あの人と、別れてください』
 言い切った強さに垣間見えた焦燥。
 その向けられた視線の先に気が付いた瞬間、混ざる不安定さに全てが繋がった。
 今、俺の腕の中にいる人。
 物言いたげに動いた口元が形作ったのは、きっとあの日確かめなかった名前。
『苦しい』
 漏らした弱音が教えた彼女の気持ちをこいつは知らないのだ。
 慰める為だけの抱擁。それ以上の意味をもたないそれに苦しげに細められる眼差しに、俺は知らず笑っていた。手の中に握ったままのそれを取り戻そうとしているヤツが可笑しくて。そして、繋がっている未来を羨む自分を見つけて。
 けれどそれを嘲笑だと取り違えたんだろうそいつは、顔色を変えて睨み付けてきた。その正直さまでもがやるせないほどに妬ましいなんて、考えつきもしないに違いない。もちろん悟られるようなへまをするつもりもないが、そろそろ見当違いな嫉妬心をかき立てられるのも終わりにしてもらおう。
「見合いを受けたのは、忘れる為ですか」
 囲った腕はそのままに、聞かせる為に問いかける。らしくもない俺にあるのはただ消しきれずにいる想い。それは共有するには向かない痛みだから。
「なに、今さら」
「だって俺だけカードを晒すのは、不公平でしょう?」
「晒す気なんてないくせに」
 笑ったような気配がするのに、どことなくぎこちない。
「手の内見せなくても、どうせ彩加さんにはバレバレだったじゃないですか」
「ま、そうね。付き合いは長いけど、見たことない恭介をたくさん見たかも」
「正直にカッコ悪いって言ってもいいんですよ」
「まさか。それどころか私には今までで一番男前に映ったぐらい」
 からかうでもないそんな一言を呟いてやんわり離れようとする彼女を、俺はまだ離さない。
「それでも、俺じゃ駄目なんでしょう?」
「おかしなこと言うのね。プロポーズしてフラれたの、私なんだけど」
「その気もないのに言ってみただけ。そんなものに乗せられたら、俺があんまりバカみたいじゃないですか」
 ドラマや映画の台詞にまともに応えるわけがないと退けると、なお誤魔化すように笑った人につくづく俺と彼女は似ていると胸の内で苦笑する。
 大人なふりで取り繕っても、自分自身だけは騙せない。当然だと知っていたつもりで、だけど本当には分かっていなかった。
「この前、事務所に昔の知り合いが来たんですよ。といっても、名前聞いてもすぐにはピンと来なくて。七年前に家庭教師をしてたって言われてようやく思い出した程度の相手なんですけど」
 不意打ちのそれに、彷徨うように揺れる瞳。
「あんまり突然で何しに来たかこっちは見当もつかないのに、バイト以来一度も会ってないそいつはやたらと挑戦的で。その挙句が『別れてください』ですよ。まったく意味が分からない」
 まるで何一つ洩らさまいとするように引き結ばれた唇。
「誰と、でもなきゃ何で、でもない。あんまり随分な口の利きように大人げなく応戦したんですけど」
 宥めるように撫でた肩は震えていた。
「彩加さん、だったんですね」
「恭介」
「結構無茶しますね。俺なら似たようなことに慣れてるだろうってそんなところだったんでしょうけど」
 俺を読み切った上での賭け。
「実際その通り俺はあいつを追い払って、あなたの思う展開通りになった」
 それで終わると、終わらせると決めていたんだろう。自分の気持ちを見誤ったまま。
「でも。いざあいつが諦めても苦しいまま何も終わらない」
「そうね。バカみたいだけど」
「そんなに好きなんだ?」
「将来のことがちらつくぐらいには、ね」
 昔、週に二度通った純和風の邸宅を思い出す。たかが家庭教師に身上調査をした旧家だ。何があったかなんて容易く想像がついた。
「だから捨てられる前に捨てるって?」
「いけない?」
 開き直るかのような台詞がどこか痛々しく響いたその瞬間。
「バカじゃねえの」
 怒りと安堵、両極端さがないまぜになった俺のものではないその声に彩加さんが小さく息を呑むのが分かる。
「別れる、の次が結婚します。二度と会いに来るなって勝手なこと一方的に言っておいて、何だよそれ」
 吐き捨てるようなそこに、だけど確かにある一途な想い。きっとそれは彼女の想像以上のもの。
「何しに、来たのよ」
「あんた取り返しに来ただけだけど?」
 なお抵抗しようとする人の虚勢を削ぎ落としてしまうほどに。
「俺が素直にはいそうですか、って引っ込むとでも思った? そのぐらいなら大体最初っから告白してねーっての。『捨てられる前に捨てる?』ふざけんな! そんな簡単に捨てられてたまるかっ」
 重ねた年の分だけ上手くなる嘘を看破することは出来なくても、想いのまま打ち壊してしまえるこいつから逃げられるわけがない。いや、目の前のこいつはそれを許さないだろう。
 とうに解いていた腕から、その温もりはあるべき場所にともされる。
「俺、彩加さん以外のヤツの手を取る気ないから」
「ヒロ」
 似たような会話は多分今までにもあったに違いない。嗜めるような声音は、けれど強い眼差しの前に立ち消えてしまった。
「本気だから」
 全てを打ち払うような決意。その真っ直ぐさがただ眩しくて、俺はそっと二人に背を向けた。

 

 

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